やっぱり苦い恋
ふと視線を向けると、最初に話した彼は例の彼女と並んで話していた。遠くから見ると二人の間の空気は少しぎこちない感じはしたけれど、なんとなくうまく行くような気がした。ほっとしてそれをみていると
「あいつ、知り合いなの?」
隣から訝しむような声がした。彼がじっとこっちを見ていた。私は慌てて首を振る。
「え?違うよ。さっき初めて会ったばっかり」
「なんでそんなに気にしているの?」
「…あの二人、大学の同級生だって」
そう教えると、彼も二人に視線を向けた。
「多分、あの人、彼女のこと好きだと思う」
彼女、すごくいい人なの、そう付け加えると、彼は黙ってふうん、と返事した。そしてすぐに私へと顔を戻した。
「気になるの?」
「どうかな。でもあの二人、似合っているし。なんとなく、応援したくなっちゃった」
そう、と気の無い返事が返ってきて、彼はまたお酒を飲んだ。お酒、強いな、と見ていると視線があった。
「飲まないの?」
私は苦笑いして首を横にふった。
「実はこういう会は苦手で」
私の返事に今度は彼が目を丸くした。
「じゃあ、今日はどうしてきたの?」
「あ、付き合い。どうしてもって昼に誘われて。いつもなら断るけど、幹事の子が困ってるから。そっちは?」
「俺も、人数合わせ。今日の昼、どうしてもって声をかけられた」
彼はそう言ってまたお酒を飲んだ。お互い人数合わせで、今日決まった突然の参加で、それで出会ってしまうなんてすごい確率だ。やっぱり断ればよかったと思っていると、隣から声がした。
「じゃあ、今日はたまたま来てくれて、よかった」
「え?」
聞き返した私に、彼は私の目を見て、もう一度口を開いた。
「今日、菜緒に会えてよかった」
その目がとても真剣だったから。私は思わず、彼が本気でそう思ってくれていると思ってしまった。だけどすぐにそんな浮かれそうになる心に、蓋をする。
嘘でも、会いたかったとか、会えて嬉しい、とかそんなことは言って欲しくない。
鍵をかけて仕舞い込んだ思い出が出てきてしまいそうになる。それが、怖い。
掘り返してはいけないものも、出てきてしまうかもしれない。
出てきたら、もう一度、蓋をすることができなくなってしまうかもしれない。
それは困る。
あの時みたいな思いをするのは、もう、いやだから。
私はなんの返事もしなかった。彼は私へ視線を向けたけれど、何も言わなかった。気まずすぎる沈黙は、彼を狙っている幹事の子が、再び彼に話しかけたことで終わり、私はほっとした。
時間が来て、会が終わった。帰ろうとして、ちょうど席を外している彼女を待っていようかと思っていたら、彼が声をかけてきた。
「あの二人はそっとしておいてあげなよ」
ずっと並んで話していた二人を思い出して、ああ、やっぱりそういう感じか、と思い、私は黙って頷いた。
店を出ると、私たちより少し遅れて幹事が二人、店を出てきた。みんなの間で二次会どうする、となったから、私はいち早く撤退を表明した。これ以上、この場にいるのは辛い。
「私は、帰ります」そう言って駅へと体を向けると
「あ、俺も帰る」隣でそんな声がして、まさかの一番一緒にいたくない人も私と同じ方向へと体を向けた。
そして顔を引きつらせた私の腕を持つと
「同じ方向だから、送ってくよ」
と言って、強引に歩き出した。断る猶予もなかったから、私は引きずられるままだった。
背中に、「もう、なんなの?今日の会」と嘆く男性側の幹事の声がした。私と彼が連れ立っていなくなることで、完全に場をしらけさせてしまう自覚はあって、ごめんと思うけれど、私の腕はしっかりと彼に握られていて、そのまま歩いて行くしかなかった。
「あの、私一人で大丈夫」
前をいく彼にそう声をかけたけれど、その意見が聞き入れられることはなかった。気がついたら、彼の手は私の手を握っていた。前を歩く彼の姿になんとなく既視感があって、こんなことが前もあったな、と記憶を呼び戻す。
そして、すぐにあの夏祭りの時のことだと思い至る。思い出したら、あの時の楽しくて嬉しかったことが、一気に蘇って、甘い思い出が頭の中を駆け巡って、めまいしそうになる。頭の中がそれでいっぱいになって、慌てて気持ちを落ち着かせる。
この人はなんでもないことで、私の気持ちをかき乱して、私の気持ちをあげたり、落としたりしてしまう。
気持ちをしっかり保たないと、と私は頭を左右に振って、思い出を払い落とした。
