わたくしっ離縁します〜記憶もないのに既婚者とかご勘弁を〜
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「フローリアッ…………。
やはり生きていたッ…………リア………リア………」
リアは硬直して固まった。
突然赤い『だれか』に抱き上げられ顔中を啄まれたのだ。
甘いスパイシーな薫りがする。
ただわかるのはこの『だれか』がこの屋敷のヒトではないこと。
リアは硬直したまま気配を探す。
背後にいつもの匂いを感じてなんとか声を絞り出した。
『エーデル公爵様………?』
「うん。ルドルフ。駄目だ。彼女を降ろして」
背後にいるこの屋敷の主エーデル公爵はリアの問いかけには応えず誰かに命令している。
「ッ…………何を言うッ…………?
お前の指図は受けないぞッ…………?!
リアッ…………無事だった………。探した………探したんだ」
リアを抱きしめる紅い「だれか」が悲痛な声を出す。
声色でわかる。
この「だれか」は泣いている。
声色から『男の方』だと言うのはわかる。
急に抱き上げられ困惑しか無いがリアはこの「だれか」を気の毒に思った。
そっと彼の背を撫でたらますます掻き抱かれた。
『もし………?
どなかか存じませんが離して下さいませんか?』
リアを抱きしめる「だれか」の息を呑む音が聞こえた。
耳を澄ますとこの部屋に入室したヒトは複数いたらしい。
部屋が何やら「困惑」に揺らめいているのを感じた。
それでもまだ離してもらえない状況にリアはますます身体を固まらせた。
『エーデル公爵様………?』
「ごめんよ。リア。彼は感動のあまり早急だったね?
ルドルフ。
『彼女の望み』だよ?離してくれるよね?」
ビクリと固まった「だれか」は少し腕の力を緩めてくれた。
そこからそっと身を離してリアは背後のエーデル公爵に縋り付いた。
また息を呑む音がする。
何が何やらわからない。
ぼやける目を顰めながらもリアを支えた公爵を見上げた。
彼の髪の赤を頼りにリアはその頬を撫でた。
『公爵様?』
「すまない。
彼に会えば『思い出す』と思ったんだ。でも………」
エーデル公爵の苦笑いの声を聞きながらリアは呆れた。
何も聞かされず『応接間に会わせたいヒト』がいるんだと言われたらこれだ。
『びっくりしますわ?説明を。公爵様?』
「ごめんごめん………」
「フローリア?リア………?」
また悲痛な声が後ろからした。
話を中断されてイライラするのだけど声があまりにも悲しみを湛えていて気の毒に思う。
こんなにも相手が困惑しているのはこの『ちゃらんぽらんな』公爵にあるのだろうと思い至ったリアは頬らませた。
『公爵様?わたくしの『状況』を話していらっしゃらないの?
あの方は「困惑」して「悲しんで」らっしゃるわ?
いつも『要点』を『簡潔』にと言ってますでしょう?』
「うん。手紙を出したのは昨日で。
まさかこんなにも早く訪れるとは思わなかったんだよ」
『まぁ………?』
リアは声がしたほうに振り返る。
紅い「だれか」のあたりを見つめて小首を傾げた。
『公爵様が説明不足で申し訳ありません。
えッ…………と?
わたくしの知り合いのかた?
『フローリア』とは?
わたくし………『リア』としか覚えていませんの。
記憶があいまい………でして。
あと………』
焦点が合わず難儀する。
キョロキョロしながら途方に暮れた。
『視力が悪く………。
この場にいらっしゃる方の容姿も良く見えませんの』
「お姉さまッ…………?」
悲鳴が聞こえた。
その声は少し甲高い声だった。
少女がいるらしい。
その少女も泣いているらしい。
すすり泣く音が聞こえた。
「リアは海難事故の影響なのか『視力』を著しく悪くしていてね?
今、目を治療しているんだ。
妖精族では『眼鏡』なる視力を補う道具があるんだけど、なかなか職人が来れなくてね?」
「フローリア?髪色まで変わるほどの恐怖に加え視力まで?加えて記憶を………?」
今度は威厳のある『初老』と思われる声が響いた。
声色は震えている。
その震えは「困惑」と「心配」を混ぜ合わせたようであった。
「フローリア………さん?僕だ。フランケルだ。
僕の声もわからない………?」
今度は少し若い男性の声だ。
この男性の声も「悲痛」である。
『エーデル公爵?説明を』
リアはイライラした。
背伸びしてエーデル公爵の頬のあたりをポンポン叩いた。
息を呑む音がする。
「リア?
僕も半信半疑だったんだよ。
でも『身内』の彼等が一目見て君を『フローリア』と呼ぶのだから。
君は確かに僕の記憶の中の『フローリア』に間違いないと思う」
だからさっきから説明になっていない。
リアはため息を吐きながらもそっぽをむいた。
それに初耳だ。
彼の口調だと彼は記憶があった時のリアと知り合いだったらしい。
(なるほど。
知り合いの疑念があったから修道院に送りもしないで手元に置き続けていたのね)
リアは今まで全幅の信頼を寄せていた公爵に裏切られた心地がしたがそれを振り払った。
ちゃらんぽらんに見えて彼は公爵だ。
この竜人族の王族の次に貴い位の方。
こんな小娘をただの情で保護するなどありえないことだ。
(リア。駄目よ。
気を確かに。私だって公爵を利用しているのだから。
殿方の好意があるうちに早く回復して、とんずらしようと思っていたじゃない………)
公爵が彼等を『身内』と呼ぶのだから「見つかった」のだ。
その事実は喜ばしかった。
ここに保護されて早三ヶ月ほど経つ。
海辺に倒れていた瀕死のリアが「記憶がない」とわかってから公爵は、己の職務のあらゆる人脈を駆使してリアの身元を証明しようとした。
リアは妖精族らしい。
リアを治療した医師が言うならそうなのだろう。
白い肌。
華奢な、か弱い身体。
尖った耳。
背中に羽骨があり際には羽管がある。
それらの特徴は正しく妖精族であった。
この『竜人国』には珍しい種族である。
リアは当初自分が『人身売買』から逃げ出したのではないかと思っていたのだ。
妖精族はか弱く従順で見目麗しく竜人族の変態から『愛玩』されているらしいのだ。
竜人族が建国した『竜人国』と妖精族が建国した『妖精国』は近年まで『敵対国』であった。
なんでも1000年もの長い間血で血を洗い領地を富を資源を奪い合う険悪さであった。
それを近年『和平』を国王同士が結んだのだ。
それらは喜ばしかった。
文化もヒトも商売も行き来しだした。
ただそこに『闇』が産まれたのだ。
『妖精族女の人身売買』が蔓延ったのである。
最近妖精族側の警備局や国軍に摘発された組織の〝被害者〟はまだまだ竜人国の各地にいるらしい。
リアを保護したエーデル公爵もそれらを疑い、警備局に妖精族での『捜索願』がないかと尽力してくださったのだ。
それらは徒労で終わった。
リアは妖精族にしては風貌が珍しかったのだ。
黒髪であったから。
妖精族は多種多様の髪色を持つ。
一番多いのが金髪。
その他は淡い色合いの髪色が多く。
黒や赤のような『どぎつい色彩』の頭髪は珍しいのだという。
珍しかったからすぐ知り合いが現れると思ったのだ。
それらは打ち砕かれリアが次に考えたのは『孤児院出身者』だということ。
平民よりも『拐かしやすい』のだから。
それらはエーデル公爵に否定されてしまったのだ。
何故ならリアの言動も所作も『一流の教育』の片鱗が見て取れるからと。
そんなリアの知り合いが現れたのだ。
それはリアの『自立』への足掛かりとなるのだ。
肉親からの援助や支援ならここまで罪悪感を感じることはない。
自立して公爵への恩を返せる道を模索していたのだから渡りに船だ。
『遠路はるばるこの方達は妖精国からいらしたのですか?
