21.水と油
「幻夢街」には人間のあらゆる欲求を解消するための施設が揃っていた。
遊ぶための、寝るための、稼ぐための、作るための、食べるための、ヒトが生きるうえで求めるすべてのものが用意されている。
天へ伸びる高層建造物ひとつごとに人々の生活サイクルを成り立たせるものが詰め込まれており、どこを歩いても必要なものが目の前に現れるような、不自由という言葉を忘れるほど快適な世界が広がっていた。
実際、ここで生活している人々は皆幸せそうだった。
各々そのときにしたいことを、解消したい欲求に則した行動をとる。現実にあるはずの苦痛から遠ざかった、人間社会の欠陥をすべて取り除いたかのような生態。
それが普通ではないと認識できる者はいない。皆疑問を抱くことなく、それらの幸せを当たり前に享受している。
幻夢街————夢の街とはよく言ったものだ。
「水のなかを泳ぐだけの施設なんて、変わってるね」
「なんで集合場所がプールなんだ……」
街に魔物が現れた次の日。
ホテルの従業員を介してニャンタレスから呼び出しを受けたキャロルたちは、指定場所である遊泳施設を訪れていた。
ドーム状の建物内に張られた巨大な水面。
王室の大浴場を思わせる規模の水が張られたその空間を真剣に泳ぐ者、ぼんやりと浮かぶ者、脇でビーチチェアに寝そべりながら談笑している者。過ごし方は様々だ。
公衆浴場が有名な国には大きいプールもあるらしいと耳にしたことはあるが、これほどのものを実際に目の当たりにするのはキャロルはもちろん、サバトも初めてだった。
「サバトくんも水着になればよかったのに」
「昨夜あんなことがあったってのに、よく浮かれていられるな……」
剣はしっかりと持ち歩きつつ、シャツと短パンという申し訳程度のビーチスタイルのサバトに対して、キャロルは施設内で購入した水着を着用していた。
黒でまとめられたデザインは着替える前と同じだが、不思議と肌の露出が増えただけで一層大人びた印象を受ける。なぜか一緒に買っていたバカみたいなハート型サングラスがキャロルの隠された子どもっぽさを集約しているように見えた。
「水場に来たのなら、それに相応しい格好をするのはおかしなことではないと思うけど」
「どうでもいいが、ニャンタレスの姿がまだ見えないな。呼び出しておいて遅れやがって……」
「来るまで泳いできてもいい?」
「好きにすればいいだろ」
傍らにあったベンチに深く腰を下ろすサバト。
疲労を主張するように項垂れた彼だったが、隣にいたキャロルの気配がなかなか立ち去らないのが気になってまたすぐに顔を上げる。
「行かないのか?」
「ふたりきりの間に聞きたいことがあって」
サバトが座っているベンチにはまだ隣に空きスペースがあったが、キャロルはその場に佇んで前を向いたまま話し始めた。
サバトが自分の周りに薄い膜を張っているような、そんなささやかな拒絶を感じていたからだ。
「昨日の夜から、なんか機嫌悪いよね。なんで?」
「はぁ……? 悪くねえよ」
「わるい」
「悪くねえって」
つい鬱陶しそうに語気を強めて顔を上げたサバトの視界に、涼しい顔で流し目を注いできたキャロルが入った。
すべてを見透かしているような黄金色の瞳。
我に返るように深く息をついたサバトが前を向き直る。
やはりなにも言わないまま黙っていたので、キャロルが言いたいことを先に伝えることにした。
「わたしを助けようとしたときに使った魔術、本当は見せたくなかったんだよね。信条を曲げてまでわたしのために使ってくれて、ありがとう」
「信条なんて大層なもんじゃない。ただいざお前みたいなのと比べてみると、みすぼらしい力だなって……自分が情けなくなっただけだ」
観念するように背筋を伸ばしたあと、依然目は合わせないままサバトが続けた。
「俺は丈夫で、魔力も……そこそこに備わった体で生まれてきた。ガキの頃から家督を継ごうと必死に鍛錬したし、念願だった聖騎士にも無事になれた。自分は聖騎士として功績と伝説を築き上げて、華々しい人生を送るんだと……昔の俺は信じて疑わなかった」
話を聞きながらキャロルは改めてサバトの肉体を注視する。
彼の全身から漂う魔力は————やはりそう強力なものではない。総量もさほどといったところだ。
「そこそこ」というのはあくまで昔の彼が自負していたことで、現在は違うのだろう。どこか自虐的な含みを感じる。
「けど聖騎士を続けていくうちに気づいたんだ、自分が大した存在じゃないってことに。自分の身を守るので精一杯で仲間を死なせてしまうことなんか日常茶飯事だし、下位の迷宮攻略で助けられなかった人たちも大勢いる。伝説やおとぎ話のなかの英雄のようにはなれないんだと、少しずつ、じわじわと思い知らされたよ。まあ、よくある話だ」
