26.夢と現実
魔物の軍勢が蔓延る街のなかを切り抜けて、サバトは中心部にある塔の入口にたどり着いていた。
「風」の魔術による加速を用いながら移動し、可能な限り戦闘を避けてきたが、ここへ来るまでに二体の魔物と交戦を強いられた。
そのなかに左腕を持って行ったような飛行能力がある魔物がいなかったことも幸いし、サバトは何度も死にそうになりながらそれらを撃破・撃退することに成功した。
が、当然というべきか無傷とはいかなかった。
右の太腿には杭を打たれたような穴が空き、左の脇腹には取り返しのつかない火傷。剣を振るために残った右腕は死守しようと努めたが、受け身をしくじり右肩周辺にひどい打撲をつくってしまった。
だが、この魔境のなかでよくやったほうだとも思った。
死なずに目的地へたどり着けただけ大したものだと自分を褒めたい。
「……来てやったぞ、ラブーマン」
塔の扉はサバトが軽く押し込んだだけで開いた。
そこに広がっていたのは明かりのないホール。階段もなく、上の階へ続いていると思っていた高層構造はただ天井がはるか遠くにあるだけのハリボテだと気づき、思わず吹き出しそうになる。建造途中で放置された出来損ないの灯台のよう。
予想はしていたが、はめられた気分になる。
「本当に……俺たちを誘い出すための目印でしかなかったのか。いちいち演出が派手なヤツ」
「ちょっとちがうよ~? ボクが欲しいのはキャロルちゃんだけ。キミはマジでどうでもいいから」
声が聞こえた前方へ顔をやると、赤毛の少女が亡霊のように佇んでいた。
咄嗟に剣を構えたサバトを嘲るように口元を歪ませた彼女は、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気でゆったりとサバトのほうへと歩み寄っていく。
「ただ分断するだけじゃすぐに合流されるだろうと思ったから、わかりやすく釣れそうな場所を用意してあげたのぉ。短絡的なキミはキャロルちゃんもここを目指すだろうと踏んでのこのこやって来るでしょ? でも残念、キャロルちゃんは別のボクとふたりっきりでお話し中なのだ」
「キャロルになにをするつもりだ!」
「だぁ~からお話しだって言ってるでぇ————しょっ」
音もなく肉薄してきた少女の拳がサバトの胴体ど真ん中に突き刺さる。
反射的に魔術による「向かい風」を発動させて後方へ退避し威力を殺したものの、それでも放たれた一撃はサバトの肋骨へ亀裂を刻み込んだ。
「ぁ……っ!」
苦痛が悲鳴の欠片となってサバトの口から漏れる。
体勢を立て直すことも叶わずに転倒したサバトの横へ、またしても足音ひとつ立てることなく迫った赤毛が現れた。
「キャロルちゃんとの答え合わせも済んだことだし、一応キミにも教えてあげるよ。仕事はきちんと果たしてくれたし、その報酬ってことで。ボクってばやさしぃ~! フフッ!」
「なんの話を……? ガハッ……!」
「改めまして我が眷属。ボクの本当の名前はケイオス」
立ち上がれずにいたサバトの背中へ、邪神を名乗る少女がどかりと体重をかけた。
「ケイオス……だと……?」
「そ、邪神ケイオス。そしてこの街はボクが作り出した迷宮。キミも含めて街の住人はボクの手で生み出された傀儡でしたとさぁ~、ちゃんちゃん」
「は……?」
突拍子のない発言にサバトは戦場に似つかわしくない間の抜けた声を上げた。
「察しが悪いなぁ~。まあキミは役割的に他のとちがって本物の記憶をそのまま反映させたから、それも仕方ないけど」
「なにを言ってやがる……?」
「キミはもうとっくに死んでいて、今のキミは死体を基にボクが再現した模造品ってわけ。キャロルちゃんをここへ連れてくるって仕事を与えられたね」
「そんなわけねえだろッ!」
「おおっと」
ケイオスを突き飛ばしたサバトが回転の勢いを利用して立ち上がる。
死人のように青ざめた顔で肩を上下させている彼の体と精神は、とうに限界に達していた。
「……俺は騎士団カルロッソの聖騎士サバト=ネフシアスだ! 人をさらい弄ぶ……お前という魔術師を正しに来た。わけわかんねえこと言ってんじゃねえ!」
「じゃ聞くけどさぁ、キミどうやってこの街に入ってきたか答えられる?」
「そんなの————!」
鉄道を使って——と返答しようと開きかけた口をサバトは閉じた。
