27.ヒトと邪神
邪神ケイオスは大戦時、他の邪神と交戦することはほとんどなかった。
もしくは交戦することはあったが姿を変えていた影響でそれがケイオスだと判別することはできなかったのかもしれない。どちらにせよ明瞭な情報があまり言い伝えられていない邪神だ。
遺物が発見された例も極めて少なく、その魔術師は「石化」の次に少ないとされている。
「いい、ねぇ……いい、いいよキャロルちゃあん……! その感情の昂り……邪神ゾアにはなかった情動だよぉ!」
「石化」魔術の直撃を受け消し飛んだケイオスがすぐに別の肉体を拵えて現れたのを見て、キャロルは間髪入れずに次の行動に移った。
ケイオスとその周辺の時間を停止させ、その空間を蹴りつける。
その間にも背後で次々とケイオスは肉体を増殖させていることを察知し、即座に「石化」の反動を利用して逆方向へと跳躍。それを二度行う。
ほぼ同時に三箇所、キャロルはケイオスに向けて特大の魔術攻撃を放った。
迷宮内を満たした衝撃音が空気を震撼させ、跡形もなく標的の体を塵にする。
しかし着地し、息をついたキャロルの横にはまたしても新たな体を形成したケイオスが立っていた。
「すっ……ごい威力。ヒトが操る魔術とは思えない。ゾクゾクっときちゃった」
軽口を叩く頭部に向けて今度は純粋な魔力強化のみの回し蹴りを炸裂させる。
先ほどから中にプリンでも詰まっているのかと思うほどあっさりと飛び散るケイオスの体だが、いくら処理してもまた新たに「端末」が作られて目の前に現れる。
「これってさぁ、不毛じゃない? キャロルちゃんも嫌でしょ?そういうの」
呆れた調子で肩をすくめてみせたケイオスが余裕たっぷりに歩み寄ってくる。
キャロルにとっては生物の肉体を破壊することなど文字通り一秒もかからない簡単な作業。しかしそれを繰り返すだけではこの戦いを制することはできないと、ケイオスもわかっているのだ。
「ボクはキミみたいに人間の体を得て転生したんじゃない。邪神としてこの世界にずぅ〜っと生きてきた。生存する力という点で見れば、この世でいちばんなんじゃないかな」
「わたしの視界からあなたを消す方法なら……ある」
「ほほう?」
下から顔を覗き込んでくるケイオス。
向こうから手を出してくる様子はない。キャロルに反撃したところで通用しないのはわかっているし、自分が有利な状況にあると彼女は理解している。
邪神同士の戦いは先に魔力が尽きたほうが敗北する。
出力は劣化していてもキャロルの魔力総量は邪神ゾアであった頃と変わっていない。このままケイオスを潰し続けて再生を促せば勝機はある。
……だがそれにはヒトの認知を超えた時間が要る。
互いの魔力量を推測したうえでここからケイオスの魔力が切れるまでの持久戦に持ち込んだとしても、見たところ決着がつくまでに要する時間は十年や二十年どころじゃない。キャロルも迷宮を展開したとしても数百年単位の期間が必要になる。
邪神同士——ゾアとケイオスの戦いであれば、それで終わりだ。魔力総量が勝るゾアが勝利することは確定している。
だがゾアではなく、ヒトとしての——キャロルとケイオスの戦いということであれば話は別だ。
邪神とちがってキャロルの体は成長する。歳をとり、老いる。
莫大な魔力を使い切ることはない。だが数百年という戦いを続けるなかでキャロルの肉体は老化という生命として当たり前に付随する寿命のシステムには抗えない。
ケイオスはこのままただ攻撃を受け続けるだけでも、気まぐれに戦いに付き合ってやるでもなんでもいい。
過程はどうあれ、キャロルの寿命が尽きるまで彼女をこの迷宮内に閉じ込め、ただ待てばいい。そうするだけで目的であるキャロルの亡骸は手に入る。
その事実を、両者は理解していた。
「ボクを消す方法かぁ……参考までにぜひ教えてほしいなぁ」
「石化を応用してわたしのなかの時間を止めてしまえばいい。肉体年齢の変化が起こらなければあなたを始末するまでの時間は稼ぐことができる」
「うげぇ、そんなこともできんの? まったく底が知れないなぁ、キャロルちゃんは」
そう言いながらもケイオスは強気に踏み出し、一層キャロルとの距離を縮めた。
「じゃあ、なんでやろうとしないの?」
キャロルは顔色ひとつ変えてはいない。
だが彼女がこれまで見せてきた言動から、ケイオスはキャロルが思い浮かべている戦法はあくまで最終手段であることを見抜いていた。
そして問い詰められても行動に移すことができない事実が、キャロル自身の迷いを体現している。