父上?母上?
声色からは………兄上か………妹もいるのかしら?
家族皆で?来てくださったの………?』
「いや………?
うん。父………兄?妹は正しいのだけど………」
『公爵様………?』
エーデル公爵様の歯切れが悪い。
今度は背後の気配に困惑から怒りを感じた。
「フレディッ…………いい加減にしろ。
馴れ馴れしく触れるのすら許しがたいのに。
記憶喪失………?
視力低下………?
髪色まで変わっているじゃないか?
手紙には『会える状態になった』と記したのみ。
貴方のそういういい加減な所が気に入らんッ…………。
早急にフローリアを返してくれッ…………」
彼の悲痛な怒号にリアは再び固まった。
キョトンとするリアの頬を擦りながらエ―デル公爵はリアを抱き上げた。
悲鳴が聞こえた。
『リア。君は………。
彼の声は?匂いは?覚えがあるかな?
少し顔を触らせてもらおうか?』
エ―デル公爵はリアの返事を待たずに移動する。
急に歩くから身体が『揺らめいた』。
リアはいつものように公爵にしがみつく。
頭上で彼の笑う声がした。
どうも彼は『大雑把』なのだ。
リアは視力が低下していても四肢は健康体である。
手を添えてくれるか背を押して導いてくれれば事足りるのにいつも抱えてしまう。
散々『運動不足』になるからとリアが諌めても止めない。
『君がこんなに歩けるようにしてくれたんだ。
この脚は君のためにあるんだよ?』
と理由のわからないことを言うのだ。
いつものように喉から出かけた抗議をリアは呑み込んだ。
客人のまえで端ない。
高貴な方の『公爵』の地位を貶めてはいけない。
『失礼………します?』
リアはおずおず両手を伸ばした。
途端体勢は崩されまた彼の腕の中にいた。
背後から公爵の苦笑いが聞こえた。
また抱え上げられたらしい。
記憶がないと言っているのにまだこの『だれか』は早急な様子らしい。
諦めてリアは紅い「だれか」の顔に手をすべらせた。
ぼんやり見える彼の肌は浅黒く瑞々しく滑らかだった。
そっと横に滑らせるとザラついた所があった。
『傷跡』があるらしい。
『あッ…………』
傷跡を触ったことで手を引っ込めたのだけど「痛くない」と彼が漏らすからまた触りだした。
高い鼻や渓谷のような眉間の皺をなぞる。
丸みを帯びた耳も辿る。
時折彼が呻くから手を何回も引っ込めた。
ただ何回も引っ込めるリアの手をそっと握り込まれてしまった。
彼の大きな手に握り込まれリップ音がする。
啄まれているらしい。
『もし………?擽ったいです』
「ッ…………わからないのか?」
『ごめんなさい………』
彼の悲痛な声がますます泣きそうでリアも悲しくなった。
頬を擦り慰めたいのに擦れない。
『少し………覗き込んでも?』
リアの視力は『乱視』に『近視』と言うらしい。
遠くは見えづらいが近くは焦点が合いやすい。
「ッ…………存分に」
リアはゆっくり彼の紅い髪あたりを目標に顔を近づけた。
段々ぼやけた色が鮮明になる。
まだ歪みぼやけているのだけど彼の紅い瞳とかち合った。
『まあッ…………?なんて美しいルビーの煌き……』
彼の瞳は紅い燃えるような宝石だった。
その赤は蜂蜜を蕩けるような揺らめきだった。
「ッ…………リア………。
ルーだ。君の夫だ。
ルドルフだッ…………」
『ル―………?ルドルフ………?…………夫?』
リアは噛みしめるようにその名前を呟いた。
しばらく思案して小首を傾げた。
『記憶もないのに既婚者とかご勘弁を………。
公爵様………本当に説明が足らなくて困惑しますわ?
『身内』とは言え『婚家』では全然わたくしの身元の証明にならないではありませんかッ…………?』
「え?そうか………。ごめん。思慮が浅かったよ」
「リア?本当にわからないのか?」
『生憎ですが』
悲痛な声が頭上から震えて降ってくる。
『「肉親」でしたら間違えようがありませんわね?
子供の時からの付き合いですもの。
ただ………。婚家は。
えッ…………と。貴方様とはどのくらいの婚姻期間を?』
「ッ…………五年だ」
『五年もッ…………?え、わたくし子をも忘れていますの?』
「子は………いない」
リアの拙い記憶の中では貴族の婚姻は『子を成す』ことに特化している。
五年もの間子がいないのは『何か』問題があったのだろうか。
「ッ…………私が五年戦地にいたのだ。
最近私は帰還した。共に………過ごしたのは………」
『過ごしたのは?』
「ッ…………三ヶ月ほど」
リアは唖然とした。
困惑と疑念に言葉が出ないとはこのことだ。
『たった………三ヶ月ほど?え………?
それほとんど『過ごしていない』のでは?
わたくしこのコルド地方に保護された期間と同じですのよ?』
「ッ…………」
『信用………できませんわ』
リアは身を捩り後ろを振り返る。
『公爵。お引き取りをお願いして』
「わかったよ。リア」
エ―デル公爵に抱え直されてリアはため息を付いた。
また室内が騒がしくなった。
口々に落胆の言葉が聞こえる。
少女の悲痛な泣き声が大きくなった。
「ッ…………?リア?フローリア………待ってくれ。
君は混乱しているんだ。
サンサン地方に帰ろう。
領地で過ごしたらきっと思い出す。
視力以外に怪我は?体調は?リア………」
『エ―デル公爵様?
