初登校と偶然
気だるい朝を迎える僕。新しいスタートの日がこんな気分では萎える。だが、いきなり学校をサボるわけにもいかないので、ベッドから渋々身体を起こす。
こんな冴えない気分を流すべく、僕は洗面所へと向かった。鏡越しに映る顔はいつもよりも冴えない。昨日眠れなかったせいか、目の下にうっすらとクマが見える。いくら顔を水で擦ったところで黒いラインは消えてくれない。まったく……
クマを長い落とせる洗顔料があればいいのに……発明した人がいたとすれば、その人は将来遊んで暮らせるのであろう。そんな夢想をしながら普通の洗顔料で顔を洗い、タオルで顔を拭く。家とは違う洗剤のせいか、そのタオルからはいい匂いがした。おそらくはお高い洗剤でも使っているのだろう。こういう所に金をかけるのがいかにも姉貴らしい。
洗顔を済ませ、ダイニングへと移動すると、僕の鼻は香ばしい、いい匂いを嗅ぎつけた。姉貴はいつもと同じように忙しそうに台所を走り回っている。テーブルの上には2つのお弁当箱が乗っていて、そのうちのひとつはおそらく僕の物だろう。
当然高校に行くのだから、お昼御飯は必須だ。手間をかけたくないと理由で買い食いを希望したのだが、姉貴はそんな僕の意見に断固反対した。
姉貴いわく、栄養をしっかりと取らないと、ちゃんと成長しないということなのだが――そう言っている本人の背が低いのだから説得力など微塵もない。
まあお弁当を作ってくれるというなら、それを断る理由はない。経済的にも正直言ってありがたい。そう言う理由で僕のお弁当生活は幕を開けるのだった。
朝ごはんを食べ、僕は部屋に戻り、着替えをする。袖を通すは真新しいワイシャツとズボンだ。チェック柄のネクタイを着ける。前の学校が学ランだっただけに、ネクタイの着け心地は少々落ち着かない。だがキュっと閉めると、こう、気持ちまで引き締まる感じがする。これが服装の魔法というものなのだろう。寝起きの憂鬱も吹き飛んでしまった。
姿見で格好を確認すると、僕は荷物を持ち部屋を出る。
「じゃあ、姉貴。行ってきます」
「うん。いってらっしゃい」
ダイニングにいた姉貴と軽く挨拶を交わし、僕は家の外へと飛び出した。
家の前から見上げる空は今日も快晴だった。そんな天気に後押しされるように僕は勢い良く路地へと出る。
「おはよっ」
「うおっ!」
飛び出したのは僕だけではなかった。路地の影からは僕を待ち受けていたかのように沙理奈が飛び出して来たのだ。
「紗里奈!」
「おはよう、裕くん」
彼女は僕の驚いた表情を楽しむかのように悪戯に笑う。
「で、何でこんな所にいるの?」
「いっしょに学校行こうと思って」
良く見れば、彼女も白狐高校の制服を身に付けている。
ということは僕の家は彼女の通学路になる。つまり毎朝先ほどのような待ち伏せ攻撃を受ける可能性があるのだ。明日からは少しは用心しなければ…………
「じゃあ、行こうか」
困惑する僕の前を彼女は歩きだす。それに釣られるかのように、僕も足を進めるのであった。
沙理奈は僕の一歩先を歩き、どうでもいいような内容の会話を僕に振ってくる。昨日の夜ごはんや、今日の朝ごはん、そして今日のお昼のことだ。
なぜ彼女がそこまで食べ物の話題ばかり出すのかは分からないが、とりあえず一人寂しく登校せずに済んでいる。
小さい頃は僕らの後ろが定位置だった彼女が、今は僕の前で笑っている。沙理奈は本当に変わったのだと思う。明るくなったし、その――可愛くもなったし。
そんな彼女を目の前に、何も変われてない自分が少し情けなかった。
「というよりも、裕くん。そのタイピン…………」
そう言われ自分のタイピンを見る。それは彼女とは違う色をしていた。僕のは青色しているのに、彼女の付けているのは赤色だ。
「もしかして、これって学年で色が違うの?」
「うん。1年生は青なんだよね」
早速、バレたようだ。何を隠そう、僕は高校受験で浪人をしているのだ。とはいってもただ単に頭が悪かったわけではない。怪我の具合がおもわしくなく、体調の関係で足止めを受けたのだ。だからこそ別に恥ずかしいことではないと自分では思っている。そもそも浪人自体、別に恥ずかしいことでもないし。