おもむろに手のひらを上へ向けたサバトが小さな「風」を起こす。
金色のそよ風が彼の前髪を揺らした。
「あるとき俺は、とある任務で名前も知らない魔術師の女の子に命を救われたことがあった。……俺が依頼を受けて、助けに行った場所でだ。俺の手で助けられた人間は誰ひとりいなくて、結局俺も死にそうになった。そんなところを見ず知らずの女の子に助けられたんだ。……情けないだろ。聖騎士としての使命をなにも果たせないまま、自分より年下の子どもに守られたんだ。……それはいまも同じか……ハハッ」
呻くように語りながらサバトはかつて見た景色を思い出していた。
月明かりの下で軽やかに犬の魔物を屠る絶対的な強者。
妖精と見紛う美しさと存在感を放つ彼女は、サバトのような苦悩と劣等感とは無縁の世界で、とても楽しそうに笑っていた。充実した生を送っていた。
サバトも、同じようになりたいと思った。
「もともと避けていたわけでもなかったし、彼女のような力が手に入るならと……俺は任務中に偶然手に入った邪神の遺物を取り込むことにした。そうして得た魔術がこの『風』だ」
サバトが開いていた手を閉じ拳を作ると、渦巻いていた金色の風も大気へと溶けていく。
見たところそれほど強力な風は引き起こせないようだ。せいぜいキャロルを庇う際に使用したように、背中を押して多少移動速度を上げるのが関の山か。
「魔術を身につければ強くなれる……そんな安直な考えで手を出してはみたが、俺にはその才能もろくになかった。俺の体が邪神の自我に耐えられるのはごく少量の遺物までで、あの日遭遇した女の子みたいな強さを手に入れるだなんて……夢のような話だと、また思い知らされてしまった」
魔術とは邪神が内包している「世界」を認識し、その一部を切り取って現実へと引っ張ってくる技術。
邪神の世界を捉えるには邪神の認識能力————つまり「自我」が必要になる。遺物を大量に摂取すればそれは強まるが、同時にヒトとしての自我が押し負けて精神崩壊を起こしてしまうリスクもある。
魔術使いとしての一線を越えるにはサバトは元から備わっていた耐性となる魔力が少なすぎるし、加えてその心は人間的すぎたのだろう。
邪神の力を好きに扱えるほど、理性的に破綻することができなかった。
彼の肉体は最低限の遺物しか受け付けられなかったのだ。
「複数の邪神を討伐したと言われる英雄オリオン、魔物と戦うための剣術基盤を作り上げた剣祖バハト、現代最強の聖騎士と謳われるプロキオン…………俺もそんなふうになりたかった。でも彼らのような、昔に自分が夢見ていた偉大な人間にはなれないことを俺は確信した。そのときからだ、俺の世界は灰色になっちまったんだ」
彼が口にした名前の数々をキャロルは知らない。正確には昔にベルスーズの屋敷で教えられたことがあるのかもしれないが、当時は魔術のことで頭がいっぱいだったので覚えられなかったとも言える。
でも彼にとっては憧れの象徴と呼べる存在なのだろう。
奥歯を噛んでサバトは息を呑む。
キャロルに聞かせるための言葉だけではない。自分自身を戒めるような痛々しさがサバトの語り口にはあった。
「俺が生まれてきたことには、なにか意味があるんだと思っていた。でもそんなものはなかった。ただ苦しんで、なにもできず理想を果たせないまま錆びて、朽ちていくだけ」
無意識なのか、サバトは横に立てかけていた剣に触れながら言った。
「俺は空っぽな人間だ。実現できない夢を引きずりながら半端に生きている。……なんでもできる力を持ったお前が羨ましいよ、キャロル」
「確かにわたしはかわいいけど、そんなに持ち上げられると戸惑っちゃうかも」
「かわいさはどうでもいい」
頭に乗せていたサングラスを手にとって弄びながらキャロルが続ける。
「どうしてこう、あなたたちは視野が狭いのかな。思い込みばかりが先行して他人の気持ちを考えようとしない」
「なに?」
「せっかく群生で生きているんだから……自分ひとりだけで自分の価値を決めてしまうのって、すごく寂しいことだと思うの」
サングラスを目元に掛け直したキャロルが桃色のレンズ越しにサバトを見つめる。
そんなに気に入っているのだろうか。薄ら笑いを浮かべている様はどこか上機嫌に見えた。
「わたしはひとりで生きていたらたぶん、自分がかわいいってことに気づくこともなかったと思う。兄さまやデビルーナやクーちゃんが褒めてくれるから、わたしは自分が魅力的だと自覚することができたの」
