雨の午後とキツネ坂
あの日からもう一週間が経とうとしている。
依然答えの出せない僕にも、亜矢はいつも通り接してくれる。
彼女の笑顔を見ると、心の奥底の吹き出物を潰したような、激しい痛みが込み上がってくる。だが、そんな痛みに晒されながらも、僕は答えを出せないでいる。
僕は臆病者だ。彼女に答えを言えば、僕は必ず何かを失ってしまう。
それが怖い。怖いのだ!!
だから、僕は答えない――――答えられない――――
そして痛みに耐えられなくなった時、ここへ来る。
坂の上の夕焼けはいつも綺麗だった。あれから亜季は僕へと姿を見せてくれない。
だが、僕は坂の上に登ることを止められなかった。
これをやめてしまえば亜季にもう逢えない、そんな気がして…………
ある日の昼休み、僕は屋上へと上っていた。今日はここには誰もいない。
それもそのはずだ。空からは大粒の雨が落ちてきて、無防備なコンクリートを濡らしている。
僕は入り口の軒下からずっとグラウンドのほうを見ていた。何をしようとしている訳でもない。ただ一人で居たかったのだ。教室にいれば否応無しに亜矢に顔を合わせてしまうから……
一人でいると頭の中に色々なことが入ってくる。亜季のこと亜矢の告白のこと――――
考える…………でも、答えは出ない。
どんなにイメージを頭の中で膨らませても、僕が満足する答えには行き着かない。
僕はこのまま永遠に悩み続けなければならないのだろうか?
叫びたかった。この雨に負けないぐらいの大声で――――
どんなことを叫ぶ? なんでもいい。この気持ちが楽になるなら、なんでも――――
「裕くん」
僕が叫ぼうと息を溜めていると、突然背中から声が掛かった。タイミング的に僕は声を飲み込むしかなく、それと同時に吸い込んだ空気が肺に流れ込む。
「ごほっ、ごほっ!」
「ご、ごめん? 驚かせた?」
沙理奈は僕の様子を見て謝罪の言葉を述べる。
「いや、大丈夫……」
彼女の不意打ちで、むせ返りながらも僕は平然を装って言葉を口に出す。
「沙理奈、どうしてここにいるの?」
「その質問、そのまま返すよ。裕くんの跡を追ってここまで来たんだから」
「そうか……」
尾行されていたことにぜんぜん気が付かなかった。彼女は気配でも消せるのであろうか? いや、僕が鈍いだけなのかもしれない。
「で、何でこんな日に屋上に?」
「ああ――気分、かな」
亜矢から逃げてきたなんて言えるわけない。
「そっか……」
彼女は口から出まかせの言葉に納得してくれた。本当は納得なんてしてないだろうが。気を遣ってくれた彼女に感謝をしたい。
「そうだ、裕くん。これ食べる?」
沙理奈は鞄から掌ほどの大きなシュークリームを取り出す。
「あ――――せっかくだけど」
「いいから、いいから。食べなかったら、お姉さんにでもあげて」
彼女は半ば強引に二袋のシュークリームを俺の胸に押し付ける。
「じゃあ、貰っておくよ。ありがとう」
「うん。素直に受け取っておきなさい」
沙理奈はニコッと笑う。誰かの笑顔を見るとなんだか救われた気がする。
亜矢はあれから僕に対して本当の笑顔を見せてくれていないから――――
「じゃあ、私は戻るね」
「えっ? ああ……」
沙理奈は僕に用があって来たのかと思いきや、あっさりと身を引いてしまった。
「今日の夕方は晴れる予報だから、坂の上に行ってみるといいよ」
「えっ?」
彼女はそう言い残した。
「沙理奈――――今なんて……」
疑問を問うべく、彼女を追おうとしたが、既に彼女の姿はなかった。
沙理奈の予想通り、午後になると雨は上がっていた。
学校が終わるや否や、僕はキツネ坂を目指して足を進めていた。
先ほどの雨はコンクリートに数々の水溜りを作り、それらは僕の旅路を邪魔する障害に思える。ぬかるみを踏みつける足底冷たい。少し靴の中に浸水したようだ。
しかしそんなことでは僕のスピードは変わらなかった。
今日は何かが起こる、そんな気がしていた。それが良い事か、悪いことかは分からないけど…………
急いで登ったせいか僕の額には薄っすらと汗が出ていた。心臓も平常時よりも早く鼓動をしている。体温と対照的な冷たい秋風が心地よい。
僕は坂を登りきった。坂の上には誰もいない。亜季が待っていてくれるという期待は外れた。だが諦めるのはまだ早いだろう。
雲から顔を出した太陽はまだ高い位置にある。彼女と逢うときは決まって夕暮れ時であるし、まだ可能性は残っている。
僕は少し湿った椅子に座りながら、時が経つのをひたすら待っていた。鳥の声と午後の暖かい日光が僕の身体を包む。このごろ寝不足のせいか意識が途切れ途切れになる――――
夢を見た。おそらく、これは僕の幼い記憶だろう。
手を握っている少女は亜季だ。彼女は僕をキツネ坂の上へと連れて行こうとしている。そうだ。この日は少し寒かったっけ。なのに亜季は半袖で、「寒くないか」と聞けば、「寒くない」と答えたんだよな。
「うわぁ……今日の夕焼け、綺麗っ!」
「うん。そうだね」