「そっか。裕くんが後輩ってなんか変な感じするね」
「僕も同じだよ。小学生時代の友達が先輩なんて」
「まあ、いいんじゃない?」
沙理奈は笑ってそんなことを言ってくれる。彼女にとって学年の違いなどあまり気にならないらしい。沙理奈のように思ってくれる人が一杯居てくれれば、僕の学園生活は楽なのだが。教室で敬語とかを使われるのは堅苦しいし。
しばらく会話を楽しんだ後、学校へと着いた。玄関で僕たちは二手に別れる。僕の向かった先は職員室だ。段取りは昨日の内に出来ている。
職員室で担任の先生に挨拶をし、そこで少し待機となる。僕はどうやら1―C組に配属されるらしい。
教室の前まで来ると、この歳にもなって友達ができるかどうか、少々不安になってしまう。それに僕が一つ年上という負い目もある。
まあ、何とかなると信じ、僕は先生に呼ばれ教室へと入るのだった。
ドアを開けると、生徒たちは興味津々な目をして僕に視線を送ってくる。四十名ほどの生徒の視線の的となり、僕は極度に緊張してしまう。色々な方向を見て、少しでもベクトルを逸らそうと必死になるのだ。
そんな中、僕の目に飛び込んで来たのは一番後ろの席の少女の姿だった。彼女は僕のことを見て、ぽっかりと口を開けている。そりゃそうだろう。彼女にとっちゃ、僕は年上の人物というイメージがあるのだから。
「では、津谷君の席は…………坂上の隣で」
これも何かの運命なのだろうか? 先生が指定した席は亜矢ちゃんの隣なのだ。僕が黙って席に着くと、彼女はぎこちなく首をこっちに向けてくる。何か聞きたくてもどう聞いていいのか分からないという様子だ。
「えっと――――訳は後で話すよ」
彼女にそう耳打ちすると、僕はHRの先生の話に耳を傾けた。最初から目を付けられる訳にもいかないし、最初は優等生を演じなければ。
一限目が終わり、僕は亜矢ちゃんに訳を話そうとしたのだが、僕は転校生に興味を抱いた連中に囲まれ、動けなくなっていた。
亜矢ちゃんも何か話したそうにしていたが、その連中をかき分けてまで話すまでには至らなかったらしい。
そんな状況が四回リピートし、お昼休みがやってきた。そこで僕はやっと解放される。
というよりは、その状況に嫌気がさした僕が弁当を持って教室から飛び出したのだ。
「裕さん…………」
お弁当の食べられる場所を探し廊下を彷徨っていると、不意にかかるその声に僕は身体を強張らせてしまった。男ながら情けない。振り向くと、そこには亜矢ちゃんの姿があった。
「お疲れ様です」
彼女はクスリと笑い、労いの言葉をかけてくれる。さっきから僕の隣で状況を傍観していたのだから僕の疲れ具合を誰より分かっているのだろう。
「大人気でしたね」
「転校生ってことで珍しがられているだけだよ…………あー、疲れた」
僕はポキポキと腰を鳴らす。
「じゃあ、静かなところ行きません?」
「えっ?」
急な提案をし、彼女は僕をどこかに連れて行くべく、廊下を進んだ。もちろん僕もその背中に続く。そして僕はこの場所へとたどり着いた。
そこは学校の屋上だった。広さは然程ない筈なのだが、閉鎖空間に居たせいか、とても素晴らしい場所に感じる。
ここには僕らのほかに数グループの女子がいたが、どのグループも静かに昼食をしている。女子のランチほど賑やかなものは無いというのに、ここでは異世界のシキタリでも流行っているのだろうか。
四階に相当する高さから見える景色は綺麗であった。この学校からは街も田んぼも見える。遠くの景色は空と調和し、秋の色を一層鮮やかに彩っている。やはり田舎の風景は美しい――――もちろん坂の上から見たものには敵わないが。
屋上の端まで僕を呼ぶと、彼女はお弁当を広げる。
「さあ、ご飯にしましょう」
「ああ」
僕もその場に腰をかけ、弁当を広げる。
弁当の中身はオードソックス。卵焼きとマカロニサラダ、漬物、そしてメインに生姜焼き。ご飯の上にはそぼろが乗っている。