「————クラウディアちゃんにデビルーナちゃん……だっけ?」
冷め切った表情のままキャロルが「糸」の魔術で編んだ斬撃を飛ばし、再びケイオスを排除する。
「さっきより力んだ攻撃。図星なのかなぁ」
背後から顔を出したケイオスが蛇のような手つきでキャロルに腕を回す。
彼女の腹部から胸元にかけてを這いずった指先がキャロルの顎に触れ、吐息のような声が鼓膜を撫でた。
「決められないよねぇ。キミひとりが止まった時のなかで戦い続けられても、迷宮の外では普通の時間が流れてる。ボクとの決着をつける前に……キミが大好きな人間たちは成長して、老いて、死ぬ。邪神ゾアならいざ知らず……ヒト、それもまだまだ人間初心者のキャロルちゃんには耐えられないんじゃない? 群れから孤立する本能的恐怖に」
リスクを避けてケイオスを倒す唯一の手段。戦略的に考えればそれを実行しないほうがおかしいとキャロルも理解していた。
だができなかった。わけのわからない感情が複雑に絡み合うこのヒトの心がそれを拒んでいる。
自分のために力を行使し、規範を破ることがキャロルの「自由」だったはず。それなのに命の危機に瀕しているこの状況で、キャロルは友達と離れ離れになりたくないと考えている。
自分の命よりも、友との時間を優先している。
それはきっとキャロル自身も日頃から口にしているように、彼女たちがもうキャロルの「世界」の一部になっているからだ。
自分を落ち着かせるように一度瞼を閉じ、感情を切り替えるようにして再び双眸に宿る黄金色の輝きを取り戻しながらキャロルは言った。
「……そうだね。あなたの言うとおり、どうやらわたしはあの二人を失って独りぼっちで生きることを恐れている、らしい」
いや……正確にはふたりだけじゃない。
これまで生きてきた日々を彩るすべて、自分を「綺麗」と言ってくれた兄、育った街、都市で過ごした時間、食べさせてもらったパフェ、幼馴染の無垢な笑顔。大切に思うそれら全部を手放したくはないんだ。
邪神でありヒトだから、欲張ってしまうんだ。
「うんうん、素直なところもキミの美徳だよぉ〜。でもでも、心配しないでぇ」
回していた腕にさらに力を込め、ケイオスがキャロルを抱き寄せる。
「ヒトの脆弱な心と邪神の猛烈な自意識が混じった哀れで希少で愉快なイキモノ……。キミみたいな奇天烈なもの、ボク大好きなんだぁ。だから優しくしてあげるね。時間はたっぷりあるんだからさ、たくさん考えるといいよ。その間もキミが欲しいものはなんだって用意してあげる。新しい友達だって作ってあげられるよ? キミとボクとその友達で、寿命が尽きるまで仲良く暮らそうよ。キャロルちゃんのしたいこと、なんでもさせてあげるよ?」
甘ったるい言葉が入り込んでくる。
だけどキャロルには何ひとつ魅力的には思えなかった。
「だからさぁキャロルちゃん——」
瞬間、キャロルの全身から解放された魔力の波動がケイオスの体を焼いた。
魔力の解放による純粋なエネルギーの熱波を全身に受け、彼女の肉体が一瞬で灰となる。
「あなたを殺す方法は他にもある」
最初に繰り出したものと同じ、迷宮の全範囲を覆い尽くす「石化」を発動。その場で地面を割り、空間爆砕を行う。
迷宮内のすべて——つまりはケイオスが再生する可能性のある座標のすべてを、キャロルは同時に攻撃した。
「……なんっ、のつもり」
周囲にケイオスの気配が芽生えた瞬間、即座にまた「石化」による魔術攻撃を解放。再生したそばから消し飛ばしていく。
「キャロル、ちゃ……⁉︎」
徐々にその出力は上がり、ケイオスが再生する際に消費される魔力量も多くなっていることをキャロルは感じ取っていた。
「——けぽ」
巨大な鉛玉を腹のなかに落とされたような鈍痛がキャロルに走り、一旦攻撃が途切れる。
おびただしい量の血を吐き散らしたキャロルはその場で手をついて喘ぐような呼吸をした。
「……キャロルちゃん、それはさすがに、無理があるんじゃないかな」
ようやく喋らせてもらえる時間を得たケイオスは片膝をついているキャロルにそう語りかけた。
キャロルはいま自らの許容量を超えた出力の魔術攻撃を連発した。
身体への負担を考慮せず、ただケイオスの魔力消費を加速させるためだけに街ひとつ消し飛ばすほどの威力を何度も解放したのだ。
簡単な話だ。
キャロルとしてノーリスクで放てる出力の攻撃では途方もない時間を要するというのなら、いまここで死ぬリスクを背負ってでも魔力出力を上げてケイオスの体を削るペースを早めてしまえばいい。
キャロルの肉体が力尽きるのが先か、ケイオスの魔力が尽きるのが先か、これでようやくお互いの勝算が五分になる。
