5. 辛口
取り乱しているとばれないよう、飛び出すように家を出た。
すでに気持ち良さそうに酔っ払っている桜子はなんの気も留めていないようで「いってらっさぁい」と歌うように言った。
上着を持ってくるのを忘れた。冷たい風があたしの全身に吹き付けてくる。
なのに、身体が熱くて仕方がない。
あたしの奥底から込み上げてくるこの熱の正体はきっと、恥と怒りと、情けなさだ。
あたしがこんなにも桜子の不幸を喜んでいるのに、桜子にとってはあたしが不幸とか不幸じゃないとか、どうでもいいことなのだ。直接そう言われたわけじゃないけど、悟ってしまった。
だからあたしは、桜子に勝てないのだ。
もっともっとと彼女の不幸を欲しているのに、同時に、親友の不幸を楽しんでいる自分自身が醜くてたまらない。
けれど見たい、桜子の不幸を。
あたしが二人いる。桜子の不幸を蜜の味だと思うあたしと、そんな自分が心底汚らわしいと思うあたし。
コンビニで二つ入りのショートケーキを買った。ついでに甘いロイヤルミルクティーも二本。ポテチやチョコレートも買った。全部桜子に吸収させてやるつもりだ。
袋片手に桜子の家へと歩く。繁華街の喧騒がまだ聞こえてくるけど人通りの少ないという、中途半端な住宅街。
ゆっくり歩いているはずなのに、息が荒くなる。無理矢理深呼吸をして落ち着かせようとすると、今度は涙が浮かんできた。
我慢できなくて立ち止まった。
あたしはいったい何をしているのだろう。
気付かなければよかった、こんな状況でも桜子になりたいと願っているあたしなんかに。
ただ最低な親友として、彼女の不幸を楽しんでいられたらよかったのに。
もう桜子なんて、消えてしまえばいいのに。
五粒ほどの涙をこぼし、服の袖で拭き、あたしはまた桜子の待つ部屋へ戻った。
桜子は満面の笑みで喜び、あたしの買ってきたショートケーキを二つ食べ、ミルクティーも二本飲んだ。ポテチとチョコレートも、全部食べた。
とても幸せそうだった。
**
陽人からこのままだと結婚生活を続けられないと告げられたのと桜子に新しい彼氏ができたのは、同じ日だった。
完全に冬になりきった、クリスマス前のことだった。
相変わらずあたしは週に三回桜子の家に泊まりに行き、身の回りの世話をしてやっていた。
十二月に入ってから、桜子がいつもの時間になっても帰ってこないことがあった。男の人と食事に行っていることは彼女の口から聞いていたけど、どうせ遊ばれたり良いように使われているんだろうと思っていた。
やがて朝帰りまでするようになり、あたしが一人きり桜子の部屋で過ごすこともしばしばあった。
桜子の部屋からそのまま仕事に出勤し、自分の家に帰った木曜日の夜。
陽人が買ってきたコンビニ弁当を一緒に食べていたら「話がある」と言われた。
あたしは桜子がその男の人にいつどんな風に傷付けられるのだろうとそればかりを期待して考えていたから、いつもより真剣な顔をしている夫に気付きもしなかった。
「やっと目が合った」
あたしを見つめるその目は、呆れというか、哀れんでいるように見えた。
「……ごめん」
「未久」
彼が箸を置いたので、慌ててあたしも同じようにした。
こうしてテーブルで向き合うことも、もちろん減っていた。あらためて顔を見つめ合うことはもっとなかったから、なんだか変な感じがする。
「単刀直入に言う。最近おかしいよ」
強い口調ではっきりと彼は言った。
「友達のこと心配して色々やってやるのはいいことだけど、さすがにいきすぎてないか?それに美久、そんなに桜子のこと好きじゃないだろ。何考えてるか全くわからないよ」
まっすぐな眼差しで図星すぎることを突き付けてくる夫から、あたしは目を逸らした。
箸を持ち直し、コンビニ弁当から唐揚げを一つつまんで口に入れた。
「いつまでこの生活を続けるつもり?」
「……桜子が、落ち着くまで」
「落ち着くって、どうなったら落ち着くになるんだ?お金が貯まったら?新しい彼氏ができたら?それまで俺達の生活はずっとこのままなのか?」
「ちょっと、そんなに責めないでよ」
「別に責めてないよ」
陽人がこんな風にきつい言い方をするこは初めてだった。
温厚な彼が感情的になるのは、珍しい。
「俺はこのままこの生活が続くなら、結婚生活は無理だ」
「……ちょっと、なによそれ」
あたしは顔を上げ、陽人を睨んだ。
彼の表情は怒り半分、呆れ半分のように見えた。
「だから、執着しすぎだって言ってるんだよ。……ちょっと外出てくる」
すっと立ち上がりと、上着を羽織ると彼は家から出て行ってしまった。
あたしは一人で弁当を食べた。
陽人はそれからしばらく帰って来なくて、あたしは一人で寝た。
朝起きると彼はいて、リビングでいつも通り朝食を食べていた。いつ帰ってきたかは知らないし、聞かなかった。
とくに会話をせず、あたし達はそれぞれ仕事へ出かけた。
**
その夜も、あたしはまた桜子の家へ行った。
最初は桜子と二人でセミダブルのベッドで一緒に寝ていたけど、この前安い敷布団を買った。
今日はクリームシチューをつくった。バケットも買った。
いつでも食べられるように準備をしてから、適当にテレビを流し見する。
