6.蜘蛛と支配者
現出した邪神の遺物は何らかのかたちで世界に影響を及ぼす。
その最たる例が「迷宮」だ。
かつての邪神大戦において、ゾアを除いた他の邪神たちは滅び去った。
だが死してなお、その存在は完全に失われるわけではなかった。
依然邪神の魂は無数に散らばった亡骸に宿り、分散された意識のなかで彼らは夢を見続ける。
存在そのものが「魔術」であり「世界」である彼らの魂は次第に現実を侵食し、やがては明確な現象として出現するのだ。
それが「迷宮」。魔力で構成された異空間。
邪神が生きる世界を体現した、ヒトの世における雑音である。
その脅威は長きにわたって人類を脅かしてきた。
迷宮内で生まれる魔物は大元となった邪神の眷属とされており、邪神たちが滅びた後もその恐怖が人々に根付いてきた一因とも言えるだろう。
(————きもちわるい……けど、なんだろうな、この感じ)
絶え間なく押し寄せてくる紫色の小蜘蛛を蹴散らしながら、キャロルは悠々とした調子で迷宮の最奥を目指していた。
進むごとに増えて付着してくる粘性のある糸に加え、毒を含んだ返り血が不快で仕方がない。
今すぐ宿のシャワーを借りて体を洗いたい……なんて些事を思い浮かべつつ、キャロルは襲ってくる魔物たちをあしらいながら観察した。
蜘蛛——それだけ特徴があればどの「邪神」の眷属かは一目瞭然である。
同じように蜘蛛の姿形をし、多くの眷属を従えて人間たちを食い物にしていた「邪神アトラ」。ここはその魂によって生み出された迷宮だろう。
積極的に他を攻撃するタイプではなく、砦を構えて向かってきたものを迎え撃つような邪神だったと記憶している。
しかし巨大な巣を張り続けて縄張りを拡大していくという性質上、地上を生きる人々にとっては向こうから自分たちを侵食してくる恐怖の対象となっていたに違いない。
大戦時にゾアと交戦したことはなかったが……途中で何者かに倒されたということは、その程度の力だったということなのだろう。
ならばその眷属風情が蔓延る迷宮など、キャロルの敵ではない。
「……ふふ」
奥の暗がりから波のように殺到してくる蜘蛛の大群を感知し、キャロルは前方————五十メルーほど先までの直線的な空間の時間を停止させた。
そこへ蜘蛛の軍勢が到達したのを見計らって、今度は両足へと魔力を込める。
地面を蹴り上げたキャロルが稲妻さながらにその間を駆ける。
蜘蛛の大群を抜けてブレーキをかけながら着地する頃、彼女の背後から爆撃のような衝撃波が炸裂した。
石の壁と天井を破壊しながら、蜘蛛たちの体は崩壊する空間に巻き込まれるかたちで木っ端微塵となる。
時間停止による空間固定と、そこへキャロル自身の魔力を伴った刺激を加えたことによる空間の破壊。それによって生まれた虚無空間と、その孔を埋めようとする世界の修正力から引き起こされる衝撃波。
ベルスーズ家を出て行く際に兄・アーサーに用いた「石化」魔術の連鎖攻撃。その効果範囲をさらに広げたものだ。
(やっぱり、なんか……胸がすっとする)
血と毒液の雨音が後ろで鳴り止んだそのとき、キャロルは自分の感情に変化が起こっていることに気がついた。
魔術を使って敵を一掃した直後に湧いてくる快感のようなもの。
アーサーと決闘したときには自覚していなかったが、これは前世には存在しなかった感覚だ。万能感と言ってもいい。
推測するに————
(わたしは……他者を蹂躙することを楽しんでいる?)
