夢と思い出
ここは夢の中だろう。僕は直感的にそう思った。
僕の横には幼い少女の姿がある。彼女は僕の手を取り、坂を登っている。落葉で染まった地面は紅い絨毯のように見え、一歩足を踏み出すごとに足裏から感じる木の葉の柔らかさはとても心地良い。この感触は僕がとても大好きなものだった。小さい頃、よく母の制止を聞かずに、落ち葉の海へとダイヴして、その度に怒られたっけ。
絨毯の上を一緒に歩きながら彼女は僕に楽しげな笑顔を見せ、話しかけてきているらしい。しかし、彼女の言葉は僕の耳には届かない。何を言っているのか分からない。耳を澄ましても何も聞こえないのだ。
ただ風の音だけが僕の耳へと入ってきている。その音は邪魔であると同時に、僕の心を何故か安心させるのだ。
夢ならば…………許される。僕はその場に立ち止まった。繋いだ手は彼女の身体すらその場へと留めてくれる。彼女が先に行かないことを確認した後、僕は手を離した。本当は彼女の手の温もりをまだまだ感じていたかった。けれど、僕はそれ以上にしたいことがあった。確かめたいことがあった。
僕は彼女の顔へと手を伸ばす。赤いリボンをした少女は僕の手を拒む動作を見せない。ただキョトンとした表情で僕の顔を見ているだけだ。
あと数センチで彼女に触れられる――――僕の心臓は高鳴る。その鼓動は無音の世界を塗り替えていくように大きく、大きく…………
僕の手は最期の数センチを縮めようと一気に伸びる。しかし、伸ばした先に彼女の姿は無かった。僕の目に映るのは紅葉した木々と落ち葉の道のみだ。
君はまた、僕を置いていくつもりなのか…………そんなのは嫌だ! 認めないっ!
「アキっ!」
僕は叫んだ。夢の境目で放ったその言葉は僕の精神を一気に覚醒させた。自分の声で耳が痛い。それ以上に痛かった――――心が。
「はぁはぁはぁ………」
肩で息をしながら、僕は周りの様子を見る。ここはどうやらどこかの和室のようだ。
先ほどから場面が変わりすぎて頭の回転が付いていかない。ここが現実であるか夢であるかすら区別ができていない。
とりあえず身体を起こしてみると、頭の上から何か落ちた。正確にはおでこからだろう。物体は濡れたタオルであった。まだひんやりしていることから見て、乗せられてから殆ど時間は経ってないのだろう。
どうやら僕は看病されているらしい。緩められた衣服や濡れタオルからすぐに自分の置かれた状況を理解できた。ということは誰かがここに運んでくれたのだろうか。
と言うと、やはり先ほどの出来事は夢なのだ。先ほどの怪奇現象を思い出し、僕はそう考えるのだ。夢ならば誰が出てきてもおかしくはない。それがもうこの世に存在しない人でも…………頭では夢だと十分に理解している。なのに何故、こんなにも心が痛いのだろうか?
