39.兄妹邂逅2
2015年の七連続女性刺殺事件の直後、入江マキは言葉を失ってしまった。母親が目の前で命を落としたその衝撃が、彼女の心を凍らせてしまった。彼女の口からは、どんなに励ましの言葉をかけても、一言たりとも返ってこない。
それは心的外傷ストレス障害の一種で、無言症とも言われる。一時的なものだと医者は言っていたが、家族のサポートが重要だとも付け加えていた。
しかしながら、マキには家族がいない。母親は死亡し、離婚した父親は行方不明、親戚も一人もいない。
僕の父は、彼女を佐藤家に迎え入れた。つまり、僕たちは急遽家族になり、マキの支えにならなければならなかった。
中学一年生の時は苦労した。彼女は対人恐怖症になってしまったようで、同じ境遇の僕以外の人間が近くに寄ると泣いてしまう。僕たちは同じクラス、隣の席で授業を受けることになっていた。体育の授業は休んだ。
後に大学で一番の有名人、誰もが頼る陽キャラになるまでの過程は紆余曲折だらけだった。
その中でも、一つのきっかけは交換日記だろう。あまり喋らないから、僕が提案したコミュニケーションツール。
少しでも楽しいことや新しいことがあったらノートに書いて、お互いに共有し合う。無口な彼女が、実は感情豊かな女の子だったと、僕が気づいたのもこれが最初だった。
中学二年生になってからは、彼女にも友達と呼べる存在ができた。僕にべったりとすることも少なくなり、彼女一人でも授業を受けられるようになっていった。行き帰りは一緒だったが、校内では別行動することもあった。
中学三年生になると、彼女は学級委員に自己推薦するほど活発になっていた。僕とはクラスが違ったが、彼女の噂は絶えなかった。入学式と卒業式の写真は、全くの別人と言っていいほど、表情が変わっていた。
ちなみに、僕はほとんど変わっていなかった。
高校入学と同時に交換日記は終わった。僕たちは十分すぎるほどコミュニケーションを取っていたので、それが必要なくなったのだ。
というのは建前で、実際は僕が恥ずかしくなってきた。妹と交換日記を続ける高校生などいるのだろうかと思った。
マキはそれに反対し、結局大喧嘩にまで発展した。彼女自身、交換日記が大好きだったようだ。
そこで僕が手を打ったのが、『万年筆』というわけだ。永遠の筆者と名付けただけあって、僕にもこれに思い入れがある。
「これで、自分だけの日記を書くといい」
高校の進学祝いと題して、黒い万年筆をマキにプレゼントした。永遠の筆者になれ、とはよく言ったものである。
父親から少し借金をして買ったその万年筆の効果は抜群だった。僕たちは交換日記を止め、マキは自分だけの日記を始めた。
それが短絡的な考えだったと気づいたのは、それから一カ月後だった。
インクカートリッジの破損か、温度の問題か。原因は不明だが、万年筆がインクを漏らした。
インクの流動性は血液を、紙に浸透し広がる様は血が衣服に染み込んでいくのを想起させた。
それだけのこと。よくある、日常のワンシーン。
もしマキが目の前で母親を刺殺されていなければ、ティッシュで拭き取って終わりの話だった。
彼女はパニック状態になり、そのまま気を失った。翌日には日常生活に復帰していたが、彼女の心の傷を掘り返してしまったことに変わりはない。
僕は万年筆を取り上げ、捨てた。
***
僕の頬を撫でる冷たい風が、石造りの独房の冷気を一層際立たせる。冷たくひんやりとした床が体温を吸い取るようで、僕はひざを抱えて身を縮めて震えていた。
思い起こされるのは、マキとの前世の生活。どれだけ記憶を掘り返しても、『前向きに進んでいた記憶』しか浮かんでこない。
僕とマキの過去は激動的だったが、出会ってからは常に前向きに生きていた。雪山山荘事件が起きるまでは、過去のことは口にせず、未来のことを一緒に考えていた。
それが今、僕を苦しめる。何を信じて、何を疑えば良いのか。
僕とマキは、どこですれ違ってしまったのだろう。
再び、規則的な足音が僕の耳に響く。その主はもちろん、僕の妹であり、親友の弟でもあるオル・スタウだ。
「お兄ちゃん、ご飯だよー」
彼は手に持ったトレイを僕の前に滑らせる。温かい料理の香りが牢獄内に広がると、僕の胃が反応して音を立てた。
「お兄ちゃんの大好物、クリームシチューでーす!パラス王国にはないから、なんと16年ぶりだね。美味し過ぎて、気絶しないでよぉ」
オルの楽しそうでありながらも不気味な笑顔を、僕は直視できなかった。彼の目を見つめ返すことができない。
僕の態度を気にすることなく、彼はスプーンでクリームシチューをすくい、僕の口に無理やり運んだ。
オルはなぜ、僕の口にクリームシチューを入れているのだろう。
食事を摂らせる理由は何だ。
僕を監禁している理由は。
マキとして僕を騙し続けていた時間、オルとして僕を騙し続けていた時間、何を考えていた。
理解できないものは怖い。一番身近な存在ならば尚更だ。自分の常識を侵食される、恐怖。
そして、その恐怖を忘れさせてくれるような、その優しい味わい。今世で初めて食べたクリームシチューだった。
「うまっ」
思わず口から漏れ出す。独房に監禁されている女とは思えないほど上擦った声に、オルは満足げに頷く。僕が咀嚼するのをゆっくり待った後、彼は再びスプーンですくう。
僕は口をもぐもぐと動かして、必死に咀嚼する。今が何時かわからないが、僕は朝も昼も食べていないのだ。当然、昨夜の夜も。最後に食べたのは、事件が起きるなんて知らなかった能天気な昼休みだったはず。
約30時間ぶりの食事。クリームシチューは僕の疲労をゆっくりと溶かし、癒しの空間を与える。
マキの得意料理ということもあって、佐藤家では度々クリームシチューが登場した。それがまさか、異世界でも食べられるとは思っても見なかった。
「美味しい?」
可愛らしく、オル少年は首を傾げる。今までの男らしさはかけらも無く、入江マキの、愛嬌のある笑顔だった。
「あ、うん」
「そう、良かった良かった」
彼は胸を下ろしながら、「一安心」と呟く。そう、マキはこういう奴なのだ。
内心ではいつも不安を浮かべている。それを見せないように、常に笑顔で明るく振る舞っている。僕のことを一番に考える、優しい妹。
オル・スタウはどうしようもなく入江マキだった。




