5.遺物と迷宮
魔術師を魔術師たらしめるうえで重要な要素である「邪神の遺物」。
これらは古き時代に滅びた邪神の亡骸が長い年月をかけて自然へと溶け込み、そして再び物体としてのかたちを得て地上へ浮上してきたものである。
基本的には肉片のようなわずかな量が発見されることが殆どで、腕や足など、まとまったかたちで現れる遺物は極めて稀少なのだ。
魔術師たちが運営している大規模な研究機関においてはとある邪神の腕がまるまる一本保管されており、研究の要となっている……なんて話は噂で耳にするが、個人単位でそのような量の遺物を所持している魔術師は存在しないと言い切ってもいい。
仮に所持しているのなら、聖騎士はもちろん、それを狙う他の魔術師たちも黙ってはいない。すぐさま遺物をめぐった争いが発生することだろう。
経緯はどうであれ、世界に大きな混乱をもたらす——それが邪神の遺物なのだ。
ひとり部屋にしては広めな印象で、さすが王都……と、キャロルはベッドに押し倒されながら考えていた。
マットレスの弾力もほど良く、とても快適。
このまま目を瞑ればすぐに眠ってしまうだろう。
「……なんでそんなに落ち着いてるわけ?」
「べつに普通だけど。……あ、ちゃんと驚いてはいるよ。部屋が広くて快適だなって」
キャロルに覆い被さっていたデビルーナが怪訝な顔を浮かべた。
宿の部屋に入ってすぐにキャロルの両手を押さえるかたちでベッドへ組み敷いたデビルーナだが、口ぶりからしてキャロルを部屋に誘ったのは何かしらの意図があったらしい。
状況が読めないでいるキャロルに対してほくそ笑んだデビルーナは続けて口を開いた。
「おいおいキャロル、キャロルちゃんや」
「なに?」
「ちょ〜っと不用心すぎないかな。王都だからって油断しちゃった?」
「なにを言っているのかわからない」
「だ、か、ら……知らない人にノコノコ付いてくなんて警戒心が足りないんじゃないかって言ってるの。しっかり部屋に連れ込まれちゃってるし」
「警戒する必要、あるのかな」
「そりゃあるでしょ。現にこうやって押し倒されて……」
「……? 疲れたから眠ろうってことだと思ってたけど、そうじゃないの?」
ふわふわとした言動を見せるキャロルに、デビルーナの笑顔が苦いものに変わった。
「とんだ箱入りみたいだね。まあなんでもいいけど」
「はあ……」
「あたしの目をよく見て」
一変して冷静な雰囲気を取り戻したデビルーナがさらに顔を寄せてくる。
次の瞬間、彼女の双眸が妖しく光った。
途端にキャロルの視界が薄暗くなる。……いや、それはあくまで錯覚。
少しずつ意識を侵食してくる窮屈感に、キャロルはようやく自分が襲われているのだと理解した。
まるで別の誰かの魂が、キャロルの魂を押し除けて体に入り込もうとしているよう。
そしてその「誰か」とは、他ならぬデビルーナに違いない。
キャロルはこの「魔術」に覚えがあった。
前世——邪神ゾアであった頃に戦い、そして蹂躙した相手。
他者の意識を侵食し操り人形にしてしまう力。
「邪神ケイオス」が用いていた神秘————その一端である「魅惑」の魔術だ。
「そう……わたしを攻撃する気なんだ」
状況を認識したキャロルがぽつりと呟いた直後、体内から爆ぜるように起こされた魔力が彼女とデビルーナの体を弾き、引き剥がした。
「え?」
デビルーナが呆気にとられていたのも束の間、同じように背中から発生させた魔力を利用し予備動作なしで勢いよくベッドから起き上がったキャロルがデビルーナの首を鷲掴みにする。
そのまま細腕からは到底想像できない腕力でデビルーナを引きずったキャロルは、正面に見えた壁へ磔にするようにして彼女を叩きつけた。
「かっ……⁉︎」
「わたしの意識に介入して、洗脳しようとしたね」
衝突した壁には亀裂が、デビルーナの内臓には鈍い痛みが走る。
キャロルは落胆したような表情で自ら首を絞めているデビルーナを見上げると、浅く息をつきながら言った。
「いいヒトだと思ってたのに……。攻撃されたら、わたしもやり返すしかなくなっちゃうよ」
「ちょっ……! ちょ、ちょっと待って……!」