この方は本当に『信用』出来ますの?
でっち上げの可能性は?』
「んッ…………ないと。思いたいんだけど………」
「フレディッ…………貴様ッ…………」
怒りの声が応接間に響いた。
リアは耳をふさぐ。
視力が落ちた代わりに聴覚は敏感だった。
『夫を名乗るもの』の怒号は不快にリアの耳を貫いた。
『貴方様は何様ですの?
エ―デル公爵様はわたくしの命の恩人。
しかも貴方様は伯爵ではありませんか。
この方は公爵。
身分も恩も貴方様は礼儀を尽くさねばならないのに。
怒号………?
失礼極まりないわ?
わたくしの『絵姿』は?
産まれた『生家』は?
妖精族の貴族なのでしょう?そちらに確認しますわ』
途端『夫』は息を呑む。
黙りだした気配に小首を傾げたリアは公爵様の頬を撫でる。
「君の生家は妖精族のキンレンカ男爵家。
キンレンカ男爵令嬢フローリアらしいよ。
ただな………」
「キンレンカ男爵は『戦死』された。君は天涯孤独だ。」
『ッ…………?そんな都合の良い事ありまして?
絵姿は?』
「ない」
『ない………?』
リアはますます訝しんだ。
普通貴族の令嬢は1年に一度は肖像画を描くのだ。
それこそ蝶よ花よと贅の限りを尽くし。
『なら………。『婚礼肖像画』は?』
「描く前に………君は………」
『ッ…………ないの?』
リアは眉間をしかめた。
なんだかおかしくないか。
拙い記憶のリアですら知っている常識がまるで当てはまらない。
『本当に………?そのドラキュ―ル夫人は存在しますの?
キンレンカ男爵令嬢フローリアも怪しいですわ?
五年も婚家にいたのに。
夫抜きの絵姿も描かない?
それ………?本当に婚姻していたと言えますの?
普通は輿入れしてすぐ家族の一員として絵姿を描くはずでは?』
空気が凍りついた。
反論もできないらしい。
リアの瞳は細まった。
『公爵様。お帰りいただいて』
「だってさ。ルドルフ。
大丈夫。彼女は僕が護るからさ」
「いやッ…………お姉さま………」
「フローリア………」
「フローリアさん」
「若奥様ッ…………」
悲痛な叫びが応接間に木霊した。
リアの頭に響くようだ。
『ゃッ…………公爵様ッ…………』
「リア………大丈夫かい」
カタカタ震えだしたリアを優しく擦る公爵の腕の中でリアは弛緩した。
聴覚が敏感で目眩がしたのだ。
「リア………?具合が?
フレディッ…………君のところの侍医は腕は大丈夫なのか?」
「うん………。妖精族の体調まで万全に診れているかは自信はない中で、良くやってくれているとは思う。
彼女『騒音』が苦手でね?
視力が悪い分聴覚は敏感なんだ。
こんなに一度にたくさんのヒトの声に晒されたのは初めてなんだ。
ルドルフ。
一先ず今日は帰ってくれ。
すまないね。ドラキュ―ルの者たちよ」
「待てッ…………待ってくれ。頼む………。
まだ大して語らってもいない………。頼むッ…………」
エ―デル公爵はリアを撫でながら応接間を後にした。
後ろではまだ悲痛な呼びかけが続いていた。
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『公爵様。説明をお願いしても?』
「リア。まずは君の検診が先だよ。
少しパニック起こしていたよ?冷静な君があんなにイラつくなんて。
やっぱりルドルフは凄いなあ………」
エ―デル公爵は笑いながらリアをベットに降ろした。
リアは公爵家の客室に囲われている。
保護されているとはいえ視力の悪いリアは広すぎる屋敷の中を勝手に彷徨ったことはなかった。
夜中少し庭園に散歩に行くくらいである。
この公爵かお付の侍女を呼ばないとリアは生活もままならなかった。
別に鍵をかけられている訳では無いが実質の籠の鳥であった。
エ―デル公爵は屈強な竜人族である。
公爵と言えば王族に次ぐ高貴な血統をお持ちの方だ。
リアにはしっかりと視認できないのだけど、赤い長い艷やかな髪を一つにまとめた美丈夫らしい。
煌めく赤い瞳はお茶目な笑みを彩り、人誑しな印象を抱かせるのに立派な領主様だと屋敷の使用人の評判高い方だ。
元戦地で数々の武勲を量産していたらしい。
それらが信じられないほど今の公爵は良く笑いおちゃらかな楽しいヒトであった。
そんな公爵はリアの命の恩人であった。
海岸で倒れて瀕死の重傷だったリアを公爵家で保護してくれただけでなく、外傷が癒えても公爵家で静養させてくれたのだ。
本来ならリアのような『異種族』の妖精族。『記憶なし』の身元がわからないものは修道院に保護されるらしいのだ。
それを公爵はリアをそれこそ『蝶よ花よ』と労り愛でた。
最初こそ『幼子を保護』したような過保護ぶりと甲斐甲斐しさであったけど、それらが変わったのと感じるのはリアだけではないようだ。この屋敷の使用人も生温かく公爵とリアを見守るのだ。
リアはこの状況をどうしたものかと思い悩んでいた。
公爵への恩をいち早く返してこの屋敷を立ち去り自立したかったのになかなか叶わないでいたのだ。
そんな中の『身内を見つけた』との知らせ。
リアは内心心底安心したのだ。
日に日に甘くなる公爵の視線や言葉や啄みから解放され身内がお礼をしてくれれば。
リアの罪悪感はいくらか薄れただろう。
そんな期待は打ち砕かれてしまったのだ。
まさか。
記憶もないのに『既婚者』だと知って冷静でいられるだろうか?
リアは無理だった。
侍医の診察も終わり「問題なし」とお墨付きを貰ったリアは公爵と午後のお茶を楽しんでいた。
なにやら公爵は機嫌が良さそうである。
まるで悪巧みが成功した子どものような気配だ。
『公爵様はルドルフ様とお知り合いですか。
記憶のあった頃のわたくしとも?
なんだか………。わたくしがあの方を拒否したのが楽しそうですわ?』
「うん。竜人国学園の同窓。
彼は戦地の上官だった。
夫人とは社交界で会ったんだ。その時に彼女には恩がある」
リアはますますわからない。
同窓で元上官ならルドルフの公爵に対する態度も頷ける。
公爵だくどかつての部下なのだ。
さながら昔からの馴染に裏切られた心地がしたのだろう。
最愛の妻を取り上げられた獣のような視線を思い出して身震いした。
『なるほど。わたくしはあの方の『生死不明』の奥方様の代わりを宛行われたと?
そうすれば公爵様への御恩を返せますか?
あら?
