1.邪神と少女
人間社会が繁栄するよりも前の時代、「邪神」と呼ばれるものたちが地上の覇権をかけて争った。
それぞれが完成された個体である邪神たちは互いの存在を拒絶し、殺し合う。
邪神にとって自分に匹敵する力を持つ他というものは、自己の世界を侵害する害でしかなかった。
個体として完成された存在だからこそ引き起こされる、存在意義をかけた闘争本能。それが邪神たちの戦う理由。
しかしそのなかで唯一、戦い以外に意味を見出した邪神がいた。
その名はゾア。
邪神たちの争いを勝ち抜き、最後の邪神となった最凶の存在。
そして邪神で唯一、純粋に「自由」を求めた邪神だった。
ゾアにとってこの世は煩わしいもので溢れていた。
常に他の邪神から命を狙われ、それらすべてを打ち倒した後も人間たちから恐れられ憎まれ、攻撃される。
地上で最強の生物となり、最上級の「自由」を手にしたゾアだったが、それでもその心は満たされることはなかった。
「邪神」である限り本当の自由は手に入らないのだと悟った。
故にゾアは最終的に自ら生命活動を停止させ、次の世界に己の欲望を託すことにした。
誰にも侵害されない「自由」という欲望を。
花に生まれ変わろうが、
獣に生まれ変わろうが、
ヒトに生まれ変わろうが、
はたまた邪神としての生を受ける以前に何者であったのかも関係ない。
自分が何者であろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
煩わしいものがうろつくことのない、穏やかで安らぎだけが存在する世界。
自分の思い描いたことをすべて実現できる世界。
そんな夢と希望を抱いて、邪神ゾアは死んだ。
●
——わたし、邪神だった。
四歳の少女——キャロル=ベルスーズは自分が邪神の生まれ変わりであることを唐突に思い出した。
きっかけは明白である。
目の前で開かれている書物。これが偶然視界に入ったことで、キャロルは前世の記憶を取り戻したのだ。
記されているのはこの国……キャビンテッド王国の成り立ちについて。
邪神大戦を制した最後にして最凶の邪神・ゾアが滅びた土地。
当時の人間の英雄が突然消えたゾアを見張るために定着したことを始まりに、時代が変わり邪神の脅威が人々から忘れ去られていくなかで街へと発展していったのだという。
そのページにある内容だけに目を通したキャロルは歴史書かと思っていたが、古めかしい表紙を確認してみると「魔術」の文字が見える。
学術書であることは確かなようだが……なにやらただならぬ雰囲気を感じ、手を止めた。
同じページにある文字の連なりを改めて追いながら、当時の出来事をキャロルは思い返す。
たしかに邪神たちをすべて倒した後、執拗について回ってはちくちくと剣で触手をつついてくる人間がひとりいたが、「英雄」とは彼のことを指しているのだろうか。
べつに彼に倒されたわけではない。スケールの小さい勘違いを歴史に記してしまうなんて、ヒトらしく、可愛らしい所業である。
生命活動を停止するために能力を使って現実の法則から切り離された異空間へ移動しただけなのだが、人間からすれば突然消えたように見えたらしい。
その場で生涯を終えるほど待っていてくれるなんて、もしかして自分が好きだったのだろうか。信仰してくれる人は何人もいたけど、なんだか申し訳ない。
それはさておき、だ。状況だけを見ると、邪神ゾアは人間の少女として転生を果たしたようである。
邪神であった頃は移動するだけで街ひとつを轢き潰してしまうほどの巨体を有していた。が、今は面白いくらいの矮躯である。
水晶の繊維で編んだのかと思わせる透明度の高い銀髪。大きな黄金色の瞳は高級ドールに埋め込まれた宝玉のよう。
無害どころかその場にいるだけで何かしらの恩恵が授かれそうなほどに神秘的な外見だが、その印象と内面に抱えた黒い感情とではあまりにも相反していた。
生前の願望である「自由」は、邪神としての自我があってこそ望めるというもの。
か弱い人間の姿であろうと関係ない。
邪神としての生を覚えている限り、ゾア——もといキャロルはこの世で最も強い生物を目指す。それが「自由」への近道だからだ。
今の自分はどの程度の力を備えているのだろうか。
——確かめたい。力を振るいたい。
そう思って全身から魔力を立ち上らせた直後、
「ここにいたのか、キャロル」
部屋の扉が開かれ、床の書物に目を奪われていたキャロルの背中に声がかかった。
振り返った先に佇んでいたのは線の細い、整った顔立ちの金髪の少年。歳は十だったはず。
彼のことは知っている。今世の——キャロルの兄にあたる人間だ。
「もうすぐお友達が来る時間だろ? 出迎える準備をしなきゃダメじゃないか」
「……アーサー兄さま」
「って……ああっこら、床に座るのもはしたないぞ。髪も汚れてしまう。せっかく綺麗なんだから……」