ヒトとしての生活も、ケイオスの打倒も、どちらも取れる可能性が生まれる。
「あなたはよくやってるほうだと思う、ケイオス。わたしがここまで追い詰められるなんて、正直思ってもみなかったな」
「ちょっ……ちょっと待ってよ! こんな終わり方つまんないって! 楽しみも減っちゃうし……ね⁉︎ キャロルちゃん、考え直し」
蹲ったまま、キャロルは再び迷宮内の時間を止めて地面を殴りつけた。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も、何度も世界を壊す。
どうせコレしかできない。壊すことしか能がない、所詮はそういう生き物。
いまの自分を見せれば「なんでもできる」と称してきたサバトの考えを覆せるだろうか、なんてことも脳裏をよぎった。
「石化」で止めた時間、そこにある世界を叩き割るたびに内側で体を構成するものが爆ぜるのがわかる。
なぜここまで一生懸命になれるのか。その理由はとっくに自覚していたが、それを差し引いても必死すぎないかとキャロルは思わず笑みをこぼした。
どれほどの時間が経過しただろうか。
触覚が薄れ、掲げた拳がだらりと垂れ下がったのを感じて、キャロルはひと息つこうと手を止めた。
周囲を見てみるともはや立体と認識できる建造物は確認できなかった。
灰色の砂漠の上に立っているのはキャロルと————たったいま浮き上がってきた、ぜえぜえと息を荒げているケイオスのみ。
「————ひどいよ、キャロルちゃん。キャロルちゃんを迎え入れるための街、ぜんぶ壊れちゃったじゃん」
最後に見たときよりもケイオスはずいぶんと消耗している様子だった。
青くなった顔でよたよたとキャロルに近づくと、膝に手をついて項垂れる。
「ねえ、もうやめよ? 無茶なことはやめて、静かに死ぬまでボクと暮らそうよぉ。そのほうが絶対楽しいよ? ね、ボクもキミと一緒だと思わない? ボクも人間たちのことを面白いと思ってるよ? ねえ、ボクらってひとつになるべきだと思わない?」
「独りよがり」
視線だけをケイオスへと流し、キャロルは小さく言った。
「どれだけヒトに近づき、どれだけ取り繕っても…………あなたは自分の世界すら持っていないの、ケイオス。あなたはヒトが好きなんじゃない、ただ他者との境界線がないだけ。他人のものを欲しがり真似するばかりで、自分の世界を持とうとしない。誰かが生み出した世界を自分の遊び場だと思い込んでいるだけの…………高慢ちきよ」
「ハハッ、だからなに? それってすごく……オレ様ってことじゃん」
互いの余力が尽きるまでそう時間はかからないという予感があった。
これ以上の問答は必要ない。
次に迷宮への攻撃を再開すれば数分と経たずにどちらかにとっての死が訪れる。
キャロルが立ち上がる。
再び「石化」を発動しようと彼女が魔力を起こした直後、
「は————?」
突如としてケイオスの左腕が、風船のように弾け飛んだ。
「え?」
キャロルにとっても意外な出来事を目の当たりにして軽い声音が飛び出る。
同時に起こるのは迷宮内に轟く地響き。
振動が強まるにつれてケイオスの端末、もとい肉体に巨大な亀裂が走り始めた。
「なんだ……? なんだ、これ……ボクの世界が……迷宮がほつれて————」
キャロルには詳細が感じ取れない事象でケイオスが焦っている。その様子からキャロルはなにが起こっているのかを直感で理解した。
思い浮かぶのは冴えない少年の後ろ姿。
やるじゃん、と気づけばキャロルは悪戯に笑っていた。
「————ありえない…………ッ‼︎」
ケイオスの世界に記録されている大量の人間の記憶。
これまで人間を取り込み、蓄えていた情報が記録されている一部分に致命的な異常が発生している。
邪神の自我そのものである「迷宮」に影響を与えるほどのヒトの自我。それがいま、この世界を壊そうとヒビを入れていた。
まったく呆れたものである。
自分のことはけちょんけちょんに卑下していたというのに、キャロルを助けるためならば邪神の自我さえ押し除けてしまうか。
驚くべきことだ。驚くべきことだが、残念なことに人間ひとりの意思で世界法則を捻じ曲げるという離れ業を息をするように行う聖騎士を以前見ていたので、冷たい言い方に聞こえるかもしれないが想定内の驚きだった。
でもまあ、そんなところも彼らしい。
キャロルは都合よくできた迷宮の綻び、その一点の空間を「石化」で止め、
「助かったよ、サバトくん」
最小限の魔力で、そこを叩き割った。