スク水人魚(3)
「これは?」
メリーさんが研究室の一角で立ち止まる。
そこは部屋の隅で二面を書類棚が占める場所だった。いわばルーシーの城だ。
山のような書類が事務机に積み上げられている。作業が出来るスペースはわずかだ。
その端っこに、謎の文字が記されたノートが上に向けて広げたまま放置されていた。
弟子の一人が教えてくれた。
「ワンダー先生の研究ノートです。誰にも読めないように、暗号化されているんです」
確かに、トンパ文字と西夏文字を足して二で割ったような奇っ怪な文字だ。
たまにC2H6Oとか書いてあるが、これは読まれても差し支えない部分ということだろう。
「この配置からすると、誰かにこれを見せて何かを説明していたのね」
メリーさんの言うとおりだろう。
「そのあと、こちらに歩いてきた。……ここにころがっているのは何?」
「先生のお酒コレクションです。いつもはサイドボードに飾ってあるのですけど……」
猫の形をしたり、魚の形をした色ガラスのボトルが床にころがっている。
「キャット・アンド・フィッシュ、か。こちらは、地球を背負ったアトラス。……この三本、中身が入っていたの?」
「ええ。猛毒が入っているからって私たちは触らせてもらえなかったのです」
院生は何かを思い出したのだろう、突然泣き崩れた。
……まだ死んでないって!
救急隊員が戻ってきた。網でぐるぐる巻きにされた男を運んでいく。男は担架で運ばれつつ、獣のようなうなり声を上げていた。
私は、酒瓶の近くの床のシミに注目した。
「ここに何かがこほれたみたいね」
「すっかり乾いたみたいなのー。これは前からあったの?」
「昨日掃除した時は、こんなシミはなかったです」と院生。
「そう。……大体の筋書きが読めてきたわ」
メリーさんは、水槽への階段に向かいつつ、ビシリと人差し指を立てた。
「これはバイナリー兵器ならぬトライナリー兵器よ!」
誰も反応しない。というか、ぽかんとしている。
「あのー、うちの研究室ってただの平和な香料化学の研究室なんですけど……」
「でも、実際にあなた方は新たな臭気兵器を作り出してしまったじゃない。激辛王選手権の最後に出てきたアレ」
そう。あれはめちゃくちゃ甘くてねっとりとした香りがする辛みエキスだった。人形の怪異であるメリーさんですらふらついたほどに。
「あれは苦み成分の調合をしていたら、スコピル計測ができない辛みエキスがたまたま出来てしまっただけで……」
メリーさんは、ふふっと笑う。
「そう。おそらくワンダー・ルーシーも同じことをやってしまった。危険な成果ね。で、研究を奪いに来た連中には謎のノートを見せて適当にあしらい、プールで一泳ぎするとでも言いつつトライナリー兵器の封を切ったんでしょう。けど、それは思いもかけない副作用をもたらした」
「それが、殺し合い!?」
「そう!」と勢いよく断言するメリーさん。
「けど、どうしてルーシーは水槽に飛び込んだりしたの?」
「それは、トライナリー兵器が水で防げるようルーシーが設計していたからでしょうね。普段から敵襲を警戒してぬかりなく準備をしていた。それぞれの毒性は低く、合わせると即効性が高くてすぐに分解する物質を作り出した」
「じゃあ、彼女自身の症状はどう説明するの?」
「それは…… おそらく服を脱ぐことに手間取って揮発したガスを吸い込んでしまったんじゃないかな。天才にも誤算はある」
「かもしれないわね」
一応、筋は通っていた。メリーさんの推理に私がつっこめるような穴はなかった。
私は腕時計を見た。
「警察、遅いね」
「それは、学長を探しているからだと思います」
院生の一人が教えてくれた。
「京都大学は一種の自治領なんです。学長の許可がなければ、警察は踏み込めません」
「だから、過激派が占拠していても警察はずっと手を出さなかったのか」
「はい。もし警察官が勝手に構内に立ち入ったりしたら、確実に左遷されます。警察庁や法務省にはOBがわんさかいますから」
……こうして学問の自由は守られるのか。
「でも、この人たち本当にスパイとかなのかなあ。普通の学生っぽかったけどなあ」と院生の一人。
「おそらく彼らは一般の人なのでーす。国家忠誠法で臨時に公安として指名され、ルーシーの連れ戻し工作をまかされたのでーす」
「はあ」
なんともずさんな海外工作だ。いや、誰もがスパイとなり得る恐ろしい戦略とも言えるのか。
「ルーシーは常日頃から拉致されることを警戒していたのでしょう。だからトライナリー兵器を酒にまぎらせて常備していた。たとえば、ルーシーが持っていたこの香水……」
メリーさんが取り出したのは、小さなスプレー式の香水だった。単三電池ほどの大きさで、ちょうど三本ある。
「こんなものこうです!」
ぽい、と水槽に投げ込む。
「あ、あ、あ!」
院生の一人が水槽への階段を駆け上がった。服も脱がずに水槽に飛び込む。
そして、香水瓶を大事そうに抱えて浮かび上ってきた。
「やっぱりひっかかりましね。それは私の香水でーす」とメリーさん。
「一人くらいはスパイが潜伏していると思っていたけど、大当りだったのー」
ずぶ濡れになった子は、困惑の表情だ。仲間たちが冷たい視線を向ける。
メリーさんは、大きくため息をついた。
「ルーシーは最後の最後で詰めを誤りました。自らもガスを吸い込んでポンコツになってしまったのです。いえ、覚悟の自殺だったのかもしれません。祖国に帰らされて化学兵器の開発者としてこき使われるよりは、この研究室での楽しかった思い出とともにこの世を去ろうと考えた。もはや彼女の天才的頭脳は復活することはないでしょう。残念でしたね。あなたの任務は失敗です」
プールを出た院生は、「くーっ」とも「きーっ」とも聞える奇声を発しながら廊下へと走って逃げて行った。
メリーさんは、その後ろ姿を哀れみの目で追う。失敗した工作員の末路は哀れだ。
「さて。念のために検察官に知らせておきますか」
「というと、カシマさん?」
「ええ」
メリーさんは、スマホを手にした。
「もしもし、あたしメリーさん」
すると、電話の婿から、ギャー、という声が聞えてきた。
「切られました。もう一度かけますね。……あ、電源切りやがった」
「そりゃそうでしょう」と私。
「仕方ないですね。普通に警察にまかせるとしますか」
廊下にどかどかと足音がした。警察官がついたようだ。
「じゃ、あたしはこれで。あ、事件はルーシーファンのアホな学生が彼女を巡って殺し合ったって事にしておいて下さい。それが一番わかりやすい落とし所ですので」
そして、中庭の割れた窓を素早い動きで乗り越えると、すでに闇色が濃くなった中庭へと消えていった。
「あっ、あっ」
私にはそんな機敏な動きはできない。
警官たちがどやどやと入ってきた。学長の許可がおりたのだ。
事情聴取はあまり長くはかからなかった。
私たちは、溺れていた王羅教授を救ったこと、そのあと怪しい男たちの死体を見つけてあわてて通報したこと、おそらく彼らはルーシーのスク水姿にのぼせたアホ学生であること、を話した。メリーさんのことには触れる必要すらなかった。
私服の刑事が、私の学生証を見て不思議そうにたずねた。
「どうして文学部生の君がここにいるの?」
私は、手土産の和菓子とルーシーからの招待メールを示した。
「お友達を訪ねてきたんです」
みんながうなずいた。