「なにを聞かされてるんだ俺は?」
「あなたにもそういう人はいるんじゃないの? 自分ひとりじゃ形作ることができなかった、ヒトとしての輪郭を補強してくれた存在が」
「そんなヤツは……いない。みんな役立たずな俺を敬遠してた。親父だって、期待はずれだった俺を…………」
そこでサバトが言葉を呑む。また余計な記憶を呼び起こしてしまったらしい。
どうしたものかと頭を捻ったキャロルは、落ち着いた表情をそのままに彼へと目を戻した。
「マスカットのケーキ」
「あ?」
「列車のなかで食べさせてくれたケーキ、あれはすごく美味しかった」
突然なにを言い出すのかと、サバトは怪訝な顔になってキャロルと視線を交わした。
構わず穏やかな口調で話し始めたキャロルがうっとりと過去の味覚を思い出すように頬に手を添える。
「少なくとも、わたしはあなたと過ごす時間でいい気分を味わえた。大それた夢が叶わなくたって、それだけでサバトくんがここに居る意味にならない?」
「下手な気休めはよせ————」
直後、サバトの視界が反転する。
尻にあったベンチの感触がなくなり、次の瞬間には頭から水を被っていた。いや、水のなかに頭から突っ込んだのか。
「石化」で一瞬だけ時間を止めたキャロルが、その間にサバトをプールへと放り投げたのだ。
慌てて息継ぎをしに水面から顔を出すサバト。
「ブッハ……! なにしやがんだお前!」
「いい加減うじうじしてるのを見るのもうんざりしたから、ちょっと頭を冷やしてもらおうと思ったの」
付近のプールサイドで膝を折ったキャロルがびしょ濡れになったサバトの顔を覗き込む。
サングラスを額に上げて再び現れた黄金色の視線がサバトの瞳を貫いた。
「サバトくんはさっきわたしを『なんでもできる』と言ったけど、わたしはただ壊す力に長けているだけ。なにかを壊すだけなら誰でも同じことができる。目的を果たす手段としては便利だけど、破壊するだけじゃ世界は広がらないの」
「……ものは言いようだ」
顔を背けたサバトに追い打ちをかけるように、キャロルは穏やかに笑いながら言う。
「でも自分が満足できなくたって、それが無意味とは限らない。小さくても積み上げようとする往生際の悪さが、ヒトの歴史を築いてきたんでしょう」
「そんな壮大な話をした覚えはないんだが……」
「わたしにとってはどちらも変わらないわ」
「相変わらずよくわからんが」と付け加えながら、サバトがプールサイドへ上がってくる。
「雑に励ましてくれてるのはわかったよ」
「雑……? 逆に丁寧な励ましってどんなもの? やっぱりキスとか?」
「さあな」
サバトの煮え切らない表情のなかにあった緊張が少しだけほぐれたような気がする。
クラウディアよりもずっと難解なヒトだが、かけた言葉がわずかでも慰めになればいいと、キャロルは祈ることしかできなかった。
「や〜っほ〜」
ベンチのほうへ戻ろうとした矢先、キャロルの背中に覆い被さってくる感触がひとつ。
視界の端に赤毛がチラつく。
「うへへ〜思ったとおり水着姿カンワイイねぇ〜。待ち合わせにプール指定してよかったぁ〜」
「ニャンタレス⁉︎ 遅いぞ! 予定時刻十五分オーバーだ!」
背後からキャロルの腹部へ手をまわす赤髪の少女——気色の悪い笑みを浮かべるニャンタレス=オブリガートにサバトの怒号が飛ぶ。
当然のように彼女も水着を着用していた。
出会った当初と同じように、ニャンタレスはサバトに構わずベタベタとキャロルの体に密着しながら白い肌に指を這わせた。
「ヘイ彼女〜お名前なんて〜の?」
「このくだり、何回やるつもり?」
「え〜なんかボクにだけ冷たくない……?」
不満げに唇を尖らせながらもキャロルのあちこちを触る手を止めない。
溺愛されるペットのように撫でまわされるキャロルもなにを思っているのか、鬱陶しそうに冷めた目を向けながら立ち尽くすばかりだった。
「おい……」
「はーいはいわかってるって、すぐ本題に入りますよ〜う。昨日の件が気になってるんでしょ? 聞いてくるだろうと思ったから、わざわざボクから呼び出してあげたわけ」
「その前にキャロルから離れろよ変態」
「キミは離れて欲しいかもだけど、キャロルちゃんはどうかな?」
「はなれて」
「ちぇ〜」
渋々キャロルから距離をとったニャンタレスがいじけるようにその場に座り込む。
かと思えばころりと表情を変え、にたにたと口角をつり上げながら投げかけてきた。
「その前に聞かせて欲しいんだけど、どう?この街は。けっこう楽しいでしょ」
「……なんとも言えないな」
