2.魔術と家族
「……え?」
突然見えた青空とこびりつくような頭痛に困惑しながら、アーサー=ベルスーズは短い声を上げた。
「大丈夫ですか、兄さま?」
「アーサーさん……」
なにが起こったのか思い出す前に視界に生えてきた幼女ふたりの童顔にアーサーはさらに困惑を深める。
キャロルの打ち込み稽古を開始した直後から今に至るまでの記憶が欠落している。
文字通り気づかないうちにひっくり返されていた。
「わたしが走り出した途端、兄さまは足を滑らせて転んでしまったの」
「……滑って……転んで……?」
「うん」
腑に落ちない表情で上体を起こしたアーサーの顔を覗き込む。
この数秒間で起こった出来事は、キャロルにしか認識できていなかった。
やったことは単純で、その場の空間を停止させながら軽くアーサーを転ばせてやっただけである。
キャロルが持つ魔術はあらゆる事象の時間を停止させる「石化」の魔術。
止まった時間を捉えることのできない者にとっては、術の対象となった生物が石のように固まって動かなくなったように見えることから、当時の人間たちによってそう名付けられた邪神ゾアの神秘だった。
父の書斎にあった本で見た記述によれば、魔術を使えるようになるには本来特定の邪神の遺物——つまりは亡骸を摂取し、人間の血に刻まれた該当する邪神の遺伝子を覚醒させる必要がある。
魔術黎明期においては同じ邪神を取り込んだ者同士で子を作り、その血に宿る邪神の力を強める方法で遺物を取り込むことなく魔術を使うことができる人間もいたようだが、混血が進んだ現代でそのケースは非常に稀である。
人々のなかで邪神たちの遺伝子がまだらに入り乱れる現代でも、やはり邪神の遺物がなければまともに魔術は使えない。魔術師を拒んできた聖騎士の家系である人間ならば尚更だ。
しかしキャロルは、遺伝子を取り込むまでもなく邪神ゾアの「魔術」を再現してみせた。
(なるほど……ちょっとわかったかも)
釈然としない顔で立ち上がったアーサーを尻目に、キャロルは先ほど発揮した力を確かめるように拳を握った。
キャロルはゾアの遺伝子を取り込んでいるわけではない。だがその「魂」は紛れもなく邪神ゾア本人のもの。
邪神は滅びたあとも肉体にその魂を宿しているとされている。
邪神の肉体を取り込むことで魔術が使えるようになるのも、正確にはその肉体に残滓していた「魂」が影響しているのではないかという説を唱える研究者も多い。
魔術とはその邪神にとっての「世界」を体現したもの。
他の生物では想像もつかない、当人だけが捉えることのできる領域を現実へ引っ張り出してくる固有の技術だ。
現代でこそほとんどの人間は生まれながらにして魔力を備えているが、もともと神秘を宿していなかった種族が、邪神の遺伝子を継承した程度でなんの助けもなく魔術を使えるようになるとは思えない。
どういう理屈でヒトが魔術を行使できるようになるのかというと——邪神の遺物を取り込み、その自我の一部を宿すことによって魔術という神秘を理解し、行使できる認識力を借りている状態になれるのではないか、ということである。
要するに魔術師は皆、少なからず邪神の魂を自らに憑依させているのだ。邪神の「世界」を理解し、魔術を操るために。
許容量を見誤って遺物を取り込みすぎたことで、たちまち邪神に意識を呑まれ正気を失ってしまうケースもあることだろう。
だが逆に言えば……もともと魔術をかたちにすることができる認識力を備えているのであれば、邪神の亡骸を摂取する必要などないということになる。
キャロルは邪神ゾアの生まれ変わり。
故に魔術という神秘への理解・認識力を生前のまま保っている彼女は、ゾアの遺物を取り込むまでもなく「石化」の魔術を使うことができる。
さすがに生前のそれと比べて多少の制限や代償はあるだろうが……そこは今後の鍛錬次第でどうとでもなる。自由な生活を目指すには十分すぎるアドバンテージである。
「……ん」
「キャロルさん?」
前世同様に石化の魔術が使える事実に口元を緩くしていたそのとき、全身を貫くような激痛とともにキャロルの視界が揺れた。
