苦いのに、甘い恋
「あ、安藤さん。この間お疲れ様」
一人社食でランチをしていると、声がかかった。顔を上げると西野さんがいた。彼女は私に確認してから、私の前の空いている席に座った。
「西野さんも、お疲れ様」
私は笑顔で返事した。食事をしながら、なんとなくこの間の合コンの話になった。西野さんは笑顔で直球を投げ込んできた。
「安藤さん、すごい格好いい人とずっと話してたね。しかも、あの人が元カレなんだってね」
返す言葉を失って、私は苦笑いした。そして、こういう話に限って、驚くほどの速さで広まるのだと実感した。
あの後結局、私は彼と連絡先を交換して、別れた。連絡なんてどうせすぐには来ないだろうと思っていたのに、早速その日の夜の内にメッセージがきた。
悩みながら返すメッセージには、すぐに返事が来て、おやすみを言うまで続いた。何だか学生の恋愛みたいだと恥ずかしくなる。
「元カレっていうほどでも…ただの知り合い程度で」
「え、でもチラッと見たけど、すごく仲良さそうだったよ」
あんなぎこちない気配を、キッパリと仲良さそうと表現できてしまう西野さんには感服する。だけど、彼女は変わらずニコニコしながら言った。
「何だかお似合いだなって思って見てたよ」
いやいや、それはあなたたちでしょうと心の中で指摘する。私たちが仲よさそう、なんて、ちょっと信じられない。あんなに格好いい人と、私では釣り合わないだろう。
「向こうが格好良過ぎて、私とは合わないよ」
私が首を振って答えると、西野さんは元カレなのに?と笑いながら返事した。
「でも、自分とその人が似合っているかなんて、他人が決めることでもないよ」
そう言ってニッコリ笑った。
「私は、あの人、安藤さんのことがすごく好きなんだなって感じたよ」
西野さんはニコニコしながらご飯を食べて、仕事に戻ってしまった。一人食堂に残りながら、お茶を飲む。頭の中に残るのは、さっきの西野さんの言葉と、この間の彼の顔ばっかりだった。
目の前に見た彼の少しホッとした顔とか、少し苦しそうな顔を思い出して胸が熱くなる。次に会ったときに、どんな顔をしていいのか、わからない。悩んでいるうちに昼休み終了の時間が迫って、慌てて席を立つ。
「あ、そう言えば」
西野さんはあの人とどうなったかな。ふと、そう思って、今度会ったら聞こうと決めた。
『週末、出かけよう』
そんなメッセージが来たのは、水曜日の夜で、私は返事をするのにたっぷり1時間迷ってしまった。
出かけるって?いつ、どこに?
そもそもこの間のことがあって、顔を合わすのも気まずいけど?
頭の中に疑問ばかりが浮かんでくる。
でも心の準備ができなくて、やっぱり断ろう、じゃあ、どうやって断ろうかと迷っているうちに、電話が鳴った。
「あ、もしもし」
「もしもし?今、大丈夫」
聞こえてきたのは彼の声で、電話越しの彼の声を思わず懐かしいと思ってしまった。
どうやら返事がないから、私が悩んでいると思ったらしい。返事がいつくるか分からないから、電話にしたと言われて、いつもながら察しがいいな、と思った。そして話しているうちに、あっという間に週末の約束を取り付けられてしまった。向こうから遠出しようとか、ドライブにしようとか映画にしようとか、食事をしようとかポンポン意見を出されて、なんとなく返事を返すうちに話が進んでしまった。彼に乗せられた気もする。いや、多分、乗せられてる。とても、簡単に。
「行かないつもりだったのに」
そう呟いた。
結局、映画を見に行くことになった。ただ、会話が持つか心配だったから、映画なら沈黙をごまかせると考えた末の私のチョイスだったけど、結局、逃げられない場所に長時間至近距離で座る事を、自ら選んでしまったという事実に後から気がついて、失敗した、と落ち込んだ。
今更会って、どうするんだろう。そんな考えが浮かぶ。彼も高校の時に変な終わり方で終わったから、それを気にしているのかもしれない。