首を掴んでいるキャロルの手を離そうと抵抗するデビルーナだが、華奢な外見とは裏腹に怪力と称する他ない握力と城壁のような魔力の強度にはなす術もなかった。
「あやまってみて」
「は……っ?」
「わたし……怒ってるわけじゃないの。ただ敵は殺すのがわたしのルールだから。……でもあなたはパフェを食べさせてくれたし、さっきの行動は間違いだったって……ごめんなさいって言ってくれれば、あなたはわたしの敵じゃなくなるかもしれない」
「なにを、言って……ッ」
「あやまって」
「っ……ご、ごめん! ごめん! あたしが悪かった! もう突然……魔術をかけたり、しないから……ッ!」
三秒ほど、考えるようにキャロルが黙り込む。
彼女の中で結論が出たのか、キャロルは首を掴んでいた手を緩めると、崩れ落ちたデビルーナと目線を合わせるようにその場でしゃがみ込んだ。
「いいよ。わたしにとっては些細なことだから」
「へ……? ゲホッ! ゲホッ!」
「ごめんね、ちょっとやりすぎたかも」
先ほどまで命に指をかけていた相手の背中をさするキャロルの表情は穏やかだった。
返り討ちに遭い、狼狽しているデビルーナを見ていると……なぜだか胸にそよ風が通り抜けるような、心地いい気分になれた。
何者かに「魅惑」の魔術をかけられたとて、キャロルの精神力と魔力の前では意味をなさない。
邪神ゾアの魂を引き継ぐ彼女は石化の魔術を内包した「世界」そのもの。揺るがない自我を持っている。
並みの精神術でどうこうできるレベルをはるかに凌駕しているのだ。
いつでも仕返しができる。
いつでもお前を殺すことができる。
そんな警告じみたメッセージが込められているような一連のやり取りを頭の中で反復しながら、デビルーナは乱れた息を整えた。
「アンタ……いったい何者?」
「……なりたての魔術師」
「意味わかんない……。クッソ、実力を見誤るなんてしょうもないヘマ……」
悪態を独りごちながらデビルーナが立ち上がる。
「でも……逆にラッキーかも」
冷や汗が伝う顔のまま改めてキャロルを一瞥した後、デビルーナは品定めをするように視線を上下させた。
先ほどまでとは異なる気色悪さを感じ、キャロルが反射的に自分の体を抱く。
「なんか……いやらしい、目つき」
「えっ……今更なにその反応?」
「わたしの中ではもう、あなたは警戒する対象になっているの。でもそうだね……また甘いものを食べさせてくれたら、チャラにしてあげなくもないよ」
容赦なく反撃してきたかと思えばすぐに加害者を許したり、変なところで軽口を叩いたり……。
掴みどころのないキャロルに翻弄されながらもデビルーナは咳払いをしつつ、再度精巧な人形を思わせる彼女へと向き直った。
「さっきは五等星でライセンスもらってたけど……明らかに三等星以上の力はあるよね?」
「そんなことはない」
「いや、三等星のあたしが魔力で抵抗しても歯が立たないんだから、そういうことでしょ」
まったく誤魔化しが通用しなかったので、キャロルは目に見えて渋い表情になる。
しかし喫茶店でもデビルーナは三等星級であることを自ら明かしていたが……話半分に聞いていたので正直驚いた。
あらゆる場面において、魔術師はむやみに自分の実力を明かさないのが普通だと思っていた。己の限界を他人に知られるということは、すなわち弱点を晒しているのと同義だから。
「まあ、いいや。強いなら強いで好都合。……ねえキャロル」
「なに?」
「『邪神教』って……知ってる?」
デビルーナが口にしたその名称を聞いたキャロルの中で、妙な不快感がうずいた。
詳しくは知らない。だが「邪神教」という名には確かに聞き覚えがある。
邪神ゾアであった前世の時点で既に記憶に刻まれている。古くより存在する、その名の通り邪神を信仰する者たちによる宗教団体だ。
邪神大戦の最中、一部の人間は自分たちよりも上位の存在である邪神を主として崇め、それを信仰する動きがあった。
それを踏まえると魔術師の始まりである「邪神の亡骸を取り込んだ人間」もその一員であったと考えるのが自然だろう。
