25.天使断罪1
【魔歴593年07月02日10時40分】
天使という存在は宗教の中で伝わる、人間に神意を伝える『神の使者』のことだ。その解釈やイメージは宗教によって異なるものの、僕の住んでいた日本では一定の共通認識がある。
それは、白い翼、光り輝くオーラ、圧倒的な美貌、洗練された白いローブ、そして、頭の上に浮かぶ神聖な光輪だ。
この五つの特徴をたとえ二つでも備えていれば、「天使のような人」と呼ばれる。
僕が通っていた大学には『天使教授』と称される特異な存在がいた。男性か女性かも識別できないその教授は、真っ白な白衣に身を包み、中性的で美しい顔立ちをしていた。その名の通り、天使のような姿だったため、学生はその人のことを『天使教授』と呼んだ。そのあだ名を満更でもなく、気にする様子もない態度が、より天使らしさを強調していた。
しかし、現実的には日本には白い翼を持つ人などおらず、頭上に光輪を浮かべている人など存在しない。それゆえ、五つの条件の中で満たせるのは最大でも二つ、つまり衣装と顔だちのみだった。
だが、現在僕がいるのは、この世界とは異なる別世界ーー剣と魔法が日常の一部となっているパラス王国だ。日本の常識はここで全く通用しない。
視界一杯に広がる、純白の翼。
雪のように周囲に落ちる光るオーブ。
全身を白で統一した、清楚なローブ。
そして、頭上で回転している七色に光り輝く光帯。
僕の目の前には、五つの条件の内、四つを満たしている『天使そのもの』がいた。
「驚いた。ここまで連中がたどり着けるとはな。見くびっていたよ」
「あうあ、あ、あ」
黒いサングラスをかけた天使は、微かに口元を緩めていた。虹色に輝く光帯が優雅に輪を描き、僕の視野をキラキラと彩る。純白のコートが体のラインをぼんやりと覆い隠し、その高さや肩幅がなんとも掴みどころないものになっていた。声色から判断するに、おそらく男性だろう。
僕は反射的に両手を上げる。噂の『ロスト山の天使』は、想像していた通りの姿だった。ただ一点、予想外だったのがーー
その手に握られている、科学と死を体現する道具。
命を奪う黒い鉄塊、科学の至宝、死を司る存在、つまり拳銃。
その銃口は僕に向けられ、僕の命綱は一触即発の状態にあった。
神秘的な存在が持つ、科学的な兵器。
銃口は正確に狙われ、僕の人生に王手がかけられていた。
「ふふ、いいぞ。その恐怖に満ちた表情、なんとも愉快だ。これで、少しは俺の怒りも静まる」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「ああ、安心しろ。勿論、まだ殺さないぜ。まだ、だがな」
『ロスト山の天使』がマキの転生先だとか、転生システムの鍵を握っているとか。事件解決の手掛かりに繋がるとか。そういったプラスのことを考える余裕は全くない。
ここで死にたくない。銃殺で死ぬとか、異世界で不名誉すぎる…、じゃなくて、僕にはまだやり遂げなければならないことがある。
マキに真意を聞く。それを成し遂げなければ、転生して得たチャンスを失ってしまう。次もまた、転生できるとは限らない。
「人違いです!貴方は誰で、何が目的ですか。僕は貴方に殺される理由がない」
「『人違いです。私は貴方に殺される理由がない』。昨日同じ言葉を吐いて、死んだ女がいたな。ええと、名前は何だっけ」
「本当に、僕は全く無関係なんです!だから、その銃を下ろしてもらえないでしょうか?」
ーー怖い
だめだ、さっき見た悪夢がちらつく。雪山山荘で命を落とした瞬間を思い出す。天使が引き金を引いたら、それだけであの恐怖を味わうことになる。
命の操り手は今や彼で、僕の運命は彼の手の中に握られている。彼の気まぐれと慈悲にすがるしかないのだ。
だが、僕には正当性はある。『ロスト山の天使』に命を狙われる理由など何一つ思い当たらず、洞窟に足を踏み入れたのも事故だった。なぜなら、同じ言語を話している生命体なのだから。
そう考える僕の甘い望みは、彼の行動で一瞬で粉々に砕かれた。