それなら拒否してしまったのは得策ではなかったわ?
なんで受け入れろと説明してくださらなかったの?』
「え?違うけど」
『違いますの………?」
確かに同窓時代の友人の奥方様に似ているリアをたまたま保護したから喜び勇んで会わせたい割には、不親切極まりない態度だった。
『え。なら………なんであんな情報も一切介さず騙し討のように会わせましたの?
ルドルフ様。ドラキュ―ル伯爵の皆様は大変困惑され傷ついているようでしたわ?』
「うん。記憶が戻ればいいなとは思ったよ。
前情報なしで『ありのまま』の彼等との再会を演出した。
直前に『夫と婚家の方々』だと知らせたら先入観が働くだろ?
ヒトの良い君は僕が言えば無条件で信じた可能性があった。
そんな邪心で君を『牢獄』へ返したくなかったんだ」
『牢獄………?』
「君等の『結婚』は政略結婚にしても異質だったんだ。
君の多大な『自己犠牲の愛』に裏打ちされた婚姻だった。
その『呪縛』を君に自覚してほしかった。
さっき君が言った通りなんだよ。
彼等の結婚は『あり得ない』ことだらけだ。
まるで君だけが愛のために『搾取』され続けた生活だった」
公爵はいまや竜人族の国中で伝説になりつつある『サンサン地方の妖精女王』の話をきかせてくれた。
その妖精女王がリアだというのだから驚きだ。
彼女は幼き頃竜人族の武人に恋をした。
その武人との政略結婚でサンサン地方に輿入れをしたらしい。
彼女は妖精族『軍神』と謳われたキンレンカ男爵の唯一人の令嬢だったため、同じく『竜人族の最強の男』と言われた武人ルドルフ・ドラキュ―ルとの婚姻は滞り無く進んだ。
「サンサン地方はね。
昔はただ稲作でなんとか税を納めるだけの何の変哲もない土地だったんだ」
彼女は輿入れするも婚礼の儀式もなく寂しい領地に取り残された。
それはまるで『妖精国へ帰れ』と言わんばかりの歓迎だったらしい。
ただ彼女はルドルフへの愛ゆえに健気に五年も戦地に行った夫の代わりに領地を立て直した。
杜撰な領地管理を正し新たな産業も産み出した。
「ルドルフの父が領地を任されていたんだけどね?
妻を亡くしてから酒浸りで身内も使用人も蔑ろにしてきた。
その荒れた当主代理を矯正して建て直したんだ。
とんでもない女傑なんだよ。彼女は」
その間ルドルフとは手紙のやり取りをしていたらしい。
内容は至って普通の『お互いの安否と業務連絡』。
「ルドルフは彼女を『離縁』しようとしていたらしい。
王命の無理矢理の『結婚』だった。
彼は不本意だったんだ。
白い結婚のまま当初実家に返そうとしていた。
でも帰還したら彼は気が変わったんだ」
エ―デル公爵はそっとリアの手を握った。
その様子を侍女達が色めき立って見守っている。
「多大な貢献と女傑ぶりを遺憾なく発揮した彼女は王室の皇太子まで欲しがるほどの美貌とカリスマを誇った女傑だった。
そんな女をむざむざ手放すか?
彼は彼女の初恋を利用して「囲った」んだ」
リアは公爵の表情が強張っているのだろうなと思った。
良くは見えないけど声色と気配でなんとなくわかるくらいにはそばで過ごしていた。
「挙句の果て彼は『手放したくない』一心で戦地に連れて行こうと画策していた。
優秀な彼女を『隊長補佐』としてさらなる献身を望んだんだ。
それを国王と皇太子は反対なさった。
それはそうだろう?婦人を戦地になど正気じゃない。
領地に置いていったら『他の男に拐われる』。
それくらいなら一緒に戦地で散ってしまいたい。
そんな狂気的な愛をルドルフは彼女に抱いていた」
リアはぶるりと震えた。
まるで彼女は『もの』のようである。
「すると彼女の有益さに気付いた王宮の大臣が彼女と皇太子を引き合わせだした。
ルドルフを見限り『皇太子妃』にならないか。と。
戦地ばかりのいつ死ぬかわからない夫より王都で着飾り穏やかに暮らせる。と」
まるで彼女は『傾国の姫』のようなヒトだ。
伯爵家の奥方を皇太子がのぞむ。
それは正しく魔性の女だったのだろう。
『まさか………?彼女は皇太子と密通を?』
「いや。むしろ無下にして大臣の怒りを買ったらしい。
その大臣は前国王妃の父親だった。
それを彼女はドラキュ―ルのものに迷惑をかけないように単身で捌いていた。
あのか弱い身体に多大なストレスを抱えていた」
『何故………?貴方様はそこまでご存知なの?』
「彼女が………………。少し気弱になったんだ。
ドラキュ―ルと王家に挟まれ少し疲れたと。
何もかも捨てて自由になりたい。と。
ドラキュ―ルに輿入れしたのが間違えだったのか。と。
ドラキュ―ルとルドルフを愛するがあまりに寄せ付けたくない男までも狂わせている己を呪っていた。
その後だ。
サンサン地方の崖で彼女が身を投げたのは」
エ―デル公爵は呻くように呟いた。
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リアは唖然とした。
『ッ…………自殺なのですか?』
「その崖はサンサン地方で一番の危険地帯。
サンサン地方への視察の名目で訪れた皇太子や王妃。数々の側近や大臣の前で彼女は魔獣に襲われ海に落ちた。
おかしいのは。
その時彼女以外のものは無傷だったんだ。
皇太子など『僕が花嫁にと望んだから彼女は自殺したんだ』と毎夜うなされているらしい。
それからなんだよ。
竜人国の異常気象や飢饉、疫病があるたびに『非業の死を遂げた妖精女王の呪い』だって囁かれるようになった。
僕も………。
彼女は自殺したんじゃないかと思っている」
エ―デル公爵が淡々と話している彼女。
それがリアだという。
『そんなに………。
わたくしは彼女に似ていますか』
「瞳は美しい虹色だ。それも同じ。なかなかない色だ。
髪色以外は。彼女は金褐色だった」
『えッ…………?なら別人では?』
「そう………思ったんだよね?僕も最初は。
ただな………。
先日君が『治癒魔術』をこっそり馬蹄にかけているのを見かけてしまったんだ」
『治癒………魔術?』
リアはキョトンとする。
まったく身に覚えがなかったからだ。
「馬が暴れて踏み抜かれた年寄りの馬蹄の脚を祈りながら撫でていたろう?」
『あぁ………。やだ。『おまじない』をしただけですわ?』
「その『おまじない』で。
年寄りの砕けた骨と健も治癒して完治させるなどあり得ない」
『へ?』
エ―デル公爵は外でその馬蹄がスキップしているのを目撃したらしい。
それで確信したと。
リアがフローリアだと。
『えッ…………と?