駅までつくと、彼はようやく私を振り返った。
「もう帰る?それとももう少し飲んでく?」
私はそれを聞いて苦笑いする。帰るしか思い浮かばない。そう伝えると、彼はごく自然にまた手を引いて歩き出した。
「まだ早いし、一人で大丈夫だよ」
そうやんわりと伝えたら、彼は立ち止まって、私を振り返るともう一度送るよ、といった。それ以上断ることはできなくて、私は黙って手を引かれるまま、彼から少し遅れて歩いて、ちょうど来た電車に二人で乗った。
この時間の週末の電車は空いている。だからといって離れて座るわけにもいかなくて、仕方なく隣あって座る。昔はこうして隣に座っている時は、私がずっと話していて、彼はひたすら聞き役だった。だけど、今日は彼が質問をして、私が簡潔に答えることの繰り返しだった。
昔といろいろ違うから、調子が狂う。どう振る舞えばいいのか、まだ理解しきれない。
「付き合ってる人、いないの?」
そう聞かれて、返事に迷う。
少し考えて、いることにしてごまかそうと決めたら、それより先に彼の声がした、
「ああ、いないんだ」
なぜ分かったのかと思わず私は彼を見上げる。彼はちょっと楽しそうに笑った。
「いるなら即答するだろうし、菜緒の性格なら合コンには来ないはずだし。返事に迷う時点でいないよね」
察しがいいな、と苦い気持ちになる。そんな私の顔を見て、彼はまた笑って「菜緒は嘘ついたり誤魔化したりする時、目が泳ぐからわかりやすい」といった。
思わず眉を寄せた。信じられない気持ちでいると、彼は自慢げに笑った。
「高校の時からそうだったよ」
その答えが悔しくて、私は言い返す。
「そうかな。気のせいだよ」
彼は笑いながら首を振った。昔のことを思い出すようにちょっと遠くを見る。
「長い時間待ってたのに、今きたところ、って言ってみたり、試験終わってないのに、俺には試験終わったって言ってみたり、それから」
私は目を丸くする。それは確かに高校の時のことで、だけど、彼には伝えていなかったことばかりだったからだ。秘密にしていたことを、どうして知っているのかと驚く。
「なんで、知ってるの?」
彼は肩を竦めた。
「そう言われて思い返してみると、誤魔化す時、菜緒はいつも目が泳いでた」
「信じられない」
「菜緒の目が泳ぐ時は、ああ、なんか誤魔化してるんだなって思ってた」
「教えてくれれば良かったのに」
思わず彼の言葉を遮ってしまった。
それなのに、彼はふうと息をはいた。
「試験のことは、予備校にいた菜緒の学校の人から聞いた。あとは、うちの学校の人から菜緒がずっと駅で待ってるって聞いたこともあったし」
「そんなこと知らなくていいのに」
今度こそ、私は恥ずかしくなる。彼の話していた事は確かに昔の私の行動だけれど、彼には隠して行動していた。全部完璧に隠していたはずだった。
あの頃の私の生活の中心は彼で、どうしても、何をしても、彼に会いたかった。
だから一緒にいるためにたくさん、たくさん頑張った。そのための努力なんて、私にとってはなんでもなかったのだ。
彼が好きだったから。大好きだったから。
好きだったから、頑張れた。
必死だった過去の自分を、しかも必死だったことを全力で隠そうとしていた相手にリアルタイムで知られていたなんて、恥ずかしい。最悪だ。
「何だか恥ずかしい」
そう、ポツリと呟いた。どっぷりと気持ちが落ち込んだ時に隣から声がした。
「でも、心配することもあったけど、菜緒がそんなに一生懸命になってくれるって、俺は嬉しかったよ」
「うそ、面倒くさいって思っていたでしょう」
「そんなことないよ」
「でも、翔くん、いつも素っ気なかったし、きっと面倒だったんだよね」
ため息と共にそう言った後で、返事がなくて、おかしいと思って顔を上げると、彼が小さく息をはいた。
「翔くん、って久しぶりに聞いた」
あ、まずい、と思う。それは以前付き合っていた時の呼び方で、今更そんなの恥ずかしいし、今はそんな間柄でもない。昔の呼び名は、なんとなく私たちの距離を縮めてしまう。
それは困る。
「あ、ごめんなさい。つい」
急いで謝ると、彼は、翔くんは首を横にふった。
「何だか懐かしいな」
そう言った後で、彼の口元が緩んだ。目が細くなって影を作って、フワッとした、柔らかい顔になる。彼のこんな表情を見たのは、初めてかもしれなかった。
こんなふうに優しい顔もするのだと思った。
