3.兄と妹
「わたしたちにお母さまがいたの?」
「そりゃあね。母上は……魔術師だったんだ」
初めて耳にする情報に、キャロルの瞳が好奇で揺れる。
地上の生き物は皆番から生まれるものだということは把握していたが、考えてみればキャロルとして生まれてこの方、母の存在を認知したことはなかった。
それに加えて「魔術師」とは。実に興味深い。
「……死んじゃったの?」
「わからない。俺も詳しいことは知らないけど……あるとき突然いなくなっちゃったんだ」
一度話してしまった以上、探究心の強いキャロルはすべてを知るまでまとわりついてくるだろうと判断したのか、アーサーは続けて母——ルゥ=ベルスーズについて聞かせてくれた。
曰く筋金入りの聖騎士である父・キャベロンが唯一心を許した魔術師。
当時同じ騎士団に所属していたふたりが日々の戦いを通して結ばれた……という一行でまとめることのできる馴れ初めだが、問題はその後だ。
キャロルを出産してしばらくした後、前触れもなく失踪してしまったらしい。
ご丁寧に「探さなくてもいいわよ」みたいな書き置きまであったらしく、誘拐などの線はないらしい……とのことだったが、それで夫のキャベロン納得してしまうということは普段から不可解な行動が多い女性だったのだろう。
「それは……怒っただろうね、お父さま」
「うん、すごくね」
だけどそうなった理由も想像できなくもない。
好意を持った女性でもキャベロンは「魔術」に対する嫌悪感を拭いきれなかったのだろう。それで魔術を禁じ、魔術師であることを辞めさせようとした。
だからそれに耐えかねたルゥが家出を————なんて予想が浮かんだが、それ以上はあまり興味がわかない話題であることに気づいて、キャロルは途中で考えるのをやめた。
「キャロルの髪は……母上と同じだね。母上と同じで……綺麗な銀色だ」
ふとそう語ったアーサーの瞳は、とても寂しげに見えた。
「……おっと、すこし話しすぎたね。もうおやすみ」
「うん」
ふとアーサーが切り上げ、付近の棚にあるランプの灯りを消す。
キャロルが寝つくまでそばにいるつもりなのだろうか、氷嚢を支える手はそのままにアーサーはその後もベッドに腰掛けたままだった。
「兄さまは……」
「ん?」
「兄さまは……魔術が嫌い?」
暗闇のなかにキャロルの問いかけが溶けていく。
しばしの沈黙の後、「わからない」と前置きしつつアーサーは答えた。
「でも恐ろしいとは思うよ」
邪神の価値観を引き継いでいるキャロルには、魔術が恐ろしいという感覚は理解できなかった。
純粋な人間にしかわからない感情があるのだと……そのとき思った。
●
十年の月日が経過し、キャロルは十四歳になった。
父・キャベロンにお叱りを受けた一件以降、キャロルは表向き聖騎士になるための訓練は程々に積んでいたが、その裏で密かに魔術の鍛錬も行なっていた。
ひとまずは「石化」の魔術の基礎である物体の時間停止を、適当な家具や野生動物など……規模が小さく済むものを対象として繰り返す。
ヒトの身で魔術を行使するのは邪神であったときと勝手が違うので、練度を上げることで効率的な魔力消費の配分を感覚的に理解することが目的のひとつだった。
もうひとつの目的は、魔力出力の限界値を底上げすること。
どうやら筋肉と同じで、一度に出力できる魔力の総量は魔力を使用することで徐々に鍛えられ増えていく。
邪神の肉体であればそんな回りくどい方法をとることもなかったのだが……六年も「キャロル」として過ごしていれば、そういった不便にも慣れてきた。
潔く自分の運命を受け入れ、身の丈にあった成長を遂げるとしよう。
「お父さま、わたしと勝負してください」
と、いうわけでコレだ。
ゴシック調のデザインと動きやすさが同居した衣服に身を包み、屋敷の庭で木剣を握って待ち構えていたキャロルは、一層美しさの増した黄金色の眼差しで相対した父を射抜いた。
