40.兄妹邂逅3
深皿に溢れそうなほど入っていたクリームシチューは、全て僕の胃の中に収まった。
オルは心底嬉しそうな表情を浮かべ、僕の頭を撫でた。食事をしなくなっていた犬が久しぶりに完食したかのように、慈愛の手つきで僕に触れる。
ーーなんか、もう、どうで良くなってきたな
イアムを殺した動機、雪山での殺人事件の背後にある真実、そして僕を長い間欺き続けたその理由。これらの疑問について、一つとして解明できていない。
しかし、オル・スタウが入江マキであるというのは、揺るぎない事実だ。見た目も年齢も性別も、前世の僕たちの面影はどこにも見当たらない。それでも、僕たち兄妹は、16年の時を超えて異世界で邂逅したのだ。
どういうわけか、オルは思い出に浸りたいようだった。僕を佐藤ミノルと重ね、再び家族のように触れ合う。その手つきにいやらしさや悪意はなく、純粋な温もりを求めたものだった。
彼の気が変わらないうちに、この状況を脱しなければならない。
わからないことは、その後だ。ルミとロイと合流し、オルを拘束する。立場を逆転させてから、問い詰めればいい。
まずは、この手錠。これがある限り、まともな動きが取れない。鎖は短く、やや上向きに壁に繋がっている。肩を外し、体を無理やり反転させ、何とかして手錠を切断し…。
全くもって、現実的ではない。というか、これは無理だ。この体制だと本当に何もできない。
「あのさ、もう出してくんない?」
食事を下げようとするオルの瞳を見ながら、僕は簡潔に言葉を告げた。僕が手を動かす度に、鉄の鎖が音を鳴らす。僕の意思に同調しているかのような音だった。
「は?」
僕の言葉にオルは冷たい目で返事をした。そりゃそうだ。流石にどさくさに紛れて脱出は無謀だ。
彼は体を揺らし、手を食器から話す。また平手が飛んでくると思い目をつむったが、彼の手は僕の顎に運ばれた。撫で回すような彼の手は、やけに冷たかった。
「お兄ちゃんは、一生ここで暮らすんだよ」
オルは自分の言葉に酔いしれているかのように、恍惚とした瞳で僕を見下ろす。僕の耳元で囁かれた宣言を、呼吸もせずに彼は続けた。
「私が身の回りの世話をしてあげるから、安心して。ほしいものは全部上げる。お風呂もトイレも、食事も、睡眠も、おしゃれも、美容も、勉強も、これからは、全部全部、私が管理してあげるからね」
オルは僕の恐怖を楽しむかのように微笑む。その狂気的な態度に、僕は更なる恐怖に襲われる。しかし、僕の前に立つ彼の表情は本当に真剣で、それが一番恐ろしかった。
「大丈夫。今度は、私の番だから」
僕の体を一通り撫でまわした後、オルはそう告げてこの場を去った。彼の足取りは固く、意志の強さを感じ取れた。
一人残された僕は、ぼうと天井を見ていた。
「身の回りの世話、ね」
オルの狂気的な発言に対しての恐怖は、意外にもすぐに薄れた。一度かみ砕いて考えてみれば、そう驚くことでもない。
前世の佐藤家の内情を説明しよう。
警察官のお父さんが稼ぎ頭、僕は食費や光熱費の足しにアルバイト、それ以外はすべてマキがやっていた。食事も、洗濯も、風呂掃除も。家事はすべて彼女がやっていた。
つまり、オルの「私が身の回りの世話をしてあげるから」という発言は、何ら不思議なことではないのだ。佐藤ミノルの身の回りの世話は、もとより入江マキがしていたのだから。
未知の恐怖というのも、限度がある。僕はマキと出会えたという事実だけを受け入れて、それ以外を放棄することにした。彼が僕を殺す様子は今のところないし、何より満腹による睡魔が襲ってきた。
「なんだか、いい夢がみれそうだ」、と場違いなことを考えながら、僕の瞼は閉じた。
***
固く冷たい床に負けないで、僕は眠りについた。前世での佐藤家の日常を描いた夢を、久しぶりに見ることができた。お父さんと話して、少し泣いた。
楽園の時間も束の間、僕の目覚めを促すような力強い衝撃が僕の肩に訪れた。驚きと混乱に襲われ、僕はすぐに目を覚ました。
「おい!何寝てんだ!!早く逃げるぞ!!」
その声に僕の目がぱっと開いた。赤く、太陽のように輝く髪がちらっと視界に入った。
「オル?」
「馬鹿、あたしだ!」
先ほどまで僕の前にいた少年に酷似した、少女だった。彼女の強く透き通った瞳は、薄闇の中でもはっきりと僕を見つめていた。
「ああ、ルミか」
「ああ、じゃねぇよ!早く起きろ!」
彼女は大きな声で僕を叱りつけ、牢獄の鉄格子を開けた。その突然の事態に僕は言葉を失った。どうやら、ルミは何らかの手段でここへ侵入し、オルの目を盗んで牢獄の鍵を開けてくれたようだ。
僕は彼女につられるように立ち上がろうとし、すぐに座る。僕を拘束している冷たい鉄の存在を忘れていたことに気づかされた。僕の手首をぎゅっと締めつける拘束具が、鎖を経由して壁に固定されている。
ルミの目が僕の拘束具に注がれ、彼女の唇が固く結ばれた。彼女は突然、右手を広げ、その掌から一閃の光が放たれた。その一瞬、周囲の石壁が強く照らされる。
その後、僕の手首にかけられていた金属の重みが消え、鎖が音を立てて地面に落ちた。彼女が魔法を使ったのだろう。僕を縛り付けていた拘束具は、あっけなく解かれた。
地に落ちた拘束具を蹴り付け、彼女は僕を睨む。壁に打ち付けられた鎖が、派手な音を鳴らした。
「オルだったんだろう」
「あ」
「オルが、入江マキだったんだろう!」
「うん」と消えそうになるほど小さな声で、僕は返事をした。彼女になんて説明したらいいか、僕にはわからなかった。




