103.呪異物1
【魔暦593年07月03日20時40分】
駆け出したところまでは良かった。木の根に足を引っ掛け、派手にすっ転んだ。膝を擦りむき、情けなく地に倒れ込む。
オル・スタウの生命の安全は、僕の人生の中で最重要事項に値する。だから、膝から血が出ていようとも、足首を捻っていようとも関係なかった。
我ながら、よく転ぶ美少女だ。下半身のあちらこちら擦り傷だらけである。
僕はふらふらと揺れながら立ち上がり、再び足を踏み込む。が、そのままバランスを崩して、宙に浮く。
隣の幼女が、再び僕を抱き抱えてくれていた。
「んー、良い。元気だね」
微笑んだケイウィは、僕を脇に収めて走り出す。「世話かけますね」と精一杯強がった僕の声は、風切り音によってかき消された。
自然、僕の目線は地面に向けられる。宛ら、タクシーに乗って、靴を見るかのような感覚だった。
大きな岩、砂利、土、そして横に伸びる枝。
山頂に近づくにつれて、不安定になるその道中では、流石のケイウィも速度もを落とすことになった。身長の低い彼女に抱えられている僕も、何度か地面に当たりそうになる。
だからこそ、僕はそれらに気がついた。地面に転がる、その物体達を視認することができた。
もちろん、それらを見たからといって、僕はケイウィに声をかけることはなかった。寧ろ、ケイウィだから、声をかけなかったといってもいい。
最優先事項は、悲鳴をあげたオルの安否。ケイウィの足を止めることは、目的に反する。僕の好奇心など今は一グラムも必要としていない。
僕は地面を見ることをやめた。目を瞑り、極力反応しないようにした。僕の少しの揺さぶりが、異物協会『勇者』担当様に伝わってはならない。
だけれど、瞼の裏に焼きついた景色は変わらない。
ボールペン
A4ノート
革靴
そして、手袋
まるで、学生バックをひっくり返したかのような、人工物。転生してからこの方、一度も見たことがない材質で作られた、異質な物体。異世界からの漂流物。
僕の親友、ルミ・スタウがいたら飛び跳ねて喜んだことだろう。
そう、ここは異物が見つかることで有名なロスト山である。度々異物協会が捜索に訪れるほどの名所だ。
だから、地面に異物が落ちていることは何ら不思議ではない。固まって落ちていることは珍しいが、それだけだ。オルの安否と比べ物にならないほどどうでもいい。
そう、どうでもいいのだ。殺人事件と何ら関係もないし、今更気にしても意味がない。
それなのに、僕の瞼の裏に先ほどの景色は残り続けた。
ーー何だかなぁ
魔法学院副院長兼、魔王討伐戦線エリク・オーケアと、異物協会『勇者』担当ケイウィ・クルカ。この二人は殺人事件が始まる前から、ロスト山で呪異物争奪戦を行っていた。年齢不詳の天使と、年齢が止まった幼女は既知の仲だ。
魔法学院と異物協会。この世界を牛耳る二つの巨大組織の、魔王の専門家集団。そのトップとも言える二人が、ここに集まっていた。
そして、魔王と僕たち異人は強い関係を持っている。ケイウィが僕を魔王と呼ぶように、ほとんどイコールと言っても過言ではない。異人というカテゴリの中に、魔王が所属している。
もしかして、彼らがここにいるのは、無関係と一言で処理していい話ではないかもしれない。
もう少しで何か気がつきそうだった僕の思考は、山頂間際の、なだらかな斜面になった段階で霧散した。
オル・スタウが倒れていた。
***
「大丈夫…、だと思う。気を失っているだけだ。外傷はない」
もう少し歩けば山頂に着くだろうか。木々も次第にひらけていて、月明かりがいつもより眩しく見える。
その道中。星空存在を抗議するかのように、赤髪の姉弟を照らす。
ルミ・スタウは弟のオルを抱えながら、困惑した音色でそう呟いた。
「ごめん、モニ。あたしがいながら…」
「ルミのせいじゃないよ」
と、僕は無責任に自分の責任を放棄させようとした。僕が一番聴きたくない言葉は、ルミによる謝罪だ。勝手な話だが、彼女には常に強くあってほしい。
彼女がそこまでなるなんて何があった。それこそ、オルが気絶することなんて日常茶飯事だ。誰とは言わないが、オルは常に暴力に振るわれる最悪な家庭環境にあるので、いつも気を失っている。
「ち、ちげぇよ!確かにあたしはオルを殴ったり蹴ったりするけど、今回は違う。さっき蹴ったばっかだけどさ」
「弟に暴力を振るうのをやめなさいよ」
姉弟のじゃれあいに口をだすつもりはなかったが、今となっては違う。ルミの弟であると同時に、僕の妹だ。
「何があったの?もしかして、副院長が何かやらかしたの?」
「あの天使は存在次第がやらかしているといっても過言ではない性悪だが…。今回は違う。用事があるとか言ってどっかに飛んで行った。問題はその後だ」
ルミは倒れたオルを抱き抱えながら、指を刺す。僕たちが来た方向と逆、つまりロスト山の頂き。
「多分、死体があった」




