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召喚聖女の落とし穴

作者: 江葉

実はこういうことなんじゃないかなって思ったら書かずにいられなかった。猛暑なので少しでも涼んでいただけたら嬉しいです。



 魔王の侵攻に苦しんでいる世界のとある国が、聖女を異世界から召喚することに成功した。

 日本、という異世界の島国から来た少女は伝説のように清く正しくうつくしく、世界の窮状に心を痛め、聖女となることを承諾する。


 聖女の役目はまず国中を巡って聖なる結界を張り魔族の侵攻を防ぐこと、魔族のしもべである魔獣の弱体化。そして、傷ついた人々を聖なる魔法で回復することだった。


 アヤメと名乗った聖女は国を巡り、聖女の気配に危機感を強めた魔族を王子や騎士たちと共に討ち払った。


 さすがに魔王を討伐するには一国の力ではどうにもならず、それでもひと息つけただけでも充分だ、と聖女は王都に凱旋する。後は同じく魔族に苦しむ国々と協議して、軍を派遣するなりを決めれば良い。聖女がいるだけでも世界の希望だ。


 そして聖女召喚に成功したその国は、他国を大きくリードすることになった。


 王都に凱旋した聖女をねぎらうために、国王は盛大なパーティーを開催した。


「聖女アヤメよ、今回の旅は大義であった。世界の希望であるそなたに褒美を取らせよう。望みはあるか」


 国の主だった貴族が一目聖女を見ようと集まったパーティー。国王に問われたアヤメは臆することなく答えた。


「わたくしの望みは元の世界に帰ることでございます。それが叶わぬのであれば、せめてここで生きていくための仕事と、正当な報酬を望みます」


 アヤメの望みに集まった人々は何と無欲な、と感動した。彼女が望めばどんな贅沢も、王子と結婚し王妃になることも可能だというのに、あまりにもささやかだった。

 アヤメと共に旅をしたグランツ王子とその側近たちは、自分が望まれることを期待していたのだろう、密かに落胆していた。


 国王も内心では不満だった。王子と結婚させれば聖女をこの国に留めておける。第一王子を旅に同行させたのもその思惑があったからだ。この期に及んでも国王は自らの欲望を滾らせていた。


 だがそれならそれでやり方がある。国王はグランツに目配せした。心得たグランツがうなずいた。

 王族席にいたグランツが立ち上がり、国王の玉座の横に並ぶ。


「聖女の旅に同行し国を救ったグランツ第一王子を王太子に任命し、聖女アヤメを王太子妃とする」


 国王の言葉に貴族たちが騒めいた。その中に一人、真っ青になった少女がいる。

 グランツの婚約者、テレジア・ヴァーゲル公爵令嬢である。


「え……っ? はあ?」


 突然の宣言に混乱するアヤメに、そんな場合ではないというのにテレジアはホッとした。

令嬢のテレジアは危険な旅に同行できなかったが、支援物資の手配や各地の被害をまとめて報告し次の目的地の選定、そしてなにより慣れない異世界に不安がるアヤメを手紙などで励ましていた。同性で年が近く礼儀作法の完璧なテレジアは、アヤメの指導役、友人役に選ばれたのだ。

 実際に会って話ができたのはアヤメが旅立つまで、召喚されてからの三ヵ月ほどだったが……続いた手紙のやりとりで友人『役』ではなく、本当の友人になれたとテレジアは信じている。無事に帰って来た時、アヤメは真っ先に会いに来てくれたし、「テレジアちゃんの大切な人たちを守れてよかったよ」と言ってくれたのだ。


「え、ちょっとなに言ってんのかわかんないんだけど……。なんでアタシがグランツ王子と結婚すんの?」


 驚きのあまりアヤメの言葉使いが素に戻っている。未だ蒼ざめているテレジアが微かに首を振ると、ハッとしたように口を押えて言い直した。


「失礼しました……。その、わたくしがグランツ王子……殿下の妃とは、どういうことでしょう?」


 テレジアに負けず劣らず、緊張のせいか蒼ざめて震えているアヤメを安心させようと、グランツが微笑みかけた。


「テレジア・ヴァーゲル公爵令嬢との婚約は破棄する。テレジア嬢はわたしの婚約者、そしてヴァーゲル公爵家の令嬢でありながら、魔族との戦いに何ら貢献しなかった。また、わたしの側近たちの婚約者であった令嬢たちも、聖女が危険な旅に出ているというのにここ王都でのうのうと安穏とした日々を送っていたというではないか。その咎を重く見た王家は罰として各家との婚約を破棄、令嬢たちには西の砦にて奉仕活動を命じる!」


