第4章
悪夢を見ていた。
底なしの沼に、手足に重りをつけられて沈んでいく夢だ。
もがけばもがくほど、ぬるりとした水草が身体に絡みついてくる。
水面から差し込む光がどんどん遠ざかり、代わりに、五人の美少女たちの無感情な瞳が、水面の揺らぎの向こう側から、俺をじっと見下ろしている。
助けを求めようにも、口から出るのは意味のない絶望の泡ばかり。
息が、できない。意識が闇に溶けていく――。
「はっ……! ぜぇっ、はぁっ、ぜぇ……!」
心臓が肋骨の内側で暴れ馬のように跳ねる中、俺はベッドから上半身を勢いよく跳ね起こした。
全身は脂汗でぐっしょり濡れ、上質なシーツが肌に張り付いて不快極まりない。
窓の外は、夜の闇と朝の光が混じり合う、曖昧な紫色に染まっている。
悪夢のせいか、それともこの悪夢のような現実のせいか、こめかみがズキズキと痛む。
「……夢、か」
そうだ、きっと全部夢だったんだ。
ゲームのやりすぎと落雷のショックで、疲れてタチの悪い夢を見ていただけだ。
電撃も、転移も、やたらと距離感のバグった美少女たちも、全部幻。
俺は今、いつもの薄汚い自分の部屋の布団の上にいるはずだ。
そんな淡い、しかし切実な期待を込めて、俺はゆっくりと周囲を見渡した。
そして、その希望は、高層ビルから落とされたスイカみたいに、木っ端微塵に砕け散った。
部屋は、昨日と寸分違わぬ、無駄に広くて、無駄に豪華な、ゲーム世界の自室だ。
それだけじゃない。明らかに異常な変化が起きていた。
昨日、俺が絶望のあまり脱ぎ散らかした制服は、完璧にシワが伸ばされてハンガーに吊るされている。
ベッドサイドに放り出したままだった、現実世界から持ってきたらしい俺のスマホは、指紋ひとつなく磨き上げられ、ご丁寧にも充電ケーブルに繋がれていた。
読みかけで床に放置した漫画に至っては、巻数順にきっちり本棚に収められている。
誰かが、俺が寝ている間にこの部屋に入り、俺の私物に触った。
その事実が、背筋に氷の杭を打ち込まれたような、鋭い悪寒をもたらした。
「おはようございます、拓海さん。昨夜はよくお眠りになれたでしょうか? 少々うなされていたご様子でしたが」
音もなく、まるで空間から湧き出たかのように、背後に完璧な気配が現れた。
ビクッ、と心臓が縮み上がる。もはや条件反射だ。
恐る恐る振り返ると、そこには完璧な笑みを浮かべた天宮雪乃が、朝食の乗った豪奢なシルバートレイを手に、音もなく立っていた。
「あ、あまみや、さん……いつから、そこに……」
「あなたが心地よいレム睡眠からノンレム睡眠に移行される、その二時間前から、ここでこうして目覚めの瞬間をお待ちしておりました。さ、まずは朝食です。あなたの完璧な一日は、完璧な食事から始まりますから」
テーブルに手際よく並べられていくのは、三つ星レストランのコース料理もかくや、という品々だ。
焼き加減が寸分の狂いもないサーモンのソテー、5ミリ角に正確に切り揃えられた温野菜サラダ、一滴の濁りもない黄金色のコンソメスープ。
栄養バランスも彩りも完璧。
完璧すぎて、逆に毒でも入っているんじゃないかと疑ってしまう。
「さあ、どうぞ。今日も私が食べさせてさしあげましょうか? あーん」
「結構だ! 自分で食える!」
俺はひったくるようにスプーンを手に取る。
これ以上この女のペースに巻き込まれたら、俺という個人の尊厳が、完全に消滅してしまう。
俺が警戒心丸出しで食事を始めるのを、雪乃は満足そうに見守りながら、昨日と同じタブレット端末を取り出した。
「では、本日のあなたのスケジュールを確認します。7時30分、起床。心拍数、やや高め。悪夢の影響でしょう。7時35分、私との心のこもった挨拶。7時40分、完璧な朝食……順調ですね」
彼女が淡々と読み上げるスケジュールは、昨日以上に狂気の度合いを増していた。
「8時45分、トイレ(小)にて体内水分量の調整。目標排出量は250mlです。これにより体内の老廃物を効率的に排出し、9時からの授業に備えます。10時32分、二限目終了後、私がお持ちする特製ブレンドのハーブティーでリフレッシュ。ストレス値を5%低下させる効果が期待できます。12時30分、昼食。本日のメニューは、あなたの脳の活性化を促すDHA豊富な青魚定食です。咀嚼回数は、一口につき最低30回を遵守してください。消化を助け、午後の活動効率を最大化します。15時からは15分間の瞑想タイム。思考の最適化を図り……」
「もういい! もういい加減にしてくれ!」
俺は耐えきれずにスプーンを皿に叩きつけた。
ガチャン、と虚しい音が響く。
「なんだよそれ! 咀嚼回数!? トイレの量!? 俺は家畜か何かか! 俺の行動を、あんたに指図される筋合いは、これっぽっちも、ないんだよ!」
俺が生まれて初めて見せた、魂からの叫び、渾身の反抗。
しかし、雪乃の完璧な微笑みは、嵐の中の灯台のように、びくともしない。
彼女は困ったように、しかしその瞳の奥はどこか恍惚と嬉しそうに輝かせながら、ゆっくりと首を傾げた。
「困りましたわ、拓海さん。あなたには、まだ自己管理の本当の重要性がご理解いただけていないようです。ですが、ご安心ください。そんな未熟で不完全なあなたを、完璧にサポートし、理想のあなたへと導くために、この私は存在しているのですから」
彼女はすっと立ち上がると、優雅な仕草で部屋の隅の天井を指さした。
「例えば、こちらです」
指さされた先には、天井の精緻な装飾に巧妙にカモフラージュされた、米粒ほどの黒いレンズがあった。
「それは……まさか……」
「はい。超小型の広角監視カメラです。あなたのプライベートを完全に守るため、昨夜のうちに増設させていただきました。あなたの部屋の四隅、バスルーム、トイレの内部。そして廊下、教室、食堂……学園の主要施設すべてに設置済みです。あなたの安全と、完璧な成長過程を記録するため。これも、完璧な愛と、完璧な管理の一環ですわ」
……終わった。
俺のプライバシーは、今、完全に死亡宣告を受けた。
この部屋はもはや俺の部屋ではなく、二十四時間、三六五日、全世界に生放送中の観察ケージと化したのだ。
絶望に染まる俺の顔を見て、雪乃はうっとりとした法悦の表情で微笑んだ。
「さあ、拓海さん。今日も、完璧で素晴らしい一日にいたしましょうね」
その笑顔は、もはや聖母でも、監視官でもない。
獲物を完全に手中に収めた、美しき捕食者のそれにしか見えなかった。