妖精族は魔術が得意ですよね?
治癒魔術くらいだれでもできるのでは?』
「確かにいたさ。『自身を治癒』する奴等は。
『他者を治癒する』のは未だかつて聞いたことがない」
『まさか?
そのフローリアも治癒魔術をお持ちでした?』
「そうだ。そのおかげで僕は今君を抱き上げ歩行することが出来ている」
エ―デル公爵はリアの手を両手で包み込み啄んだ。
その様を侍従や執事頭も見ているのだろう。
テラスの影から生暖かい気配を感じる。
エ―デル公爵がリアを運ぶたびに『君のための足腰だ』と言うのはそのせいだったらしい。
記憶の無い時の行いで恩を感じられてもリアは素直に歓べなかった。
『でしたら。
わたくしを妖精国のキンレンカ男爵家に帰してくださるのは?
貴方様がそこまで『ドラキュ―ル伯爵家夫人フローリア』だと。
わたくしの身分に確固たる確信があるのでしたら。
それが一番得策………』
「君はキンレンカ男爵家で『冷遇』されていた疑惑がある」
『まあ………?』
エ―デル公爵は独自の警備局同士の妖精国とのつながりで調べたらしいのだ。
「君も聞いただろう?
貴族の令嬢なのに『絵姿』一つ無いと。
キンレンカ男爵令嬢フローリアの絵姿はアカデミー時代の学生間の肖像画しかないんだ。
普通は入学時と卒業時。
しかもフローリアは『首席卒業』。
首席は国王自ら証書や勲章を賜る『マスター』と呼ばれる栄誉だ。
普通の貴族の家ならその時に誉れ高いと『絵姿』くらい描くはずなんだ」
『………それは?』
「君はキンレンカ男爵の正妻の子ではない。
『妾腹』の娘なんだ」
『なるほど………』
リアは紅茶を飲みながら思案した。
妾腹。
正室の子ではないというだけで冷遇の理由は十分だった。
貴族社会は『家』が重んじられるのだ。
妖精族は竜人族よりは恋愛間に奔放さが伺えた。
貴族の夫人でも社交界に恋人を連れ立つのはザラであるらしい。
妖精族は『モテること』が力があるらしい。
でもそれと子供は別である。
『避妊魔術』があるのに『妾』が子を成す。
平民は皆で子供を産み育てようと寛容らしいのだけど、貴族は違うのだ。
やはり『血統』は重要なのだ。
「フローリアは。
生家で愛を貰えず。婚家に『依存』していたきらいがあるのね?
悲しいわ………。愛のためにそこまでの能力も美貌もあるのに。男に翻弄された人生だったの?
彼女なら結婚しないでも『女男爵』か『大商人』『大臣』も可能だったのでは?
確かに。
父もいない男爵家はフローリアの死後お取り潰しでしょうね?
肉親がいないなら保護もしてもらえないのね?』
「キンレンカ男爵家は今ドラキュ―ルが管理している」
『まあ?ドラキュ―ルなしでは生家にも立ち寄れないのね?』
「ドラキュ―ルの者が都合の良いように口裏を合わす可能性もある」
なるほど。
リアをフローリアと仮定しても、すぐ妖精国に送り届けない理由はそれか。
『ねえ。フローリアは大変な資産持ち?
妻の財産は死んだら全て夫に行くはずだから。
もしかしたら私にしか動かせない隠れ資産か財宝があるのかしら?
それが魂胆だったりするのかしら?』
「資産かあ………。ありそうではあるけど。
ルドルフは『金』のために君を帰して欲しいわけではないと思う」
『なら………?』
「優秀で有益な尽くしてくれる妻をみすみす逃すか?
男の憧れだ。
能力もあり自分を幼少期から一途に愛してくれた幼妻だ。
ルドルフにとって君はそこらの『王女』より価値があるんだよ。
現に彼は妖精族の王女の縁談は蹴っている」
『それは………』
なるほど。リアは納得した。
ルドルフは従順な妻を愛したらしい。
王家の姫なら我が儘で気位が高いのだろう。
高貴より身を弁えたお淑やかな令嬢を選んだのだろう。
『彼女はお淑やかでした?』
「それはもうッ…………。そこらの王女が裸足で逃げ出すほどだ。
竜人族の皇太子も見初めたほどだ。
高貴で品があり、華美で男をたてるヒトだった」
『それは………。確かに。それを求められたら牢獄かも』
リアがため息を付くとまたエ―デル公爵はリアの手を握った。
もう日常茶飯事で振り払うのも面倒になってきた。
「僕のお嫁さんにもなりたくない。
早く自立して「旅をしたい」と思っている君とは全然違うだろ?
普通ね。公爵からのプロポーズは断らないんだよ?
僕に愛されたら職業婦人にも、娼婦にもならなくてもいい。
君は規格外で自由人だろ?
愛がないのに不自由な縛られた生活は嫌なんだろ?
まさか。
僕は嫌なのに彼は良いとか言う?」
『男に一生囲われるくらいなら『修道院』に保護してもらいます』
彼が啄みだした指先を引っ込めながらリアはため息をついた。
『公爵様も『フローリア』を愛したのね?
だからわたくしをお望みなの。
そんなに………その方は素晴らしい方なのね』
「僕は今の『何人でない自由な』リアがいい。
前のフローリアはルドルフしか見ていなかった。
今の君なら誰にも何にも染まっていない。まっさらだ」
『そんなにフローリアを崇めるように語っておいて。
説得力ないですわ?
でも同感。
そんな『慎み深い妻に戻ってくれ』と言われたら堪らないわ。お断り。
わたくし『じゃじゃ馬』なの』
リアはため息をついた。
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「リア様………。
本当に本当にこの出で立ちで臨むのですか?」
『そうよ』
「ですが。リア様………。
これでは高級娼婦のようですわ?」
『「娼婦」!いい感じじゃない?!
『下品』に見えまして?
わたくし見えないから貴女達の腕の見せ所なのよ?』
「リア様………。わたくし達には荷が重くございます。
リア様の『可憐な美貌』を下品に………?
どうしたらそうなるか屋敷中のものが悩みに悩みましたのよ?」
「『下品』の定義として『露出多め』と皆が一致したんですけど。
リア様の滲み出る『品良さ』がどうしても拭いきれませんのッ…………」
「あぁ………。これでは『妖艶さ』が打ち勝ちますわ?
