第5章
昼休み。
阿鼻叫喚の食堂は、生徒たちの楽しげな喧騒で満ち溢れている。
俺は、雪乃の鉄壁の監視網を「腹痛でトイレに籠る」という捨て身の戦法で掻い潜り、食堂の最も目立たない隅の席で、一人カツカレーを胃に流し込んでいた。
自由だ! これが自由の味だ!
「たくしー! あーっ、こんなところに隠れてたんだね! もー、千夏、すっごく心配したんだから!」
その、俺にとってのささやかで貴重な自由は、背後から響いた太陽みたいな能天気な声によって、一瞬で過去の遺物と化した。
相馬千夏だ。彼女は俺の向かいの席に、何の躊躇もなくドスンと座ると、「もー」とこれ以上なく可愛らしく頬を膨らませる。
「一人で食べちゃダメって、昨日も言ったでしょ?」
彼女がそう高らかに宣言した瞬間、昨日と同じ、しかしより大規模な奇妙な現象が起きた。
今まで俺のことなど気にも留めていなかったはずの、食堂中の生徒たちの視線が、一斉に、まるで巨大な一つの生き物の目のように、俺たちのテーブルに突き刺さったのだ。
「あっ、拓海くんだ!」
「千夏ちゃんと一緒だわ。本当に仲がいいのね、お似合いよ」
なんだ? なんだこいつら?
よく見ると、俺に熱狂的な視線を向ける生徒たちの胸元には、手作りの缶バッジが付けられている。
デザインは、なぜか神々しく後光が差している俺の顔。
カルトだ。完全にカルト集団だ。
「さあ、みんなもこっちおいでよ! たくしーを一人にしちゃダメ! みんなで囲んで、ご飯食べよ!」
千夏の鶴の一声に、生徒たちが「「「わーっ!!」」」と地鳴りのような歓声を上げ、俺のテーブルに津波のように殺到してきた。
あっという間に、俺の周りは狂信者たちの分厚い壁で埋め尽くされる。
「たくしーは私たちの太陽です!」
「はい! 我々『拓海様を温かく見守り隊』は、いつでも、どこでも、拓海様を応援しています!」
「先日、拓海様の髪の毛をオークションにかけさせていただきました! 大盛況でした!」
「おい、それは犯罪だろ!」
俺のツッコミは、狂乱の渦の中に虚しく消える。
異様な熱気。キラキラと輝いているのに、誰一人として焦点が合っていない瞳。
彼らは俺を見ているようで、その実、俺を通して、彼らが妄信し、作り上げた「拓海様」という名の虚像を見ている。
「どう? たくしー。みんな、たくしーのことが、こーんなに大好きなんだよ。だからもう、一人ぼっちになろうなんて、悲しいこと考えないでね。私たちは、いつだって、どんな時だって、たくしーと一緒だから」
千夏が、狂信者たちの頂点で、まるで若き教祖のように、無垢で、そして残酷な微笑みを浮かべる。
四方八方を狂信的な目に晒され、物理的にも精神的にも、俺は完全に逃げ場を失っていた。
カツカレーの味が、だんだん砂のようにザラザラと感じられてきた。
◇
放課後。
俺はもはや、誰にも見つからないよう、ゴキブリのように気配を殺し、壁や天井を伝う勢いで廊下を移動していた。
だが、そんな俺の涙ぐましい努力は、教室を出た瞬間に、圧倒的な暴力によって無に帰した。
「いたぞ! ターゲット、影山拓海を捕捉!」
「確保ーっ! 絶対に逃がすな!」
号令と共に、左右から屈強な体格の男子生徒二人が現れ、俺の両腕を背中に向けて捻り上げた。
ぐえっ、とカエルが潰れたような声が出る。
ラグビー部か? 柔道部か? とにかく、俺の貧弱な抵抗など、風に舞う塵ほどの意味もなさないらしい。
「な、何をするんだ! 離せ! これは誘拐だぞ!」
「悪いな。これも桜井先輩の、絶対的な命令なんでな」
彼らの背後から、夕日を背負って悠然と姿を現したのは、茶髪ショートの桜井美月だった。
「やあ、拓海。さ、行くよ。あんたがまた迷子にならないように、ね」
「行くってどこにだよ! 俺は家に帰るんだ!」
「あんたの帰る場所は、私たちがいる場所でしょ? 決まってるじゃない。私たちだけの、秘密の特訓場所に、よ」
俺は抵抗も虚しく、まるで国家反逆罪で捕まった罪人のように、体育館へと引きずられていった。
夕暮れ時の体育館は、しんと静まり返っている。
その中央に、美月が仁王立ちで腕を組んでいた。
そして、その周囲を、まるで彼女を守る親衛隊のように、同じ運動着を着た十数人の生徒たちが、一糸乱れぬ動きで俺を包囲していく。
その動きは、もはや部活動のそれではなく、特殊部隊のそれだった。
「な、なんだよこれ……何のつもりだ……」
「拓海はさ、ちょっと目を離すとすぐにフラフラどこかに行っちゃうでしょ? 危なっかしくて見てられないのよ。だから、心配で、心配で、夜も眠れないの。だから、みんなで、あんたを物理的に守ってあげようと思って」
守る、だと? この軍隊みたいな状況の、一体どこが。
「もう逃げたり、一人になったりしちゃダメ。約束したんだから。ずっと一緒だって。その約束を、私が守ってあげる」
美月はそう言うと、ポケットから銀色に光る、シンプルなデザインのブレスレットを取り出した。
「ほら、これ付けて。愛の証。お揃いよ」
「い、いらねえよ、そんなもん! 誰がお前となんか!」
「遠慮しないで。これは、あんたを危険から守るための、大切なお守りなんだから」
彼女は俺の罵声など意にも介さず、俺の左手首に、そのブレスレットをカチリ、と冷たい音を立てて装着した。
それは、ただのアクセサリーじゃなかった。
全力で引っ張っても、壁に叩きつけても、びくともしない。
「高性能GPS機能付きだから。これであんたが地球の裏側にいても、すぐに駆けつけてあげられる。良かったね、拓海。これで、もう二度と、一人ぼっちになって道に迷うことはないんだから」
美月が、心の底から俺のためを思っている、と信じきった、純粋な笑顔で笑う。
手首に食い込む、冷たい金属の感触。その重さ。
これは、お守りなんかじゃない。
俺の自由と尊厳を永遠に奪う、電子制御の首輪だ。俺は、桜井美月という名の飼い主の、決して逃げ出すことのできないペットになったのだ。