平衡感覚というものがキャロルの中からすり抜ける。糸が切れたように、彼女はその場に崩れ落ちてしまった。
「キャロル⁉︎」
「キャロルさん! 大丈夫ですの⁉︎」
アーサーとクラウディアが仰向けのまま動かなくなったキャロルへ慌てて駆け寄る。
ふたりの声と意識が遠のいていく。
人間の魔力量は、その存在を構成する要素のなかに邪神の魂がどれだけ含まれているかの割合が大きく関わってくる。
邪神ゾアの転生体という、魂が丸ごと詰まっているキャロルという存在は前世と同等の規格外の魔力総量を誇っているが、肉体の耐久度となると話は別だ。
(今のわたしじゃ……世界まるごと止めるのは、流石にキツかったか……)
術の対象を大きくとればとるほど、消費される魔力の量は増える。
そして一度に出力できる魔力量の限界は、ヒトによって異なる。
成長途中の幼女の体となれば、世界全体にまで影響がおよぶ魔術の行使のためにかかる負担は途方もないものとなるだろう。
持続時間と引き換えに消費する魔力を最低限に設定していたのが幸いだった。
邪神ゾアとしてのノウハウがなければ出力時の負荷に耐えきれず即死していたかもしれない。
結局その日の鍛錬はそこで中断となり、キャロルは魔力と肉体が回復するまでの数日間はベッドの上で過ごすこととなった。
●
魔術は基本的に魔術師のライセンスを持つ者にしか行使することが許されない。
他のケースだと教師や、特定の人間に師事するために仮のライセンスが発行された者など……。まとめると政府の認可が下りた人間にしか使うことができないのだ。
それに当てはまらない者が魔術を行使するのは、どこの国においても重罪として扱われる。最悪死刑だ。
基礎となる魔力量と、魔力の操作術……そして何より魔術。それらを鍛えるにはまず、魔術師ライセンスという人間社会における魔術使用許可証を手に入れる必要がある。
と、なれば……
「お父さま、わたし魔術師になりたいです」
魔力が回復し、キャロルがようやく父や兄と一緒の食卓を囲めるようになった頃。
妹が突然切り出した言葉にナイフとフォークを動かす手を止めたアーサーは、おそるおそる上座にいる父——キャベロン=ベルスーズに視線を流した。
すぐにでも動揺したキャベロンからキャロルへ平手打ちでも飛んでくるかと思っていたが、意外にも彼は静かな所作でカトラリーをテーブルに置きながら、落ち着いた調子で一言だけ発した。
「ダメだ」
「どうしてですか?」
間髪入れずに押しを入れてきたキャロルを見て、アーサーは気が気でなかった。
「お前は将来、聖騎士になる人間だからだ。魔術の世界など……断じて踏み入れはさせぬ」
一方的な物言いが気に障ったのか、それとも単に父が口にしたことを飲み込めていないのか、キャロルはわずかに眉をひそめる。
「わたしは聖騎士になんてなりたくありません。魔術師のほうがいいです。魔術のほうが学び甲斐があります」
「キャロル、その辺に————」
場の空気が張り詰めてきたのを察し、アーサーは咄嗟に席を立った。
ほぼ同時に、キャベロンも立ち上がり、キャロルが座っている目の前まで歩み寄っていく。
直後、ぱんっ——と、乾いた音が響いた。
遅れて沁みるような痛みがキャロルの頬に広がる。
くるとは思っていたが、案外強めにぶたれた。
じわりとした闘志がキャロルの胸でうずく。
一度でも攻撃されれば即座に相手を滅却するというのが邪神大戦におけるゾアの方針だったが、ヒトの世で同じことをやると色々と面倒そうなのですぐに感情を鎮めた。
「父上っ!」
「つくづくお前はルゥに似ているな」
制止するアーサーの声を無視しながら、キャベロンは冷たく言い放った。
およそ自分の子どもに向ける目ではない。
キャベロンのその眼差しには覚えがあった。
邪神ゾアとして、他の邪神と戦う際に飽きるほど向けられた害意。そしてゾア自身も振り撒いた……自分の世界を侵害する者に対する敵意そのものだ。
——それはそれとして「ルゥ」とは誰のことだろう?