だからと言って、もう一度会う必要があるだろうか?この間で終わりだっていいのに。
心の中で不満げに考えるくせに、実際は彼との約束をとても楽しみにしている。
何を着て行こうとか、考え出している自分がいた。それに呆れてしまいながらも、止めることができなかった。
週末の映画館は混雑していて、私たちは少し前に上映が始まった、作品を見ることにした。飲み物を買って行こうということになって、二人で映画館前のカフェのカウンターに寄る。
「俺、菜緒が何を頼むかわかる気がする」
「え?」
当てようか、そう言って彼はちょっと口元を緩めて一つのメニューを指さした。
「ロイヤルミルクティー」
確かに高校生の時、私はよくそれを飲んでいた。二人でカフェに行った時、コンビニで飲み物を買う時、いつもそれを頼んでいた気がする。その時好きだったというのもあるけど、今も好きで、なんとなくミルクティーを買ってしまうことが多い。甘いそれを、翔くんは「女子はこういうの好きだよね」と言って、自分は涼しい顔でブラックコーヒーを飲んでいた。
そんな事、覚えていたのか。
どちらかと言うと、そっちの方に驚いた。
「だろ?」
そう言って自信満々な彼を見て、少し悔しくなってしまい、思わず「私、コーヒー、ブラックで」と訳もなく意地を張ってしまった。いいの?苦いよ、と隣から指摘されて、引き返せなくなり、私はコーヒーを買った。「後悔しても知らないよ」という声を私は顔を逸らして誤魔化した。
少し前の作品だったせいか、席は空いていた。私たちは後ろの方に隣り合って座る。
「はい」
彼がコーヒーを渡してくれるのを、ありがとうと言って受け取る。普段ブラックコーヒーを頼むことはない。恐る恐る口にすると、やっぱり苦かった。
声には出さなかったけれど、反射的に苦い顔をしてしまったのだろう。隣で小さく笑う声がした。
振り返ると、翔くんがおかしそうに笑っていた。そして自分の席のホルダーに置いていたカップを差し出した。
「はい、じゃあ、俺のと交換」
そう言って開いている方の手で、私のカップを取った。
「買ってみたけど、俺にはそれ、甘すぎてきっと飲めない」
まだ飲んでないから、そう言われて一口飲んでみたら、それはミルクティーだった。少し甘ったるいそれに、安心する。
「ありがとう」
小さくお礼を言うと、どういたしまして、と笑いを堪えたような声がした。
そのミルクティーを手にしたまま、ぼんやりと、こんなこともしてくれるのだと、驚く。
そして昔はこんな感じじゃなかったなと思い返す。
昔とペースが違うから、全てに戸惑ってしまう。昔がどんな感じだったかをひたすら頭の中で考えていると、隣から声がかかる。
「高校の時も、菜緒が俺のコーヒー飲んだ事があったの、覚えてる?」
突然、彼が質問してきた。そんなことあったかな、と思い返すけど、思い出せない。彼は私を横目で見て、続けた。
「菜緒が今みたいに俺のコーヒーを見てるから、飲む?っていったら、一口飲んで物凄い苦い顔をして」
きっとその時のことを思い出したのだろう、彼は懐かしむような顔をした。
「あの時と同じだな」
そんなこと、全く覚えていない。
多分、私が彼のいつも飲んでいるコーヒーに興味を持って、そしてきっと飲みたいとお願いして、もらった癖にその苦さにひどい顔をしたのだろうと思う。なんとなく、想像はつく。私は彼の事をなんでも知りたかったから、彼のいつも飲んでいるブラックコーヒーにすら、とても興味があった。
だけど覚えてはいない。どちらかというと、いい思い出ではない気がする。
「あの時も、今みたいにすごく苦いって顔をしてた」
隣の彼は、ちょっと目を細めた。
不思議だな、と思う。お互い持っている思い出がこんなに違うなんて。
こんな、私にとっては忘れて欲しいようなことを、彼が覚えているなんて。
