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ムラサキカガミ(1)

 ミステリー研の部室に行くと、珍しく澪さんとアマリ部長がホワイトボードの前で議論をしていた。

 ボードには、二つの人の形と、その間に長い縦棒が描いてある。

 挨拶をすませると、澪さんが唐突にたずねてきた。

「サツキちゃんって、鏡に写った自分の像が反転しているの、不思議だと思わない?」

「えっと、昔は不思議だと思っていましたけど、今は気にならなくなりました」

「今、その説明をしようとしているところなんだ。ちょっと聴いてみてくれ」と会長。

 そして、絵の真ん中側の手にリンゴを描き足す。

「こうやって左右非対称にする」

 うなずく私たち。

「当然、左手に持ったリンゴは、鏡像の右手が持っているように感じられる」

 ふむふむ。つまり現実世界は左側ということか。

「で、この絵を真ん中で折って重ね合わせると、二つの画像は一つになる」

 ですよねー。

「もし仮に鏡像が左側にリンゴを持っていたとしたらどうだろう。左右は点対称になっているはずだ」

 はい、そうですよ。

「とすると、頭と足もひっくり返ってならなくてはならない。……わかったかな?」

 澪さんは、頭を抱えて煩悶している。

「私も、小学校の時に同じ結論にたどり着きました。それ以降、違和感はなくなりました」

「そうだろうそうだろう。……やあ、メリーくん、お早う」

「お早うございまーす。鏡の世界の住人の話ですか?」

 メリーさんが首をかしげる。

「そうだ。ただな、ミクロの視点から見ると鏡の表面はかなりぎざぎざしている。いわばグレートキャニオンのようなものだ。そこを通り抜けるのは非常に困難、かつ夾雑物がくわわるため自己同一性に問題が生じる、と見なくてはならないだろう」

「それは違うと思うの。概念としての鏡面が向こうの世界への出入り口を形成すると考えると、通行は可能なの。人は国境を越えるのに物理的支障はきたしません」

 メリーさんが反論する。

「では、仮に我々が概念としての鏡面を媒介として向こうの世界に行ったとしよう。我々の肉体はL型アミノ酸で構成されている。向こうの世界は鏡像のD型アミノ酸しかない。とすると、消化酵素がきかなくなる。食べることはできても栄養が吸収できずについには餓死する」

「でも、水と空気はアキラルなので、七日間くらいは生きられると思います!」

「そうだ。つまり、鏡像世界に行くには、かなりの日数分の食料を準備しなくてはならない。あるいは、向こうでの補給手段が必要になる。毒素にはアキラリティーな物もあるから、解毒剤も必要になる」

……二人で盛り上がっている。私もその輪に加わりたくなった。

「ひょっとして、冥界の食べ物を食べてはいけない、という伝承は、そこから来ているのでしょうか」

 文系脳から思わず知らずアホな事を言ってしまった。

「それはつまり、鏡の向こうが冥界であると? 我々は毎日、死後の世界を見ていると?」と会長。

「サツキちゃん、それはないのです。冥界に行くには合わせ鏡の七枚目から悪魔を引きずり出して頼みこまなくてはらない、と言われているのです。が、その悪魔もまた鏡に向かって話しているので冥界にはアキラリティーが成立するのでーす。悪魔と同じ世界に行くことはとっても難しいのでーす!」