「お前が倒れた原因は一度に大量の魔力を消費したことによる魔力欠乏症だと報告を受けている。ただの鍛錬でそんな現象が起こるはずがない。……何らかの『魔術』を使ったな?」
「父上、その件は……!」
「どこで覚えた? いや……どこで邪神の遺物を手に入れた?」
先ほどまで抑えていたものを爆発させるように、キャベロンは膨れ上がった怒りをキャロルへ突きつけてくる。
キャロルが倒れたのは正確に言うと魔力欠乏症ではなく、許容量を超える魔力を解放したことによる肉体的負荷が原因だが。
まあ大量の魔力を使った、という点で言えば同じか。
この一件は使用人を通じてキャベロンに伝わっていることはわかっていた。
同時にその症状から魔術を使ったという事実が読み取られてしまうことも。
体内で完結する単純な身体強化術で大量の魔力を一度に消費することはあり得ない。
魔力を使った射撃においても……子どもが一度に体外へ出力できる魔力量などたかが知れているため、残る選択肢である「キャロルが魔術を使った」という結論に辿り着くわけだ。
無論、邪神の転生体たるキャロルにその常識は通用しないが。
そう遠くないうちに問い詰められることは予想していた。
だからこそ皆が集まる食事の場にでも、さっさと魔術師になりたいという意思を示しておこうとキャロルは考えていたのだが……。
(うっかりしてた……普通の人間は邪神の死体を取り込まないと魔術が使えないんだっけ)
じんじんと痛む頬を押さえながら、キャロルは静かな怒りを漂わせている父を見上げる。
聖騎士には邪神由来である魔術と、それを操る魔術師を強く敵視している人間が多い。
魔術を使用した——それはつまり邪神の遺物を体内に取り込んだか、もともと特定の邪神を信仰しその血が濃い一族のみで家系を築いてきた者たちであることを意味する。
聖騎士の家の人間であるはずの実子がそれらに相当すると判明すれば、怒りを見せるのは当然と言えば当然か。
むしろキャロルが「魔術師になりたい」と切り出すまで手が出なかっただけ、今の人間社会においては自制心があるほうだと見るべきだろう。
「言え。なんの魔術を使った?」
「お待ちください父上!」
いっそ正直に話してしまおうかとキャロルが口を開きかけたそのとき、庇うようにしてキャベロンとの間に割って入る人影があった。
いつの間にか反対側の席から駆け込んできたアーサーだ。
「鍛錬中、俺はずっとキャロルのそばにいました! キャロルは魔術なんか使ってない! まだ慣れない強化術をひとりで実践して、消費する魔力配分を間違っただけだ!」
「……ふん」
各技術における魔力消費の割合に関する知識があれば苦しい言い訳であることは明らかだったが、意外にもキャベロンはそれ以上の追及をしようとはしなかった。
就寝前、アーサーが氷嚢を持ってきて打たれたキャロルの頬を冷やしてくれた。
「兄さま、ルゥって誰のこと?」
ベッドに横たわったまま、キャロルは頭を兄の方へ向ける。
傍らに腰かけながら氷嚢を支えてくれていたアーサーは少し考えた後、小さく息をついて口を開いた。
「俺たちのお母さまだよ」