28.眠りと覚醒
迷宮とは本来、対等な力を有している邪神同士が円滑に殺し合う機会を得るための機能。
戦いを始めるどちらかが、あるいは双方が迷宮を展開してしまえば、あとは主である邪神が死滅するか自ら解除するかでしか脱出することはできない。
引き込まれた時点で殺し合いを強制される戦争空間。まるで最初からそう行動するよう仕組まれているかのような、世界にとって、ヒトにとって、そして邪神たちにとって都合のいい機能。
「幻夢街」というケイオスの迷宮に引き込まれた時点で、キャロルかケイオスのどちらかは滅ぶ運命にあるはずだった。
だがそれはたったひとりの人間の意思によって覆された。
英雄でもなんでもない、そこらをつつけば出てくるような凡庸な精神の持ち主であったはずなのに。
最後の最後で彼は上位存在の理を打ち砕き、ともに過ごした少女に完全なる勝利の可能性をもたらした。
迷宮が崩壊したあとに見えた景色は、内部にいたときとあまり印象の変わらない荒野だった。木々もない地平線が続くなかで鉄道の線路だけが一本線を引いている。
眠りから、夢から目を覚ますように瞼を開いたキャロルは、前方から突貫してくる気配を察知して瞬時に「石化」を発動させた。
眼前で停止したのは手刀を突き出そうとしていたケイオス。
迷宮から逃してしまった以上、キャロルを仕留めるチャンスは現実世界に戻った直後のいましかなかった。が、それもあっさりと時間ごと止められてしまう。
「ッ……!」
離脱することもできずにその場で固まるケイオス。キャロルはその空間を魔力を乗せた脚で蹴り破り、世界の修正力からくる莫大なエネルギーの反動をぶつけた。
遊戯で使われるボールのように何度も地面に体を打ちつけ、地平線と溶け合うほどの距離までケイオスは飛ばされる。
衝突するような遮蔽物もない状況で先ほどいた場所から街ひとつを超えてしまうような距離になってようやく四肢を突き立てて体勢を立て直すケイオスだったが、顔を上げたときにはすでにキャロルの瞳があった。
「待っ————!」
咄嗟に魔力で固めた両腕を交差させて即席の盾をつくるケイオスに構わず、キャロルは大きく右脚を振りかぶると獲物に向けてギロチンのようにそれを下ろす。
硝子が四散する音色とともに空間が割れ、叩きつけられたケイオスの背に華の地上絵が咲いた。
「げぅ……!」
受け流せなかった衝撃が防御を貫通してケイオスに到達し、体内から破壊される。
支障をきたしているいま再び迷宮を開くことはできない。
無尽蔵であるかのようにわいて出てきた分身も封じ、ケイオスは全魔力を体に巡らせて守りに徹している。
迷宮が解かれた途端一気に戦況が変わった。
本来邪神が常にまとっているはずの迷宮————ただ魔術を行使するだけなら、それを顕現させること自体に意味はない。目には見えないだけで迷宮は、世界は、常に術者のなかに存在している。それは人間の魔術師も同じだ。
邪神同士の戦いにおいて脱出不可能な異空間が作り出されるように、迷宮の存在意義とは「他者に影響を与える」こと。自分のなかにしか存在しないものを相手に押し付け、強制的理解を及ぼそうとする力。
他者を必要としない、この世のすべてを自分の色に染めんとする邪神の在り方を前提としたシステムだ。
だがそれが閉じられているいま、ケイオスはもはやヒトの魔術師と大差がない。
同じ条件下で彼女がキャロルに勝てる道理など万に一つもなかった。
「——待って…………待ってって言ってるじゃん、ゾア……!」
伏していたケイオスの全身が灼熱を帯びていく。
魔力の変化を感じ取ったキャロルがすぐさま後方へステップを踏むと、遅れてケイオスの体から空間を大きく歪ませるほどの熱量を持った火柱が上がった。
大戦時に最後の十柱まで残った邪神グアトゥガの「炎」を操る魔術、その模倣。
よく観察すると邪神ハストーラの「風」も併用して燃焼を促すことで火力を上げていた。なんとも器用な真似をする。
ケイオスは引きつった笑顔を浮かべると、慌てた様子で言った。
「こんなのおかしいよ……! なんで人間の……それもとっくの昔に死んだヤツの意識が、ボクの迷宮を破壊するわけ⁉︎」
「わたしに聞かれてもこまる」
あくまで冷淡に返すキャロルにケイオスの表情に困惑が差す。
「でも」と付け加えながら続けるキャロルの瞳は、わずかに彼女を嗤っているように見えた。
「こんなに滑稽なこともそうないね。人間を遊びの道具としか思ってなかったあなたが、たったひとりの人間に足元をすくわれるなんて……。最後に素敵な笑い話をありがとう。腹立たしかった心が、すっと楽になったわ」
「…………なめんなよ……ヒトに成り下がった分際で!」
ケイオスの体から魔力が立ちのぼり、一息の間にそれは獣のかたちを象っていく。
生物的な要素をすべて取り払った、凶器の骨組みでつくられたかのような猟犬。
純粋な戦闘能力に秀でた邪神ミゼア。その模造品を眷属として生み出しているのだ。
ケイオス本人の魔術によって再現された邪神————本物に限りなく近い戦闘能力を有していることは理解できる。
だが魔力量までは完全再現とはいかないようだった。
それもそのはず。元となった魔力がケイオスから切り離されたものである以上、耐久力は本物よりはるかに劣る。
だからこそ争いごとにおいて魔力に頼る必要のない、純粋な戦闘能力に秀でているミゼアを選出したのだろうが…………。