その時、部屋の外から足音がした。ずいぶん前からその音は聞こえてきたのだが、呆けていた僕には唐突の出来事に思えたのだ。障子が開き、僕の目に飛び込んできたのは、紅白の衣装を纏った少女の姿であった。その服装からして、その子が巫女であることは理解できた。
「大丈夫? 何かあったの?」
その子は僕のそばへと駆け寄り、チョコンと僕の目の前に座った。目線が同じになると、小柄な印象を受ける可愛い子だ。年は僕と同じぐらいだろうか。
「えっと、僕はどうしてここに?」
彼女の様子を伺いながら、今の状況を確かめてみる。
「おじいちゃんが散歩中、あなたが倒れているのを見つけたの」
「僕、倒れてたんだ…………」
他人事のように僕は呟く。自分では何が起こったのか何も分からないし、身体に異常も感じられない。ただ時間だけが抜けてしまったような、奇妙な感覚なのだ。
「本当に大丈夫? 怪我とか気分とか」
彼女は心配そうに僕のことを見つめてくる。献身的な看病を受けて看護師さんに惚れてしまう人が多いそうだが、僕の場合もそれなのだろうか? こんなに心配してくれる彼女のことを、つい可愛いと思ってしまった。いや、元々彼女は可愛らしいのだが。
「大丈夫…………です。たぶん」
照れ隠しのように、僕は両手を動かし彼女に元気なことをアピールする。
「良かった。じゃあ、おじいちゃん呼んでくるね」
そう言って彼女は立ち上がった。
「あと、顔。拭いておいた方がいいよ」
「えっ?」
彼女にそう言われて気が付いた。僕の目からはいつの間にか涙が零れていた。
その後、しばらく部屋には僕だけの時間が流れた。身体は何ともないのに、頭はボーっとしている。何か考えていたほうが楽そうだが、この状況で思考することを僕の脳は拒否しているらしい。だから僕はすでに日が落ちかけている外へと目をやるだけであった。
大した時間も置かずに状況は変わった。〝おじいちゃん〟と呼ばれる人物が部屋へと入ってきたのだ。おじいちゃんと呼ぶには抵抗がある、そのイカツイ面持ちを前に僕は委縮してしまう。まあ、さすがにいきなり胸倉を掴まれたり、刃物を突きつけられたりはしないだろうが。
「大丈夫かね?」
「はい。大丈夫です」
質問にはとりあえず笑顔で答える。ギクシャクはしているだろうが。そんな僕の態度に対して彼はなぜか嬉しそうな顔をしている。それは気のせいであろうか?
「君が倒れていたんで、心配したぞ」
「はあ、すいません…………」
今更ながら、道端で倒れていたことを恥ずかしく思う。
「いやぁ、この歳で君みたいな人をおんぶする事になるとは思わなかったよ」
「ごめんなさい」
彼は僕の数倍の年齢だ。いくら僕が小柄なほうだとしても足腰の負担になっただろう。とてもやるせない気持ちになる。
「気にするな」
おじいさんは僕の気持ちと対照的に豪快に笑う。その笑い方になぜか懐かしいものを感じた。それだけではない。僕はこのおじいさんのことを知っている気がする…………そんなことを思い始めたのだ。
「裕君も大きくなったものだな」
「えっ?」
自分の名前を呼ばれ僕は思わず声を上げてしまった。やはり、彼も僕のことを覚えているのだ。
「えっと…………」
「ほら、飴をなめるか?」
彼は僕に掌に乗った、小さなベッコウ飴を差し出す。ここで僕の記憶はまるでフラッシュバックするように蘇った。
「神社のおじさん?」
「そうだ。思い出してくれたか」
そうだ。彼が神主の格好をしていなかったから気が付かなかった。僕は小さい頃から、このおじさんを知っている。何故ならこの神社の境内は僕たちの遊び場だったから。
「それにしても裕君が帰って来ていたなんて思わなかったよ」
「今日帰ってきました」
そうか、そうかと彼は頷く。
それからおじさんと世間話をする。年齢差があるということで話が弾む訳ではない、それでも会話は楽しかった。懐かしさが僕にそう思わせたのだろう。
