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キツネ坂  作者: 千ノ葉
8/16

思い出の場所。そして――

鳥の声が僕を覚醒させる。だが僕の心はどこかボーっとしていた。先ほどまで夢の中に居た気さえする。身体は休まっているのだが、どこか足取りが重い。

夢の中に出てきた少女は誰なのだろう? 彼女は僕に何を伝えたかったのだろう? そんな考えばかりが頭を巡っている。

「馬鹿バカしい…………ただの夢だろ」

 僕はそう自分に言い聞かせ、いつもの生活を送るべく、ダイニングへと向かった。

 

 家を出ると昨日のことがデジャヴするように沙理奈が路地から飛び出してくる。

「裕くん。おはよ」

「ああ、おはよう」

 僕は空元気で笑顔を見せる。

「裕くん、昨日は学校楽しめた?」

「ああ、それなりにな」

「よかった」

 沙理奈は僕の言葉を聞くと自分のことのように嬉しそうに笑う。そんな笑顔の沙理奈の後ろに誰かがいることに僕は気が付いた。そのシルエットは見たことがあった。

「ん?」

 沙理奈は僕の視線に気が付き、後ろを振り向く。その動作にあわせるように彼女は路地の角へと消えてしまった。

「今のって亜矢ちゃんだよね?」

「ああ、そうだと思う」

 沙理奈は少し複雑そうな顔をする。

「そっかぁ…………」

 彼女は一人、ウンウンと頷く。

「沙理奈って亜矢と交流があるの?」

「いや、この頃は無いわね」

 ということは、昔は良く遊んでいたのだろうか?亜季とは仲が良かった彼女だ。その妹と仲良くなるのは簡単に想像できた。

「行こう、裕くん。遅れちゃうよ」

「うん」

 僕は彼女の言葉に促され、足早に学校へと向かっていた。



「おはよ」

 席に着くと僕は先に登校していた亜矢へと声を掛ける。

「おはようございます」

 彼女は少しぎこちない笑顔で僕のほうを見てくる。何だかその顔は冴えない。そんな彼女の様子を気にしながらも、HRが始まってしまったので、僕の意識は先生の話へと集中してしまった。それから休み時間がある度に彼女に話をしようとするが何かと邪魔が入り、たいした会話がなく僕は昼休みを迎えていた。

 亜矢は鞄を持って、真っ先に廊下へと出て行ってしまう。

「おーい、津谷。いっしょに食べようぜ」

「悪い。僕ちょっと用事がある」

 クラスメイトからの誘いを断り僕も鞄を持ち、廊下を出る。何故彼女の事がこんなに気になっているのかは分からなかった。でも、なんとなく今日は彼女と話さないといけない気がしたのだ。僕の足は自然と屋上の方へと向かっていた。彼女の行く場所など僕は一つしか分からない。とは言っても昨日知ったばかりの場所なのだが。

 まあ居なかったらそれまでだ。ギャンブルをする気持ちで僕は屋上を目指した。


 鉄の扉を開け、屋上をキョロキョロと見渡す。そして見覚えのある後姿を見つけた。彼女は屋上の端で外のほうを向きながら一人お弁当を食べている。何だかその姿は寂しそうに見える。

 僕は亜矢へ近づき声をかける。

「亜矢」

「ひゃっ!」

 彼女はビクッと肩を震わせ僕のほうを振り返る。幽霊にでも会ったわけではないのだから、そんなに驚かなくても…………

「裕さん?」

「座っていい?」

「は、はい」

 彼女はいつも以上に慌てているみたいだ。もしかして悪いタイミングに来てしまったのだろうか? とりあえず彼女の隣に座り、弁当を広げる。うむ。今日も姉貴は良い仕事をしている。後は亜矢の不自然さが消えれば美味しいお昼となりそうだ。

食事をしている間も彼女は僕のほうをチラチラと見る。その仕草は明らかにおかしい。僕は今朝、通学路で彼女を見かけたことを思い出した。もしかしたらそのことと何か関係があるんじゃないだろうか?