「突然呼びつけておいて、いったいなんのつもりだ?」
「わたし、魔術師になりたいんです。この家にいてもその目的は果たせない。だからお父さまと勝負して……わたしが勝ったら家を出る許可をいただきたいのです」
驚くようにキャベロンの眉尻がかすかに動く。
キャロル=ベルスーズは齢十四歳にして、魔術師となるため——いや、誰にも侵害されることのない「自由」という前世で夢見た生き方を通すために家を出る覚悟を決めた。
「待てキャロル!」
戸惑った様子で使用人たちが見守るなか、その中からアーサーがふたりの間に飛び出してきた。
十年という月日のなかで成人した彼は体格もよく、立派な聖騎士となっていた。
長期休暇でもないのにどうして今この場にいるのか疑問だが……。
「兄さま……なんでいるの?」
「慌てて飛んできたんだよ! この手紙はどういうことだ!」
そう言ってアーサーが掲げた手の中には一通の手紙が握られていた。
父へ決闘を申し込む前にキャロルがその旨を書き、兄に宛てた手紙である。
「兄さまが前にお母さまのことを話してくれたとき、寂しそうだった」
「は……?」
「だからわたしのときはちゃんと事前に話しておこうって、そう思ったの。お母さまみたいに突然いなくなるんじゃなくて……お父さまと兄さまには、家を出る前に、ちゃんとそうするって言おうって」
邪神ゾア——もといキャロルにはヒトの心の機敏というものが、まだよくわからない。
自分の欲求のために家を捨てた母の行動は父や兄を怒らせ、悲しませた。だがキャロルには母の行動こそが生き物として理にかなった選択だと感じていた。
この十年間、聖騎士としての教育を施されるなかで……キャロルはその理念を理解しようと努力した。
ヒトを守り、秩序を守る。それはきっと人間社会を持続させていくうえで必要な志なのだろう。
だが、それはあくまでヒトの理屈だ。
「邪神」の魂には、やはり似合わない。
「わたしにはわたしの『世界』がある。わたしが欲しい欲がある。そのためにわたしは……魔術とともに生きる」
キャロルとしての人生において、まず魔術師になることが「自由」を得るための近道だと、
邪神ゾアとしての記憶を思い出したそのときから、キャロルはそう確信していた。今もそれは変わらない。
ベルスーズ家の人間はキャロルが欲する「自由」を与えてはくれなかった。
だからもう——必要ないのだ。
「なにを言っているんだ、お前は……! 家を出るって……当てがあるわけでもないのに、その歳でどうやって生きていくつもりだ!」
「なんとかする」
「ふざけるな! いい加減にしないと本気で——!」
「ふざけてない……」
ここまでアーサーが取り乱す様を見るのは初めてだったので、つられてキャロルも少しだけ戸惑った。
けっこう熱くなれるヒトだったらしい。べつに意外でもないが。
しかし人間の価値観を考えてみれば、十四歳の少女とはまだまだ庇護されるべき存在。それがひとりで家出しますなんて宣っているのだから、引き留め、叱りつけるのが規範というものだろう。
だからその誤解を解くために、やはりキャロル自身の力を今ここでしっかりと見せつけてあげなければならない。
「心配ありません、兄さま。わたし、兄さまが思っているよりすごく強いんだよ」
——だから家に守ってもらわなくても、生きていけるよ。
「ッ……父上、俺がやります!」
苦しそうに奥歯を噛んだアーサーは腰に下げていた剣を勢いよく引き抜くと、大股でキャベロンの前まで行き妹にその刃を向けた。
すっかり冷静さを欠いている息子の背中を見て、キャベロンは深く息をつく。
「……アーサー」
「わがままが過ぎるぞキャロル……! この決闘俺が受ける! 家を出たければ、この俺を倒して行け!」
アーサーの記憶が正しければ、キャロルはまだ真剣を用いた実戦訓練を積んでいない。
