第十一話 飲食店で見る悪夢
-金縛りの巻物-
周囲にいる相手全てをまとめて金縛りにする。対多数で特に輝く品で、店主に囲まれても問答無用で突破できる力を秘めている。
今の時刻は昼過ぎ辺りだったか。死臭に満ちあふれた都に似つかわしくない暖かな日差しのもと、抜き足差し足で音もなく動き回る。
視界を阻む模様付きの石柵、手入れされていないためにボサボサな植栽、道端に転がる白骨死体、利用できるものはなんでも利用しながら、静かにかつ迅速に往く。
いつも通りを意識して慌てず騒がず冷静でさえいれば、まともな連携というものを知らない店主どもをやり過ごすことなど造作もない。
うろついている店主の数が少なかったためか、幸いにも杖や薬を消耗することなく目的地にたどり着くことができた。
町の風景に溶け込んでいる、この町にはどこにでもある大衆向けの食堂。町が平和だった頃には、俺も何度か通ったことがあったところだ。
気配の上では店の中には誰もいない。それでも油断だけは絶対にせずに、自分の存在感を全力で殺しながら忍び込んだ。
「よし、誰も……いないな」
静かだ。調理場と客席が長机で二分された狭めの屋内には誰もいない。いや、かつて客だった白骨死体さんたちが無言の賑わいを見せてはいるか。
店の中は荒れ放題だ。カビや乾いた血にまみれた調度品は、のきなみ壊れている。まだら模様に汚れた床には、食器類の破片らしきものが大量に散らばっているので、足裏をケガしそうでおちおち歩けやしない。
かつてここが食事を出す場所だったとは思えない荒れ果てようだ。
ただ、商品を置く場所だけは除いて。
理性の無い怪物と成り果てても商売人は商売人、そういうところだけは例にもれずにキッチリと手入れしている。
他も片付けしろと言うのは高望みか。獣は人間のように掃除などしないのだ。
この店の商品棚は奥のほう、カウンター裏の調理場にある。さっそく忍び込んでみると、すぐに今回の狙いである食料を見つけることができた。
できあがった食べ物を置いておくための小さな机の上には、時間が経って冷え切った料理や瓶詰めの保存食のほかに、杖や巻物もいくつか転がっていた。
店主どもが用意する商品は、基本的に店の業種に応じたものが置かれるものだけど、関係ない物もいくつか置かれるのだ。
そんなものまで並べる理由はわからないけど、ついでに探索用の品も補充できるので助かってはいる。
「良し、十日分くらいはあるぞ。これで充分だな」
主に保存食を適当にかき集めたあとは、他になにか使えそうな道具がないか確認してみる。
杖は見たことがない種類のものが一本、巻物は貴重な“充填の巻物”が二つもあったので、即座に確保する。
「――ッ!」
そこで感知の魔法で拡張された感覚が食堂に近づいてきている店主の気配を捉えると、自分の意志に関係なく呼吸と手が止まった。
自分自身から出るあらゆる音を消して、遠くで落ちた針の音をも聞き取らんばかりに集中することで物音を拾う。
気配はまっすぐこちらへと向かってきている。目的はこの店か、それともただの通りすがりか。
後者ならば外から見られないように屈んでいればやり過せるのだが、最悪の事態を想定して身を隠すことにする。
すぐに外へ出ることができる場所に陣取るため調理場から出ようとするも、相手の動きが思ったより素早いため移動が間に合わない。出口が遠くなってしまうが、仕方なく調理机の下に潜むことにした。
床が湿っていて気持ち悪いのを我慢すれば、それなりにスペースがあって動きやすいので隠れるには良い場所だ。
しばらく様子を見ていると、気配は通り過ぎることなく店に入ってきた。事態は悪い方に傾いてしまったか。
事態はもっと悪いほうに傾く。店主は迷うことなく調理場のほうに入ってきてくれたのだ。
足音が間近まで近寄ってくる。頭のすぐ上で、何か重い物がどさどさと大量に置かれた音がする。
事態は最悪にまで傾ききった。店主が俺の潜んでいる調理机の前に立ったのだ。