 グランツの言葉に、しょせん他人事と甘く考えていた貴族たちの顔色も変わった。

 彼の言い分によると王都に残っていた貴族は『何もしなかった』という罪で裁かれることになる。騎士ならともかく非戦闘員である女子供が戦場に行けるはずがないのを承知の上で、だ。


「今度こそ国と聖女の役に立てるのだ。名誉なことだろう」


 気持ちよさそうにグランツが言い放った。


 ほとんど言いがかりに近いことはわかっている。国王とグランツはこれを機に聖女を王家に取り込み、貴族の力を削ごうという思惑があった。それを察した貴族たちが小声で囁き合っている。


 彼らの誤算はアヤメが贅沢や王妃の座にそこまで興味がなく、美貌の男に囲まれてご満悦に浸れる女ではなかったことだった。


「何も……しなかった?」


 アヤメは指先が白くなるほど強く手を握りしめた。


「ああ、そうだ。わたしたちが魔族と戦っている間、テレジアは何をしていた? 安全な王都で守られ……」

「ふざけないで」


 グランツの言葉をアヤメが遮った。

 それから今にも倒れそうなテレジアに小走りで近づき、華奢な肩を支える。


「テレジアちゃん……テレジア様が何もしなかったと言うのなら、あなたたちは何をしていたの? 魔族や魔獣と戦う兵士たちを横目にお酒飲んで騒いでいただけじゃない!」


 グランツを睨みつけた聖女の告発に、今度はグランツが蒼くなった。そこからはアヤメの独擅場だった。


「テレジア様は、たった一人でやってきたわたくしに、とってもやさしくしてくれました。この世界の常識に、立ち居振る舞いや作法、話し方まで丁寧に教えてくれました。家族を思い出して泣くわたくしに寄り添い、慰めようと心を尽くしてくれました」


 たった一人で異世界に召喚された。同意すらなく強引に、家族や友人に別れを言うことすらできずに。アヤメにしてみれば誘拐と変わらない暴挙である。

 さらにはその誘拐犯に「聖女なのだから世界を救え」と重荷を背負わされたのだ。懇願の形をとっていたがアヤメには命令にしか聞こえなかった。なにせ自分の命がかかっている、脅迫と同じだった。

 テレジアがアヤメを憐れみ、友として尽くしてくれたから、そしてテレジアの大切な国民が苦しんでいることを切々と訴えてくれたから、アヤメは聖女になったのだ。グランツや国王の語る「聖女の素晴らしさ」を押し付けられていたら、アヤメは魔族に降っていただろう。


 はじめて聞くアヤメの本音に国王の顔色も変わった。魔族に降るほど憎まれているとは思っていなかったのだろう。


「旅の道中、食料や医療品、様々な物資を滞りなく補給してくれていたのは、テレジア様たち、王都を守っていた人たちのおかげです。わたくしは聖女の力で兵士の怪我を治すことができますが、それでも死者を生き返らせることはできません。それに、わたくしにも限界はあります。出血多量の怪我と擦り傷では、消費する聖魔力が段違いなのです。完全に回復はできなくても、出血が止まっているだけでも本当にありがたかったのです。……わたくしが兵士の治療のため救護テントを回るのを、グランツ王子は何度も止めてきましたわね」

「それは、聖女を心配して……っ」

「わたくしが兵士たちと前線にいる間、安全な後方で近衛騎士に護られていた方に心配などされたくありません」


 痛烈な皮肉だった。


 グランツは第一王子。側近たちもこの国の重鎮貴族の嫡男だ。守られるのは当然である。

 一方のアヤメは魔獣を弱体化させるために、常に前線に立たざるを得なかった。


 負傷した兵士たちを汚い、弱いからだと嘲笑い、いたわりの言葉さえかけなかったグランツに、聖女を心配する資格はたしかにないだろう。


「テレジア様は男ばかりの戦場にいるわたくしを気づかって、腹心の侍女を貸してくれました。それだけではなく、手紙にリボンやブローチ、キャンディなどのちょっとした、けれども心のこもった慰めの品を添えてくれることもありました。そして……なにより嬉しかったのは、その、下着を……わたくしの下着の替えを用意してくれたことです。戦場に届けられる衣料品はどうしても男物ばかりでしたから……。そうした気遣いが、わたくしは女であることを忘れさせませんでした。聖女と言われても、わたくしはまだ十八歳の小娘なのです、お洒落がしたいし、お菓子を食べたいときだってありました」