「あなたって本当につまらないね」
どのみち邪神ゾアの敵ではなかった。
異次元に干渉し物理的距離を飛躍する力を持つミゼアが一瞬でキャロルの目の前まで迫り、その頭部を噛み砕かんとする。
速度を超越した文字通りの瞬間移動。だがそれと同じことを、キャロルはどれだけ後手に回ってもより迅速に行動へ移すことができた。
「石化」でケイオスとミゼアもどき、そしてキャロル自身が収まる範囲の時間を止め、白黒の世界を歩く。
ミゼアの脇腹を魔力を宿した手の甲で小突き、空間ごと破壊。
凄まじい爆縮を背に歩みを進めたキャロルは、ケイオスに首を鷲掴みにした状態で「石化」を一部解除した。
「ッ……⁉︎」
「つかまえた」
ケイオスの首から下のみ「石化」状態を維持し、手も足も出せなくなった彼女を正面に見据える。
うっすらと微笑むキャロルの瞳に怒りはない。
そこにあるのは力を行使し、自分の世界にとって目障りな存在を消すことができることへの愉悦。
自らの生と死がキャロルの手の中にあると悟ったケイオスは、吹っ切れたような苦笑で返した。
「へ、へへへ、へ…………キミに殺されるか……。あの大戦が本当の意味で終結すると思えば、まあ悪くない締め方だねぇ」
「いまのわたしは邪神じゃない、ただの人間。あなたはただの人間に倒されるの、ケイオス」
「ハハハハハハ! キミみたいな人間がいてたまるかよ!」
「なにもわたしのことばかりを言っているわけじゃない」
黄金色の視線がケイオスの瞳に突き刺さる。
「あなたの敗因はヒトを弄ぶばかりで噛みつかれる可能性を考えなかったこと。ヒトの心を、力を知ろうとしなかったこと」
「なに言ってん……」
「ヒトの意思には世界をも捻じ曲げる力がある。それを知っていれば、あなたはサバトくんをああも野放しにはしなかったはず」
以前戦ったロイドはともかく、聖騎士としても魔術使いとしても三流のサバトが起こした奇跡を目撃してキャロルは思った。
あのような可能性は人間であれば誰しもが秘めているものだと。
ヒトは愚かで身の程知らずな願いを抱き、それを実現してしまう生き物なのだと。
————面白い。またしてもそう思った。同時にそれは自分にも実現可能なのではないのだろうか、とも。
叶うことなら自分もそのようなわがままを現実にしてみたい。
大抵のものは手に入ってしまう、最高に強くて最高にかわいい、このキャロル=ベルスーズにとってのとびきりの願いとはなんなのか。それを知りたい。
「ヒトの思い上がりを侮ったね、ケイオス」
わくわくで胸が満たされ、自然と口元が緩む。
いま手中にある獲物のことなんてもうどうでもいい。早くヒトとしての暮らしに戻りたい。キャロルの頭のなかはそんな欲求で破裂寸前だった。
「……⁉︎ なにを————!」
再び「石化」魔術を発動させようと魔力を起こしたキャロルにケイオスが目を剥く。
不気味に思ったのは殺意をまったく感じなかったこと。
キャロルは黒い笑顔を浮かべながら穏やかに言った。
「殺す方法がどうとか言ったけど、実はわたし、あなたを殺す気はないの」
「はぁ……⁉︎」
「ここであなたを始末したら、いずれ遺物としてあちこちにわいて出てくることになるでしょう? そんなの気持ち悪くて想像もしたくない。だからあなたは特別にわたしの世界を体験させてあげる」
首から上へ、徐々に「石化」に侵されていくケイオスの体から色が失われていく。
「わたしの『石化』はね……正確に言えば時間を止めているんじゃなくて、別の世界に移動しているだけなの。時間の流れが異なる異空間…………現実から乖離した世界を好きに渡れる力がわたしの魔術」
ケイオスの口元が硬直し、もはや言葉すら返せなくなる。
「邪神ゾアは……この力で異空間へと渡り永遠の眠りについた。いまからあなたには、生きたまま同じ世界に旅立ってもらう」
その意味を理解したのか、まだ止まっていないケイオスの瞳が恐怖に揺らいだ。
現実とは断絶された孤独な世界。
あらゆるものが停止した究極の静寂。世界の主であるゾア以外は指一本動かすことができない。
だが止まった時のなかで意識だけは残り続ける。
かつて邪神ゾアを恐れたものたちがその魔術に「石化」と名付けた真の理由だった。
「さようなら、ケイオス。もう二度と会うことがありませんように」
囁くように口にしたキャロルの手のなかで、ケイオスは完全に色を失う。
一時的に「石化」の範囲を広げると、動かなくなったケイオスが少しずつ虚空へと溶け込み————やがて現実から消え去ってしまった。
邪神ゾアの支配する時間の止まった異空間。
ケイオスはそこで身動きひとつとれず、なにも感じず、生物として死ぬこともできないまま永遠の時を過ごすことになるだろう。
「…………おなかすいた」
誰もいなくなった荒野で、キャロルはぺたりと座り込んだ。
数刻前まであったはずの摩天楼も、そこにいた人々も、最初からその場になかったかのように跡形もなく消失している。
目を覚ませば夢の世界が綺麗さっぱり消えてしまうように、この現実も誰かが見ている夢のなかの出来事で、あるとき突然そのことに気づきもしないままあっさりと全てが消滅してしまうのかもしれない。
疲れたからだろうか。そんな妄想じみた不安をうっすらと覚えながら、キャロルは瞼を閉じてあの街で少年と交わした言葉の数々を思い起こす。
きっとそれは、ヒトとして生きていくうえで忘れてはならないものだと思ったから。