第2章
昼休み。
雪乃の完璧すぎるエスコート(という名の鉄壁の監視)から、トイレに行くフリをして一瞬の隙をついて逃げ出した俺は、中庭のベンチで一人、荒ぶる精神を鎮めようとしていた。
「たくしー、発見♪ お昼食べよっ!」
まるで子犬が駆け寄ってくるような、太陽みたいな声が降り注いだ。
声の主は、快活そうなオレンジ色の髪をツインテールにした、大きな瞳が子猫のように愛らしい少女。
彼女は、ゲームでは人懐っこいキャラの、相馬千夏だ。
「えっと……相馬、さん? たくしーって……」
「ちーなーつ! 千夏だよ、たくしー! もー、照れちゃって可愛いんだから!」
彼女は俺の返事を待つこともなく、ごく自然に隣に腰を下ろす。
近すぎる距離感に思わず身体を引くと、千夏は「えへへ」と屈託なく笑った。
そして、大きな風呂敷包みを解き始める。
中から現れたのは、どう見ても二人分とは思えない、豪華絢爛な三段重の弁当箱だった。
「たくしーのために、頑張って作っちゃったんだ! さあ、遠慮しないで! まずは千夏特製の卵焼きから、あーんして?」
「いやいやいや! 待て待て! 自分で食えるから!」
千夏が満面の笑みで差し出す卵焼きを、俺は全力で避ける。
よく見ると、彼女の手作り弁当は、タコさんウインナーの一つ一つに海苔で俺の顔が几帳面に描かれているという、愛情を通り越して若干のサイコパスみを感じる代物だった。
「えー、どうしてー? たくしーは一人でご飯食べちゃダメなんだよ? 寂しいでしょ? 一緒に、楽しく食べなくちゃ」
「いや、俺は一人で静かに食べるのが好きなタイプで……」
悪いとは思ったが、この異常な馴々しさにはついていけない。
俺がやんわりと、しかし明確に断ろうとした、その瞬間だった。
ピシリ。
まるで、薄い氷にヒビが入るような、そんな幻聴が聞こえた。
さっきまで太陽のように輝いていた千夏の笑顔が、嘘のように消え失せ、その表情が能面のように凍りついた。
「……たくしーは、私が作ったお弁当が、嫌い?」
声のトーンが、三度ほど低い。
ぞわり、と鳥肌が立った。
「え、いや、そういうわけじゃないんだ! 美味しそうだよ!?」
「じゃあ、どうして? どうして一緒に食べてくれないの?」
彼女の大きな瞳が、じっと俺を捉えて離さない。
そこにはもう、さっきまでの快活な光はない。
何かを値踏みするような、無機質な光だけが宿っている。
「一緒に』いれば、誰も悲しまないんだよ? 誰も捨てられないんだよ? たくしーは一人ぼっちになっちゃダメなんだ。絶対に。ずーっと、ずーっと、一緒に、幸せでいなくちゃいけないの」
次の瞬間、彼女はまた、さっきまでの太陽のような笑顔に戻っていた。
だが、俺にはもう、その笑顔が偽物であることしか分からなかった。
執拗に「一緒に」という言葉を繰り返す千夏から、俺はまるで集団で取り囲まれているかのような、得体の知れない圧力を感じていた。
◇
放課後の廊下は、傾きかけた西日でノスタルジックなオレンジ色に染まっている。
なんとか千夏の「一緒に食べよう」攻撃を振り切り、自分の下駄箱へと急いでいた俺の目の前に、仁王立ちで立ちはだかる人影が現れた。
活発そうな茶髪のショートカット。
少し吊り上がった勝ち気な瞳が印象的だ。
しなやかに引き締まった手足は、彼女がただ者ではないことを物語っている。
運動部エースの幼馴染キャラ、桜井美月だ。
「拓海! こんなところにいたんだ。あんた、昼休みどこ行ってたのよ」
「桜井さん……だよな?」
俺の記憶が正しければ、彼女とも今日が初対面のはずだ。
なのに、美月はまるで十年以上も隣に住んでいたかのように、気安く話しかけてくる。
「何言ってんのよ、今更。水臭いな。それより拓海、あんた、小学校の時の約束、ちゃんと覚えてるんでしょうね?」
「……約束?」
「しらばっくれるな! 忘れたなんて言わせないんだから。ほら、六年生の時、卒業式の後に、学校裏の公園の砂場で、二人で指切りしたじゃない。『大人になっても、ずっと一緒だよ』って。あんた、泣きながら言ったくせに」
そんな記憶は、俺の脳内ハードディスクのどこを検索しても、影も形も見当たらない。
俺の小学校時代のハイライトは、給食の揚げパンを巡って鈴木と殴り合いのケンカをしたことくらいだ。
甘酸っぱい思い出など、ひとかけらも存在しない。
「ごめん、マジで覚えてないっていうか……多分、人違いじゃ……」
「そっか……」
美月は一瞬、本気で傷ついたように俯いた。
その姿に、俺は少し罪悪感を覚える。
だが、その感傷は、次の瞬間に絶叫へと変わった。
「だったら、思い出させてあげるッ!」
ガシッ!
「いっっってえええええええええ!?」
美月が、俺の右腕を掴んだ。
尋常じゃない握力だ。
工事現場の油圧プレス機か何かに挟まれたかのようだ。
ミシミシと、骨が軋む音が聞こえる。
「覚えてないなら、身体に刻み込んであげる! 約束は、絶対なんだから! 拓海は、私から離れちゃダメなの! 私が、絶対に守ってあげるから!」
ニッコリと、一点の曇りもない笑顔で言い放つ彼女の顔は、快活なスポーツ少女のそれとは程遠い、獲物を見つけた肉食獣のようだった。
腕に食い込む指の耐え難い痛みだけが、これが悪夢のような、しかし紛れもない現実であることを、俺に教えてくれた。