雨に消された言葉
その日から僕はミサンガを身に着けていた。それは僕の心の変化を表すようなものであった。
あの日、僕は亜季と逢い、自分の意思を確認したのだ。
亜季を失いたくは無い。僕の何を犠牲にしても……
あの時、僕は亜季を守れなかった。だから……
今度こそ彼女を守ってみせる、と――――。
「おはよう裕さん」
「おはよう…………」
亜矢の笑顔でうっかり、僕は笑顔になりそうになる。しかし、そんな自分自身を律し、わざわざ不機嫌そうな顔をする。
亜矢は僕の顔を見て、困った顔をした。そしてそれ以上僕に会話をすることはなかった。
僕は亜矢と距離を置くことにしたのだ。亜矢に惹かれれば惹かれるほど彼女…………亜季が離れていってしまう気がしていたのだ。
亜矢はとても魅力的で一緒にいても楽しい。僕に何の事情もなければ彼女を好きになっているに違いない…………
けれど、僕には亜季がいるのだ。彼女が亜季と似ていようと、亜矢は亜季の代わりにはなれない。
だから…………僕は唇を噛み締める想いで彼女を避けるのだ。
僕の素っ気無い態度を見る彼女は、時折、寂しそうな顔をする。
そんな顔を見ていると、僕も耐えられなくなる。ここで笑って話せたらどんなに楽しいだろうか?
けれど……
僕の心境を表すように、秋雨の日々。朝方に止んでいた雨も夕方になって急に姿を現す。
そんな土砂降りの雨の中、僕は校舎に閉じ込められていた。雨は冷たいだろう。この時期に傘無しで家に帰るのは少々勇気が必要だ。僕だけならばすぐに熱いシャワーを浴びればどうにかなるだろうが、鞄に入った教科書たちはそうはいかない。
僕に残された選択肢は雨が少しでも納まるまでこの校舎で時を過ごすことであった。
一人でいると時の流れはとても遅い――――永遠とも思われる時間の中、僕の耳には雨音だけが聞こえてくる。
雨に打たれた屋根は悲鳴のようにそれぞれの泣き声をあげる。そんな雨に打たれたら僕も泣いてしまうかもしれなかった。
こんなときに頭に浮かぶのは…………
頭に浮かんだのは笑顔の少女――――
僕はドキリとした。頭の中に先に浮かんだのは亜季ではなく、亜矢であったのだ。そのイメージを拭い去ろうと、僕は頭を振る。
しかし、考えれば考えるほど、亜矢のことが思い浮かんでしまう。
僕は叫びたかった。ひたすら叫びたかった…………
腕のミサンガを見る。これは決意の証だったのに…………
亜矢と離れれば離れるほど、彼女のことを僕は考えてしまうのだ。
そんな自分に嫌気が差す。僕は今もまだ亜季と亜矢を天秤にかけているのだ。
机に突っ伏し、空を見上げる。この雨はまだまだ納まりそうにない。
僕はどれだけの時をここで過ごせばよいのだろうか?
雨音がする。腕が痛い…………僕は何をしてしまったのだっけ…………
硬い机から身体を起こすとそこは教室であった。どうやら寝てしまっていたらしい。外はまだ雨が降り続いているようだ。空の色からしてたいした時間は経っていないだろう……
何かが視線の端に見えた。誰?
その人物は横から僕のことを覗き込んでいるらしい。
「亜季……?」
霞む目で彼女のことを見つめる。
「裕さん……」
僕の頭は彼女の声、いや、呼び方で急回転する。彼女は泣きそうな顔で僕のことを見つめていた。
「亜矢…………僕、寝てたの?」
「ご、ごめんなさい。見ているつもりはなかったんですけど…………」
彼女は顔を背けてしまう。
「いや、大丈夫…………」
こんな会話ですら、新鮮に感じてしまう。それほど僕は亜矢としゃべってなかったのだ。
「えっと、なんでここにいるの?」
亜矢に問いかける。
「えっと、図書室で宿題をしていたんです」
「そっか……」
「で、裕さんはなんでここにいるんですか?」
「えっと……雨……」
何でだっけ? 確か雨が降っていて、それで雨宿りで……
頭が上手く働かない。どうやら僕はまだ寝ぼけているらしい。
「もしかして傘を忘れたんですか?」
「ああ、たぶんそんな感じ」
亜矢は僕の言葉を聞くと、少し間をおき、
「傘あるんですけど、一緒に帰りませんか?」
一言、そう言った。
亜矢も僕も小柄なほうにしろ、この歳の人間が濡れずに一緒の傘に入ることは難しい。それでも僕らは懸命に小さな屋根の中に入ろうとする。そうすれば身体が寄ってしまうのは必然なことであった。
僕の左半身は冷たい雨に打たれ、冷えているはずなのに、心臓はバクバクと音を立てて、全身に血液を送り続けている。
すぐ横にいる亜矢を横目で見る。彼女はさっきから黙ったままであった。けれど、その顔には薄っすらと笑顔が浮かんでいる。
彼女は今、どんなことを考えてるのだろう?