桜子の甘ったるい香水の香りとあたしが作ったシチューの匂いが混ざり合ったこの空間にいると、ふと夢を見ているようなおかしな気分になる。
けれどそう感じるのはほんの一瞬で、これ以外にあたしが今やるべきことなんて他には何もないような気がしてくるのだ。
先にビールでも飲もうかと思った頃、桜子からLINEがきた。
『ごめん、今日も帰らない!付き合っちゃった♡』
頭が真っ白になった。
陽人に今後の結婚生活について釘を刺されたときよりも強い衝撃とショックだった。
どうか夢であってほしいと願った。あたしが今ここにいることも、何もかも。
震える指で、なんとか返信を打つ。
『あのいつも会ってる男と?』
すぐに返信がくる。
『そうだよー!』
あたしはスマホを床に投げつけた。
なんで、どうして。だってあんた、不幸だったはずじゃない。
込み上げてくる怒りが理不尽なものだとわかっているけど、止められなかった。
我慢できなくて、地団駄を踏んだ。下の階の人に怒られるとかどうでもいい。
それでも我慢できなくて、シチューを台所で流し、空になった鍋を床に投げつけた。
部屋中に汁が飛び散る。それが桜子の甘い香りをさらに打ち消す。
「ああぁぁーー!!!」
頭を抱えて叫んだ。自分のものとは思えない獣のような声が響き渡る。
あぁ、あたしはおかしくなってしまった。
膝に力が入らなくなり、その場に崩れ落ちた。
全部、桜子の不幸の中毒性のせいだ。彼女の不幸が途切れると、その副作用であたしは壊れてしまうのだ。
いったい何がそんなに悲しいのか悔しいのか、もうわからない。あたしはどうして昔から、こんなに桜子に執着しているのだろう。もはやわけがわからない。そして涙はどんどん溢れてくる。
涙も枯れ果て落ち着いてきた頃、桜子の部屋で風呂に入り、睡眠をとった。
朝になり、窓を開けてベランダに出た。
冬の空気が一瞬で身体を冷たくしていく。
下がっていく体温と共に、頭がどんどんクリアになっていく。泣き腫らした目が、星の空をしっかりと捉える。
この生活を辞めよう。桜子から離れよう。あたしは不意に、そう決めた。
荒らした部屋を綺麗に掃除し、用意をして会社に行き、そのまま自分の家に帰った。
あたしが桜子と会うことはもう二度とないだろう。
帰宅すると陽人はまだ帰ってきていないようだった。
久しぶりにこの家で料理でもするかと台所に立った。あたしは最近、桜子の家でしか料理を作っていなかった。
なにを作ろうかと冷蔵庫を開けたところで、とくにこれといった食材はなく牛乳とお茶とビールしか入っていないことに気付き、そうだ買い物をしければいけないとまた上着を羽織って外に出た。
マンションから駅の方にあるスーパーへと歩いていたら、道路を挟んだ向こう側の歩道に陽人の姿が見えた。声を掛けようとしたけど、誰かと電話をしているらしかった。
なんだかやけに楽しそうに笑っている。急に不安が襲ってきた。そしてあたしは最近まともに彼の顔を見ていなかったことを思い出した。
ちょうど信号が変わったので、あたしは陽人のいる方へ渡り、駆け寄った。
前から現れたあたしに、陽人は驚いた顔をして「ごめん、ちょっと切るね」ととても優しい口調で言って電話を切った。
「おかえり」
長く一緒にいるから、よくわかる。彼のその口調が、冷静を保とうと意識していることが。
「……ただいま」
「どこ行くの?」
「買い物。ちょっとスーパーに」
「そっか。俺も一緒に行くよ」
にっこりと微笑んだ夫が、なぜかわからないけど他人に思えた。
あたし達は何もなかったふりをして、あたしが桜子の家に行くようになる前のように、仲良くスーパーで買い物をし、家に帰った。
誰と電話をしていたのかは、聞けなかった。それを聞いてしまうと全てが終わってしまうような気がした。
あたしは味噌汁と生姜焼きを作った。陽人は美味しいと言って食べてくれた。あたしが彼にこうして料理を振る舞うのは本当に久しぶりのことだった。
「もう、桜子の家に行くのやめようと思う」
ぽつりと宣言したあたしに、陽人は「そうか」だけ言った。
安心してくれるのかと思ったけど、なんだかそもそも興味がなさそうに見えた。
美味しいと言って食べてくれる陽人に対して、愛おしいという感情が湧き上がった。それもとても久しぶりのことだった。
ここ最近のあたしは桜子のことでいっぱいいっぱいになりすぎていて、一番大切にすべき日常をおろそかにしてしまっていた。
しかし久しぶりにちゃんと見た夫の違和感に耐えられなくて、彼が風呂に入っている間、リビングのテーブルに置かれたままのスマホを見てしまった。
ロックはされていなかった。なんて無防備なのだろう。
呆れつつ開いた画面には、見慣れたアイコンからのLINEの通知があった。
一瞬でわかった。その相手は桜子だった。
あぁ、神様。
彼だけは、陽人だけは、あたしだけを見てくれたのに。
桜子ではなく、あたしの方を好きになってくれたのに。
お願いだから、奪わないで。
陽人まで桜子にとられたら、あたしもう生きていけない。
スマホを静かに元の位置に置き、その場にゆっくりしゃがんだ。床の一点をただ見つめ、動くことができなかった。
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