どうしたら『下品』に出来ますの?」
「絶望しかありませんわ………」
リアも困り果てた。
視力が悪いリアが身支度を整えることは出来ない。
いつもリアをお姫様のように世話してくれる侍女達を困らせてしまっている。
令嬢や貴婦人を着飾らせるのが仕事の彼女達には苦行なのだろう。
リアの『自由』のため彼女達の業務に負担を強いるのは心苦しい。
『ね?皆様気楽に考えて?
普段のわたくしに見えなければよいのよ?
この間の出で立ちは『令嬢風』と皆様仰っていたでしょう?
最新の竜人族のトレンド『蜂の巣』のブランドだと。
あの出で立ちで彼等はわたくしを『ドラキュ―ル夫人』と呼んだのよ?
そこから逸脱した革新的なら良いのよ。
貴族は『保守的』なのよ。
あ!でしたら『ソバカス』なんてどう?
白い肌が取り柄の妖精族よ?肌のシミは『貴婦人の大敵』。
ね?いいアイデアでなくて?』
「ソバカス………。確かに。
品良さより『あどけなさ』が見えるかも。
貴族の貴婦人達は白く白く塗り固めていますもの。
流行を追わない。『社交界の貴婦人』らしくない出で立ちという意味ではクリアかと」
『上出来よ!皆様お願い出来ます?
最後に『下品』にベッタリ真っ赤な紅を唇にお願い。
今社交界では『ピンク』が流行りなの。
対極よ?
『じゃじゃ馬感』満載ではなくて?』
「「「「そういたしましょう!」」」」
そのあとどんどんリアの化粧もドレスの着付けも仕上がっていく。
皆口口に『こんなリア様を見たら気絶間違えなしですわ?』
『こんなリア様みたことありませんわあ………。
わたくし達の才能が恐ろしい………』
『公爵様など鼻血を出しますわ?』
『公爵様の情婦の設定素晴らしいですわ?』
『そのまま婚約いたしませんこと?!』
と興奮している。
リアはあれからどうドラキュ―ル伯爵ルドルフ並びに一族にのものに『もとのフローリア』ではないと思ってもらえるかを公爵と話し合った。
ドラキュ―ル伯爵一家が望む『貞淑』『品良く』『華美』『従順』な妻の幻想を打ち砕けばよいのだ。
リアは勝利を確信した。
侍女達が歓声を上げている。仕上がったらしい。
少しの懸念は胸元と太腿が心許ないこと。
黒い刺繍も何も無い『地味』な安っぽい薄い生地。
幼い顔に似合わないらしい豊満な胸元を惜しみなく曝け出した『娼婦』が好むらしいデザインをお願いしたのだ。
前方は太腿が顕で後ろにかけて長いヒダが末広がりに伸びているらしい。
宝石は一切身に付けない。
『安っぽい娼婦』『悪女』がコンセプトだ。
『清楚さ』を出さないために黒い髪はぐるんぐるんに巻いてボリュームを出してもらった。
鏡で見れないのが残念である。
『後は………『親密さ』よね………?
公爵様が抱き上げて下さるはずだから………。
首元にキスをしてしなだれ掛かれば『情婦』には見えるかしら?』
「「「「完璧ですわ………?」」」」
「どうだ〜い。準備は………………出来た。わお」
控えめなノックと共にエ―デル公爵がひょっこり顔を出した。
気配では息を呑んでいるらしい。
侍女達にへの『臨時給与』を弾む声に侍女達の歓声が響いた。
リアがブツブツ『口上』をおさらいしている間にリアの座る椅子の前にエ―デル公爵は跪いたらしい。
リアのパンプスを脱がせつま先を啄みだした。
侍女達の悲鳴が聞こえた。
『それは『本番』だけでよろしいのでは?
公爵を『誑し込んでいる下品な女』。
貴方様はいつものようにわたくしを『崇めるように』甘い言葉をお願いいたします。
保護されて早三ヶ月ほどで『公爵の情婦』になっている。
それが一番『見限られやすい』。
竜人族のプライドとか家の体裁とかわかりませんけど。
『普通は』呆れて怒り、帰りますよね?
ね?『下品』?』
「すっ………ごく堪らない。男なら齧りつきたくなる」
『そ。なら大丈夫ね』
「彼等が『面食らう』のは保証する。
リア。君は男に屈しない『女王蜂』だよ?
演技の準備はよいかい?」
リアは唇に指を添わせ脚を組み替え顎を上げた。
少し恥ずかしさで頬が紅い自覚があるのだけど、『自由』のためだ。
鏡では確認出来ないのだけどニンマリ笑ってみせた。
「完璧だよ」
と公爵が唸る。
『「大人の話し合い」とお願いしてくださいました?
あの悲しそうに泣く『ハクア令嬢』は別室で待つように伝えまして?
高貴な伯爵令嬢の目は汚せないでしょう?』
公爵のクスクス笑う声と共におでこにリップ音がする。
「リア………。君は慈悲深いなあ………。
子供にダメージを与えたほうが義理の父親あたりが激昂する。
そういう意味では令嬢がいたほうが有利なのに」
確かに。
リアもそこには思い至った。
『娼婦』というものを見たこと無い高貴な令嬢には刺激が強い。
気絶ものだと侍女達が言うのだからよほど下品なのだろう。
『………………令嬢に罪はないわ。
わたくしが『汚れ役』になれば良いのよ。
姉と慕っていたらしいその娘を傷つけたいわけではないの。
わたくし………子供好きなの』
「君のその優しさと純真さが脚を掬わないと良いのだけど。『戦地』へいざ。参りましょう『女王陛下』」
『ふふッ…………。フレディ―?お願いね?』
リアは公爵の頬にキスを落とした。
感触から言って『紅』がベッタリなはずだ。
リアは公爵に抱えられながら応接間に向かった。
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「皆様、待たせたね?」
応接間の扉を侍従が開いた瞬間リアの肌に視線を感じた。その射抜くような視線があまりに熱くて。
リアは困り果てた。
(あら………?おかしいわね。
私の姿を一目見て『空気が凍てつく』ことを想定していたのだけど………?)
あいも変わらず遠くにいるドラキュ―ル一族の者も伯爵であるルドルフのことも見えない。
(ふむ………。公爵が『ご機嫌』なのだから。
顔が強張るくらいのいい反応だとよいのだけど………?)