ベルスーズ家長男・アーサーは散乱している書物を床へお尻をつけたまま読み漁っていたキャロルの脇をひょいと抱え、立ち上がらせる。
「それにここは父上の書斎だろ。勝手に入ってはいけないよ」
「ごめんなさい。気になる本があったから……」
「気になる本?」
キャロルが細々と発したことに釣られるように、ふとアーサーは周囲を見た。
床に散乱しているものと、本棚に整頓されている書籍。
聖騎士の家系……その当主の書斎らしく、ほとんどが剣術にまつわる本だ。
だが一部はその限りではなかった。
ちょうどキャロルが読んでいた本——床に落ちていたその表紙を見るや否や、アーサーはなにかを思い出すように言葉を失うと、キャロルの手を引くと慌てた様子で一緒に部屋を出た。
そのまま廊下でしゃがみ込んだアーサーは、キャロルの肩に手を添えながら「兄さんの目をよく見て」と意識を向けさせてくる。
「キャロル、よく聞いて」
「うん」
「ここにある本は勝手に読んじゃダメなんだ。もっと大人になって、父上の許可をいただかないと手にとってはいけないんだよ」
やけに真剣に話すアーサーの表情は、まるで火遊びでもしていた子どもを叱るよう——いや、それ以上に大事であるかのような口ぶりだった。
「……どうして?」
「それはまた今度話そう。さあ、そろそろクラウディアちゃんが来る時間だ」
穏やかに笑ったアーサーがキャロルの手をしっかりと繋いだまま、階段の方へ連れていく。
彼が父の書斎から——そしてそこにある「魔術」の本からキャロルを遠ざけようとしていることは、すぐにわかった。
「お久しぶりですわ、キャロルさん〜!」
「こんにちは、クーちゃん。先週も会ったけどね」
アーサーに連れられて庭へ足を運ぶと、キャロルと同い年くらいの女の子が駆け寄ってきた。
背丈も同じ。
だがハグのために回してきた腕から伝わる力は幼子のものとは思えないほど、キャロルにその存在感を主張していた。
「またすこし……筋力がついたみたいだね」
「日々鍛錬していますから!」
手入れが大変そうなボリュームのある青い長髪を振り乱しながら、彼女は無邪気に笑う。
クーちゃんことクラウディア=クリシス=クルトルフは、家の付き合いで以前から会う機会の多い——いわゆる幼馴染である。
ベルスーズ家とクルトルフ家の当主様たちは旧友の間柄らしく、週に一度は剣の訓練がてら使用人と共にこうしてやって来るのだ。
ベルスーズもクルトルフも魔物を狩り人々を守る「聖騎士」の家系。
兄のアーサー含め、その後継であるキャロルやクラウディアには幼い頃から諸々の英才教育を施しているのである。
具体的になにをするのかというと単純で、アーサーから剣術の基礎を教えてもらおうという会である。
英才教育とは言ったものの、四歳の少女たちにいきなり現役聖騎士による指南を行うのはさすがにまだ早い。
そこでアーサー自身の反復学習の意味も込めて、歳の近い彼に初歩を教えてもらおうというわけだ。
まあ、実のところおままごとに近いのだが。
「ふたりとも、魔力はもう起こせるよね?」
「はい!」
「たぶん……」
動きやすい格好に着替えた後で木剣を手にとったアーサーは、同様に訓練着姿になったちんちくりん二名に向けて話し始める。
同時にキャロルは父の書斎で見た本の記述を思い出していた。
この世界に生きる人間の九割には「魔力」と呼ばれる神秘の源が備わっている。
そして元を辿るとそれは、すべて「邪神」に行き着く。
「魔力」とは本来邪神にのみ備わっている神秘の源。
もともとは人間が行使できる力ではない。今は人類の九割が秘めている魔力はすべて、邪神大戦が終結したあとに長い年月をかけて混血とともにヒトの間で受け継がれてきたものである。
邪神たちが滅んだあと、当時の人間たちはその亡骸に宿る神秘を無視できなかった。
研究し、その力を我が物にしようと考える者たちがいたのだ。
そうして邪神の遺伝子を取り込み、「魔力」を操れるようになったというのが、現代に至るまでの人間の歴史である。
要するに今を生きる人々の先祖は、邪神の死体を食べたことで同じ力を使えるようになった存在というわけだ。
……こう改めて情報を整理してみると、人間とはなかなかに大胆な生き物だと思う。
気づかないうちに足元で潰れているような儚い小動物たちが、まさか邪神の遺伝子を取り込むだなんて発想に至るとは当時は考えもしなかった。
というより、単に弱い生き物に興味がわかなかっただけか。
思考を巡らせているうち、キャロルは邪神としての自我を取り戻す以前の記憶もすこしずつ思い出していた。
すっかり忘れかけていたが、以前も父の書斎に忍び込んではこっそり本を読み漁っていたのだ。「魔力」や「魔術」、それにまつわる歴史のだいたいは、この小さく愛らしい頭蓋の中で把握しているはず。
「——やあっ!」
「うん。いい感じだ、クラウディアちゃん」
横でアーサーの指導の下、素振りを行っているクラウディアを一瞥した後、キャロルは手元の木剣へと視線を落とした。