「ねえ、亜矢。今朝、僕の家の近くにいたよね」

「えっ? えっと………」

 亜矢はモジモジしながら下を向いてしまう。どうやら彼女の一連の態度の変化は朝の出来事と関係しているらしい。

「ごめんなさい。覗くつもりじゃなかったんですけど…………」

「えっ?」

 覗く? 一体彼女は何を覗いたと言うのだろうか? まさか僕が社会の窓全開で外に飛び出してしまったことではないのだろうか?

「裕さん。沙理奈先輩と付き合っていたんですね…………」

「はい?」

 彼女の言葉を聞き、思わず僕は間抜けな返事をしてしまう。

「えっ、えっと。僕と沙理奈が付き合ってる?」

「違うんですか?」

 何が何でもいきなり過ぎる。沙理奈と久しぶりに再会したのは三日前だと言うのにこんな短期間で関係を発展させられるほど僕は器用な男ではない。

「誤解だよ。亜矢…………」

「えっ! でも朝、あんなに仲良さそうに……」

「ああ、あれは沙理奈が一方的に……」

 とりあえず沙理奈のせいにして、身の潔白を説明しようとする。

「そ、そうなんですか!」

 彼女は顔を真っ赤にして、さらに俯いてしまう。自分が勘違いをしていたことを、余程恥ずかしく思っているのだろう。

「えっと、ごめんなさい。私ったら………」

「あ――いいよ。僕も少し迂闊過ぎたみたいだし」

 何人ものクラスメイトに、僕と沙理奈のツーショットは見られているわけだし、同じ誤解を彼らにも与えてしまったのかもしれない。変な噂が立たなければいいが……

「ほ、ほら。お弁当食べよう!!」

「そ、そうですね!」

 何となく気まずくなったので、僕たちは食べることで沈黙を埋める。

 それにしてもこの目の前の少女はなぜ、そんなことを気にしていたのだろう? 別に自分の知り合い程度の人物がデートしている場面に遭遇しても特に気にならないと思うのだが。というかデートって感じでもなかったし。

「年頃の女の子は何を考えているか分からん」と僕は年寄りじみた言葉で自己完結をするのであった。


 そして、食べるものが無くなり、やっと普通の会話が始まるのだ。

「裕さん。昨日、部活の人たちに引っ張りダコでしたよね?」

「うん。驚いたよ」

「今の時期に部活に入ってくれる人なんていないですから」

「そっか」

 前に居た学校ではそんなに部活が盛んではなかったので、ここの部活の活気が目新しく感じた。

「何か部活に入るんですか?」

「ん。運動部は無理だから、入るなら文化部かな」

「文化部ですか」

「それよりも、亜矢は何か部活に入ってるの?」

「私はバイトをしてるんで何にも…………」

「そうなんだ」

 白狐高校は進学校でありながら特にバイトなどを禁止していない。姉貴も在学中からバイトに勤しんでいたと聞いている。だが、町が町だけあってバイトを募集している所は少ないはずだ。

 そんな状況で彼女がどこでバイトをしているのか気になったが、その質問をする前に昼休み終りの予鈴が鳴ってしまう。次の時間は移動教室だ。移動時間を合わせればギリギリなので、僕らは会話よりも移動を優先するのであった。





 眠い、眠い、五、六限目を終了し、僕は今日の学業から解放される。大した疲れてはいないのだが、学校にいる理由も無い。自分自身、部活をやっているわけではないし、友達の大半は課外活動に向かっている。つまり帰るしか選択肢が無いのだ。

 昇降口で靴を履き替えていると、

「裕」

 僕の名を呼ぶ声がした。それは男の人の声だった。振り向くと目の前に何かが迫ってきた。僕はそれを素早く手でキャッチする。

「っと………」

 手で掴んだのは紙パックのお茶であった。そのお茶が飛んできた方を見ると二人の人物が立っていた。一人は今朝も見た少女。沙理奈だ。もう一人の男の方は知らない人であった。