一方でキャロルがまだベルスーズ家にいた幼少期——父・キャベロンが読んでいた新聞に邪神教によるテロ事件の記事が載っていたことも記憶に新しい。
長い年月が経過し、人類の九割が魔力を秘めた現文明においても……彼らは手段を選ばず、「邪神の復活」を目標に過激な活動を続けているのだとか。
邪神が猛威を振るっていた当時の人間などひとりも生きてはいないだろうに、よくやる。
ヒトは邪神を理解することはできなかったが、邪神から見てもヒトは時に意味があるのかわからない行為を継承していく不可解な側面がある。
正しくは「理解できない」というよりも「興味がなかった」のだが。
「まあ……名前くらいは」
思考の海から帰ってきたキャロルはデビルーナに視線を戻しながら返答した。
一瞬迷うように目を泳がせた後、意を決するようにデビルーナは口を開く。
「その、なにから説明しよう……」
しばしの沈黙の後、デビルーナが続けてなにかを言おうとする。
そしてそれを遮るように——ふたりを取り巻く空間が歪んだ。
歪んだ、というのは比喩ではない。
文字通り周囲の景色が歪み、捩れ、そして変化していった。
「——迷宮……⁉︎ そんな、こんなところで⁉︎」
最初に声を上げたのはデビルーナだったが、キャロルもまた視界には映らない離れた位置に棘のような刺激物の気配を感じ取っていた。
キャロルの脳裏を突き刺してくる不快感。
自分の世界へ土足で上がり込んでくるような、この不躾な存在感は————
「近くで、邪神の亡骸が目覚めたみたいだね」
「キャロル——!」
デビルーナが振り返ったそのとき、空間の歪みは疑いようのないほどに現象としてはっきりと現れていた。
光の届かない地底湖。それがキャロルの引き込まれた「迷宮」の景観だった。
足首ほどまで浸かった猛毒の水が激痛を燃やしてくるなか、キャロルは顔色ひとつ変えずに辺りを見渡した。
狭い。
廊下……のような。息苦しさを感じるくらい近くにある石の壁と天井。
そして至るところに魔力——もといそれを内包した生命体の気配を感じる。
魔力で構成された毒素を同じように魔力で分解し、焼かれた足元を再生しつつ防護膜を張るイメージで強化術をかける。
街中の宿にいたキャロルとデビルーナが引き込まれたことを考えると、少なくとも同じ建物の中にいた人間もこの迷宮内のどこかに吐き出されているはず。
毒で満たされた死の空間。
魔力で自分を守る術を持っているデビルーナは助かるかもしれないが、魔力操作の術に馴染みのない一般人はここへ引き込まれた時点で命はないだろう。
突然生まれては理不尽に周囲の空間ごと世界を食い物にする。それが「迷宮」だ。
この異空間は「核」となる魔物を倒さなければ消滅することはない。
それができなければ一生この中に囚われたままだ。
「■■」
甲高い、耳障りな声音がキャロルの耳元で鳴った。
自分を喰らおうと背後から迫ってきた気配へ、体で直線を描くようにして魔力で強化した片脚を振るう。
振り向くことなく上方向へ抜かれたキャロルのつま先が後方から飛びかかってきた黒い塊にめり込み、すぐさま腐った果実を思わせる異臭を帯びた体液を四散させながら、それは破裂した。
勢いのあまりぷつん、と目の前でガーターベルトの留め具が外れるのが見える。
(…………きもちわるい)
ストッキングを留め直し、渋い表情で頬に跳ねてきた体液を払いながら、キャロルは後ろを振り返った。
蜘蛛だ。
砕け散った……蜘蛛のかたちをしていたと思われる魔物が、肉片を痙攣させて転がっている。
迷宮に巣食う魔物の取り巻きだろう。
「……しかたないか」
ふっと小さく笑いながら、キャロルは歩き出す。
付近にデビルーナの姿は見えない。
一度は襲われた相手だが、振り返ってみると彼女に作った借りのほうが多い。
まずはデビルーナを探そう。そして彼女を助ける。
そのあとは迷宮の主を殺し、一緒にここを脱出する。
正式な依頼ではないが、意図せず魔術師の仕事らしい目的がキャロルのもとに転がってきた。
「せっかくヒトに生まれ変わったんだから……ヒトらしいこともしなきゃ、もったいないよね」