「テーマパークみたいで楽しいのは確か。でもやっぱり、ヒトが生活してるって感じがない」
「ふむふむ」
返されたことを咀嚼するようにニャンタレスが頷く。
「やっぱり……誰も彼も幸せそうにしているのが、ちがうって感じさせるのかな」
ぼんやりと施設内を見渡したキャロルは、独り言のようにつぶやいた。
「そうそう、そうだよ、そうなんだよね、この街は幸福ばかりで苦しみが存在しない。ヒトが不幸を感じる瞬間があるとしたら、昨日みたいに魔物が現れたときくらいのものだよ。まったく気持ち悪いったらありゃしないよね〜」
「いまいち話が見えてこないが……」
「サバトくん、人間観察はきらい?」
「嫌いっていうか……あまり人様をジロジロ見ることなんかないだろ」
「わたしは、たまにする」
ちょうど実践してみせるように、キャロルは左右へ視線を巡らせた。
鮮やかな喜怒哀楽はヒトという生き物のおもしろさを引き立てるエッセンスだ。
ヒトが多く集まる場所では複数の感情が入り乱れ、つられて笑顔になるような喜びから見るに堪えない悲痛まで幅広い味を演出してくれる。
それらを鑑賞し味わうことも、ベルスーズ家を出てからのキャロルの密かな楽しみのひとつだった。
「喜びと悲しみの両方を味わうことで、ヒトの深みは増していく。この前も話したとおり、わたしはヒトを知るために依頼を受けて……そのなかで心の動きについて日々お勉強をしているの」
「ニャハッ……! それそれ! それだよキャロルちゃん!」
「どういうことだ?」
「鈍いヤツだねぇ〜キミは。つまりさ、ラブーマンもそうなんじゃないかって話」
首を傾けているサバトに対し肩をすくめながらニャンタレスが口を開く。
「この街に滞在しているうちに分かっちゃったんだぁ、ここはラブーマンが作った人間観察のための箱庭だって。『魅惑』で誘い出した人間を住人として取り込んで、日常生活を送らせる。物足りなさを感じれば魔物を放ったりしてマイナス感情を刺激する。それをずっと繰り返しているんだよ」
ニャンタレスの話を聞いてサバトのなかでもようやくイメージがわいてきた。
理由はわからないが、一等星級魔術師ラブーマンは人間観察の場としてこの「幻夢街」を作った。
人間の社会に必要なものをすべて用意したうえで一般人を誘拐し、「魅惑」魔術による催眠をかけて日常生活を送らせている……。
だがキャロルも言ったとおり、それだけでは人間の再現性が高いとは言えない。
プラス感情だけが働くコミュニティなど実験場として健全とは言い難い。故に意図的にマイナス感情が作用する現象を周期的に投下されているというわけだ。
今回の場合は「魔物の出現」だが、他のパターンも存在するかもしれない。
人間のあらゆる感情を徴集し、観測するために。
サバトは相対している存在の底知れなさにしばらく言葉を失っていた。
やがて自分を落ち着かせるように深く息を吸ったあと、ニャンタレスへ向き直って尋ねる。
「……お前はなんのためにこの街にいる?」
「んー?」
「ラブーマンの目的が人間観察だとして、結局それは野放しにしていいものじゃない。人間を閉じ込めて意図的に魔物をけしかける行為は邪神教のテロと変わらない。最悪死ぬことだってあり得る。普通に考えたら、今すぐにでもこの街を出て行きたくなるはずだ」
「だからぁ?」
「っ……どうしてそんなに楽しそうにしてる! お前の話が本当なら、この場にいつ魔物が突っ込んで人死にが出るかもわからない! お前だって死ぬかもしれないんだぞ⁉︎」
「もしかしてボクの心配してくれてるわけ? やっさしぃ〜さすが正義の騎士サマ」
煙に巻くような態度をとり続けるニャンタレスにサバトは怒りを通り越して困惑を覚えていた。
ニャンタレスから感じる正体不明の違和感と不気味さが徐々に彼のなかで大きくなっていく。
その本質を捉える言葉を先に発したのはキャロルのほうだった。
「それをこのヒトに言っても仕方ないよ、サバトくん」
「キャロル……?」
「これ以上はなにを聞いても不毛なだけ。わたしはからかうのは好きだけど、からかわれるのは嫌いなの」
ゆっくりとニャンタレスとの距離を詰めていったキャロルが彼女を見下ろす。
対するニャンタレスは腑抜けた笑顔を崩さないまま黄金の双眸と視線を交わした。
「わたしもそろそろこの茶番の意味を知りたいと思っていたところなの。……あなたが、この街を作ったラブーマンっていう魔術師なんでしょう?」
「…………は?」
キャロルの口から飛び出した言葉にサバトの顔が驚愕に染まる。
ニャンタレスは待っていましたと言わんばかりに、裂けるような笑顔を浮かべていた。