 さすがに言えなかったが本当に嬉しかったのは生理用品である。こればかりは聖女にもどうしようもない生理現象であり、そして男が気づきにくいことでもあった。十八歳の少女が大人の男性に「生理用ナプキンをください」などと言えるものか。この世界の生理用品は日本に生きていたアヤメにはありえないほど古臭く、清潔なのかと不安になるほどであったが、それでもあるとないのとでは大違いである。


 そうしたことに気づいて手配してくれたのは、テレジアと彼女の友人たちだけだった。男ばかりの環境で何が女に必要なのか、アヤメの心を守るために、懸命に考えてくれたのだ。


 アヤメの言葉にテレジアがすすり泣いた。感謝を求めてしたことではなかったが、アヤメが理解してくれたことが嬉しかった。

 テレジアと共にアヤメを助けてくれた令嬢たちも、俯いて涙を堪えている。


「わ、わたしだってアヤメを気づかっていたではないか!」

「飲めないと言っているお酒を勧めることがですか?」


 自分のできることはやっていた、と主張したグランツを、アヤメは真っ向から跳ね返した。


「グランツ王子と側近の皆さんがお酒を勧めて来た時、なぜか侍女さんに用を言いつけて遠ざけていましたよね。しかも戻ってこられないよう次から次へと用事を頼まれたと言っておりましたわ。……酔いつぶれた女に男四人が寄ってたかって何をしてようとしていたのか。……勘ぐってしまうのは、わたくしの邪推でしょうか?」


 これには別の意味でテレジアの顔色が変わった。集まった貴族、特に女性たちは嫌悪を露わにし、娘のいる男親は妻子を守るように前に出た。


「グランツ王子はテレジア様の婚約者ですから、なるべく悪く考えないようにしてきましたが……。このような場で、国事ともいうべき王子の婚約を破棄すると宣言、またわたくしの同意も得ず結婚を発表するなど、テレジア様だけではなくわたくしまで貶めようとしているとしか思えません」

「アヤメ……っ。君は、わたしのことが好きではなかったのか……?」


 あきらかにショックを受けているグランツに、テレジアの肩を抱いたままアヤメは冷たい目を向けた。


「一国の王子に対する態度と愛想笑い。そうと勘違いさせてしまったのなら申し訳ありません。ですが、わたくし、友人の婚約者を奪う女と思われるのは、とても心外です」

「アヤメ様……」


 テレジアが涙の残る目でアヤメを見つめる。アヤメは首を振った。


「聖女なんて呼ばれてもアタシは何の身分もない女の子だよ。元の世界でだって、どこにでもいる普通の女子高生だった。王妃なんて、なれないよ」


 アヤメを支持してくれる人はいるだろう。貴族たちも、世界を救う聖女を支援せざるを得ない。だか、それだけだ。王妃となったアヤメに望まれるのは聖女という高らかな名分と、グランツとの子供だけ。付け焼刃でこちらの常識を学んでもアヤメに政治能力はない。国の良いように使われる未来だけだ。それくらいのことがわかるくらいには、アヤメは自分を知っていた。


「……今度こそ聖女の役に立てるのだ、名誉なことだと言いましたよね」


 テレジアと見つめ合っていたアヤメが国王の前に立った。

 低い声に何を言われるか察した国王がギクリと肩を揺らす。


「……うむ」


 しかしあれだけ傲慢に言ってしまったことを今さらなしにすることはできない。国王は唸るように返事をした。


「では、戦いもせず、王都と変わらない日々を過ごしていたグランツ王子と側近たちを、西の砦に向かわせてください」


 それからアヤメは気が付いたように付け加えた。


「テレジアちゃん……テレジア様とヴァーゲル公爵家が認めれば、ですけれど」


 グランツたちを裁くのはアヤメではない、と言った。この場でその権利を持っているのはアヤメだが、グランツは一応テレジアの婚約者だ。


「かまいませんわ。グランツ殿下の奉仕活動に期待いたします」

「ヴァーゲル家としても賛成いたします」


 テレジアの父、ヴァーゲル公爵が憤然として言うと、貴族から次々に「賛成」の声が上がった。


「な……っ、なぜわたしがっ!」

「何もしなかったのなら当然なのでしょう? ああ、酔っぱらって兵士に絡んで、士気を下げることはしてくれましたっけ」


 ポン、とアヤメが手を打った。

 聖女の護衛として旅に同行したグランツと側近たちの醜態に、貴族たちからも軽蔑の視線が突き刺さった。グランツの目的が魔族討伐ではなく、聖女を口説き落とすことだったのはもはや明白である。