「おっ、本当に裕だ」

 男はいきなり僕にヘッドロックをかけてくる。

「いたたた…………なに!」

「久し振りだなぁ、おい!」

 彼は半ば本気で技をかけてくる。僕は手で地面をバンバンと叩きギブアップ宣言をする。

「涼太くん。苦しがっているわよ」

「おっ、わりぃわりぃ」

 彼は沙理奈の言葉を聞き、手を離す。僕はごほごほと咳をしながら、馬鹿力男のことを見た。そこで彼の顔を凝視し、やっと思い出した。僕は知っている。

「笹本! 手加減しろって!」

「いやぁ、久しぶりで嬉しくってな、つい」

 僕の叫びにも笹本は動じず、反省していないであろう笑顔を見せた。

 感動の再開で絞殺されてはたまらない。僕は次の攻撃を警戒しながら笹本のことを見た。

 彼は小学校からの友達の笹本 涼太だ。小さいころと比べて体型もガッチリしている。僕よりも背も高くなっている。それによって技の威力も段違いにパワーアップしているようだ。首がズキズキする。

「それ、俺からのプレゼントな」

 笹本は僕の握っているお茶のパックを指さして豪快に笑う。

「ああ、サンキュー」

「で、裕。これから少し時間あるか?」

「ん? 大丈夫だけど」

「これからお前の歓迎会をする」




 唐突なアイディアだったが、(半ば強制的に)僕は彼らに連れられて商店街へと来ていた。

「じゃあ、茶でも飲んでくか」

 涼太はニヤニヤしながらある喫茶店のドアを指す。

 カフェ〝ホワイト・フォックス〟 その名前によーく見覚えがあった。

「な、なあ。別の所にしないか?」

「うん? なんで?」

 知っているくせに沙理奈はニヤニヤしながら僕の顔を覗いてくる。

「ここのコーヒーは安いし旨いんだぜ」

 二人は僕の両脇に張り付き、強引に僕を店の中に連れて行こうとする。

 これすら強制イベントらしい…………僕は覚悟を決めて店の中に入っていった。


 店の中はレトロな落ち着いた雰囲気を醸し出している。僕らと同じ目的で来店した学生や主婦のみなさんが席を埋めている。

「いらっしゃいませー」

 聞き覚えがある声の方を見ると、僕の予想通り、そこには僕の知っている人物が立っていた。

「こんにちは海晴さん」

 沙理奈は元気良く挨拶をする。

「あら、沙理奈ちゃん、涼太君。それと…………」

 姉貴はジーッと僕の方を見る。

「あら、なに。裕。もしかしてお姉ちゃんの仕事姿、見に来たのかしら?」

 姉貴は着ているウェイトレスの服を見せつけるように僕の前に出てくる。

「そんなんじゃないよ!」

 僕はそんな姉貴の言葉をムキになって否定する。

「それよりも早く案内しろよ!」

「はいはい。こわーいお客様ね」

 姉貴は僕らを一番奥の席まで案内した。僕は席に不機嫌に座る。

「まったく、二人とも何を考えてるんだよ!」

「まあまあ、裕くん落ち着いて。なに頼む?」

「そうだ。裕。あんな可愛い姉ちゃん、羨ましいぞ!」

 二人は僕の気も知らずにそれぞれ勝手なことを言いやがる。僕はメニューを構え、不機嫌な顔を隠す。

 僕はとりあえずアイスコーヒーを頼む。沙理奈はカフェラテとプリンを笹本はココアを注文する。

「すいませーん!」

 全員の注文を確認すると沙理奈は店員を呼んだ。僕は姉貴が来ないように願いながらその様子を伺った。だが足早に近づいてくる少女を見て、僕は本日二度目の衝撃を受けたのだ。

「あれ? 亜矢?」

「あっ、裕さん…………」

 そこで僕らは数秒間固まってしまう。だが彼女は我を取り戻したようにメモ帳のようなものを取り出して注文を確認していく。その仕事ぶりからして結構長く働いているのだろう。テキパキと動くその仕草は結構、様になっている。

 そんな彼女の去っていく後姿を、僕はついつい眺めてしまった。

「驚いたって顔だね。裕くん」

「ああ、まあな」

「それにしても裕の驚く顔、傑作だぜ」

「もう、からかうなよ!」

 その後、僕らと談笑する。そんなことをしていると小学校時代に戻ったみたいな気がする。時折、思い出す恥ずかしいエピソードも今となれば笑い話になるのだ。


「っと、もうこんな時間か」

 時計を見た笹本は急に立ち上がる。

「それじゃ、俺は帰るぜ」

 彼はテーブルの上に自分の分のお金を置くと店から出ていった。

「私たちはどうする?」

「うーん」

 僕は悩んだ。そしてあることが頭を過ぎった。それは今朝の夢のことであった。あれは夢であったのだろうが、何となく気になってしまうのだ。僕は今日、キツネ坂に行くべきなのだろう。