「ああ、すまん。手順を間違えた。こっちが先か」
カチッ。その音は、僕に向けられていた銃以外に、新たな一丁を彼が手に取ったことを告げていた。新たな銃、黒いリボルバーは、警察官が使うものと同じタイプに見えた。
そしてその銃口は、僕へではなく洞窟の壁沿いに、向けられた。全身を赤に染めた、休眠をとっている赤い少女の頭部へと。
「あああ!」
「そうだな。とりあえず、この女を殺す。これで俺の言うことを聞いてくれるか?」
「ま、待ってください。その娘だけは、辞めてください!」
それはダメだ。ルミだけはダメだ。彼女は僕のためにここまで来て、僕のために戦って、今度は僕のために死ぬのだろうか?それはあまりにも酷すぎる。彼女の人生が僕の前世の遺恨によって終わるなど、絶対に許されない。
僕の前世の遺恨に巻き込まれて、人生の幕を閉じるなどあってはならない。
「ぼ、ぼくは殺してもいいですから、彼女だけは助けてください。怪我とかしてて、もう動けないんです」
「じゃあ、連中が知っている情報を全部言え」
「情報?何のことです?」
「つまらん。迷子とでもいうつもりか?一般人の進入が禁止されているロスト山の、更に最深部の洞窟だぞ?お前が異人だっていうのも、とっくにばれている。いつまでしらばっくれるつもりだ」
「本当に知らないんです!」
天使は舌打ちとともに、カチャリと左手の拳銃の音を鳴らす。僕でもわかる。セイフティを外したのだ。あとは引き金を引くだけで、ルミんは脳みそをぶちまけて死ぬ。
「人違い、関係ない、助けて、知らない…。まったく、どこのお嬢様だ?泣いて許されるのは、赤ん坊の時までだぜ?涙は女の武器になるわけないし、俺は容赦しない」
彼の言葉によって、自分が涙を流していることに気づく。僕の瞳からはぼろぼろと涙が溢れ、情けなく泣いていた。
涙を流して命乞い。それが通用する相手でもないのに。
ーーこいつの言う通りだ
ーー全く持って情けない
ーー僕の中の女性像どうなってんだよ
ーー泣いて解決するなら、みんな泣いてる
ーーそんな暇があるなら意味のある行動をしろ
俯瞰して状況を見ている佐藤ミノルが、嘲笑うように僕を見下す。前世の僕は、こんなにも冷たい笑みを浮かべる男だったのだろうか。
僕は多重人格ではない。佐藤ミノルとモニ・アオストの人格は地続きで繋がっている。とはいえ、僕はモニとしての性格を作りすぎた。
余りにも佐藤ミノルの時と違う行動を取りすぎると、前世とのギャップが現れ、冷静に僕を見つめる"佐藤ミノル"が出現する。
僕は冷めた瞳で、説教を垂れ流す。佐藤ミノルはモニ・アオストが嫌いなようだった。そりゃそうだ。僕が日本にいた時、泣いて許しを乞うような輩がいたら確実にぶっ飛ばしていた。
ーー僕は極端なんだよ。何も女になりきる必要はないんだ
ーー佐藤ミノルの強みまで消してどうする
ーー美しく、可愛く、気高くあれよ
ーー少なくとも、僕の身近にいた女なら、ここで泣いて命乞いしたりしない
ーー妹なら、マキなら。笑いながら立ち向かうと思わないか
「お前じゃ話にならない。まずはケイウィを呼んでこい。お前達がこの洞窟に踏み入れたのは、決定的な証拠になる。流石にあの女もお手上げだろう」
全くもって、僕は馬鹿か。
死んだら全てが終わりだと、僕が一番知っているじゃないか。転生するなんて、都合の良いことは二度と起きない。だから、出せる全てを持って僕達が生き残る手段を探すのだ。清楚な立ち振る舞いとか、生き残ったら考えろ。
佐藤ミノルは、強く、冷静で、論理的だった。モニ・アオストもまた、言葉を武器に戦ってきた。
ルミが暴力女と呼ばれていたのと同じく、モニも暴言女と呼ばれていた。
戻ろう。佐藤ミノルへと。見切りをつけてしまった前世と、もう一度向き合う時が来た。
「おい」
僕は挙げてる両手を平然と降ろし、スカートのポケットから、万年筆とライトの魔道具を取り出す。
「いつまで寝ぼけたこと言ってんだ、クソ天使」