魔物の返り血や周囲を跋扈する不快な気配に対する嫌悪感はある。
だがそれ以上に……自分に仇なす存在をねじ伏せ、捻り潰すことへの愉悦がキャロルの中に芽吹いていた。
思えば宿でデビルーナに仕返しをした後も……胸に心地いい風が吹き抜けるような気持ちになった。
邪神ゾアではそうはならない。
ゾアにとって自分以外を壊すことは、ヒトが呼吸をして命を繋いでいることくらい当たり前の事象だったから。
どのような因果かは判然としないが、キャロル=ベルスーズとしての肉体を得て、精神面に変化が訪れたのかもしれない。
——悪くない。そう思える感性だった。
(不便は多いけど……ヒトの体も悪いことばかりじゃないね)
●
邪神の遺物は魔力が一定量蓄積されることで「迷宮」を発生させると言われている。
古来より誰にも気づかれることなく地中に埋まっており、長い間人々から漏出する微弱な魔力を受け続けて迷宮が自然発生するケースはあるが、王都の土地……それも街のど真ん中に未発見の遺物が眠っていたとは考えにくい。
何者かが遺物を持ち込み、そこへ魔力を流し込んで意図的に手っ取り早く迷宮を発生させた可能性が高いとデビルーナは読んでいた。
「そこでじっとしてな」
「は、はい……!」
毒液で満たされた地面から突き出ている岩場に男性を避難させつつ、デビルーナは奥に張られた巨大な巣に鎮座する灰色の大蜘蛛へと向き直った。
宿にいた人間はデビルーナとキャロルを除いて三人。
ひとりは宿主——こちらは既に毒の水にやられて骨も残らなかった。
あとのふたりは観光客のカップルだった。
女性のほうはデビルーナが発見したときには既に毒を直接打ち込まれ、瞬く間にそこら中を歩き回っている紫の小蜘蛛たちの一員となってしまった。
生き残った男のほうも、浸かった毒液で足が焼け爛れている。自力で逃げ回るのは難しいだろう。
蜘蛛型の魔物——もとい眷属が蔓延るこの迷宮を生み出したのは「邪神アトラ」の遺物。
魔力の流れからして、迷宮の中心となっているのは間違いなく奥にいる灰蜘蛛だろう。
見たところ灰蜘蛛単体だけで三等星級……デビルーナと同程度の力と予想できるが、向こうは多くの配下を従えている。小蜘蛛たちとの連携は当然警戒したほうがいい。
「小さいのがうじゃうじゃいるのは面倒だけど……ちょっと本気を出せばなんとかなりそうだね」
デビルーナの胸元を起点として黒い——帯状の影が伸びる。
その影は徐々にデビルーナの全身を包むと、彼女を黒い獣を思わせる姿へと変貌させた。
基本的に人間が取り込むことができる遺物は一種類のみ。
理由としては単純に遺物が内包する「邪神の自我」にヒトの理性が耐えられないからである。
魔術とはヒトがコントロールできる範囲で邪神の自我・認識力を憑依させ、彼らの世界を現実へと顕現させる力。
当人の許容量を超えた遺物の摂取や、複数の遺物を取り込んだことで発生する反発作用によって、人間の自我など簡単にかき消されてしまう。
それらに耐えられるのは二等星以上の実力を持つ魔術師——すなわち人智を超えた凄まじい精神力と自我を備えた者だけだろう。
逆に言えばそれが「三等星」と「二等星」を分けるボーダーラインとも捉えられる。
故にヒトが取り込む遺物は「一種類、それもほどほどの量まで」が常識である。
だがしかし、デビルーナの用いる力は魔術のなかでも極めて特殊なものだった。
「——がおっ」
ヒトの面影を残しながらも漆黒の猟犬と化したデビルーナは、自分を取り囲む小蜘蛛の軍勢へ豪速の突貫を見せた。
連結し、強度を高めた肉の壁となって迎え撃つ小蜘蛛たちだったが、デビルーナは両腕の影で形成した爪で難なくそれらを裂き散らしていく。
デビルーナが過去に取り込んだ遺物は「ケイオス」————邪神大戦最大のトリックスターとされる邪神のものだった。
それが用いる主な魔術は「魅惑」のほかに「変身」が存在する。
ケイオスは大戦時ほかの邪神に化けることでその能力を模倣し、信徒たちを欺きながら邪神・人間の双方に混乱をもたらした混沌の化身。最悪の愉快犯。
その魔術を操るデビルーナもまた、その一端を行使することができた。
現在デビルーナは「変身」を用いてほかの邪神の力を模倣している状態にある。
数多く存在した邪神のなかでも純粋な戦闘能力が極めて高く、「最後の十柱」まで生き残ったとされる異界の獣——邪神ミゼア。
その身体機能と能力を「変身」で再現しているのだ。
(あの人に蜘蛛が近づかないよう、あたしに釘付けにしてあげる)
毒の湖の上で駆け回りながら次から次へとわいて出てくる紫の小蜘蛛たちを鉤爪で葬るデビルーナはその振る舞いこそ獣のように獰猛であったが、頭の中では冷静に状況を見据えていた。
正式な依頼でもないため岩場に避難させた男性を守る義理などはない……が、デビルーナの心は三等星の魔術師というにはあまりにも人間すぎた。