だから本物の刃を突きつければ、妹は怖気付いて降参でもすると踏んでいた。
「ごめんなさい兄さま」と。そう一言口にしてくれれば、アーサーは笑って彼女を抱きしめ、もう二度と彼女が気の迷いを起こさないように望むものを与えてあげるつもりだった。
また父からの折檻があるとしたら、当然庇う。日常に不安や寂しさを感じていたのなら、それを和らげる努力もする気だった。
確かにキャロルは普段からなにを考えているのかわからないところがある。だけどそんな子ども、街を探せばどこにだっている。
だから黙って見ているわけにはいかなかった。
わけのわからない好奇心で妹を危険に曝すわけにはいかなかった。
母の二の舞にはしない。
もう二度と、家族を失いたくはない。
だというのに、
「——わかった」
キャロルは迷う素振りもなく、体内で魔力を起こした。
手にしていた木剣を捨て、伸ばした魔力を用いておろおろとした様子で状況を見守っていた警備の人間から遠隔で真剣を手繰り寄せる。
そして前方に立つアーサーへ、その切っ先を向けた。
「魔力の体外操作……⁉︎ いつ習得したんだ⁉︎」
「こっそり練習したの」
「なんっ、で……!」
なんでそこまで、とアーサーは言いかけたのだろう。
なんでそこまで魔術を身につけたいんだ、と。
家を捨てる価値がそれにあるのかと。
「自由のためには力が必要だから」……が答えになるのだろうか。
事実こうして、自分の主張を通すために力を示さなければならない状況に直面している。
六等星〜一等星級が存在する魔術師の階級のうち、魔力の体外操作は基本的な魔力操作術をマスターした「五等星級」に相当する。
この程度の基本操作であれば聖騎士でも扱える人間はいるが、キャロルが見せたそれは明らかに通常考えられるよりも洗練されたものだった。
ヒトの体で魔力を自在に操れるようになるまでそれなりに苦労はしたが、これもすべて「自由」のため。
欲しいもののためなら、キャロルはどんな努力も惜しまない。
「すごいでしょ。……褒めてくれないの?」
「……キャロルッ!」
瞬間、アーサーが駆け出した。
同年代のなかでもアーサーは剣術において上位の実力を有している。
冷静さの欠片もない挙動だが、既に聖騎士として経験を積んでいる自分ならばどれだけ乱雑な動きであれ敗北することはないと見ていた。
事実それは正しい読みだった。彼が幼女ごときに負けることはあり得ない。
相手が邪神の生まれ変わりでさえなければ。
(兄さま、すごく速くなってる)
キャロルは目を凝らし、高速で距離を詰めてくる兄を捉える。
この十年間でアーサーの用いる強化術も格段に上達しているようだった。
この世界の九割の人間は生まれつき魔力を秘めている。それは聖騎士の家系であっても例外ではない。
邪神由来の力を嫌悪するとは言いつつも、聖騎士も身体強化といった基礎的な魔力操作の範囲であれば古来より戦術に取り入れられてきた。
さらに言えば比較的寛容な価値観を持つ者のなかには魔術までもを戦い方に取り入れている聖騎士もいる。
ベルスーズ家がそうでないことが、少しだけ悔やまれる。
(どれだけ速くても、本気で殺す気がないなら怖くないよ)
アーサーが眼前までやってきた直後、振り下ろされた剣の軌道を目視で追いながら、キャロルは落ち着いて体を横へずらす。
アーサーの力加減を見るに、元より寸止めに留めるつもりのようだったが……勝負は勝負。こちらも力を示さなければ、家を出ることを納得してはもらえないだろう。
キャロルは真横を通り過ぎた刃の側面を手の甲で叩き、アーサーの軸を崩した。
「あっ……?」
想定外の回避を見せたキャロルにアーサーが目を剥く。
キャロルは右手に持っていた剣へ程々の魔力を込めると、ガラ空きになった兄の脇腹めがけてそれを構え——
「力んで、兄さま」
周辺の空間ごと、そこへ平打ちを叩き込んだ。