「沙理奈、僕らも帰ろうか」

「うん、そうだね」

 僕はレジに並び、お会計を済ませる。亜矢にお金を渡すとなんだか変な感じがする。彼女にとってもそれは同じようだ。だが営業スマイルとは一味違う笑顔を僕に見せてくれた。

「ありがとうございました」

 彼女はそう言って、僕に軽く手を振ってくれる。僕はそれに応えるように少し手を振る。何だか恥ずかしい。その後、照れていることがバレ、沙理奈にからかわれたのは言うまでもない。



 店から出ると辺りは夕陽で染まっていた。これからキツネ坂を登れば確実に日が暮れてしまうだろう。しかし、僕の意思は変わらなかった。

 それに沙理奈の家も坂の途中にあるのだから、彼女を送っていくということも考えれば一石二鳥というものだ。

 僕は沙理奈と夕暮れ時の商店街を歩く。そこには僕らと同じぐらいの年頃の学生のカップルの姿を見かけた。その姿を見て僕は亜矢にかけられた言葉を思い出してしまう。

 もしかしたら僕らはカップルに見えるのではないか?そう思うと僕は少し沙理奈と距離を離して歩くのであった。

「ふふふ」

 沙理奈はそんな僕の様子を笑いながら見てくる。

「送ってくれるなんて、裕くんもオトナになったね」

「別に僕もこっちに用事あるだけだって…………」

「そこは嘘でもそんなことは言わないの!!」

 沙理奈は僕の脇腹を小突いてくる。

 ここまで僕をリードするようになった彼女のほうが余程、オトナになったんだと思うが…………

 僕の後ろにいたオドオドした少女は、今、僕の前を歩いている。その姿はなぜか亜季の姿と重なった。

「ん? どうしたの?」

「いや、なんか、昔のことを思い出しちゃって…………」

 僕のそんな言葉に少し彼女は驚いた顔を見せる。しかしその顔はすぐに笑顔になる。

「そうだね、私と裕くんと亜季ちゃんでね」

「ああ…………」

 彼女の口から亜季という単語を聞く僕の心は疼いた。でもそれは彼女も同じようだ。その笑顔の裏側には寂しさが窺える。

「行こう。裕くん。日が暮れちゃうよ」

「そうだな」

僕たちは再び歩き始める。




 紅葉に染まった坂を僕たちは歩く。思った以上に時間が掛らず坂の中腹まで来てしまった。

「裕くん、私、ここだから」

 沙理奈は坂の途中の神社のほうを指差す。ボーっとしていたせいで、僕は目的地に着いたことに気が付かなかったのだ。

「じゃあね、裕くん」

「あっ、沙理奈」

「ん? 何?」

「坂の上まで行ってみないか?」

 僕は沙理奈にそんな提案をしてみる。

「ダーメ」

 彼女の口から出た意外な言葉に僕は驚きを隠せなかった。まさか断られるなんて思ってはいなかったから。

「そんな残念そうな顔しないで、ね」

 彼女は可愛い笑顔を僕に見せてくれる。同時にその笑顔は僕に質問をすることを許さないようなものにも見える。

「バイバイ」

「ああ、バイバイ………」



 沙理奈の笑顔に後押しされるように、僕は一人で坂の頂上を目指す。

 僕が頂上に辿り着いたとき、丁度、太陽は山の陰へと落ちるところであった。

 ここから見下ろす街は電気の明かりによってライトアップされ、その光は自然のそれとは違う美しさがある。そんな景色を見ていると不意に後ろから足音が聞こえてくる。

 僕がそっと振り向くと、そこには小さな女の子の姿があった。その姿を見て、僕は心臓が飛び出しそうになる。

「裕ちゃん、あそぼっ!」

「えっ?」

 僕はその子に突然手首をつかまれる。この温もり、夢ではない。でもありえないのだ…………

「ん? 裕ちゃん、どうしたの?」

 彼女は僕の顔を覗き込んでくる。そこで僕は自分の体が縮んでいることに気が付いた。この目線の低さ、まるで小さい頃に戻ったような不思議な感じだ。