おじさんは僕の身体を心配してか、「泊まっていきなさい」と言ってくれたけど、僕はそれを丁重に断った。さすがにそこまで世話になるのは僕の良心が許してくれない。
少し経っておじさんは腰を上げ、僕の元から去る。どうやら夕方の仕事の用意があるらしい。僕は軽く会釈をし、彼を見送った。
それから少し考えた。疑問に思うこともあるのだ。普通、人が倒れていたら救急車でも呼ぶものなのだろうが何故、おじさんは僕をここに運んでくれたのだろうか。
「まあ、いいか………」
そんなのは大した問題ではない。身体のどこにも異常があると感じないし。頭の方も正常に機能してきた。そうだ。そろそろ帰らないと姉貴にも心配をかけてしまいそうだ。
そんなことを考え、木造の廊下を歩いて行くと僕の目に見覚えのある白い庭が見えてくる。僕の予想通り、ここは神社の境内の一角の屋敷だった。
僕はこの場所には良く遊びに来ていた。ここはキツネ坂からほど近い神社で、この境内は子供の遊び場として最適であったからだ。広さもあり車も来ない。そして僕たちの秘密の場所だったから。
ここは変わっていない。春にたくさんの桜を咲かす大きな木も、境内の脇に敷き詰められた白い石も、あの時から時間が止まったように思い出そのものの姿だった。
そんな思い出の風景に巫女服姿の少女が登場した。彼女は箒を持って地面に溜まった落ち葉を掃いている。
「あっ、起きたんだ」
彼女は僕に気が付くと、掃除を止め、近寄ってくる。その足取りはさすが巫女というか、優雅であった。
彼女はそんな優雅な足取りで僕の周りを三百六十度回り、身体の隅々を穴の開くほど見てくる。
「あの…………なんですか?」
「うん、大丈夫そうだね」
そう言って彼女は僕から一歩半ほど離れる。
なんなんだろう、さっきの行動は…………彼女みたいな可愛い子に全身を見定められるのは少し歯がゆい。
「うーん。津谷くんも背が伸びたよね?」
「えっ?」
彼女は僕の頭のてっぺんに視線を送りながらそう言う。
僕は自分の記憶を思い起こす。僕にこんなカワイイ知り合いは居ただろうか?
「あっ、その顔、私のこと分からない?」
彼女は少し膨れた顔を見せる。その仕草すらかなり可愛い。
「えっと…………」
僕は困ってしまってしまう。記憶をひっくり返し彼女の顔を合致させようと頭をフル回転だ。だが数年前の顔は全員幼くて、僕は答えを見つけられそうもない。
「あーあ。がっかりだなぁ」
「ご、ごめん…………」
彼女の肩を落とす仕草を見て、僕は慌てて言葉を並べる。こんなに焦っているのはいつぶりだろうか。
「なんて冗談だよ。久しぶりだし、仕方が無いよね」
彼女はクスリと笑い、顔をあげる。その顔には落胆の色は無い。有るのは、僕をからかってやったぞという、悪戯っぽい笑みだけ。笑った時に顎に手を当てる仕草を僕は覚えている。その仕草が僕に彼女が誰だかを教えてくれた。
「沙理奈……?」
「あっ、やっと思い出してくれた」
なんてことだ――――彼女は小学校で一緒だった、青原 沙理奈だ。沙理奈は僕の数少ない友人だった。
そんな彼女をなぜ僕が気付かなかったというと、小学校の時の彼女はいつも眼鏡を掛けていて、オドオドしていて地味な印象を受けていたからだ。そんな過去の彼女と比べると、今僕の目の前にいる少女はとても華やかだった。
「沙理奈、久しぶり! 全然、分からなかったよ」
「あっ、そっか。あのときは眼鏡だったんだよね」
彼女は自分の顔を擦りながらそう言う。おそらくは今はコンタクトレンズを装着しているのだろう。
「津谷君は雰囲気とか全然変わらないよね」
彼女の言葉は褒めてもらったと思っていいのだろうか。それとも変わっていないことを馬鹿にされたのだろうか。どちらの意味か分からず、僕は誤魔化すように笑った。
それから世間話タイムだ。懐かしさのあまり会話は弾みに弾む。しかし、それ束の間のこと。おじさんが僕の前へと現れた。今度の恰好は住職の恰好だった。