この雨音がなければ、彼女の心の囁きが拾えるかもしれない…………
だからこそ、この無情に降る雨が憎かった。
家が近くなったとき、彼女は急に立ち止まる。
「裕さん、少し時間もらえませんか?」
彼女の表情も声のトーンも真剣そのものである。そんな彼女に押され、僕はコクリと頷いた。
灰色に染まる空の下、僕らは近所の公園のケヤキの下にいた。すべてを濡らそうとする雨粒も、広々と葉を広げる大樹には敵わないらしい。
亜矢はそこに来ると、傘を閉じた。カチャッという金属音は公園の中に広がり、雨の音でかき消される。そしてまた雨の音だけが聴覚を支配するのだ。
そんな公園で、僕らは二人、木に背中を寄せる。こんなに近い距離にいるのに、その数センチがやけに遠く感じる。
亜矢は灰色の雲をジーっと見つめている。彼女の目にはどんな風景が見えているのだろうか?
僕もその景色を共感しようと空を眺める。だがそんなことで答えが見えてくるはずはなかった。
「裕さん…………聞いてほしいことがあります」
「…………なに?」
彼女はこれほどないほど真剣であった。僕はその態度に応えるために身体を彼女のほうへと向ける。
「そのミサンガ、お姉ちゃんと同じものですよね?」
「ああ…………」
どうやら彼女は気づいていたらしい。過去に亜季が話したのだろう。
「裕さんは………今でも、お姉ちゃんのことが好きなんですか?」
彼女の口調は静かであった。けれどもその静かな声はこの雨よりも大きく聞こえた。
「僕は…………」
以前、笹本とした会話を思い出す。彼は僕に同じ質問をしてきた。しかし僕は答えを出してない。
亜季のことは好きなんだ…………けれどその感情は今のものなのだろうか?
過去に縋った、僕の思い出のカケラのようなものなのではないのだろうか?
結局、答えを出すことは出来ずに、僕は沈黙だけを守り続けた。
二人の沈黙を雨の音だけが埋める。この雨がなければ辺りには何の音もないに違いない。
この重い沈黙が痛い…………ここに沙理奈や笹本が乱入してくれれば、どんなに良い事か…………
だが、僕の想いは虚しく、時間だけが過ぎていく。
そして、その沈黙をかき消すかのように彼女は口を開いた。
「裕さん…………私は、坂上 亜矢は…………あなたが好きです――――」
その言葉を聞き、僕はまるで脳天に何かが落ちて来たのかというぐらいの衝撃を受けた。目の前が揺れる感じまでする。彼女は今何と言ったのだ…………?
彼女は僕の言葉を待っている…………何か言わなければ――――
でも――
僕は自分の言葉を何も出せなかった。そこにあるのは沈黙のみだった。
先ほどの沈黙よりも長い時間が僕らの間にはあった。
その永遠のなか僕はひたすら自分の中の答えを探すのであった。
亜矢は僕の顔をじっと見て――
その瞳はとても綺麗な輝きをしていて、とても強くて――
瞳に映る、男は何かを怯えるように震えているのだ――
「今すぐ答えは聞きません…………だから――」
彼女は僕の気持ちを悟ったのか、そんなことを言ってくれる。
逃げる訳ではないのだが、その言葉はとてもありがたかった。とりあえず、この場から解放されるのだから――――
「あ――雨、上がりましたね…………」
「そうだね…………」
「帰りましょうか」
「ああ…………」
彼女はその後、笑顔を見せてくれる。でも僕は分かっていた。彼女のその笑顔は強がりなのだと。