今、手が届きそうな範囲に店主の足がある。人間の頭など熟れたトマトのように潰せるであろう恐るべき剛脚が目前にある。
俺は店主の攻撃範囲に入ってしまっている。
足蹴りがいきなり飛んでくる様を幻視してしまって、身が総毛立つ。唇はカラカラに乾き、胸から吐き気がこみあがってくる。
今すぐここから飛び出して、全速力で逃げたくなってくる。
だが、ここで心が折れたら一巻の終わりだ。奥歯を砕かんばかりの勢いで食いしばって絶望的恐怖に耐える。
慌てるな、冷静になれ、冷静であれ。
落ち着いて観察すればわかる、店主は俺に気づいていない。その証拠に、机の上の方で水が流れる音がする。なにかを切る音がする。なにか作業をやっている。
ここは食堂だ。そう、コイツはきっと料理を始めたのだ。今は料理という商品を仕入れるのに夢中で、今は俺から注意が逸れているのだ。
ちょうど作業音で小さな物音がかき消されているし、今なら店主に気づかれることなく逃げることができる。間違いない。
腹で息を吸って、ゆっくりと吐く。じっくりと息を吸って、倍の時間をかけて肺の中身を絞り出す。気を落ち着ける
カバンのなかからこっそりと“金縛りの杖”を抜きつつ腰を浮かして、普段の何倍もの慎重さで足を動かす。関節の音が鳴ったりしないよう、ゆるやかに、しとやかに。
ドクドクと爆音を鳴らす心臓がやかましい。全身を苛むうっとうしい震えを気合でねじ伏せて、舞台上を優雅に歩くファッションモデルのごとく、しずしずと足を運ぶ。
いきなり背後で机が乱暴に叩かれて、衝撃と物音を受けた全身がビクリと跳ねかける。店主が人類のものとは思えない獣じみた唸り声をあげながら、調理机を何度も何度も叩いているのだ。
気づかれたか、いや同じような物音が断続的に鳴っていて、止まる気配は無い。たぶん奴は料理に熱中して、力を入れ過ぎているだけなのだ。
これは俺の存在に気づいたわけではない、だからきっと問題ない。そう、問題ないはず。慌てることはない、急ぐことはない。
なにが起きているのかを振り返って見てみるなんて決してしない。今は一刻一秒を店主から離れることに費やすべきだ。
そう心に決めたつもりだったのに、つい緊張で強張る首を少しだけ動かして、背後にあるものを目に入れてしまった。
薄汚れたコック服の上に店主の前掛けをまとった初老の男が、一心不乱にナイフを振り下ろして生肉を切り刻んでいる。
種族は俺と同じ人間であるはずなのに、人が持つべき理性というものがまるで見て取れない、人であるとは思えない有り様だ。
ふと思う。その顔に、どこか見覚えがあるような気がする。こいつ、一年とちょっと前に見たことがなかったか。かつて、この顔をした生き物がほがらかに俺を出迎えて、美味い料理を振舞ってきていなかったか。
「……っ、っ」
だめだ、これ以上考えてはいけない。深く考えてしまったら、心が帰って来られないところにまで逝ってしまう気がする。
こいつは無数に湧いて出てくる店主の一匹であって、見知った顔であるわけなんてありえない。俺は何も見なかった。
慌てて前へと向き直す。今度こそ振り返らずに、静かさを維持して調理場から出る。店主の様子に変わりない。
やがて十分な距離が取れたら、止めていた息を吐きだしつつ駆け出す。
建物一つ分離れる。建物二つ分離れる。それでも店主が動くどころか追ってくる気配も無い。他の店主がやってくる気配もない。この様子なら、危機的状況から脱することができたと考えていいだろう。
これで目的は果たした。これ以上やるべきことは何もない、わき目もふらずに来た道を早足で戻る。
「早く、帰ろう」
成果としては上々である。道具をひとつも使わずに店主をやりすごしつつ、大量の食料を確保できたのだ。
それなのに喜ぶことはできない。というか、そんな余裕はない。
今はなぜか無性に早く帰りたい。まともな人間と、ニナと話をしたくてたまらない。それしか考えることができなかった。