剣——ベルスーズは聖騎士の家系だから不思議なことではないが、やはり剣か、とキャロルは内心残念そうに口角を下げた。
生まれ変わったゾア……もといキャロルが目指す「自由」を実現するには、他者からの抑圧を跳ね除けるための相応の力を身につける必要がある。
まずはヒトの手が届く範囲で実現可能な、「魔力」を用いた武器、すなわち——
「——兄さま、わたし……魔術の鍛錬がしたい」
できるだけさりげなく、それでいて無邪気な声色を意識してキャロルは兄に打ち明けた。
返ってきたものといえば……いつの間にか葬式の場に立っていたかと錯覚するほど沈んだ静寂。
「あ……ははっ、そういえば飲み物を用意していなかったね。クラウディアちゃんはここで待ってて」
「え? は、はい……」
「キャロル、グラスを運ぶのを手伝ってくれるかい?」
「うん」
クラウディアは一瞬流れた重たい空気に身動きがとれないまま、突然動揺したアーサーと彼に連れられていくキャロルを見守るだけだった。
「……きちんと話さなかった兄さんが悪かった」
「飲み物を持ってくるんじゃないの?」
「ああ、そうだよ。でもその前にまたすこしお話ししよう」
庭からすこし離れた屋敷の物陰で立ち止まったアーサーは、廊下でしたときと同じように膝を折ってキャロルと目線を合わせる。
「俺たちは魔術を学んじゃいけない。……邪神の力なんか、身につけてはいけないんだよ」
アーサーの口から出てきた言葉は、キャロルが想像していた通りのものだった。
現代において「魔術」を取り巻く声には支持と反対のふたつの声がある。
ひとつは「魔術という神秘を受け入れ、積極的に発展させていこう」という魔術派。
もうひとつは「邪神の力を源とする魔術なんてこの世から無くなるべき」という反魔術派。
大昔の出来事とはいえ一度人類の文明を滅ぼしかけた邪神という存在への嫌悪感は根強く残っているらしく、割合でいえば魔術派のほうがマイノリティな部類になる。
ベルスーズ家が生業とする「聖騎士」は断然反魔術派の人間が集う役職。
生まれつき備わっている魔力を「魔術」には用いず、単純な体内・体外操作に留めた運用だけを原則とする——という、魔術師とは相容れない考えの人たちがほとんどだ。
当然、キャロルやアーサーの父であるベルスーズ家当主殿も。
「わたしは……聖騎士よりも魔術師になりたい……」
……とまあ現代における価値観は把握しているものの、諦められるわけがないので子どもらしく悪あがきをしてみる。
アーサーは困った顔でしばらく腕を組んで唸っていた。
「——でも、ほら! 剣の鍛錬を続けていれば、だんだん聖騎士になりたくなってくるかもしれないだろ? 街の平和を守る立派な仕事だぞ?」
「魔術師がいい」
「でもな、キャロル……お父様は許してくれないよ」
「……魔術師がいい」
唇を尖らせて固まってしまったキャロルを見てお手上げと言うように立ち上がったアーサーは、引きつった笑みを浮かべながら屋敷の方を向いた。
「ま、まあこの話はまた今度にしよう。今は剣の鍛錬をしなくちゃダメだ。将来どうするにしても、護身くらいは身につけておかないとな」
そう言って食堂があるほうへ歩いて行く兄の背中を、キャロルも無言で追う。
「さあ、次はキャロルの番だ。思い切り打ち込んでこい」
「キャロルさんがんばって〜!」
水分補給を挟んだ後、キャロルたちは稽古を再開した。
話題を逸らされてから「もう魔術の話はおしまい」オーラで全身を覆ってしまったアーサーに細めた眼を向けながら、キャロルは木剣を構える。
どうやら人間の少女・キャロル=ベルスーズとしての生において、順風満帆に魔術を極めることは難しいようである。
聖騎士の家系に生まれてしまったのが運の尽きか。
だがまあ、それは諦める理由にはならない。
(——いいよじゃあ……勝手にいろいろ試すから)
息をひそめ、キャロルは神経を研ぎ澄ます。
ヒトが歴史のなかで紡いできた体系的な学習方法に興味があっただけで、魔術の行使それ自体にキャロルは師を必要としない。
なぜなら彼女の前世は邪神ゾア。
魔術の祖となった邪神——そのなかでも最凶と謳われた魔の権化なのだから。
「——————」
キャロルの瞳の黄金色が一瞬、輝きを増した。
刹那、世界から色が消える。
キャロルを除いたすべてが白と黒に染まった情景のなかで、
対峙していたアーサーも、
見守っていたクラウディアも、
音も、匂いも、肌を撫でる風の感触も、すべてが停止していた。
「なんだ……ぜんぜん使えるじゃん」
凍りついた世界で、ただひとりキャロルだけが活動を可能としている。
生前より愛用していた、邪神ゾアの魔術。
大戦時には人間、邪神問わず無数の敵を葬ってきた神秘の一端。
あらゆる事象の時間を止め、空間を支配する最強の魔術。
「石化」の魔術が前世同様に問題なく行使できることを確認したキャロルは、嬉しそうに人形のような顔を綻ばせた。