 何がなんだか分からない。頭の中が疑問でパンクしそうだ。

「裕ちゃん。遊ばないの?」

 だが、そんな僕のことをお構いなしに、彼女は僕の手を引っ張ろうとしてくる。

「亜季だよな?」

「うん? 亜季は亜季だよ」

 彼女は僕の質問にしっかりと答える。

「ほら、夕陽見よっ!」

「あっ!」

 彼女に引っ張られるように僕は柵のほうへと向かう。その身体はやけに軽かった。そうだ。小さい頃はどんなに走ってもあまり疲れなかったっけ。そして彼女と一緒にこうやって街中を走り回った記憶がある――――

 僕らが柵の傍に着いたときには夕陽は山より少し高いところにあった。ついさっきの記憶では沈んだはずなのに…………

「綺麗だよね」

 亜季はキラキラと宝石のように輝く瞳で、夕陽を眺めていた。

 風に揺れるその髪は赤く染まり、サラサラと揺れる。僕は思わず彼女に見とれてしまう。

「裕くん。さっきからなんか変だよ?」

「えっ?」

 彼女は少し不穏な目で僕の顔を覗いてくる。そんな仕草が愛くるしい。僕は亜季を抱きしめたいという衝動に陥ったが、そんな思いを自らかみ殺した。

 ここで彼女を抱き寄せれば、彼女は消えてしまいそうで怖かったのだ。

 これが神様のいたずらでも僕の作った幻でもいい。僕はこの今の時間を一瞬でも長く続けたかったのだ。


 しばらく夕陽を眺める。いや、僕が眺めていたのは亜季のほうだった。

 彼女の姿を見ていると心の中に隠し持っていた、ポッカリと空いた穴が塞がっている気さえした。

 この夕陽がずっと沈まなければ、僕は彼女と一緒にいれるのではないか? そんなことを考え、僕は心の中で夕陽が沈まないことを祈っていた。しかし無情にも夕陽は山へとその姿を消した。

 やがて訪れる闇の中で彼女は僕へと笑顔を見せる。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」

「えっ?」

 帰るという言葉に僕は心が縛られる感覚を覚えた。ここで別れてしまえば彼女とはもう逢えない気がしたのだから。

「嫌だ。帰らない!」

 僕の口からは咄嗟に子供の我儘のような台詞が出た。

「でも、家の人が心配しちゃうよ?」

 彼女はそんな僕を諭すように優しい言葉を掛けてくる。俯く僕の頭に手を乗せる彼女。そしてスリスリと僕の頭を撫でてくる。

 この年でこんな小さな女の子にそんなことをされるのは少し照れくさいが、抵抗せずに僕は頭をなでられ続けた。

「ね、帰ろう?」

 魔法のように亜季の言葉は僕の心へと染み込んでくる。

「うん」

 亜季に手を取られ、ついに僕は静かに頷いてしまった。

「ねえ、亜季」

「なに?」

「また逢えるよね?」

 俯く僕の手を握り締めると、

「うん。約束するよ」

 そう言って小指を僕の小指へと絡めてくる。

「指きりげんまん――」

 楽しそうな声を上げ、彼女は僕と約束をする。そして、パッと僕の手を離す。

「またね」

「亜季っ!」

 そして亜季はまばゆい光に包まれていく。僕は手を伸ばした。しかし、その手は冷たい空気が漂う空を切っていた。そして僕の視界にはライトアップされた何の変哲のない街の眺めが戻ってくる。

 あれは夢だったのか? 僕は彼女に握り締められた左手を眺める。

 そこには確かな温もりが残っていた。

「亜季…………また逢えるよな…………」

 僕はその場に残りたかったが、すぐに踵を返し、帰路へ付いた。いつまでもここに居たら、姉貴に心配されるから。亜季は言ってくれたのだ。帰ろうって。


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