リアはいつもより多めに公爵の首元にしがみついた。
侍女達から伝授された『こてんと小首を傾げ公爵をウットリ見上げる』を実践してみた。
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室内は息を呑む音以外無言である。
もう少し『舌打ち』や『落胆』の声を聞きながら『妖艶に』微笑みたかったのだけど。
反応も表情もわからずリアは途方に暮れた。
公爵の『機嫌の良さ』が頼りである。
口火を開いたのは若い男の声であった。
(公爵の説明だと城主代理補佐のフランケル様ね。
確か国王の政務補佐もされている文官だったかしら)
先日は口火を切ったのはドラキュ―ル伯爵ルドルフであったが本日は息遣いもわからない。
「先日の早急な訪問は失礼致しました。レディー………リア。
エ―デル公爵。
再三の訪問を受けていただき感謝します。
公爵から『大人の話し合いがしたい』と伺ったのですが。
この「状況」を説明いただけますか?公爵?」
「状況とは?」
「その………。えっ………と?」
フランケルは気まずそうに口を濁した。
その様子が愉快なのだろう。クスクス笑う公爵がリアの耳を突然啄んだから震えた。
リアはこの「会談」が始まってからパニックであった。
ずっと感じるのだ。『焦れた熱い視線』が。
それに公爵が台本にないことをしていることもパニックの一因であった。
(な………なんでソファ―に座っても抱えていますの?
隣に座って私がしなだれかかる予定なのに。
こんなに密着しながら話しますの?
あれ?こんな体勢で………?このまま?いつまで?)
リアは今逞しいエ―デル公爵の膝に横抱きにされている。
腰を腕で支えられ顕になった腿に手を添えられている。
擦られるたびに「ひッ…………」とか「ひゃ………」とか声を出してしまう。
小声で降ろしてほしいと伝えても「情婦なんだろ?まだ密着が足らない」とクスクス笑われてしまうしまつである。
(あれ?公爵は味方だよね?
なんでこんなにも戸惑ってしまうのかしら?
うわあ………。ぞわぞわするぅ………………)
リアは公爵をウットリ見上げたいのに頬が引き攣った。
背後で吹き出す音がした。
滑稽なのだろう。
羞恥で頬が熱くなったのを隠すように公爵にしがみついた。
「見ての通りなんだ」
公爵がご機嫌な声で紡ぎ出した言葉を皮切りに、リアも首を縦に振りながら肯定した。
『わたくしッ…………公爵とすでに『ただならぬ関係』ですの。端的に言うと『情婦』ですわ?』
肩と腿に胸に焼き付くような視線を感じた。
おかしい。このあたりで罵倒とともに退出してくれないものか?第1プランが崩れ落ちた。
「………公爵を愛しているのか?」
『違いますわ』
「そうみたい」
公爵と声が重なった。
吹き出す声が腹を抱えて笑い出した。
呆れのため息も聞こえる。
(ん?想定していた流れと違いますわ?)
リアは台本にない公爵の行動にあせあせした。
そのあいだも公爵の手はリアの腰を撫で耳元を啄む。
『ひッ…………』とまた声が漏れて身体が跳ねた。
そのたびにクスクス笑う公爵の腹をつねる。
「わたくし。じゃじゃ馬ですの。
殿方の思うままにはなりたくないし致しませんわ。
それは公爵も含めです。
わたくし今。彼を利用してますの。『悪女』ですわ!」
息を呑む音がする。
先日よりドラキュ―ル伯爵ルドルフが静かである。
なんとも気味が悪い。
音と雰囲気しか判断材料がないリアに『話さない』ヒトは脅威であった。
(なんなの………?
この間の印象だと。すぐ激昂するタイプかと思いましたのに。反応が分からなすぎて困るわ)
「僕は本気だ。
リアが弱っている所に不誠実だとは思うけど。
彼女はご覧の通り僕に身を委ねてくれている。
諦めてくれるね?ルドルフ」
リアはやっと台本通りに言葉を紡ぎ出した公爵の首元にしがみついた。
公爵は嬉しそうにリアのおでこを啄む。
リアは限界だった。
冷や汗と鳥肌が止まらないのだ。
(あら………?妖精族は「奔放」なはずなのに。
こんなお遊びのような素肌の接触が気持ち悪いなんて?
何回もシミレーションしたのに。
あぁ………。早く終わらないかしら………。)
戦慄きそうな身体を叱咤する。
祈るようにルドルフの返答を待つ。
早く罵倒なりして退出してくれないものか。
「リア嬢。公爵を愛しているのか?」
その言葉は噛みしめるように苦々しかった。
『しつこいですわ?違うと申しました。
わたくしは『貞淑さ』も『慎ましさ』も『貴族の夫への義務』もありませんの。
この方に縛られるつもりもないの。
公爵夫人も伯爵夫人もまっぴらですわ………。
記憶のないわたくしは『なにものでもない』リアなのだから。貴方様に尽くすことも義務を生じないわ。
なので』
リアはルドルフがいるであろうあたりの位置を見つめた。
『わたくしを自由にしてください。
離縁を要求します。
それか………。フローリアは死んだと諦めてくださいませ。
貴方様の従順な『フローリア』に戻る気はございませんの。
過去も義務も放棄します。
財産もいりません。
………………身内の証明のために脚を運んでくださったことは感謝します。お帰り下さい』
ルドルフの呻くような声が聞こえた。
しばらく沈黙が続いた。
リアがイライラしてきた頃にやっとルドルフが口を開いた。
「リア嬢は特定の男はいないのだな」
『ッ…………?それがなにか?』
「なら1から『口説き直す』だけだ」
『は………?』
リアは戸惑った。
さっきからこんなにも彼等の望む『ドラキュ―ル夫人』ではないと言っているのに。
(あれ。これ公爵を『愛している』といったほうが得策だった?)
でもリアはわかっていた。
エ―デル公爵はちゃらんぽらんなようで賢く強かなヒトだ。
この婚家のヒト達の前で『虚偽』とはいっても『愛』など語ろうものなら外堀は固まる。
しかも今のリアは逃げられない。
物理的に視力の悪い女がどう生きていくのだ。
リアは打算的な女だった。
頭の中は常にぐるぐる動いている。
常に自分の一挙手一投足がどういった結果を生むのかは常に考えている。
浅はかなことは滅多にしない。
それなのに。
(あぁ………。もう限界だわ………)
リアは身体が震えだした。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「リア?」
耳元で公爵が囁くがリアの震えは止まらない。
冷や汗をかき鳥肌で肌は青白いのではないか。
『公爵様………離してくださいますか?
気持ち悪くて………限界………です………』
公爵様のため息が聞こえた。
「情婦のふりは?」
『無理でしょうね。あちらの方々たぶん気付いてらっしゃるわ。離してくださいますか』
「いやだな。この機会をみすみす逃したくない」
公爵がリアの首筋に口付けた。
ルドルフの息を呑む音とリアが公爵を殴った音は同時だった。
公爵が軽く吹っ飛ばされ買ったもの
遠くでズシャッ…………と音がした。
たぶんソファ―の向こう側までふっ飛ばしたのだ。
『また』やってしまったのだ。
『ひッ…………無理。
あぁ………。こんなに時間がかかるなんて………。無理………』
リアは青ざめ自分の身体を掻き抱いて項垂れた。
やってしまった。『悪癖』がでたのだ。
途端部屋の中が笑い声に包まれた。
「ふはッ…………。すごいな。公爵は彼女の何倍も体重がある。それをふっ飛ばしちゃうんだよ?フローリアさんの
強さは健在だね?」
若い男の笑い声が一番大きい。
なんだか楽しそうである。
ルドルフのいとこのフランケル殿下だろう。
ドラキュ―ル一族の者で若い男は彼だけだという。
「見目だけは美しいのはかわらんな?