「わたくしは聖女として、彼らの奉仕を望みます」

「もし……断れば?」

「名誉なことなのでしょう? 断らないと信じておりますが、……そうですね、聖女の旅を続けようと思います」


 にっこり笑ったアヤメに国王は指先が痛むほど強く玉座を摑みしめた。


 聖女の旅は終わったが、それはあくまでこの国だけのこと。魔王が倒れたわけではなく、魔族の侵攻に苦しむ国々は聖女の訪れを待っている。

 アヤメが行くと言えば諸手を挙げて歓迎するだろう。グランツの失敗を踏まえてアヤメを絡め取ろうとしてくるに違いない。


「聖女様がどちらに行こうと、我がヴァーゲル家は支援しますわ!」


 テレジアが叫んだ。


「我が家も」

「当家もだ!」


 側近たちの婚約者であった令嬢の家がテレジアに続く。


「国王陛下」


 アヤメが胸の前で両手を組んだ。


「わたくしの住んでいた世界には魔王や魔獣はおりません。ですが、戦争は有ります。わたくしの生まれた国ではわずか七十年ほど前に戦争をして、そして敗けました。わたくしの曽祖父は南の島へ戦争に行き、帰ってきませんでした」


 聖女の言葉に場がシンとなった。


「……補給がなかったのです。戦争に行かない、本国の子供たちでさえ食べる物がなく、とても南の島まで補給を届けることはできなかったそうです。食べ物も、ろくな武器もない。南の島へ行った兵士の死因は、ほとんどが餓死でした。曾祖母のもとに帰ってきたのは、遺骨代わりの小石が入った壺でした」


 遺骨さえ帰ってこない死。異世界は平和だと思っていた人々はその凄惨さに息を飲んだ。


「今、祖国は平和ですが、それでも災害などで毎年死者が出ます。そして、被災した人々を助けるべく、支援物資がすぐに届けられます」


 聖女は一度きつく目を閉じ、組んだ手に力を込めた。


「社会生活を営む人々によって、支えられているのです。戦わずに済む人々が社会基盤を整えてくれるからこそ、前線に滞りなく物が届いたのです。人々の生活が壊れてしまえば、物資はたちまち略奪されていたでしょう。彼らは何もしなかったのではありません。アタシを、わたくしたちを、守ってくれておりました!」


 聖女と共に戦いの旅に出たにもかかわらず、自分たちのことしか考えず私欲に溺れていたグランツたちとは違うのだ。何もせずに名誉だけを自分のものにしたグランツを、アヤメが慕うことは絶対にない。

 聖女の訴えは貴族たちの胸を打った。


「そのような者への侮辱を許すことはできません。……グランツ殿下たちの、奉仕活動をわたくしの望みとします」


 アヤメの言葉に嘘はなかった。真実だからこそ人々の胸に訴え、激しく震わせたのだ。

 未来の王妃という栄光を摑むより友情を選んだ聖女の美談は、グランツたちの凋落と共に世界中に拡散するだろう。人の口には戸が立てられない。まして国王とグランツは、王都にいた貴族すべてを敵に回していた。


「……聖女の望むままに」


 がっくりとうなだれて、国王が望みを承諾した。強権で撤回させるのは容易いが、そんなことをすればヴァーゲル家をはじめとする貴族が反乱を起こすだろう。魔族討伐どころではない、国家存亡の危機である。


「そんな――父上!?」

「黙れっ。お前がさっさと聖女をものにしていれば良かったのだ。ここで聖女に去られたら、我が国は世界に覇を唱えるどころではない! ……せっかく聖女召喚に成功したというのに……お前のせいで愚王とされてしまうではないか……っ!!」

「元はといえばついていくだけでよいと父上が言ったんでしょう! 俺は魔族討伐の旅なんて嫌だったんだ!」

「だからといって本当に何もしない奴がおるかっ。この王家の恥さらしめっ!」


 ギャンギャンと親子喧嘩を始めた二人にアヤメが笑みを浮かべる。

 どこまでも清らかなその笑みは、まさしく聖女そのものだった。






 ――ここで聖女召喚の裏話をしよう。


 聖女召喚、あるいは勇者召喚で異世界からやってくる者は、いわば英雄の卵である。


ただしそれは、召喚した世界にとって、だ。


 いくら魔族が人類の敵だからといって、意思疎通のできる相手を問答無用で殺すのはただの虐殺である。差別主義者による大量虐殺。ナチスドイツがアウシュビッツでやったのと大差ない。それを平然と行えるものが『勇者』となり『英雄』となる。


