38.兄妹邂逅
目が覚めると、僕は牢獄の中だった。一瞬、現実を理解するのが難しく、僕はしっかりと意識を戻すのに時間を要した。
どうやら、モニ・アオストとしての人生はまだ終わっていないようだ。少し頭痛が残っているだけで、外傷は全くない。赤い柄の包丁で、胸部を刺されたわけではないらしい。
周囲は見慣れない景色だった。冷たい石壁、鉄格子、そして…鎖。視線を落とし、両手を見れば、そこには金属製の拘束具が存在していた。
拘束具が僕の手首をきつく締めつけ、そこから長い鎖が伸びて壁に固定されていた。僕は全力で身体を引っ張ったが、鎖は強固で、わずかな動きしか許さなかった。
立ち上がろうとするも、拘束具と鎖の重みがそれを阻んだ。足元を見下ろすと、骨の髄まで冷たさを感じさせる石板が広がっていた。
「ここはどこだ?」
ヘルト村で育った十六年間、一度も訪れたことのない場所はこの狭い村には存在しないはずだ。そう信じていたが、こんな牢獄があるとは。
外気の冷たさから、地下牢獄なのは予想できる。ということは、村民の誰かがたまたま見つけて、助けてくれるなんてことは起きない。
ーーここがヘルト村という保証もないけど
状況は最悪だ。それだけは確かだ。
僕が深く息を吸い込むと、遠くの方から足音が聞こえてきた。規則的で響き渡る音が、牢獄の静寂を裂いていった。その音は徐々に大きくなり、まるで心拍のように、自分の存在を主張していた。
そして、僕の視界に赤髪の少年の姿が現れた。その足音と共に、僕の胸は急速な鼓動で満たされた。自由に動くことのできない僕は、拘束具の冷たさと、急速に近づくその少年の存在に身を震わせた。
薄暗い牢獄の中で、彼の赤い髪は闇を切り裂くように輝き、一際目を引いた。
「お兄ちゃん、起きるの遅いよ。何時まで寝てるの?」
「…」
「全くもう、わがままなんだから」
オル・スタウは鉄格子越しに僕を見て、ゆっくりと満足げに頷いた。
オルが僕の前に立つと、鍵を差し込み、ギリギリと音を立てて鉄格子の錠を開けた。静かな緊張感が牢獄の中に立ち込め、その音が響き渡る。
鉄格子の扉が開かれたとはいえ、僕の心が揺れることはなかった。僕の両手にある拘束具が外れない限り、僕には自由はない。
オルは僕の顔が見えるようにしゃがみ、目線を合わせる。そして、不思議なことに、僕の状況とは全く違う話をし始めた。僕の目をじっとりと見ながら、口を開く。
「今日の晩御飯は、クリームシチューです!」
「は?」
「ちょっと、喜んでよー。お兄ちゃんの大好物でしょ!具材集めるの大変だったんだからね!」
と、口から出る言葉は、ここが牢獄であり、僕が捕らわれの身であることと全く合っていない。それが僕にとってどのような意味を持つのか、それはまだわからない。
しかし、彼の目が燃えるような熱を込めて僕を見つめていることだけは確かだ。オルは自分の発言とこの空間に酔っているということはわかった。
「どうする?もうすぐ17時だけど、夜ご飯持ってくる?それとも、まだ食べない?お兄ちゃんって、今は少食なんだっけ?もっと食べた方がいいんじゃないかな。ちょっと痩せすぎな気もするし。でもでも、今の体型は憧れちゃうかも。前世だったら、絶対アイドルになれたよね」
「…」
「実際、この世界でもアイドルになれるんじゃないかなぁ。アイドルなんて概念はこの世界にないけどね。常識を覆すのは異人の特権だからね。推し活という概念を、お兄ちゃんが与えるっていうのも、面白いかも」
「…」
「お兄ちゃんは暴言女って呼ばれてるけど、みんな本心じゃないんだよ?思春期特有の照れ隠しってやつ。学校ではみんなお兄ちゃんを狙ってるんだよ。勿論、そんなこと言ってる奴は私がぶっ飛ばしてるけどね。お兄ちゃんには私しかいないんだから」
オルの口は止まらず、前世と現世の話が入り乱れた内容がしばらく続いた。オルの『俺』とマキの『私』が入り乱れ、一人称も安定しない。
僕が一言も返事を返さなくても、彼の表情は揺らぐことなく、常に穏やかだった。
彼の喋り口調、目つき、仕草、全てが僕の記憶の中の入江マキそのものだった。こんなに身近にいたのに、気がつく事ができなかったのか。
激しい感情が胸を締めつける。矛盾した思い。怒り、困惑が螺旋を描き、僕の心の中で渦巻いていた。それは一つの炎となり、僕の声と共に噴き出された。
「訳のわからない話をするな」
「え?」
「入江マキ、お前は何がしたいんだ。こんな話をするために、僕を襲ったわけじゃないだろ。前世の続きをするために、ここにいるんじゃないのか」
マキの顔から表情が消える。だが僕の言葉は止まらなかった。その口からは、僕自身でも驚くほどの憤りと非難が吐き出されていた。
「鬼塚ゴウには娘がいたよな。それが、マキなんだろう?父親が犯した七連続女性刺殺事件の再演を雪山で行ったわけだ。まさか、異世界にまでついてくるとは思わなかったがな。ここでも、また七人殺すつもりか?呪いを残し続けて、本当にお前は何がしたいんだ!答えろよ、マキ!」
僕の怒号が口から飛び出すと、オルは俯いた。
その直後、彼の手が僕の頬へと繋がった。思いのほか力強いビンタが、僕の頭を横に弾き、ゴンという音を立てて壁にあたる。痛みが頬を突き刺すと同時に、オルは立ち上がり、勢いよく鉄格子を閉めた。
オルは再び僕に背を向け、どこかへと去っていった。その後ろ姿が視界から消えるまで、僕はただただ黙って見ていた。
疼く頬と壁に打ち付けられた頭部から感じる現実の重さ。それと同時に、内側から湧き上がる感情の混沌。その全てが僕を襲い、混乱へと引きずり込んでいった。
言葉を失い、僕はただ、静かに涙を流した。痛みと怒り、絶望と悲しみ。それらが混ざり合い、ひとつの大きな波となり僕を飲み込んでいった。