「裕君。そろそろ帰らなくてもいいのかな?」
その言葉に空を見上げる。気が付けば、空はもう赤を越して、黒ずんできている。
「あっ、はい。そうですね」
「私が送っていこう」
そう言うと、おじさんは神社の階段を下りていった。本音を言えば、もう少し沙理奈と話をしていたかったのだが、姉貴やおじさんを待たせるわけにもいけないし、僕は沙理奈へと別れの挨拶をする。
「じゃあ、沙理奈。また遊びにくるよ」
「うん。またね」
彼女は笑顔を見せ、僕に手を振る。彼女の言った「またね」がいつになるかは分からないが、きっとまた会えるのだろう。こんな狭い町だし。悲観などせずに僕は車へと乗り込んだ。
「ありがとうございました」
しばらく車に揺られたところで車はエンジンの音を静めた。さすがはおじさんだ。僕の家の場所が分かっている。一言も案内をしていないというのに、僕は家へと到着している。お礼を言って、自分の家の前で車を降りた。
おじさんはその様子を見て、満足げな笑顔を見せ、車を走らせていった。降りかけに放たれた、「いつでも遊びにおいで」という言葉がとても心を温めてくれた。もう子供ではないというのに。優しい言葉をかけられるのにはどうも弱い。
さてと、色々あったが無事家に到着した。後はゆっくりと部屋で寛ごう。身体はかなりの疲れを感じているのだから。
僕は家のドアを開けた。玄関先には小さな鬼が…………
「裕―っ! いつまで買い物に行ってるの! それに頼んだものは?」
「あっ!」
僕は夕飯の材料を買うのをすっかりと忘れていたのだ。
「裕! どうしてくれるのよ。冷蔵庫の中は空っぽなのよ!」
「ああ、ごめん。姉貴…………」
僕はひたすら平謝りだ。怒ったときの姉貴は迫力が普段の数倍になる。身体はちっちゃいくせに、怒ると怖いんだよなぁ…………
「えっとね――――」
僕は仕方ないので今まであった出来事を正直に話す。自分が倒れてしまった話など、恥ずかしくてしたくはなかったけど…………プライド以上に命が大切だ。
「裕っ。大丈夫なの?」
「あっ、うん」
姉貴は一気に表情を〝お姉ちゃん〟に変える。
「本当なの? どこか痛かったりとかしない?」
「大丈夫だって!」
肩をガシッと掴む腕の力は痛いほど強かった。姉貴はしばらく僕の様子を確認する。そしてなんともなかったことを確かめるとやっと僕を放してくれた。
「今日の夕飯は出前にするから、裕は部屋で休んでいて」
その言葉に僕は素直に従う。というのは姉貴の心配そうな顔を直視しているのが照れくさかったからだ。僕が以前入院していた頃も、姉貴は毎日のように見舞いに来て僕の話し相手になってくれていた。あれから何年も経っているというのに、姉貴にとって僕はまだまだ手のかかる弟なのだろう。いつか一人前になった時は姉貴にそのことも含めて感謝を述べたいと思っている。今は無理だけど。
夕食は姉貴が言った通り出前になり、僕はかつ丼を頂いた。お腹一杯になった僕はそのまま部屋に戻り、ベッドに寝転ぶ。
そこでやっと頭の整理をする気になった。今日の出来事は本当になんだったのだろうか。
夢…………そう言ってしまえば、簡単に片付いてしまうだろう。でも――
「夢…………じゃなければいいな…………」
そう僕は呟いた。
あの時、居たのはまさしく〝彼女〟だ。
ここに帰ってきたのは、決着を着けるためだったのに…………僕はまだ〝あのこと〟に縛られているのだろうか?
その時、自分の襟首に何かがあることに気が付いた。それは紅い葉っぱだった。何の木のものかは分からないが、倒れたときにそのまま付いてきたのだろう。
一片の葉を指に挟み、見上げる。その葉を通して見た部屋の電気の光はまるで夕日のように紅く見える。その光はあの坂の景色を連想させる。
そういえば、今日は坂からの風景を見れなかったんだっけ。
「明日も行ってみようかな…………」
そう僕は思い、ダルい身体をベッドへと深く沈めた。