 では聖女はというと、魔族を弱体化させるのは病原菌を撒き散らすのと同じことだ。意図的にパンデミックを起こし、その隙に大量虐殺がはじまる。しかも死ぬほどの怪我を負っても回復して立ち向かってくる。異世界とはいえ人間は人間だ。自分よりはるかに強い敵に挑み、負けた恐怖まで聖女は癒せない。死の恐怖を味わった人間にもう一度死ねと命じる。そんなサイコパスが『聖女』である。


 日本から来た少女アヤメは本人の言った通り、ごく一般的な家庭に生まれた。大学受験を終え、無事合格が決まり、卒業を待つ日々を送っていたある日、突然聖女として召喚されたのだ。


 もしもアヤメが召喚されずに日本にいたら。


 アヤメは大学で心理学を専攻し、そのまま教授となる。高校時代、同級生に虐められ、法に則って対処し、和解した加害者を転校させた過去を持つアヤメは、弱者の味方になる道を選ぶのだ。

 様々な人の悩みを聞き、寄り添い、励ました彼女は熱狂的ともいえる信者を得る。そしてアヤメをトップとする一大犯罪組織を作り上げることになるのだ。


 アヤメ自身は請われて話を聞いただけだ。それとなく誘導はしたが、犯罪を実行したのは加害者の意志である。アヤメがカルト宗教の教祖であればまだ警察も動けたが、アヤメはただの大学教授であった。捜査線上にアヤメの名前が挙がっても、事実としてアヤメは手を下していない。何もしていなかった。

 『令和のモリアーティ』『日本のレクター』と呼ばれるアヤメの周囲には、彼女を狂信する者たちが死ぬまでついていた。犯罪者よりたちの悪い究極の悪。それが、アヤメの未来であった。


 異世界召喚はその者の資質を見抜いて選抜される。ある世界にとっては悪でも、別の世界では悪が正義に変わるのだ。


 ようするにアヤメは、世界にとって迷惑だから召喚をこれ幸いとポイ捨てされたわけである。


 片鱗はすでに見えている。一国の王子、王太子を、自分を害しようと企んだ男を、テレジアを理由に排除した。西の砦は唯一アヤメが行かなかった場所である。もはや最前線とも言い難いそこは、魔族との戦闘で壊滅状態にあった。

 西の砦を守っているのは魔族と通じていた重犯罪者――補給などもちろんなく、自給自足どころか近隣の村から略奪しなければまともな服すら手に入らないようなところだ。自分がテレジアに行けと言った場所がどんなところか、グランツはもちろん知っているだろう。村から避難してきた人々を助けたのは聖女の一行だ。聖なる結界で砦を封鎖したのはアヤメだった。

 ヴァーゲル公爵家と貴族を味方にして、もはや国王ですら危うい。


 アヤメにとって聖女は天職である。魔王が居さえすればか弱い人々はこぞってアヤメに縋ってくる。お誂え向きに王子や貴族といった憎まれ役までいた。公爵令嬢テレジアはこれからアヤメを盲信し、何があってもついていくだろう。聖女の名のもとに人々は集まり、正義の御旗を掲げて悪を裁くのだ。


 聖女アヤメ。

 彼女が人を殺めることはない。彼女のために誰かが人を殺めることもない。

 アヤメは誰かを癒し励まし、そっとその背を押すだけだ。




高校時代、アヤメを虐めた子が和解後に転校していったのは「ゼンイノダイサンシャ」の魔法です。


参考文献「戦争は女の顔をしていない」

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― 新着の感想 ―
聖女召喚の話だと読み進めたら政治の話だった。 グランツと国王はどっかの国の政治家を揶揄してる? アヤメの裏話も考えさせられる世界ですね。 それより何より、アヤメのグランツに対する非難のセリフは理路整…
えっ? 殺め? サイコパスな素養を強く持つ者、戦時の英雄になりうる者を、世界の意思同士では実は合意の上でやり取りする「召喚」……。 こえーよ。 この裏事情を彼女や彼女らが知ることはないんだろうけど、…
面白いと思いました。しかしながら、ホラーの要素が薄い。
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