第3章
心身ともに、とっくの昔に限界を突破していた。
完璧主義の生徒会長に一日の全てを管理され、異常に馴々しい転校生に集団での食事を強要され、存在しない記憶を持つ自称幼馴染に腕を破壊されかける。
なんなんだ、このクソゲーは。
俺が望んだ理想のハーレムは、もっとこう……プレイヤーに優しくて、心温まる選択肢に満ち溢れたやつだったはずだ!
よろよろとゾンビのような足取りで校門までたどり着くと、そこにはまたしても、俺を待ち受ける人影が。
夕闇に縁取られた、美しい金髪の縦ロール。
まるで中世の貴婦人のように、豪華なドレス然とした制服を着こなしている。
大財閥の令嬢、白石凛が、感情の読めない無表情で俺を待っていた。
「お待ちしておりました、影山拓海様」
「え、また俺? もう勘弁してくれよ……」
「あなたを待つ時間に、苦痛などございません。それよりも、本日のあなたの活動費用です。どうぞ、お受け取りください」
そう言って、凛は一枚の紙を、まるで執事が手紙を渡すかのように、スッと差し出してきた。
それは、ニュースやドラマでしか見たことのない、『小切手』という名の魔法の紙だった。
書かれているゼロの数を、俺は思わず二度見、三度見した。
「は? なにこれ? いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……いっせんまんえん!?」
「はい。何か計算が合いませんでしたか?」
「合う合わないの問題じゃない! 不足っていうか、過剰供給にも程があるだろ! なんで俺なんかに一千万もくれるんだよ!?」
「あなたの貴重な時間を、私が購入したのです。これであなたは、他の不純で非生産的な存在に煩わされることなく、私との有意義な時間を過ごすことが可能になります。これは正当な契約です。当然の対価をお支払いしたに過ぎません」
淡々と、しかし有無を言わせぬ絶対的な口調。
彼女の辞書に、「遠慮」や「常識」という言葉は存在しないらしい。
このままだと俺の人生そのものに値札が貼られ、オークションにかけられてしまいそうだ。
「いや、気持ちだけ受け取っておく!」
俺は人生で一番の丁重さで(つまりは全力でビビりながら)その申し出を断り、脱兎のごとくその場を後にした。
運営から割り当てられたらしい、無駄に広い自室に転がり込み、鍵をかけ、ベッドに倒れ込む。
もう疲れた。今日は色々ありすぎたんだ。
ふと、窓の外に、誰かの視線を感じて顔を上げる。
向かいの校舎の、明かりの消えた窓際に、一人の少女が立っていた。
闇に溶け込むような黒髪ロングに、知的な印象を与える眼鏡。
物静かな文学少女、月島詩音だ。
彼女はただ、じっとこちらを見つめている。
その手には、分厚いノートとペン。何かを猛烈な勢いで書き留めているようだ。
俺の視線に気づくと、詩音は小さく、しかし丁寧すぎるほど深く会釈して、すっと闇の中に消えていった。
なんだ……? 今の……。
不審に思い、恐る恐る窓際に近づくと、窓枠の隙間に、綺麗に折り畳まれた小さなメモが挟まっていた。
開いてみると、そこには美しい、しかし機械的な文字が並んでいた。
『17:32 影山拓海、窓辺に立つ。呼吸数、平常時より1分間に12回増加。心拍数の上昇を推測』
『17:33 私の存在に気づく。瞳孔が3ミリ開く。驚愕と恐怖の感情を読み取る』
『17:34 困惑の表情。約4.5秒間、硬直。彼の一挙手一投足、全てが愛おしい』
「ひっ……!」
声にならない悲鳴が喉から漏れた。
背筋が凍るなんてレベルじゃない。
全身の血液が、一瞬で氷に変わったかと思った。
いつの間に? どうやって? この部屋に盗聴器でも仕掛けてあるのか?
完璧な管理。異常な親愛。物理的な束縛。経済的な支配。
そして、病的なまでの監視。
役者は、最悪の形で揃ってしまった。
聖エリーゼ学園が誇る五人のヒロイン全員による、俺、影山拓海を巡る、巨大な包囲網が、今まさに完成したのだ。
「……まあ、でも……見方を変えれば……これってつまり、俺がめちゃくちゃモテてるってこと、だよな?」
ガタガタと震える声で、俺は必死に自分に言い聞かせる。
そうだ、きっとそうだ。これは俺の長年の願いが叶った結果なんだ。
ちょっとみんな、愛情表現が過激で、ユニークなだけなんだ。
そう。きっと、たぶん、おそらく。
そうでも思わなければ、この狂ってしまった理想の世界で、明日からの正気を保てそうになかった。