苦いけど、すこし甘い恋
結局、私たちの話は『少し』にはならなかった。
仕事のこと、大学時代のこと、私たちは綺麗に高校時代の話と、恋愛話を切り抜いて話をした。もしかしたら一番気になっている話題だったかもしれないけど、逆にそれを話さないのが良かったのかもしれない。
「翔くん、一つだけいい?」
私はそう言って話を切り出した。以前から心に残っていたことがあって、どうしてもそれをやり遂げたかった。
「謝らないといけないことがあって」
私がそういうと、彼は怪訝な顔をする。私は息を吸って呼吸を整えてから口を開いた。
「高校の時のこと」
彼の目が記憶を辿るように動く。
「大学の時に、高校の同窓会があって、その時に、あの時の、最後の…翔くんが私に会いに来てくれた時のことを聞いたの」
それを聞いて、彼は思い出したのだと思う。私の目を見て視線が止まった。
「あの時の友達に聞いたの。実は、あの人が翔くんに告白したって。私も驚いた」
私は苦笑いする。今思い出しても、彼女のことで、なんだか嫌な気持ちになる。
「あんな時にそんなこと言うなんて、ひどいよね。翔くん、すごく嫌な気持ちになったと思う、ごめんなさい」
私は頭を下げた。
「それから、翔くんの言った通りだったのに、全然いうこと聞かなくて…翔くんのこと信じなくて、嫌なこと言って、ごめんなさい。せっかく会いに来てくれたのに、嫌な思いさせてごめんなさい」
私はもう一度頭を下げた。ゆっくり頭をあげる。視線のあった翔くんは相変わらず無表情で、私は苦笑いした。
ずっと気にしていたけど、彼の中ではもう忘れてしまうくらい、どうでもいいことだったかもしれない。
そう、さっき彼は言っていた。私とのことは「いい思い出」って。
だけどなんとなく、私は彼とのことはまだ続いているような気がしていた。
もう過去形、と、まだ現在進行形。
彼の考え方と私の考え方。
大きな違いだ。
だけど、それでもいいかな、と思った。
今日二人で話した時間は穏やかだったから、今日会えた事を、私はよかったと思えた。
嫌な形で終わった恋を、少し整理できた気がする。
だから、彼もそう思ってくれているといいと、隣に座る彼を見て思った。
「今日会えてよかった。ずっと謝りたかったから」
私は笑って、彼に帰ろうか、と声をかけた。少しのつもりだったのに、結局1時間くらい経っていた。私が切り出すと、少し迷った後で、翔くんは時計を確認して頷いた。ベンチから立ち上がって、二人で並んでホームを歩いていく。
電車を並んで待ちながら、私は勇気を振り絞って声を出した。
「翔くん」
彼の顔が私へと振り返る。私は視線を下げた。
「あの、お願いがあって、もう一度だけ、手を繋いでくれない?」
翔くんは、少しだけ目を見開いて、驚いたような顔をした。
あの時、一度だけ手を繋いだ。
それがあの恋の中でも、一番か2番にあげられる大切な思い出だった。
一度だけ、手を繋いだことと、一度だけ、キスしたこと。
苦すぎる恋の中で、そこだけがとても甘かった。大人になっても何かの拍子に懐かしく思ってしまう。思い出すと、胸が苦しくなってしまう思い出。
わがままだけど、辛い場面で終わった昔の恋を、最後は甘い恋として上書きして終わりにしたかった。
上書きして、今度こそ心の奥底に仕舞い込もう。
もう絶対に出てこないように。
彼は黙ったまま、ゆっくり手を伸ばしてきた。高校生の時、その男の人にしては、細くて長い指が好きだった。
高校の時、一緒に図書館で勉強した時、彼の手が綺麗な事と、字がとても綺麗な事に驚いた。
「手が綺麗だね」
と言ったら、彼は初めて見るもののような顔をして、じっくりと自分の手を見た後で、私に向かって掌を差し出した。
「別に普通の手だよ、菜緒よりは大きいけど。ほら」
重ねてごらんという様に、目の前に広げられた掌に、私はドキドキしながら自分の手を開いて、そっと合わせた。
彼の手は私の手より大きくて、指も細くて長かった。
その時はまだ手を繋いだこともなかったから、手を触れ合わせるだけで、もうドキドキだった。
「菜緒の手、意外と小さいんだな」
翔くんが少し口角を上げてそう言って自分の手を引っ込めるまで、私は手が動かせなかった。手が離れても、しばらくぼうっとしていたら、隣から
「勉強、しなくていいの?」
いつもの無表情でぶっきらぼうに言われて、慌てて教科書に目を落とした。
あれから何年も経ってから見た彼の手は、少し骨張っているけれど、やっぱり指が長くて、私はもう高校生ではない、彼のその手も綺麗だと思った。
私は手を伸ばして、ゆっくり手を握った。記憶の中の彼と同じで、その手はとても暖かくて、強く握り返してくれた。私は彼に笑顔を向ける。
「ありがとう」
