苦くて、甘い恋
「なんか雨降りそうだね」
「あ、本当。でも天気予報でずっと今日は土砂降りの雨って言ってたよね」
ロッカーで帰り支度をしていると、そんな声が聞こえてきた。私はロッカーの扉についている鏡で髪の毛を直しながら、置き傘を持っていかないといけないな、と思った。
今日は金曜日で、私たちは仕事帰りに食事の約束をしていた。私がピザが食べたいと言ったら、彼は自分の家の近くにすごく素敵なイタリアンがあると言って、そこに食べに行こうと約束していた。
あの日の後も、変わらず翔くんは私を何かにつけて誘ってくれた。食事とか、ドライブとか。態度は全く変わっていない。いやどちらかと言うと、口に出したら、気にならなくなったのか、彼は私を好きだと言葉や態度でストレートに示してきた。
だけど、あれ以降、キスはされていない。繋ごうとする手は、触れるだけで離れていく。多分、気を遣っている。
あのキスした日の次にあった時、また彼に家の近くまで送ってもらった。別れ際に
「菜緒の返事を急かすつもりもないから」
彼はあっさりと言った。
「いつまででも、待つし」
思わず俯いた私に、彼は気にしないでと笑った。
「俺が菜緒に会いたくて誘ってるだけだから」
そう言って私の手に触れようとして、その手前で離れていった。
こうして誘ってくれて、優しくされて、だけど、こちらが戸惑わないようにしてくれている。側から見たら、とても大事にしてくれている。
私はそれに応えることはできていない。悩んでしまうけど、結局いつも彼のことを断ることができなかった。むしろ好意を前面に出している人に対して、焦らすような態度を取っている。
今日だって、私はおろしたての花柄のスカートを履いている。お店に並んでいるのを見て、気に入って買ってしまったものだ。それを今日ようやく身につけた。
異性と会う時に、お気に入りの新品の洋服を着る理由が何かなんて、考えればわかりそうなものなのに、私はその理由を考えないようにしている。
だけど、見ないフリをしているだけで、もう、答えは出ているようなものだった。
怖がっているのは私で、私が勇気を出せば、全部解決する。
それが難しいのだけれど。
ぼんやりとメイク直しをしていたら、思っていたより時間がかかってしまい、私は慌てて会社を飛び出した。会社を出ると真っ黒な雲が空を覆っているのが見えて、あ、雨が降りそうと思う。そこで傘を持ち忘れたことに気がついた。だけど取りに帰ると遅れてしまう。私はそのまま小走りで駅へと向かった。
だけど、結局雨が降り出してしまい、傘のない私はそこでちょっと甘くみてしまい、待ち合わせ場所までは近くだし走ってしまおうと走ったら、雨は笑えないほどに降ってきて、短い距離だったはずなのに、待ち合わせ場所についたときには、もう目も当てられないほど、ずぶ濡れになってしまった。
最悪だ。こんなびしょ濡れでは食事にも行けない。彼に連絡して今日はやめてもらって、自分はこのまま帰ろうと思ってバッグから携帯をとろうとする。
そんな時タイミング悪く、後ろから声がかかる。
「菜緒、どうしたの?」
その聴き慣れた声に振り返ると、そこには彼がいた。
流石の彼も驚いたのだろう。目を大きく見開いて、言葉を失っていた。
私は全身びしょ濡れで、おろしたての花柄のスカートは、手で絞れそうなくらい濡れていた。
何だか泣きそうになってしまった。
私は見知らぬ玄関で立ち尽くしたまま、大きなため息をついた。私はびしょ濡れのままだった。濡れた体に、着ているブラウスが張り付いて気持ち悪い。髪の毛から雨の滴が滴って、玄関の床に落ちた。濡れた体が冷えて震えた。
少し待っていると、奥からスーツ姿の翔くんがバスタオルを持ってやってきた。
「とりあえず、これで拭きなよ。今お風呂準備してるから」
「あ、悪いから、いい。拭いたら帰る」
「そんなずぶ濡れになってる人を帰せないよ。とりあえずいうこと聞いて」
「はい」
私はそう返事するとバスタオルで体を拭いた。着ているシャツもスカートも見ている人が驚いてしまうほど濡れている。ある程度拭いたところでバスタオルに体を包ませる。
「もうすぐお風呂できるから、いい加減、家の中に入りなよ」
そう声をかけられて、私は渋々家の中へ上がった。
「お邪魔します」
どうしてこんなことになってしまったのかなあ、と心の中でため息をつきながら。
駅で会った私たちは早速口論になった。帰るという私と、こんな状態ではタクシーも電車も乗せられないという彼はお互い引かなかったけれど、結局、これでは家まで帰れないという彼の意見に従って、そこから近い彼の家へ向かった。