見殺しにすれば寝覚めが悪くなるだろう——なんて些細なことで見ず知らずの一般人を助けようとするほどに。
「……ふぅ」
付近にいた小蜘蛛を粗方片付けたあと、デビルーナは小さく息をつく。
配下だけでは歯が立たないと理解したのか、奥で様子をうかがっていた灰色の大蜘蛛が重い腰を上げるようにわずかに動き出した。
ヤツを倒せば迷宮は消滅し、外に出られる。
誰かの依頼ではないので回収した「遺物」は独り占めだ。とはいえデビルーナが扱う魔術とは系統が異なるので、金に変える程度の旨みしかないが。
(そういえばキャロルをまだ見つけてなかったな。まあ心配はいらないだろうけど……)
じりじりと距離を詰めてくる大蜘蛛を正面に睨みながら、デビルーナは身構える。
散々暴れたことで実力差が伝わったのか、小蜘蛛たちのほうはこちらに近づこうとはしない。なまじ知能が高い分勝手に怖気付いてくれたようだ。
人間ひとりを守らなければならないこの状況で一斉にかかってこられたら正直かなりキツかったのでラッキーである。
まずは大蜘蛛の脚を抉り取って動きを止める。あれほどの巨体であれば魔力で再生するのにも時間がかかるだろう。
十分な勝算に十分な余力。
状況の整理が終わったデビルーナが再び動き出そうとしたとき、
「は?」
鋭い痛みと熱が、体のあちこちに走った。
背中、脇腹、二の腕、足回り……よぎる可能性は背後からの奇襲。
それらを認識した直後、デビルーナは落とした視界に細長い——ピアノ線のようなものを見た。
「ぐうっ……!」
畳み掛けるように上から降りてきた刃のような蜘蛛の糸がデビルーナの体を絡め取り、宙へと縛り上げる。
それを操っている者が背後にいるとデビルーナが理解したときには、当人はすでに本性を露わにしていた。
「フハ、ハハハハ!」
その声は先ほどまでデビルーナが保護していた観光客のものだった。
彼の手元から伸びた糸がデビルーナを拘束し、宙吊りにしている。
「——くそっ、そういうことか」
頭を捻って後ろに立つ男を見やる。
同時にデビルーナは自分の驕りに静かな怒りを燃やしていた。
この迷宮は誰かが意図的に発生させた——それは最初からわかっていたはず。それなのに生存者のなかに犯人がいる可能性を考えなかった。
毒で満たされた空間、魔物に怯える人間……これらが同居するこの状況が、デビルーナから冷静な判断を下す機会を奪っていた。
「ククク……見たところ同志ではないようだな。ならば迷いなく大いなる主に差し出すことができる」
「お前……邪神教徒か」
邪神アトラと同じ糸を使っていることから、摂取した遺物および使用する魔術はアトラのものだろう。アトラを信仰する邪神教徒ならば当たり前か。
「大いなるアトラの一部となれるのだ……喜べ、魔術師」
「年季の入ってそうな語り口だな。一緒にいた恋人さんも信者ってわけ?」
「……そうなることを私も望んでいた」
一瞬沈んだ表情を見せた後、男は怒りの差した顔を上げる。
「私が邪神教徒であることを告げた途端、あの女は私を糾弾した。……私のすべてを否定したんだ」
演技ではない、嘆き悲しむ表情をした後、男は据わった眼をデビルーナへ向けた。
「だから私は……迷宮を開いて大いなるアトラの『世界』を彼女に見せようと思った。そうすれば彼女も私の思想を……邪神教の理念をわかってくれると思っていた、それなのに……」
「っ……」
デビルーナの拘束が強まり、肌に刃の鋭さが食い込む。
裂けた箇所から伝う赤色が滴った真下には、血液に含まれる魔力を求めて集まってきた小蜘蛛たちが互いを蹴落とし合っていた。
男が襲われないのは同じ魔術を司る存在だからだろう。彼自身が敵意を向けない限り、アトラの眷属である蜘蛛たちも彼を襲わない。
「くっそ、これくらいの糸……!」
抜け出そうと手足に魔力を流した直後、灰色の大蜘蛛がすぐ目の前までやってきていることに気がついた。
五秒もあれば糸から脱出できる。だがデビルーナが灰蜘蛛の生き餌になるほうが早い。
——こんなことで死んでいられない。
迫る死を前にしてデビルーナは強く奥歯を噛んだ。
「——え?」
そして次の瞬間には、デビルーナは安全な岩場の上に腰を下ろしていた。
体感としては瞬間移動に近い。だがどこか違和感があった。
一秒前まで糸に縛られていたが……デビルーナはそこから抜け出して岩場へ降りた。そのわずかな間に起こったはずの移動が、「時間」ごと消失している。
いや、元より存在しなかったかのような。
「これでパフェの分は返せたかな」
不意に鼓膜を撫でた声音に反応して横を向く。
息を呑むほどに美しい、白い少女。
キャロル=ベルスーズが聖母のように穏やかな微笑を浮かべて、デビルーナを見下ろしていた。