キャロルの事務所へ向かって彼女に依頼をし、すぐに騎士団から提供された情報に基づいたルートでこの「幻夢街」に……。
断片的には覚えている。だが記憶と記憶を繋ぐ間の情報が思い出せないことに気づいた。
騎士団から受け取っていたルートの最終地点はどこだったか。
鉄道での移動を開始したあと、その列車はどの街のどの駅を経由して幻夢街付近のエリアまでたどり着いたか。
幻夢街に入る直前の記憶が抜け落ちている。いや……思い出せないのではなく、最初から存在しなかったかのような、そんなまっさらな虚無がサバトの脳内に空いていた。
「迷宮は一度顕現させると外部から捉えることは難しくなる。後から侵入することはできるけど……迷宮の主が意図的に迎え入れたりしなければ、自力で入り口を探すしかなくなる。目には見えない空間の歪みの位置を特定するには、それなりに時間がかかるよねぇ。だからボクはたまに網を張る位置を変えながら人間を集めてたんだぁ。そのほうが発見されるリスクもぐっと減るからねぃ」
遺物の質、あるいは主である存在の力量にもよるが、基本的に迷宮は一度かたちとして現れればヒトの目には見えなくなるもの。
迷宮災害における巻き込まれた人間の生存率が低いことや、通報を受けた聖騎士の救助が遅れがちな原因がそれである。
理性のない魔物が自ら人間を招き入れるケースは少ない。迷宮が出現する瞬間付近にいて内部へ取り込まれる者を除けば、あとは人間が自らの意思で時間をかけて入り口を探し、突入する以外に中へ侵入する方法はない。
迷宮の主にそれらをコントロールする知能があれば、一度解除したうえで場所を変え再び展開するということも可能だ。そうなれば迷宮はもはやただの災害ではなく、目視もできず一定の場所にも留まることはない最悪の移動捕食器官となる。
「今回ボクはキミたちが乗った列車……その軌道上に迷宮を開いて待機してたんだ〜。騒ぎが大きくならないよう、取り込む人間はキャロルちゃんだけに絞ってね。……フフッ、あのときの寝顔かわいかったなぁ〜」
どんな細工を仕掛けたとて、キャロルなら魔力の変化を感じ取って迷宮が列車の進行方向に迫ってきていると察知できたはず。
それができなかったのは彼女が眠っていたせいだ。
おそらくは魔術による催眠。キャロルほどの実力者の意識を奪うほどの術を扱えるとしたら————それこそ邪神でもなければ説明がつかないだろう。
ケイオスを名乗った目の前の魔術師は本当のことを話している。そう嫌でも理解してしまったサバトは、同時に自らの存在に対しても懐疑の念を抱き始めていた。
自分がケイオスに生み出され、ヤツの思惑通りにキャロルをこの迷宮まで連れてきてしまったという、跳ね除けてしまいたい真実に表情に苦悶が差す。
「どうして俺なんだ……。それじゃあ俺は……俺は、もう…………本当に、死んで……?」
「サバト=ネフシアス、享年三十三歳」
なにかを探すように自分のこめかみをつついたケイオスが原稿を読み上げるかのように自分のなかにある情報を口にし、動揺するサバトを追い詰めていく。
「え〜っとぉ……騎士団カルロッソに所属する平凡な聖騎士。幼年学校を出たあとすぐに入団したんだっけ。やる気はあるけど実力はてんでダメ。仲間に守られ人を死なせてばかりの三流騎士。三十歳になったあたりで足を負傷して引退、以降は生き恥を晒すだけの余生を歩む……あ、いまのキミにとっては未来のネタバレだったね、ごめんごめん」
それはケイオスのなかに記録されていたサバト=ネフシアスという人間の人生。生まれてから死ぬまでに彼が歩んだ道のりだった。
いまこの場にいるサバトは本物が現役の聖騎士だった頃の肉体と記憶を再現した複製体。ただキャロルを連れてくるためだけにケイオスが用意したヒトもどき。
「……やめろ」
「な〜んでケガしちゃったんだっけ、と……お、迷宮攻略任務で魔物にやられたんだねぇ。アハハッまた同僚に助けられたうえに死なせてる。キミと組んだ人間は死んでばかりだねぇ〜キミがもう少し強ければ、死なずに済んだヒトも大勢いただろうに」
「やめろ……!」
「最期は〜っと……通り魔を取り押さえようとして返り討ちにあって死亡……ブハハッ! ウケる! そんで偶然ボクに死体を拾われたってわけか。ボクを笑わせられてよかったじゃん、すこしは価値のある死になったんじゃない?」