どちらかと言うと、私が忘れて欲しいと思うようなことばかり、この人は覚えている。
「別に今日、映画がみたいわけでもなかったんだ」
「え?」
ぼんやりとしていると、隣から声がした。翔くんは顔をあげて、天井をみた。
「映画でも、動物園でも、ドライブでもなんでも良くて、ただ、菜緒と会いたかっただけ」
そう言うと私へと顔を向けた。
「菜緒と一緒にいたかっただけ」
視線があって、彼は表情を緩める。
そんなこと、どうして言うんだろう。そう思ったのに、私が笑ってごまかせないような顔をするから、私はまた、何も言えなくなってしまった。
ちょうどその時、ライトが少しずつ消えていって、上演開始のベルがなった。彼の腕がスッと動いて、私の手を捉えると、この間みたいにしっかりと握った。
「手、繋いでいて、いいよね」
返事をする前に、室内は真っ暗になってしまって、私は断ることもできなくなってしまった。
そして、少し前に上演開始されたその映画は、3時間かかるような超大作で、私は長い時間、彼と手を繋いだままになってしまった。面白い、感動する、と絶賛されていた作品だったけれど、私は彼が隣にいることに緊張して、映画の内容なんて頭に入らなかった。
結局映画を見て、二人で歩きながらショッピングしたりお茶をしたりして過ごして、結果的に私はとても楽しんでしまった。彼がやたらと手を繋いできたり、距離が近いのには困ったけれど、それ以外は本当に、楽しかった。
少し早い時間だったけど、夕ご飯を食べて帰ることにした。話をするうちに、私は彼が実家を離れて一人暮らしをしている事を知った。私の住んでいる実家とは、反対方向だ。
「じゃあ、この間の帰りは大変だったんじゃない?」
そう聞くと、「まあ、別にそんな事なんでもないよ」と本当になんでもないことのように答える。言ってくれればいいのにと、少し不満になる。
「あ、じゃあ、今日は一人で帰るし、大丈夫だよ」
店を出てそう言って別れようとするけれど、翔くんは顔を横にふった。
「でも、ちゃんと送るよ。俺が菜緒を送りたいんだ」
ちょうど歩いている場所から海が見えた。暗くなってきた海から風が吹いた。海辺にはたくさんの人がいて、その中には高校生の恋人同士なんだろうなと思う人もたくさんいた。
歩いているうちに彼の手が伸びてきて、私の手と繋がれて、それをごく自然に受け入れている自分に驚く。高校の時はもっと長い時間一緒にいて、ようやく手を繋いだのに、再会してまだ数日で何度も手を繋いでいる。
以前付き合っていた時の翔くんは、淡白だった。こんな風に家の近くまで送ってもらうことはなかったし、翔くんから連絡が来ることなんてほとんどなかった。
手だって、繋いだのはたった1回だった。
なのに、今は家の近くまで送ってくれるし、連絡も頻繁にくれるし、手だって何度も繋いでいる。
「なんか、変なの。昔の翔くんは、もっとあっさりしてたのに」
思わずそう呟くと、彼が聞き返してきた。
「あっさり?」
うん、と私は頷いた。私たちは立ち止まって海を眺めた。夜景が海の水面を輝かせて綺麗だった。
「何だか、昔といろいろ違うから、ペースが狂うと言うか」
そう言って私は苦笑いする。
「前と同じにならないよ」
静かな声がした。翔くんはまっすぐに海を見ながら独り言みたいに話した。
「俺も、菜緒も、もう高校生じゃなくて、大人なんだから。同じことをしても、同じ様にはならないよ」
遠くを見ていた目が、自分の方へと向けられる。真剣な視線にドキリとする。
「高校の時と同じにはならないよ」
当たり前だろ、と軽やかに彼は返事する。理由はわかるけど、そんなに簡単に受け入れられない私がいる。
「それはそうだけど」
「今は、俺も菜緒も大人だし、いろんなことができるようになっているし、同じことがもっと上手くできる。だから、きっと今度はうまくできると思う」