アーサーの脇腹にキャロルが振るった剣の側面が衝突する直前、ガラスが四散するかのような騒音が虚空を裂いた。
同時に引き起こされたのは小規模の「爆発」。
非力な少女が放ったとは到底思えない、大地を激震させる衝撃波を伴ったその一撃は倍以上体格差のある少年の体を砲弾に変え、生垣のほうへと吹き飛ばした。
よく整えられていた芝生は一直線に抉れ、その光景を目撃した人間は驚愕から揃って言葉を失っていた。
キャロルがいま行ったのはより戦闘に特化させた「石化」の魔術。
一部の空間の時間を止め、そこへキャロル自身の魔力とともに刺激を加えると、停止していた空間のみが破壊され世界に孔が生まれる。
その瞬間に限りなにも存在しない虚無空間が生み出されることになるが、その孔は欠けたものを元に戻そうとする世界の修正力によって瞬時に修復される。
その際に起こる衝撃波を利用し、アーサーを攻撃した。以上がたった今キャロルが行使した魔術攻撃の全貌。
言うなれば破壊と修復の二重爆発。
範囲を広げれば街ひとつを軽く更地にできるほどの威力を発揮できる、まさに最凶の魔術だ。
邪神ゾアであった頃は挨拶代わりに繰り出すくらいの技だったが、キャロルとしての肉体ではノーリスクで撃とうとした場合、まだ前世ほどの威力は出せずにいる。
気軽に撃てる範囲とすれば、精々建物ひとつを消し飛ばすくらいのものだろうか。
なんであれ先ほどの攻撃に関しては彼の命に影響するほどのダメージはないだろう。そうなるように急所は外しておいた。
しかし……やはり早急に力をつけなければいけない、ということも浮き彫りになった。
すべては本物の「自由」のために。
「アーサー様……!」
「坊ちゃん!」
先ほどまでキャロルたちが発していた異様な緊張感が消え、見守っていた使用人たちの中から数人が駆け出すと生垣の向こう側で倒れているアーサーのほうへ向かった。
キャロルのもとにも駆け寄ろうとした素振りを見せた者がいたが、彼女が傷ひとつ負っていないことがわかるとすぐに皆の意識はアーサーへと集中した。
父、キャベロンを除いて。
「今の魔術は……『石化』か?」
「ご存知なんですね」
「邪神ゾアの亡骸はまだ発見には至っていないはず……。どうやってその魔術を手に入れたのだ?」
「詳しいですね、聖騎士なのに」
まだライセンスも取得していないのに魔術を行使したことに関しては……まあ、大目に見てくれるだろう。キャベロンからすればそれどころではない状況だ。
ゾアは邪神のなかで唯一死体が発見されていない。自ら生命活動を停止する際、ゾアは「石化」を用いて時間が停止した異空間——現実のすべてと乖離した世界へと移動したからだ。
魔術の会得には邪神の遺物の摂取が必要不可欠であることを考慮すると、それはつまりゾアが有する「石化」の魔術を人間が扱えるようになる方法は現状存在しないことを意味する。
それなのに自分の娘はいま、紛れもなく「石化」の魔術を行使した。
キャベロンが不気味に思うのも仕方がないだろう。
「でもこれで分かってくれましたよね。わたしはひとりでも生きていけるって」
キャベロンはしばらくの間キャロルを見つめていたが、彼がそれ以上口を開くことはなかった。
結局、キャロルの黄金の眼差しが父から外れるほうが早かった。
「……キャロル」
先ほど生垣に空けた穴から家の外へ出ようと歩みを進めていたとき、真横から聞こえた掠れた声がキャロルの足を止めさせた。
「どうしてだよ、なんで……。家を捨てるほど……そんなに、魔術が大事なのか……?」
使用人たちに支えられながらなんとか上体を起こしているアーサーの弱々しい瞳。
キャロルはそれに目を向けると事前に答えを用意していたかのように、間を置かず答えた。
「わたしにとっては、そうなの」
銀色の髪がなびく。
物心ついた頃よりほとんど出ることのなかったベルスーズ家の敷居から、キャロルは足を踏み出した。