「やめろッ‼︎」
ごちゃごちゃになった頭で、サバトは正面へと駆け出していた。
眼前でにやついているケイオスに向かって剣を振り下ろすも、当然のように避けられ、反撃の拳を腹部にもらう。
「ガ……ッ……!」
貫通こそしなかったものの、体の一部が抉られる感触があった。
血の塊と一緒に剣を落とす。その場で膝をついて体を曲げたサバトを見下ろしながらケイオスは静かに言った。
「キャロルちゃんを迎えに行く役目はね、誰でもよかったんだ。強いて言えば誰を選んでも同じだろうってヒトのなかから適当に選んだ。物事の因果を捻じ曲げちゃうような……そんな英雄じみた精神性と可能性を秘めた人間じゃなく、脆弱で掃いて捨てるほどいる典型的な人間どもからね。そういうヒトを選べば想定外のトラブルも回避できると思ったから」
「っ…………!」
「キミに世界を変える力はない。ボクがコントロールする必要もなく、放置したところで……どんな行動を起こされたところでボクにはな〜んにも支障がないから、キミを案内役にしたんだ——よッ!」
蹴りつけられ、勢いよく転倒したサバトが仰向けの状態で力なく静止した。
弱々しい息遣いの音が静寂に溶けていく。
「だからキミを選んだことに意味はなかったよ。キミの人生に意味がないのと同じようにね」
ケイオスの言葉を聞き終わって、情けなくもサバトは納得している自分がいることに気がついた。
昔からそうだ。自分のことになるとすぐに挫けてしまう。
自分がダメなことなんて自分がよくわかっている。だから他人にそれを指摘されても、本気で憤ることはできない。「そうだよな」と、卑下される自分を受け入れ、再確認することしかできないんだ。
この状況でもそれは変わらない。
サバトという人間には価値も意味もない、それは他でもないサバト自身がいちばん理解している。事件の真相を知った衝撃こそあれど、ケイオスに対して適切な怒りをぶつける気力は湧いてこない。
ヒトとしての底をついてしまっているんだ、とっくに。
自分のことで一生懸命に走り続けた挙句、周りに不幸を振り撒くのはやめたい。もう懲り懲りなんだ。
ケイオスが話したとおりのことが未来に起こるのなら、なおさら立ち上がる意味なんてない。
ここにいるサバトがケイオスの作り出した眷属だというのなら、サバトの生き死にはヤツの自由自在。どのみちこの場で死ぬことは確定している。
わかっている。すべてわかっている。
だというのに、
『——少なくとも、わたしはあなたと過ごす時間でいい気分を味わえた』
白い少女の微笑みは、この瞬間でも鮮烈に焼きついていた。
「んん?」
不思議そうに首を傾けて、ケイオスは少年の醜態に視線を注いだ。
子鹿のように震える脚になけなしの力を込めて立ち上がる様はこの上なく頼りなかった。
いま彼を動かしているのは泥だらけの意地。
かつて憧れた英雄とはほど遠い、見るに堪えない情けなさを自覚してなお、サバトは剣を拾い上げて立たずにはいられなかった。
「……なんで立ったの?」
痛みで意識も飛びそうだろう。
止血はしているが完全ではない。千切れた左腕からは未だ濁った赤色がドリップされている。
それでも血の気を失った顔に浮かぶ双眸は、目の前の敵に鋭い眼光を向けていた。
「やっぱり俺は……変われない人間だ。ダメな奴だって、わかってるのに……それでも、すこしでも人の役に立てる可能性があるなら…………動いちまうんだな」
そうだ、自分のことはもうどうでもいい。自己実現なんてとっくに諦めてる。
でも……それでもまだ戦う理由はある。
まだこの迷宮にはキャロルが囚われている。だったらまだ死ねない。役に立ちたい。
サバト=ネフシアスという人間は…………そうやって聖騎士を続けてきたと思うから。
思い返せば、キャロルは早い段階でサバトがケイオスに生み出された存在であることに気がついていたのだろう。
最後にホテルで話したときの不可解な会話も、遠くないうちに消されるサバトに対する別れの言葉だったのかもしれない。
「そうだ……夢を叶えられなくても……英雄になれなくても…………俺の存在に意味があると言ってくれる人間が……確かにいたんだ」
「死に損ないのわりによく喋るなぁ。耐久度も普通の人間くらいに設定したはずなんだけど」
