130.自問自答3
【魔暦593年07月04日17時30分】
目覚めは一瞬だった。僕が夢の中で鏡を粉々割ったかと思ったが、そのまま現実に引き戻された。
鏡の破片が視界を舞い、その中から燃えるような赤が見えた。それは床一面覆う血だけではない。僕の、モニ・アオストの大切な親友の赤だった。
「モニ!!」
赤髪の少女が、僕の肩を激しく揺らす。パキパキと、僕の周りで固まった血が形を崩す。ぐわんぐわんと脳が揺れながら目を覚ます。
身体中が、ケイウィの流した血液でベタベタだった。自慢の黒髪も、今では薄汚い。最悪の目覚めであることに間違いなかったが、転生してから一番心地よい気分だった。
「おっす、ルミ。どうした」
「おっすじゃねぇ! 様子がおかしいと思ってこっそりついていったら、こんなとこで寝てるとか…」
「おっすって、お疲れ様ですの略らしいわよ」と僕は笑いながら言ったが、無視された。僕からしたら、この緊迫した空間を和ませるつもりだったが、寧ろ怒りを与えてしまったらしい。
僕は掴む手をぱっと離す。当然、支えのなくなった僕はぬるりと血だらけの地面に叩きつけられた。彼女は怒りを再び僕に見つけようと口を開くが、そのまま開けっぱなしで動きが止まる。
「ケ、ケイウィ…、なの、か?」
ルミは、正面の牢獄を見てしまった。その惨劇を、その地獄を、その物体を視界に入れてしまった。
肩と地面を繋ぐように突き刺さる黒い槍。体に巻きつき、肉体に激しい牙を突きたてた蛇型魔獣。四肢に繋がれた拘束具は壁面と天井を繋げ、前屈みになるように吊るされる外見年齢八歳児の幼女。
体のあらゆる色を赤に染め、あたりを地獄へと変貌させる。鼻を潰す悪臭に、てらてらと灯りを反射する固まりかけた血。
そんな彼女は、牢屋の外に見せつけるように、こちらを見ている。勿論、目ではない。首の断面図から覗かせる、頸椎だ。まともな人生でなくても、見ることがないその骨は、赤いこの牢獄の中の唯一の白だった。
そして、その白の下で金属の煌めきが輝く。赤い柄の包丁は、肉体との間に数センチの隙間を残して、胸部に突き刺さっていた。
「あ、え、ぐ」
言葉にならない声を漏らし、後ろを振り返るルミ。そのまま、びちゃびちゃと腹の中のものを外に排出していた。
嘔吐をするという経験が、回復魔法が刻まれたこの世界の住人にあるのだろうか。もしかしたら、歴史的瞬間なのかもしれない、と関係ないことに思考を巡らせていた僕は、自身の頬を軽く叩く。
「ルミ、大丈夫」
「な、にが」
「僕がいるぜ」
僕は後ろから彼女に覆い被さる。肩から覗いてみると、歯をガチガチと擦り合わせる親友の顔が見えた。あまりの惨状に理解のキャパシティを超えたのか、目付きもぶれぶれである。
思えば、イアム・タラークを最初に見つけた時も、恐怖に飲まれていた。彼女は強がってはいたが、こんな地獄を見て正常でいられるわけがない。
「モニ、終わったんじゃ、なかったのかよ」
「それは、まあ。順当に殺されたんだよ。ヘルト村殺人事件、四日目の被害者ってやつだ。連続殺人鬼が捕まっていないんだから、一日一殺の法則が崩れるわけないでしょ」
「殺人鬼が捕まってない? ぐ、おえ、ケ、ケイウィだって、否定しなかったじゃないか」
「青木ユイが殺人鬼だったというのは、紛れもない事実だからね。彼女は否定しなかったんだよ」
だけど、肯定したわけでもない。自分が殺人鬼だと認めたことは一度もない。
青木ユイがケイウィ・クルカに転生したことは間違い無いが、ケイウィ・クルカは青木ユイでは無い。
「意味が、わからねー」
ルミは嗚咽と共に、理解不能と頭を垂らした。僕に体を任せるように、全身を脱力させる。背後の惨状をできるだけ意識したく無いようだった。
「ふ、はは」と僕は思わず笑ってしまった。意味がわからない、意味がわからないねぇ。
「何笑ってんだよ」
「いやさ、全くもって、意味がわからないと僕も思ったんだよ。だって、ケイウィが死んだこの状況、実は過去最難関の謎なんだよ」
不法侵入ができないように、綿密に張り巡らされた魔法。魔法学の名門当主ラス・スタウですら、入り口以外では入ることはできない。その入り口の鍵は二つしかなく、既に一つ盗まれていたので、管理主は厳重に保管していた。
そして、その盗まれた一つは、僕の手にある。
完璧なる、密室。真犯人は、この密室に侵入して、ケイウィを殺した。それだけに止まらず、あらゆる苦痛を死体に与え、最終的に頭部を持ち帰った。
これだけで、物語が一つ作れる。上質な謎だ。心が躍る。
ただ、まあ。順番ってのがある。先に、解くべき謎がいくつもある。例え、このトリックを暴かないことによって新たに人が死んだとしても、それは僕の責任ではない。
僕は緩む頬をルミには見られないように、彼女の頭を撫でる。優しく、上から下へと。血だらけの手で頭を触ったものだから、ベタベタにさせてしまったけれど。赤に赤を混ぜても、悪目立ちはしないだろう。
「ルミさ、僕のこと好き?」
「意味わからん」
「じゃあ、僕のこと愛してる?」
「こんな状況で、聞いてんじゃねーよ」
「それもそうだ。じゃあ、命令」
彼女の頬を、優しく両手で掴む。キスができそうな距離で、彼女の瞳を見つめる。
「ルミさ、僕のために死んで」
その言葉を、どのように捉えたのかは僕にはわからない。第一、前からルミ・スタウという親友のことを、僕は一ミリも理解できていなかったと思う。
今は絶交中だから、本当は親友ですらない。
それでも、会話はできる。
耳があるから、生きているから。僕の声は、彼女に届いている。
だから、彼女のぶれていた焦点が定まり、僕を見つめ直したのがわかった。恐怖に怯えていた気持ちが霧散したのもわかった。僕に向けていた心配も、懐疑的な気持ちを引っ込めたのもわかった。
僕たちは、対話をしていた。
まるで、殺人鬼が赤い柄の包丁を心臓に突き立てるかのように。僕たちは赤濡れた血で、手を絡ませた。
ルミ・スタウは、僕に何かを期待するかのように。楽しそうに笑った。
「いいぜ。死んでやるよ」