「俺のこと、そう呼ぶのは菜緒だけだからね」
そう言った後で、もう一度、念を押すように言った。
「それに、面倒くさいなんて思ったこと、一度もなかったよ」
ちょうどその時、止まった駅から人が乗ってきて、私たちの隣に人が座った。翔くんは少し腰を浮かせて私のいる方へと近づく。そのせいで、私たちの腕が触れ合った。反射的に、私は彼の反対側、つまりは壁際に体を寄せた。
それなのに、離れた分だけ、彼は私に体を寄せてきた。触れ合った腕に、気持ちが乱される。
「菜緒は、昔の話が嫌なの?」
隣でそんな声がした。
「俺にとっては、色々あったけど、菜緒の思い出って大切なものだけど、」
ドキリとして、私は彼の顔を見た。近くに彼の顔があった。真剣な顔だった。
「…菜緒は違うの?」
大切だけど、辛い。嬉しいと、悲しい。忘れたいのに、忘れられない。たくさんの言葉が浮かんで消える。
あの時のことを言葉で簡単に表現するのは難しい。答えが見つからないから、私は思わず黙ってしまった。
黙ったままの私に、彼は何も言わなかった。
「別に、返事はいいよ」
膝の上の彼の手が動いて、私の掌の上に重なった。思いも寄らない行動に驚く。咄嗟に動かそうとした手は、彼の手にしっかりと捉えられる。俯いたままの私に、ため息が聞こえた。
「聞いたら、俺も落ち込むかもしれないから」
彼は苦笑いをした。
多分、彼は私が嫌な思い出と答えると思っている。だから不安なのかもしれない。
そう気がついて驚く。
この人はいつも飄々としていて、不安とか無縁な感じだった。少なくとも高校の時は。
だからそんな顔をする翔くんは初めて見た。
「翔くんでも不安になることあるのね」
「もちろん。当たり前だろ」
すぐに返ってきた返事が、思いもかけず弱気で、何だか彼らしくなくて、思わずクスリと笑ってしまった。
私が笑ったのが予想外だったのか、翔くんは目を丸くして、それからほっとしたように顔を緩めた。
「やっと、菜緒が笑ってくれた」
そのしみじみとした言い方に、私は今日ずっと硬い顔をしていたと、気がついた。
そして、彼はあの時の彼女とはもう別れてしまったのだろうかと気になる。
別れているから今日の会に来たのかもしれない。
あんなに似合っていたのに別れてしまったのか、と思って、どちらにしても、もう自分には関係ないと思い直す。それに、この人だったら、別れたってすぐに次の人が見つかるだろう。
『来るもの拒まず』で『すごくモテる』人なのだから。
ちょうどその時、電車内に私の降りる駅を知らせるアナウンスが鳴った。
私は翔くんの方へと顔を向けた。
「降りるね」
変わらず実家暮らしの私が降りる駅を、彼はわかっているはずだ。なのに、重なった手が離れることはなかった。離してほしい、と目線で訴えたら、彼は「俺も降りる」と答えた。反論する間もなく電車が止まって、私たちは乗った時と同じように、並んで電車を降りる。
「送るって言っただろ?」
翔くんは表情を変えず、ただ小さく唇を動かした。
「もう少し、菜緒と話したいんだ」
そう言った後で、彼は視線を落とした。口を開こうとして、止める。
彼が何か言いたそうにして、躊躇う。それを見て、不思議な気持ちになる。
昔の彼はいつも無表情で、私は彼が何を考えているか分からなかった。
今は彼の仕草や話し方やいろんなことから、少し彼の気持ちが見えるような気がした。
彼も大人になって変わったのかな、そう思って違うと考え直す。
あの頃の私は、彼と一緒にいることが嬉しすぎて、浮かれていた。
それでたくさんのことを見失っていたのではないだろうか。
あの頃の私は、ちゃんと、彼に向き合っていたのだろうか。
そう思うと、何だか目が覚めるような気持ちになる。
頑張っているのは、自分だけで、彼には伝わっていなくて…。
昔、私がもっと彼をよく見ていたら、もっとたくさんの事に気がついたのではないだろうか。
私は自分に精一杯で、彼からのたくさんのサインを、見逃していたのではないだろうか。
私は視線を動かした。翔くんはじっとこっちを見ていた。それを見ていたら、今なら、あの時と違う、静かな気持ちで話し合えるかもしれないと思った。
「じゃあ、次の電車が来るまで、少しここで話さない?」
私はそう言って、駅のベンチを指差した。驚いたように私を見る翔くんに、私は笑いかけた。
「あっちで話そう」
そして、繋がれている手に力を込めた。