「その引きずり出した悪魔も、すぐに死んじゃいそうですね。鏡の間を通り抜けるんだから」と私。

「えっと、キラリティが成立する、と? だから召喚した悪魔はすぐにリリースしないと死んでしまうという考え方でいいかな?」

 澪さんが涙目になってつぶやいた。

「アキラって何?」

 ……会長とメリーさんによって、さらにややこしい解説が始まりました。


 といったバカ話をしていると、部室のドアにノックの音がした。

「どうぞ」と会長。

「失礼します」

 入ってきたのは、気の弱そうな男子学生だった。

「京都文化大学教育学部二回生のタワバ・ミノルと申します」

 ぺこり、と頭を下げる。

「どうぞこちらへ」

 会長はいつもの席に戻り、私と澪さんとメリーさんは少し離れた場所に控える。

「僕は、京都文化サークル連合会の成人式実行委員会のメンバーの一人なんです」

 さし出された名刺には「田輪場稔」と書いてあった。画数が多くてテストの時に散々苦労をしていそうな名前だ。

「都市伝説がらみの事件だと、こちらにお願いするのが最適だと先輩から言われまして。ぜひともご協力をお願いしたいのです」

「成人式? って、二十歳の方、十八歳の方?」と会長。

「十八歳の方です。『成人の義務と権利を一致させようの会』が主体です」

「うん。あそこは守旧派からは睨まれている団体だな」

「ええ。でも、左派右派問わず、賛同される方がおられます」

 純粋な市民活動というわけだ。

「失礼、先を続けて」

「はい。実はこの間、成人式を開催したのですが、早朝にその会場にペンキで落書きをされてしまったのです。『ムラサキカガミを忘れるな』と」

 田輪場君はスマホの画面を示す。そこには、紫のペンキで記された大きな落書きが写っていた。

 いわゆるゲバ文字ではない。筆で書いたとおぼしき達筆で、きっちりと横書きされていた。

「これ、ニュースにはなってなかったですよね」と私。

「はい。近くの高校から幔幕を借りてきて隠しました。式典の後、スタッフ総出で消しました。会館の人からは、『こういうことが二度と起きないように』と厳重に注意されました。正直、つらかったです。あの会場は、来年はもう借りられないと思います」

 泣きそうな顔をしている。

「警察には届け出たの?」と澪さん。

「はい。会場側が警察官を呼びました。警官は、器物破損の証拠として写真を撮っていきました。防犯カメラもあるにはあったのですが、その場所は写ってなくて手掛かりはなかったそうです」

「で、ムラサキカガミが手掛かりになるかと、調査依頼に来たというわけだね」と会長。

「はい」

 私は小さく手を上げてたずねた。

「ムラサキカガミって何です?」

「ああ、若い人は知らないか。昔はやった怪談でね。二十歳になるまで『ムラサキカガミ』という言葉を覚えていたら、不幸な人生を送るって言うんだ。もちろんこれにはすぐに反証が出てきて、すぐにすたれてしまった」

「不幸な人生って?」とメリーさん。

「死ぬ、事故にあって障害を負う、結婚出来ない、そんなところだな」

「そんなの、ある一定の確率で誰にでも起きうることなのー」

 メリーさんの言うとおりだ。

「さて。ここは一つ、現場を見に行くとしますか」

 会長が電子メジャーを手に立ち上がった。


 成人式の会場は、今はネーミングライトで名前がかわったけっこう古い会館だった。平日の日没過ぎ。それでも、奥の食堂が人気で人通りはぽつぽつある。

 その入り口を入って奥に向かう壁の一面が現場だった。ペンキでは文字を描きにくそうな、でこぼこの陶器タイルになっている。

「ここです。落書きを消すのにどれだけ苦労したことか」

 写真と付き合わせて大きさを確定する。大人の男の人なら十分に手が届く範囲だ。脚立とかは使用していないらしい。

「丁度、このあたりからそこまでです。そう、そのあたり……」

 私たちが現場検証をしていると、警備員が走ってきた。

「こらっ、何をしている!」

 落書き事件で神経過敏になっているようだ。

「京都文化サークル連合会の者です。先日の落書き事件の検証をしています」

 田輪場さんでは押しが弱いので会長が立ちはだかる。

 が、それでも警備員は強気だ。警棒片手に無線機を使っている。

「落書き犯を探すためなの! あなたたちも、犯人を捕まえたいんでしょ!」

 メリーさんの外国人アドバンテージも通用しない。

「ここは私有地の中だ、君たちは不法侵入をしている」

「ちょっと詰め所まで来てもらおうか」

 応援の警備員が何人か集まってきた。万事休す、だ。

 そこに助け船となる人があらわれた。

「ちょっとあんたら、何してはりますの!」

 和服をびしっと着こなしたおばさまである。というか、あの人だ。『ほんまもんの京都生活』の……

「不殿先生!」

 メリーさんが先に名前を思い出した。そう、立華女子大の不殿珠恵(ふどのたまえ)先生だ。

「うちの学生たちが何か問題起こしました? そやったらうちから叱っときますさかい、ここは穏便にすませてもらえませんやろか」

 さすが、テレビで人気の文化人タレントだ。圧が凄い。それでもごにょごにょ言う警備員に最強の手札を繰り出す。

「なんやったら、ここの館長、呼んできますけど、よろしおすか?」

「はあ。そこまでおっしゃるのなら……」

 警備員は引き下がる。

 確か、今の館長はネーミングライトを買った会社の会長だ。そんな人を呼び出されては一介の警備員では尻尾を巻くしかない。

 私たちは不殿先生にお礼を言い、事情を説明する。

「落書きが、ねえ」

 田輪場さんが撮影した画面を見せた。

「これが、その落書きねえ。えらい達筆やね。……この書風、なんかどっかで見たことあるんやけど。……これ、ジュボクドウ正統やおへんか!」

 不殿先生の声がうわずった。


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