夜
ゴーン ゴーン ゴーン
西の壁に掛かっている振り子時計が夜の11時を告げる。ここで眠気に誘われ床につくような俺ではない、それは凡人のすることだ。凡人ではない俺はこの時間に目覚め、活動を始める。なにせ留年した身だ、こんな時間に起きようと不便はない。
窓から向かいの道路を見ると車の1つも人っ子の一人も通っていないことが窺い知れた。青白い外灯の明かりに照らされた草木はそよぐ気配がない。どうやら風は吹いていないらしい。
上着を羽織って晩飯を買うため外に出る。やはり夜は落ち着く。俺はどうにも昼が嫌いなのだ。よく夜には有象無象が蠢いていると言うが、俺には昼間の人間の蠢きのほうが恐ろしい。人々の会話や動作、車の往来はまさに乱痴気騒ぎ、周りの街路樹もそれを囃し立てるようにザワザワと揺れる。とてもじゃないが落ち着いた気分にはなれない。それになによりも留年し、将来に深い影を落としている自分が日の元に出ればその影がクッキリと強調されて見えてしまい、嫌気がするのだ。それに比べ夜はいい。歩いていても滅多に人や車に出くわさず、人に会ったとしてせいぜい徘徊老人くらいのものである。加えて影は俺を追ってこない。
コンビニに続くいつもの道を歩きながら、おもむろに鼻歌を歌い始める。昼間に鼻歌を歌いながら歩いている奴などいれば少なからず好奇の目で見られるだろうが、今は夜である。そんな目を向けてくる者などそもそも居やしない。おかげで町全体がまるで自分の部屋になったかのように思えてくるのだ。自分の部屋では鼻歌を歌うだろう?
コンビニまでの道程があと半分となったあたりで、
「ミャーーオ」
と猫の鳴き声が響いた。途端、周りの民家からの灯りが一斉に消え、視界を照らしてくれるものが僅かな月明かりだけとなってしまった。遠くを見渡そうとも、どこも等しく暗闇であった。皆同じ時間に寝床に入ったのだろうか、そんな偶然もあるのだろうと無理矢理納得しようとしだが、仮にそうだとしてもここに有るはずの外灯までもが姿を消している理由にはならなかった。一抹の不安を抑えつつコンビニへの道を暫く歩いてみるが、どこも真っ暗であることに変わりはない。それどころか町並みこそ田舎町だが、記憶に無い家屋ばかりが並んでいる通りに出てしまった。一体ここはどこだ。
背筋を冷ややかなものが伝う。これは俗に言う心霊現象ではないか。夜の田舎町を出歩くようになって1年、始めの内抱いていた若干の恐怖も、あまりに何事も起こらないものだからすっかり安心しきって忘れていた。ここに来て今まで溜まっていた分ですよとばかりに町を歪めるほどの大規模な恐怖体験をさせられているのではないだろうか。身体が震える。早くこの不気味な空間から抜け出さなくては。
が、一言に抜け出すと言っても手段が全くない。遠くに逃げ出そうか。いや、見渡す限り遥か遠くまで真っ暗闇である。時が解決するだろうか。ならば既に解決しているはずだ。大声を上げようか。それはもう試した。
1時間ほど奮闘するもその甲斐はなく、ただ絶望だけが積み上げられるばかりである。身体はすでに腹から突き上げてくる恐怖と焦りに満たされていた。
怖い。
思わず目的もなく駆け出すが、その脚はいつの間にか震えていて真っ直ぐに走れない。呼吸が浅く速くなる。
「なんなんだよこれ、どうしろってんだよ」
呟くように放った言葉も、か細く震えていて虚しく響くだけであった。このままでは心身が保たない。早く抜け出さなくては。
だが脱出できる保証なんてどこにあるというのか。逃げ出せると考えてしまうのは先入観による都合の良い解釈だ。
永遠にこの歪な空間に閉じ込めらたままなのではという不安が頭をよぎる。現に、ここから逃げ出す術が無いのだ。その事実が益々この考えを確固たる真実たらしめる。
どうすることもできない。自分はなんと無力で小っぽけな存在なのだろう。このままここで死を待つしかないのか。
そう思い至ると同時に、狂気にも似た恐怖が全身を駆け巡り心音を強め、身体を熱くした。もはや冷や汗など意味をなさなくなっていた。
嫌だ、嫌だ、そんなのは嫌だ。怖い、怖くて堪らない。せめて徘徊老人でもいいから人に会いたい。ここで一人暗闇の中で朽ちていくのは嫌だ。誰か助けてくれ。誰か……。
うずくまって今にも叫び出しそうになっていると、
「ニャーオ」
再び猫が鳴いた。
顔を上げるとそこには黒猫が立っていた。思わずその温もりに触れたくて手を伸ばすも、猫は触れられまいと後ろに下がってしまう。
すると突然猫は空を見上げ固まってしまった。なにか異様なものでも上にあるのかと自分も猫につられて上を仰ぎ見る。しかしそこには異様なものなど1つもなかった。そこには、大小様々の星が視界を覆い尽くさんばかりに煌々と瞬き、季節外れの天の川銀河に彩られている夜空が浮かんでいた。
美しかった。
しばらく時が立つのも感じず、呆然と眺めていた。先程までの恐怖心はいつの間にか心から姿を消していた。その代わりに心には充足感が満ち、希望が溢れていた。
ふと猫を見遣るとそこに猫の姿はもう無く、暗い世界が漂っているだけであった。またこの暗い世界で一人になってしまった。
だけどこの光のおかげでもう少し耐えられそうだ。
突然視界が真っ白に染まり何も見えなくなってしまった。それが陽の光だと気づいた頃には目はその白さに慣れてきて、自分がコンビニの前にいることが分かった。茫然自失としてその場に立ち尽くす。
どうやら戻ってきたらしい。
歓喜するだけの容量はもう心に残っていなかった。自分の普段の暮らしからは想像できないようなあまりにも濃い出来事が多すぎたのだ。足が無意識にコンビニの中に向き、当初の予定である晩飯を買った。いや既にもう朝食か。帰路につく頃にやっと先程までの出来事の処理が終わったらしく、頭は正常に機能するようになった。
鼻歌は歌わずに歩き、ふと後ろを見ると自分の影がキッチリと俺の後ろに付いて回っていた。こんなのは可愛いもんだ。なんといったってあの恐怖を体験した俺だ、こんなもん怖くなんてない。
それに今の俺はなんだか気分が良いのだ。