姉貴はやはり料理の腕をあげているらしい。この味付けといい、組み合わせといい、母の弁当と五分を張っている。僕は夢中になって弁当を胃の中へとかき入れる。
一方、僕の正面にいる亜矢ちゃんは、さっきから弁当に手を付けずに僕の方を見ている。その視線は少し歯がゆい。
「亜矢ちゃん、僕の顔に何か付いてる?」
「えっ? な、何もありません」
彼女は慌てたように顔を背けてしまう。彼女が僕のことを見ていたのに、彼女自身が気付かなかったような素振りだ。まあ気にしてもしょうがないので僕はランチの続きをするのだ。
弁当を平らげ、紙パックのウーロン茶で口を潤す。この食後の幸福感は何とも言えない。僕は彼女がお弁当を食べ終わるまでのひと時をゆっくりと過ごす。
ふと、空を見上げる。秋晴れの空は都会で見るよりもずっと澄んで見える。
そういえば都会に出た初めのころは空を空だと思えなかった。ビルに占拠された空はとても狭く、霞がかったようにはっきりしなかった。そんな空を見つめるたびに、ここに戻りたいと思っていたっけ…………
パチッと弁当の蓋が閉まる音がして、僕の視線は正面に向けられる。彼女は両手を合わせるとお弁当を前に一礼する。そんな仕草は亜季もしていた気がする。いつもは行儀の悪いヤツだったが、ご飯の挨拶だけはちゃんとしていた。それが坂上家の教育方針なのだろうか。
「それで裕さん」
「ん?」
「どうして私と同じクラスなんですか?」
亜矢ちゃんはやっとのことでその疑問を僕に尋ねてきたのだろう。答えを聞きたいあまりウズウズしている様子だ。
朝からずっとそんなことを気にさせてしまったと思うと、少し申し訳ない気持ちになる。
僕は彼女に分かりやすいように、〝あの事故〟からの出来事を話した。面白い話でもないのに彼女は僕に食い入るように耳を傾けてくれた。
「大変だったんですね………」
「まあ………ね」
少し悲しそうな顔をした後、彼女は一変して、とびきりの笑顔を見せる。
「でも裕さんが同級生になってくれて少しうれしいかな」
「うん?」
「あっ、ごめんなさい。別に変な意味じゃないんです!」
「そう? まあ僕も亜矢ちゃんと同じクラスでよかったと思っているよ」
少し複雑な心境だが、知り合いのいるクラスに入り、こうして喋れているのだから僕にとってもプラスになることだと考えたい。
それに僕は〝元に戻す〟ためにここに帰って来たのだ。亜矢ちゃんともあの頃と同じく仲良くなりたい。とはいっても、亜矢ちゃんの記憶はほとんど無いのだが…………
「あと、お願いなんですけど…………」
「なに?」
彼女は少し、かしこまったような態度を取る。その仕草に僕は少し構えてしまった。
「あの、私のこと亜矢って呼び捨てしてくれませんか!」
「へっ?」
彼女が口にしたのは僕の予想もしないお願いだった。何故そんなことを僕に頼むか分からない。しかし、彼女が僕を見る瞳は真剣そのものだ。
「うん。いいよ」
断る理由もないので僕は快く承諾する。
「ありがとうございます!」
僕の返事を聞き、感激する彼女を見るとなんだか照れくさい。別に大したことでは無いように思えるのだが…………
「じゃあさっそく私のこと呼んでくれませんか?」
「はぁ……」
こういう突発的な所は亜季と似ていると思う。亜季も突然、変なことを言って僕を困らせることが度々あった。
彼女は僕が名前を呼んでくれるのを待つかのように上目使いで僕のことを見つめる。そんな態度を取られると僕まで緊張をしてしまうではないか。
「あ、亜矢…………」
発した言葉はギクシャクしていたと思う。けれどそんな言葉を聞き、彼女は嬉しそうに「はいっ!」と元気よく返事をするのであった。
不意にも僕はそんな彼女の仕草にドキッとしてしまった。まったくどうなっているのやら…………
それから僕は亜季と他愛ない話をして昼のひと時を過ごす。
名前を呼び捨てにした。その程度。しかし、僕らの距離は縮まったように感じるのだから不思議だ。