「ッ!」
予備動作もなしに放たれた魔力の弾丸がサバトの右肩を捉える。
血飛沫を上げて膝を折りかけるサバトだったが、寸前のところで持ち直し余力のすべてを注いでその場から走り出した。
「ちょっとウザくなってきたから、もういいよキミ。しまっちゃうね」
ケイオスとの距離が縮まるよりも先に、またプールで感じたのと同様の激痛がサバトの全身を貫く。
十中八九ケイオスの仕業だろう。体の内側から少しずつ解体されていくような尋常ならざる痛み。
物理的な肉体が分解され、サバトという人間の情報が主であるケイオスのなかに還ろうとしている。
だが、それでも走った。まだ終わるべきではないと思ったから。
「無意味だなんて、言わせないぞ……! 俺の人生には確かに意味があった……! それでも足りないって言うなら……いま!俺が決めてやる……‼︎」
血を吐き、自分の肉と骨が崩れる音を聞きながらケイオスへと迫る。
「俺は————キャロルを助けるために……!生まれてきたんだ‼︎」
振り下ろされた銀色の刃が当たる直前、ケイオスは一瞬不快げに半目をつくった。
彼女の腕が獣の大顎のような形状へ変形し、一瞬のうちにサバトを呑み込もうとする。
(——でも)
自分の命の終わりを悟ったサバトが瞼を閉じ、夢想する。
利用されるだけのわずかな時間だったが、思っていたよりも自分は彼女と過ごした時間が悪くなかったと感じているらしい。
(やっぱり……覚めて欲しくはないな)
最後に思い浮かんだのは、そんな戯言だった。
「おや? 消えたみたいだね、あの聖騎士」
酒場でキャロルと対峙していたケイオスは、遠く離れた位置で自らの眷属が一体消滅したことを感じ取っていた。
「向こうのボクがしまってくれたのかなぁ、気が利くぅ。せっかく集めた素材だもの、記録した情報は破棄せず再生利用するに限るからね」
ここはケイオスの迷宮。
迷宮が展開されている状況では肉体はただの端末に過ぎない。いくらでも分身は作り出せる。
塔へ向かったサバトが、別のケイオスに始末されたのだろうとキャロルは予想した。
「……殺したの?」
「え? 嫌だなぁキャロルちゃん、アイツはとっくの昔に死んだ人間だよ? ボクが殺したわけじゃない。ボクはただ使役していた眷属を懐に戻しただけ」
一仕事終えた、といった雰囲気で体を伸ばすケイオス。
彼女が古来より生きながらえてきた邪神本人である以上、ヒトとはかけ離れた倫理を備えていることは理解していた。
だが、なぜだろう。
ケイオスの振る舞いはキャロルが理解し獲得した「自由」と隣り合っているはずなのに、そこに共感性を見出すことはできなかった。
そしてその理由をすぐに理解する。
「はぁ〜……ようやくふたりっきりになれたけど、なんかあの間男のせいで興醒めしちゃった。ねね、続きはまたのお楽しみにしない? 食べられる前にさぁ、ボクとも仲良くしようよぉ〜。またプール行く? あ、クレープ食べたがってたよね? いいお店を用意してるんだぁ。それとも」
「おいゴミ」
世界が割れた。
酒場を中心として迷宮内部すべてが一瞬の間「石化」し、凍結される。
ただひとり動くことのできる少女は、止まった時のなかで一直線に目の前にいる標的へと駆け出し、明確な殺意をもってその顔に渾身の魔力を込めた膝を叩き込んだ。
「げ……ぁ——————!」
空間ごと歪曲させる威力を帯びた一撃をもろに受け、ケイオスの顔面が崩壊し頭蓋が砕け散る。
瞬きの間に行われた破壊と修復の二重爆撃。その余波によって迷宮全土に存在した建造物、魔物、人間、すべてが神の怒りのごとき衝撃のなかで本来のかたちを失くしていった。
「さんざんくだらない茶番に付き合わせて、からかって、わたしの世界に手を出して…………それで仲良くしようだなんて、それはちょっと通らないでしょう?」
倒壊した高層建造物が地面にいくつも突き刺さっている、暗がりの世界。
瓦礫の荒野に佇んでいたキャロルは、先ほど砕け散った少女に向けて吐き捨てるように言った。
「——げはっ……! ゴホッ! ゴホッ!」
すぐ近くの地面から何かが浮き出たかと思えば、みるみるうちに赤毛の少女のかたちになっていく。
新たな端末を得てキャロルの前に戻ってきたケイオスは怯えるような、それでいて歓喜に包まれたような瞳で彼女を見つめていた。