確信を持っていう彼に、私は少し戸惑う。
「無理だよ、そんなの」
「どうして?」
翔くんは体を私へ向けた。その目が少しだけ、細くなる。さっきは楽しそうに見えたその目が、今は悲しそうに見える。
そんな目で見ないでほしい。そんな顔をさせたい訳じゃない。
「だって私、翔くんのこと、傷つけた」
「それは誤解だって、この間自分で言ってたくせに」
私は俯く。うまく言えない。
私と彼ではうまくいくはずがない。前のように彼に嫌な思いをさせたくない。こんなにきれいな人とは似合わないとか、以前がダメだったから、またダメになるんじゃないかとか。
全部ちゃんとした理由のような気もするのに、全部薄っぺらい、ただの言い訳みたいな気もする。
私はただ、前みたいに彼に辛い顔をさせたくない。
ただ、それだけなのに。
私は頭を左右に振る。
「分からないけど…うまく言えない」
「菜緒」
黙ったままの私のそばを、風が通り抜ける。風で乱れた私の髪を、彼は手を伸ばして、そっと手櫛で直す。顔周りの髪が、そっと耳にかけられる。指が私の頬をかすめて、耳に触れる。
たった数秒の出来事なのに、彼の手が触れるだけで、たまらなく長い時間に感じて、何故だか苦しくて息ができなかった。
こんなことやめて欲しいと思うのに、その手が離れるのが嫌だと思ってしまう。
私は思わず声を上げる。
「ほら、こんなの昔はしなかった」
顔を上げると、翔くんは笑った。
「そうだよ。昔とは違うし、今の俺はあの頃よりもっと菜緒に触れたいと思っているし、抱きしめたいとか、キスしたいとか思っている」
「うそ」
「本当だよ」
「嘘だよ」
「菜緒、こっち向いて」
彼は私の両方を掴んだ。恐る恐る顔を上げると、真剣な彼の顔が目の前だった。
「嘘、言わないで」
私は彼の目を見た。
「嘘じゃない」
「どうしてそんなこというの?」
翔くんは、私の目を覗き込んだ。
「菜緒のことが、好きだから」
私は目を見開いた。驚いた私の顔を、彼はおかしそうに見た。
「好きだよ、ずっと。昔も、今も」
私の周りで彼の腕が動く。あっという間に私は彼の腕の中で、出すべき言葉を失って、だけど彼から目を離すこともできなかった。彼は右手を伸ばしてそっと私の頬を撫でた。
「菜緒のことが、好きだよ」
そう言ってそのまま静かに腰をかがめた。
疑問を感じる間も無く彼の顔が近づいてきて、あっという間に私の唇と彼の唇が重なった。
思わず体が後ろに逃げようとするけれど、彼の左手が私の後頭部を押さえて、逃げられない。掌で彼の胸を押して体を離すと、あっさりと私たちの体は離れた。
「ど、どうして?」
息を荒げて混乱する私と反対に、彼は冷静でさっきまでと何も変わらなかった。
「まだ一回しかしてないから」
「え?」
なにを言っているのか意味が分からなくて、私は怪訝な顔をする。彼は全く表情を崩すことなく、右手の親指を上げて私の唇にそっと触れた。伏せた瞳に影が下りて、彼の感情が見えなかった。
「言ったよね。またするって」
「え?」
遠くにしまってあるものが、蘇る。
忘れたくても忘れられない思い出。
そう、あの日、彼は言った。あの、夏祭りの日。
何度でもするって。
たくさん、するって。
最初で最後のキスの後に、彼はそういった。
だけど、結局、私たちがキスしたのは、あの一度きりだった。
あの時は。
「だから、また、するよ」
その声とともに、もう一度彼の顔が降りてきた。
そう言って今度は私の目を見たまま、ゆっくりと降りてくる。避けようと思えば、絶対に避けられる。
だけど、私は動くことができなかった。
彼は私の唇に触れる直前で、一度動きを止めた。そして私の目を見たまま、口を開いた。
「何度でも」
そのすぐ後に、私と彼の唇は重なった。
今までに彼としたどのキスよりも、ずっと長く。
そして、深く。