「お邪魔します」
家の中に入ると、彼の部屋はそれなりに片付いていて、男の人の一人暮らしにしてはきれいだった。リビングには小さなテーブルに椅子と、ソファ、T Vが置いてあった。どこにいたらいいか分からなくて部屋の隅に立ち尽くしていると、彼がもう一つの部屋から出てきた。
「とりあえず、着替えなよ。これなら菜緒も入ると思う」
そう言って着替えを渡してきた。
「え、大丈夫。拭いたらもう帰る」
彼は小さくため息をついた。
「とりあえず、もう、そういうのナシ。早くお風呂入ってきて。それからこれに着替えて、洗濯機使っていいから着ているもの洗って」
言うだけいうと、私をお風呂場に連れていく。
「俺、少し外に出てるから、気にしなくていいよ。ゆっくり入りな」
じゃあ、ちょっと出かける、という彼の背中に声をかける。
「ありがとう」
彼は振り返って笑った。その顔を見たら、何故だかとても安心してしまった。
お風呂は暖かくて、入ると体も温まり、気持ちも落ち着いた。お風呂に入る前に鏡で見たら、びしょ濡れで着ている下着まで見えそうなくらいになっていて、確かにタクシーはともかく、電車では帰れない状態だった。
体を洗って、髪も洗って湯船で一息つく。そして、彼の家でお風呂に入っているなんて、不思議だなと思う。
お風呂から出て、彼から借りた服を着る。借りたパーカーとジャージは、やっぱりとても大きくて、特にパンツは裾があまりすぎて、裾を折った。
翔くんは細身だからあまり大きく感じないけれど、やっぱり男の人って大きいんだと実感した。
それからまもなく彼が帰ってきた。ドアの開く音がして、私は玄関まで走っていく。
「お帰りなさい」
彼は手に大きな紙袋とスーパーの袋を下げていた。私の姿を見て、少し、驚いたように動きを止めた。
「どうかした?」
「あ、いや、ただいま」
私は手を伸ばして彼の持っていた袋に手をかけると、彼は、これは重いからこれだけ持って、と紙袋だけを渡してきた。受け取ったそれは結構ずしりと重かった。
「行こうと思ってたお店でテイクアウトしてきた」
「え、すごい」
紙袋からいい匂いがした。その匂いに刺激されて、お腹が空いていたことを思い出す。
「翔くん、先にお風呂、ありがとう。翔くんも入ってきたら?」
彼は少し迷って、じゃあ、そうする。というので、お皿の場所を聞いて、私が食事の準備を担当することにした。
「いただきます」
彼がお風呂から出てきて、二人で食事をした。彼が買ってきてくれたピザもパスタも美味しくて、私はたくさん食べてしまった。彼が飲んでるビールが美味しそうで、珍しく私もお酒を飲んでしまう。お店ではないせいか、気が緩んでいるのかもしれない。
お風呂上がりでメガネをかけていない彼は、着ているものがTシャツのせいか、なんとなく高校生の時を思い出す。そう伝えると、彼も意地悪そうに笑って、「化粧してない菜緒も、高校生以来だ」と答えてきた。思いがけずスッピンを見せてしまったことを後悔するが、仕方ない。確かに昔はいつもノーメイクだったのだから、今更かもしれない。
だけど思わず顔をしかめた私を見て、彼は笑った。
食べ終わって、二人で片付けをする。お茶を飲もうとして、彼の家にはコーヒーとペットボトルのお茶しかないことがわかる。彼はしまったという顔をして、さっき一緒に買えばよかったと言った後で
「今度、紅茶を買っておくよ」
と約束してくれた。
コーヒーが飲めない私を知っている彼にそう言われて、何だか恥ずかしくなる。
だって、また来ても良いって言われたみたいだから。
結局彼用にブラックコーヒーと、私用にほんの少しのコーヒーにたっぷりの牛乳とお砂糖を入れた飲み物を作って、ソファに並んで座りながら、二人で話をする。テレビを見たりしながら、並んで話しているとリラックスしてしまって、あっという間に時間が過ぎていく。立ち上がって窓から外を覗いたけれど、外はまだ大雨だった。私は時計をチラリと見る。そろそろ帰った方がいいけど、帰るのには気合がいるな、と思っていると彼も立ち上がって私の後ろから窓の外を見つめる。
「まだ雨だな」
「うん、でもそろそろ」
全部言い終わらないうちに、彼は無言で腕を動かして、私を自分の腕の中に閉じ込めた。
「翔くん?」
右肩に彼の頭が載る。柔らかい髪の毛が、私の首をくすぐった。
「なんか、菜緒が家にいるの、良いな」
「なに、急に」
私は笑ってごまかそうとしたけど、彼は笑わなかった。
「さっき、おかえり、とか菜緒に言ってもらえて、すごく、良いなあと思って」
「毎日だと飽きちゃうよ」
「飽きないよ」