そんな安っぽいドレスをそこまで着こなせるのはフローリアしかいないな。少し破廉恥だが。
羞恥が殺せていない。肩が最初から真っ赤だった。
虚勢を張るところも、じゃじゃ馬は記憶を無くしても健在か。元気そうだ。良かった」
初老の殿方の声は呆れ半分安心半分といった声色。
たぶん公爵の話にあったルドルフの父親だろう。
過去酒浸りと公爵が言っていたが室内にはお酒の匂いはしなかった。
今は絶っているのだろう。
「リア………。君はさっきから震えて青ざめていた。
殿方に触られるのが『苦手』なのか?」
ドラキュ―ル伯爵の声は『心底心配している』音色だった。
リアは呆然とした。
この『悪癖』を見られたのだからそれこそ幻滅してもらえるのかと思ったのにだ。
公爵の魂胆はこれかな?くらいに思い至っていたのに。
女が殿方をふっとばすのだ。
お淑やかな貴婦人なんてとんでもない。
リアが大人しい貴婦人に戻ることなど不可能だとわかってもらえただろう。
でもなんでこんなにも慈愛に満ちた声をかけられるのか?
今日は思惑通りに行かなすぎて頭が上手く動かない。
『わ………わかりませんの。
いつも殿方との接触が長いと反射的に発作が………。
お医者様は『過去に殿方に怖い思い』をしたのではないかと。
ですから………。私ずっと『人身売買被害者』かと………?
公爵様………?あぁ………公爵様は?』
キョロキョロすると背後から公爵の笑い声がした。
「リア………君は本当に堪らないなあ。視力が朧気なのに『的確』に顎を砕いたよ?」
その声は面白がっていた。
いつものおちゃらけた公爵の声だった。
『まあ………?あぁ………ごめんなさい。ごめんなさい………。
公爵様』
リアの頬を温かいものが流れた。
(最悪だわ………。
ふりなら。最短で演技すれば大丈夫だと思ったのに。情けないわ。視力もなくて誰かの助けがないと生きられないのに。
公爵様が殴られるのを画策していたとしても。
三ヶ月も過ごした公爵様にもこんな簡単に発作が出るなんて………。)
「公爵は笑っているから大丈夫だよ」
「自業自得だろ?どうせフローリアとくっつきたくて画策したんだろ?」
「最低だぞ?フレディ―。
彼女が『色事』に疎いのはわかるだろ。
我等を追い払うにしてもだ。もう少しマシな嘘を考えろ」
リアの肩にふんわり何かがかけられた。
ルドルフの甘いスパイシーな匂いが薫った。
上着をかけられたらしい。
「リア嬢………。無理をさせました。
我等は今日のところは帰ります。
怖がらないでほしい。
我等は貴女を助け護りたいだけだ。
貴女の身の安全さえわかるならいいんだ。
願わくは………思い出してほしい気持ちが先行した。
前回の早急さですっかり信用を失いましたね?
すまない。謝罪します。レディーリア」
彼の声が震えている。
静かに染み入るようなのにその声の悲痛さが滲み出ていた。
「ですが。
貴女は自由だ。君を縛る気も君を搾取する気もない。
離縁も………。受け入れよう」
リアの頬の涙を優しくハンカチで拭われた。
「ルドルフッ…………。諦めるのか?
儂は赦さんぞ………。ハクアはどうなる?どう説明するんだ」
ビグトリ―も悲痛さを隠しもせず呟いた。
フランケル殿下のまたため息も聞こえた。
ただドラキュ―ル伯爵家の決定権はルドルフらしい。
それ以上異議を唱えるものはいなかった。
『本当ですか………?わあ………。
自由にしてくださるの?ありがとうございます!』
リアは涙が吹っ飛んだ。
会談自体はリアの思惑通りにはいかなかったけれど『成果』は思い通りになったのだ。
『ルドルフ様………。ありがとうございます。
こんな………。至らぬ妻のことはお忘れになってくださいませ。
貴方様の親切は忘れませんわ………。
わたくしが『何者か』はわかりましたもの。
感謝いたします。
これからはお会いすることは御座いませんわ………。
どうか次の奥様が素敵な方なことを祈っています!』
ピリ。
空気が凍った。
(あれ?いま?)
さっきから望んでいたはずの空気を今肌に感じてリアは小首を傾げた。
空気が凍ったのに感じる視線の方に顔をあげる。
ルドルフの紅い髪が見えた。
その後ルビーに輝く瞳も。
その瞳が怒りと焦がれた焼き付く色で溶けていた。
「リア………。確認したいことがある」
『へ………?』
彼の熱い吐息が頬を掠った。
頬を優しく撫でられた。
まるでガラスを扱うようなのに有無を云わせぬ大きな手がリアを抱き上げた。
「嫌なら殴れ」
柔く柔く唇を食まれた。
『ふぁ………?』
ピリつく甘さに震えてため息をついたすきに、彼の舌は巧みにリアの唇のすきまに侵入した。
鼻から子犬が鳴くような声が抜けた。
分厚い舌がリアの小さな歯列をなぞると小さな舌を追いかけるように吸い付かれた。
『んあ………ふあ………?甘いッ…………んん………?』
息継ぎをしながら漏らした声ごと齧り付かれた。いつの間にか手を腰を優しく握り込まれ擦られた。
『ぁッ…………んあッ…………』
身体全体が熱くなり震えるから助けてほしくてリアはルドルフの襟元を引き寄せた。
途端ルドルフの舌の動きが大胆になった。
リアの舌を絡めるように吸うように捏ねる。
熱くて甘くてクラクラしたリアの手に力は入らなかった。
「んッ…………リアッ…………リア………」
甘い甘い声と共にルドルフの色っぽい呻きがリアの耳を犯した。その声を聞いたら駄目だった。
目の奥に星が瞬き出した。
(あれ………?怖くない?あれ?むしろ………?)
そこに考えが行き着いたら頭が視界が霞みだした。
『ふあッ…………』
ぷるぷる震えるうちにリアは意識を手放した。
名残惜しそうなリップ音と共にウットリしたような彼の声が降った。
「身体は覚えているみたいだ。………いい子だ」
微睡む意識の中で彼が嬉しそうに笑った気がした。
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