亜季は僕へと微笑んでいる。覚えている。この夕陽も、亜季の笑顔も。
けれど、僕は知っている。これが亜季との最期の思い出ということを――――
「ねえ、裕ちゃん」
「なに?」
「裕ちゃんって、この場所好き?」
「うん。好きだよ」
「じゃあ、さ。ずっーと、私と一緒にここに来てくれる?」
「ん? なんで?」
「どうなの?」
「えー。なんでだよ」
「いいから。どうなの? 私が頼んだら、いつでもここに連れて来てくれる?」
「うーん。いいけど。水曜日はダメだよ。〝マジカル戦士・テルルン〟見るんだから」
僕は苦笑した。今考えると、面白いタイトルのアニメだと。
「水曜は……いいけど、そのほかの日は?」
「うーん。いいよ」
亜季はニッコリと笑った。
「じゃあ、約束ね。はい」
「指きり? 子供じゃないんだから――――」
「いいから。はい」
「……うん」
「ゆびきりげんまん――――」
何が「子供じゃない」だ。亜季の問いの質問にも気が付いていない癖に…………
鼻先にフワリと何かが触れた。くすぐったい――――僕はまだ、亜季と一緒にいたいのに――起こさないでくれ――――
「裕。起きて」
「ん――」
僕は目を開けた。目の前には小さい背丈の女の子がいた。最初は亜季だと思ったが違う。亜季にはそんなフワフワな耳などついていないのだから。
彼女は猫じゃらしを持ち、再び、僕の鼻をくすぐってくる。猫じゃないというのにこんな扱いは屈辱だ。
「やめて」
「やだ――――と言ったら」
「はぁ…………」
ため息をつき、僕は身体を起こした。それに合わせ、少女も僕から数歩離れる。後ろについた尻尾はフワフワと宙を漂った。
「寝ぐせ」
彼女は僕の頭を指す。僕は気になって頭に手櫛を掛けた。
「嘘」
僕の慌てる様子を見て、彼女はクスりと笑った。
「はぁ…………」
おちょくられているのか知らないけど、怒る気にもなれない。相手は子供だし、それに彼女がいるということは、これは夢の中に違いない。ということは、さっき覚めたのは夢の中の夢――――
どれだけ深く眠りたいのだ。僕は。思わず苦笑した。
「君――なんでここにいるの?」
「君じゃない。ビャッコ」
「ビャッコ?」
「名前」
「ああ」
ビャッコと言われて、僕が思いつくのは白虎という文字だ。しかし、彼女の風貌から見て、虎という印象は持てない。おそらく、白い狐と書くのだろう。良く見れば、耳はキツネっぽいし。
「白狐は、どうしてここにいるの?」
「人を待っていた」
「奇遇だね。僕も人を待っているんだ」
亜季のことを他人に言うのは気が引けたが、何となく口から出てしまった。まあ、いい。これは夢だし。
それに白孤は亜季の知り合い。そんな気がしたから。
「裕が待っているひとは、大切なひと?」
「ああ……とってもね」
「そう」
白孤は僕の隣に腰を掛けた。あまりにも躊躇の無い動きだったものだから、僕は鞄を除ける気遣いも出来なかった。まあ、彼女の身体は小さいので問題なく椅子に座れたのだが。
「裕。食べていい?」
「えっ?」
一瞬、僕を食べるのかと驚いたが、彼女の視線は僕ではなく、鞄の方へと向いていた。鞄のチャックを開けてみると、そこにはシュークリームがあった。
「シュークリーム。好きなの?」
「こくり」
白孤は頷く。これ以上待たせたら、本当に僕を襲いそうな目をしていたので、包装を破り、彼女へと渡してやる。
ハムハムと、白孤は食を進める。隙だらけだったので耳に触れてみる。獣耳は僕の指の動きに合わせピクピクと動き、面白かった。
「裕――」
「あ、ごめん」
いつの間にか白孤は食事を終えており、僕をジトっとした目で睨んできた。慌てて手離すと、彼女は再び鞄の方を向いた。
「ダメだよ。おやつは一日ひとつまで」
姉貴に良く言われた台詞を口にすると、白孤は出しかけていた手を引っ込めた。その表情には無念さが見える。相当シュークリームに執着しているらしい。
白孤はシュークリームの余韻を楽しむかのようにボーっとしている。その姿は何だか可愛い。また頭を撫でようと試みるが、フットワーク良く、彼女は僕の手を擦りぬけた。
白孤は柵の傍へと行き、街を見下ろした。そこからの風景は知っている。いつもはあそこに僕がいるのだから。
「裕」
「うん? 何?」
とても穏やかな言葉で彼女は僕を呼んだ。
「シュークリームのお礼」
「えっ?」
「逢わせてあげる。あの子に」
白孤は振り返り、僕の手を掴んだ。
途端、僕の視界には真っ白な光の壁が現れた。
「わあああああっ!」
壁から逃れようと、僕は身を翻えそうとしたが、少女の手がそれを拒んだ。
「臆さないで――――」
僕を安心させるかのように、彼女は手に力を入れた。
僕に伝わるのは、小さな圧迫感と温もり。その感触を味わいきる前に僕は光へと飲み込まれた。
まるで光の洪水だ。水が全身を濡らすように光が身体の隅々を通過する。けれどそこには苦しみも痛みもない。温かさと心地よさだけ。
僕はおそらく眠ってしまう。だってこんなにも気持ちいいのだから――――