さっきまで、いつもみたいに楽しく話していたのに、今は何だか私たちの周りには重いような、甘ったるい空気が流れている。
「初めてだから、良いって感じるんだよ。2回目からはなんとも思わないよ」
笑ってそう言ったけれど、返事はなかった。その代わり彼の頭が動いて、その拍子に私の首筋に彼の唇が触れる。触れて、あっという間に離れたのに、触れた部分に驚くほど強く、彼を感じてしまう。心臓が今までにないくらい、早く打っている。
この雰囲気を変えようと、ごまかそうとするのに、彼がそれを許さなかった。
「ねえ、菜緒」
彼の腕に力が入った。ぎゅうと抱きしめられて、彼の体温を背中に感じる。
「今日、帰らないで」
心臓がドキドキした。私は俯いた。
「え、でも」
「まだ、菜緒と離れたくない」
「急すぎるよ」
「もう、俺のことは好きになれない?」
視線を落とすと、彼の腕が目に入った。意外と筋肉質で、しっかりした腕だった。その手に触れたいと思って、私は恐る恐る彼の腕に触れた。
「好きになれない、とか、そういうのでは…」
私は口籠る。だけど、彼は私の返事を待たずに腕に力を込めた。
「俺は菜緒が好きだよ。ずっと好き」
その少し震えたような声を聞いたとき、もうダメだ、と思った。
なにがあっても、私はこの人が好きで。大好きで。
彼の腕も手も声も、ちょっと整いすぎのこの顔も、結局好きで
少しそっけない態度をとるくせに、実はとても優しいところも、
全部、全部、大好きだ。
昔も好きだったけど、もしかしたら、今の方が、もっと好きかもしれない。
そして、実は、目をそらしていただけで、ずっと好きなままなのだと思う。
「あの、私、ずっと、悩んでて」
私は翔くんの腕をギュッと掴んだ。
「あのとき、高校の時、私は自分のことで精一杯で、きっと翔くんのこと、何にも見えていなかったんじゃないかと思っていて」
昔のことを考えると、私はやっぱり苦く感じてしまう。
あの頃は、ただ上手くいかなかったことに対しての後悔なのに、再会してからの私は、あの時の自分が嫌だった。
とても幼くて、周りが見えていなくて、彼のことを信じることもできなくて。
もっとちゃんとしていたら、もっと上手くできたのではないかって、そればかり考えていた。
「だから、そのせいで翔くんにはたくさん嫌な思いをさせたと思って。後悔している」
私は右手を伸ばして、肩の上にある翔くんの頭に触れた。彼の顔が上がって、視線が合う。
「聞いても、良い?」
「なんでも聞いて」
私は視線を伏せた。
「昔、高校生の時。私と付き合ってる時、他の人とも付き合ってた?」
翔くんは、私の目を見た。首をしっかりと横に振った。
「菜緒と付き合いながら、他の人と付き合ったりしてない」
「ずっと、付き合ってる人とか、…いた?」
頭の中に、あの時の女子高生が浮かんだ。私と付き合いながら、実はあの人とも付き合っていた、その考えが消せなかった。彼は黙って首を横に振った。
「いるわけないだろ」
私は息を吸った。
「誰でも良かったから、私と付き合ったわけじゃなくて、ちゃんと私のこと、好きでいてくれた?」
「俺が好きだったのは菜緒だよ。他の誰でもない」
彼の顔が近づいて、私の額と彼の額が合わさる。
「俺はずっと、菜緒が好きだ」
それを聞いて、心を決めた。
私は顔を離して、彼の目を見て、口を開く。
「私も…好き。翔くんのこと」
彼の目が驚いたように見開かれる。私は彼の目を見てもう一度口を開いた。
「多分、前より今の方が、ずっと好き」
私は彼の目を見ながら、続けた。
「私、もう一度頑張るから、翔くんに嫌な想いさせないように頑張るから、それなら良い?」
しばらく私たちは無言で見つめあった。彼がどう答えてくれるか不安で、心臓が早く打って、それにこれ以上耐えられないと思った時、翔くんは首を横に振った。それから私の目を見て、口を開いた。
「頑張るのは菜緒だけじゃないから。一緒に頑張ろう」
翔くんは腕を緩めると、私の体の向きを変えて、今度はしっかり正面から私を抱きしめた。
「菜緒、好きだよ」
私は彼の背中に手を添えた。
「私も」
顔を上げると翔くんと目があって、どちらからともなく顔を近寄せて、唇を合わせた。
少しして唇を離した後、彼がギュッと私を抱きしめて、私も彼を抱きしめた。
その腕の中はとてもあたたかくて、心地良くて
本当はずっと、こうしたかったんだ、と実感した。
その日の夜中、雨は降っていて、静かな部屋の中にはずっと雨の音が聞こえていた。
私はその音を一晩中、彼と一緒に聞いていた。
「優しくする」
そう約束してくれた通り、彼はとても、優しかった。




