102.山並みは燃えて4
【魔暦593年07月03日20時30分】
水平方向に進む煙ならともかく、山火事は縦方向へ進んでいく。その速度は、毎秒五メートルにも達成する、と防災訓練で習った気がする。
火より、煙より早く走る。五十メートル十秒で走ることは余裕だろう。煙より早く走ることは容易に見えるだろう。
だが、人間は縦方向に走ることはできない。水平方向にしか進まない。つまり、山火事の煙と人間は同じ土俵にすら立ててないのだ。
燃えている煙よりも上に、早く移動する。唯の自殺とも取れるその行動は、『人間』だったら、という話だった。
ケイウィ・クルカは人間であって人間でない。
異物協会の勇者担当である。
驚くべきことに、文字通り、『火より、煙より』早く走った。意味がわからないかもしれないが、安心して欲しい。僕も理解できていない。
辺りを見渡せば、木々が緑力と生い茂っている。燃え盛る炎や思考を鈍らせる煙はない。
火災の煙から逃げ切ることができた…、勿論、消火しているわけではないので、ここもいずれは燃えるのだろうが、しばらく後の話だ。
僕たちは、既にロスト山の山頂辺りまで辿り着いているようだった。
そして、山頂付近となると、奴らの生息エリアである。
「とうっ」
ケイウィは鮮やかに魔獣を切り払う。両手剣というのだろうか。どこからか取り出したロングソードで斬撃を飛ばす。幼女の胸部程までの長さのそれを、軽々と自身の他のように扱う。
そんなファンタジーみたいな戦い方、剣と剣がぶつかって仕方がないだろう、と僕は思った。ここが異世界ファンタジーの世界なので、無意味な思考だったが。
彼女は勇者様らしく、僕を守ってくれていた。圧倒的火力で道を作り、ぐんぐんと登山する。既にばてている僕のペースに合わせながら。
次第に襲ってくる魔獣の数も減っていた。力量差を理解したのか、距離を詰めてこなくなった。あのルミにすら、怯むことがなかったというのに。
それほど、ケイウィは強かった。物理的にも、精神的にも。異物協会『勇者』担当という経歴は偽りでも何でもない。
「はぁ、はぁ。さ、さっき放火魔って言ってましたけど、どういうことですか」
僕は膝に手をつきながら、疑問をぶつける。
「んー、放火魔は放火魔よ。火の魔法では火事は起きないもの。というか、生まれてこの方、火災なんて見たことなかったわね」
「いい経験をしたにゃ」と嬉しそうにケイウィは言った。まるで異世界の住人のような台詞を吐く勇者に、僕は呆れて言葉も出ない。疑問は生まれたが。
「火事は起きないって、なんでですか」
「魔法は模倣だからよ。火のようで、実際に火ではない。燃えてるようで燃えてない。魔力っていう非科学的なものは、そういうあやふやさで成り立っているの」
だから、異人や魔王のように科学の世界から来た人間には効かない。魂の在り方から、魔法を否定している。
異世界の住人に火炎魔法を当てたら、当然のように燃える。僕も、火炎魔法を利用した地雷で、ルミが炭化したのをこの目で見た。
「デッドボールを投げたピッチャーに、主審がレッドカードを掲げるみたいなものよ」と彼女は言った。野球とサッカーのルールが交わらないように、魔法と科学は交差しない。
「つまり、僕が黒煙を吸って一酸化炭素中毒になった話をしています?」
「んー、火炎魔法は別に、化学エネルギーの応用ではないからね。あの火災は実際に燃えていた。魔法じゃない。物理的に、誰かが火をつけた」
「誰だろうねぇ、一体」と、ケイウィは楽しそうに笑った。この短い時間でも彼女の性格がわかってきた。
非日常を楽しんでいるのだ。普通ではないことが起きると、とても嬉しいらしい。異世界の冒険譚に酔っている。僕には理解できない話だ。
そして、彼女は共感を求めているわけではない。「ところで」と話題をバッサリと捨てた。面白そうに、頬に人差し指を突き刺しながら。
「この先、何かいるわよ」
何かって。何だよ。
樹木のような魔獣が蔓延るロスト山の頂上付近。そりゃ、何かはいるだろうけれど。改まって僕に言われても困る。
何がいても僕には何もできないのだ。僕は検討はできても戦闘はできない。
そんな思考放棄にも近い感情を、僕はすぐに失った。
ーー何かいるっていうか
ーーこれって
月夜に照らされる、山の獣道。その道中に、魔獣のが転がっていた。その体に、ケイウィの両手剣による切り傷はない。
肉が焦げる不快な匂い。魔獣に死の概念があるのかは置いておいておくとして、その死因は斬死ではない。焼死という方が正しい。
そして、僕はその遺体を見たことがあった。
僕がこの台詞を言うと、まだ話していない前世からの因縁の死体かと思われてしまうかもしれない。だが、地球に魔獣はいないので、それは違う。
今世の話だ。
それも、ここ最近の話。
ーールミだ
絶賛絶交中の親友、ルミの雷撃によって倒された魔獣だ。あの衝撃的な魔法は記憶に新しい。なにより、僕がルミの気配を見逃すわけがない。
その遺体に僕は遠慮なく触る。丸焦げになったそれにはまだ熱が残っていた。なるほど、確かに『この先に何かいる』らしい。
言われてみれば何もおかしなことはない。僕がカウエシロイ教室を調査するのと同じく、ルミは魔法学院魔王討伐戦線を調べに行った。つまり、副院長のいるロスト山だ。
山頂付近まで登ることはないだろうに。なぜ危険地帯にいるんだろう。前回と違って、僕と言う足手纏いがいないから、自由に散策できているとか?
これは嬉しい誤算だ、と思った。得体のしれない不気味な幼女から逃げられる。僕は性懲りも無く、そしてプライドもなく、ルミに保護してもらおうと考えた。
しかし、その浅はかな考えは真に消え去った。気がつくと、僕とケイウィは同時に走り出していたからだ。月夜に最も近い山頂に向かった。
悲鳴。男の悲鳴だ。それも、声変わり前の少年の声。
僕の最愛の妹、入江マキ。その転生体のオル・スタウの声であることは、僕は聞き間違えようがなかった。