ちょうどその時電車の近づいてくる音がした。電車が私たちの横を通り過ぎていく。それを横目に見てから、私は彼に向き直った。お互いの視線が絡み合う。私は手を繋いだまま、口を開いた。
「ごめんね」
繋いだ手を見つめた。それはしっかりと握られていた。
あの時も、私たちの手はしっかりと握られていて、あれからたった数日で手が離れちゃうなんて、思いもしなかった。
「あの時、うまくいかなかったの、私のせいだから。私が頑張りすぎちゃって、全部、うまくいかなくなっちゃった。ごめんなさい」
翔くんがじっと私を見下ろしていた。その顔は無表情で、何を考えているかわからない。
私は繋がれていた手を、スッと自分の方へと引いた。
意外にもとてもあっさりと、その手は離れた。それを少しだけ寂しく思って、だけど私は急いで笑顔で作った。
翔くんは変わらず私を見ていた。あの時よりも体つきががっしりして、メガネをかけるようになって、あの時と違うところが増えて、でも、変わってないところもたくさんあって。彼を見ているだけで、色々な思い出が蘇って懐かしくなる。
思い出だけじゃなくて。
彼を大好きだったことも、思い出す。
「色々あったけど、でも、翔くんとのこと、全部、大切な思い出。ありがとう」
私は笑った。
今後こそ、いい思い出にしないといけないから。
彼と同じように、私も、過去形にしないといけないから。
私が言い終わった少し後に、電車は減速し始めて止まった。彼の近くで、電車のドアが開いて、人が降りてくる。だけど、翔くんはずっとこっちを見ていて、私も彼を見ていた。
乗り降りする人がいなくなると、電車のドアが閉じる。ドアが閉じたら、電車は動く。それがわかっているのに、彼は動く気配がなくて、私は何も言えなかった。そして、彼も何も言わなかった。
そのうちにドアが閉まって、電車が走り出しても、彼は私の前にいた。ついさっき別れの挨拶をして、彼は電車に乗って家に帰るはずだったのに、どうしてまだ目の前にいるのだろう。
「乗らなくて、よかったの?」
そう問いかけると、彼は黙ったまま足を前に踏み出した。一歩分、私との距離が縮まる。
「ねえ」
彼は私の問いかけには答えずに、もう一歩分、私に近づいた。
「俺も、いい?一つお願い」
「何?」
「また、会ってくれない?」
思いも寄らない提案に、私は言葉を失った。
「また、こうやって、菜緒と会いたい。だめ?」
視線を上げると彼と目があった。少し伏せられた視線は、逸らされることなく私を見ていた。
「菜緒、お願い」
名前を呼ばないで欲しい。
私はあなたに名前を呼ばれるのが好きだから。
その声も、少し余韻が残るような呼び方も、全部好きだった。
でも、それは過去形じゃない。今も好き。悔しいけど、今も好き。
昔からずっと、好きなままだ。
好きだからこそ、そうやって呼ばないでほしい。
「菜緒、だめ?」
胸の奥がずきりと痛んだ。彼の顔がとても切なそうで、苦しそうだった。その顔を見たら、私もとても苦しくなる。
心の奥で、古傷が痛む。また同じ事をしたら、前のように辛くなることはわかっていて、心の中で警鐘が鳴っている。扉を開いたら、どれだけ痛くなるかを、私はよく知っている。
だけど私は彼のお願いを断れなかった。
どうしてだか、断れなかった。
「いいよ」
しばらく経ってから小さな声でようやく返した言葉は、それでも彼にしっかり届いて、彼はほっとしたように表情を崩した。
「良かった」
私は何も言えなくて、黙ったまま、彼を見上げた。彼が喜んでくれているような気がして、それをとても嬉しく感じる癖に、私はそれを悟られまいと必死だった。
「良かった、ありがとう」
頭の上からそんな声が降ってきて、ついさっき離れた手がもう一度伸びてきた。温かい手が、しっかりと私の手を包む。それに私は驚いた。彼は目をとじて大きく息を吐いた。繋がれた手が彼に引かれて、繋いでいない方の手が私の背に触れる。手が引かれた分だけ、背に添えられた手が私を引き寄せた分だけ、私たちの体が近寄って触れ合いそうになった時に、気が付いたように彼の手が止まった。
「ごめん」
何に謝っているのか分からないけれど、彼は誤魔化すように笑って続けた。
「ごめん、嬉しくて思わず」
それでも名残惜しそうに手が背中に触れる。あとほんの少しで触れ合う癖に、私たちの距離は微妙な距離を残して止まってしまう。
その、ほんのわずかな距離を自分からは詰められない癖に、こんなところで止まってしまったことを歯痒く感じてしまう。
本当はどうして欲しかったのか、どうしたかったのか、私はわかっていた。
いろんなことを全部、わかっているくせに、私はそれを見なかったことにした。
ただ、繋がれた手だけは、離して欲しくなくて。
離したくなくて。
私はその手をそっと握り返した。




