彼がメガネをかけるようになった理由 7
「お兄ちゃん、大変!」
美月が俺の教室に飛び込んできたのは、昼休みだった。突然下級生が入ってきたことに、みんなが驚いていたが、美月は構わず俺の手を引いて教室を飛び出した。
「なんだよ、お前」
ちょうど菜緒と連絡が取れなくなって1週間だった。電話してもメッセージにも返事がなくて、俺はかなりイライラしていた。美月は俺の態度を気にせず、俺を引きずるようにして歩いていき、階段に近い踊り場で立ち止まる。
「ねえ、お兄ちゃんの彼女のことだけど」
美月は俺の手を離した。
「あの、先輩で、ああ…えっとお兄ちゃんの同級生の人が、この間駅で他の学校の人と喧嘩してたって聞いて。そうしたら、それお兄ちゃんの彼女だった」
突然思いもかけないことを言われて、俺は驚いた。
「え?」
「だから、お兄ちゃんの彼女に、うちの学校の人が文句言いに行ったんだって!」
美月の言葉に、俺は驚いて、でもそれを理解した次の瞬間、怒りがこみ上げてくる。
「それで、私その人に話聞きに行ったら」
「はあ?何してんだよ」
思わず話を遮ってそう言ったら、美月は泣きそうな顔をした。そしてだって多分私のせいだから、と今度は本当に泣く寸前みたいな声を出した。
「話聞いたら、その人、お兄ちゃんと前、付き合ってたとか、お兄ちゃんがいろんな人と付き合ってるとか言いたい放題で、それで…」
美月は唇を噛んだ。
「多分、お兄ちゃんの彼女、私とお兄ちゃんが一緒にいたの、見た。あの日、あの信号のところで。あの制服、お兄ちゃんの彼女の学校だと思う。あんなこと言われた後にお兄ちゃんと私のこと見たら、絶対誤解される」
記憶の中で、あの時のことが思い出される。
あの時、美月は信号の向こうを見て、あれ、という顔をした。だけどあの時何かを見ていた。俺が見たときは、もう誰も、何もなかった。
だけど、あの時、あそこに菜緒がいたのかもしれない。
美月が見たのは、菜緒だったのかもしれない。
「だから、多分、私のせい。ごめんお兄ちゃん。だから…」
全部聞いていられなかった。
俺は走ってその場を離れて、例の女子生徒のクラスへと走る。そこを覗き込んでいなかったから、廊下を走って探す。学校中を走り回った。全力で走っている俺を、みんなが遠巻きに見ていた。だけど俺はそんなのを気にせず走り回り、最後に体育館の近くで彼女を見つけた。
「おい!」
俺は走って彼女のところへ行った。腕を掴むと彼女は俺を見上げて笑った。
「あ、話聞いたんだ」
「俺が聞いてるんだけど。なんでそんなことしたんだよ」
彼女は俺から顔を背けた。
「別に。いつも駅に来て、長い時間自慢げに立ってるから、ちょっと注意しただけ」
「注意?お前、変なこと言ったんだろう」
「何も言ってないけど」
俺が彼女をみると、彼女は俺を睨み返した。
「適当なこと言うなよ。菜緒に何を言ったんだよ」
「自分で聞けば?」
頭に血が上った。俺は握っていた彼女の腕を握る手に、思わず力が入るのを感じた。
「なんでそんなことしたんだよ」
「痛っつ」
彼女はちょっと大袈裟なくらい顔を歪めて大声を出した。痛いと周りにアピールするように大声で叫ぶ。
「おい、やめろ」
ちょうどその時、横から手が伸びて、俺の手は彼女の腕から離れた。
その手を追うと、そこにいたのは神崎だった。
俺が息を切らしているのに、コイツは息切れすらしていない。ただ、いつもの穏やかな顔が、流石に強張っている。
「佐々木、もういい」
「神崎」
神崎はそのまま俺を彼女から引き離すと、静かに俺と彼女の間に入った。そうして俺の方を向いて、静かな顔を彼女にも向けた。彼女は神崎に向かって大声をあげた。
「なんですか、いきなり。生徒会の副会長がこういうことしていいんですか?」
そう言って俺を見る。
「いきなり怒鳴られて、本当に怖かったんですけど。一体何ですか?信じられない」
「お前」
遮ろうとした俺の言葉を彼女は気にせず、神崎の腕を掴んだ。そして俺を見て口元を歪めた後、もう一度神崎に向き直った。
「私、先生にも言いに行きます。こんな一方的に暴力的なことをされて許せません」
「いい加減に…」
反論しようとした俺を、神崎は右手で抑えた。それから神崎は静かに彼女を見下ろした。
「もちろん、判定は公平にされるべきだからね。君の話はちゃんと聞かせてもらうよ」
「当たり前です」
「だけど、君だけじゃない。君と佐々木と、それだけじゃなくて、関係した全員から、僕が直接話を聞くよ」
神崎はそう言って笑った。口元は笑っているのに、とても冷たい顔だった。
「君は自分のしたことを、僕に全部正直に話せるの?」
彼女は口をつぐんだ。神崎から視線を逸らす。神崎はそんな彼女へ冷たい視線を向けた。
「自分がしたことを、自信を持って人に言えないなら、もう黙った方がいい」
その場の空気がピンと張ったような感じがした。
それで、この件は片付いた。
だけど、結局、俺と菜緒の間は元に戻らなかった。
その日の夕方に生徒会の仕事もほったらかして会いに行った俺と菜緒は、また喧嘩をすることになってしまった。彼女は俺の顔を見ようともしなかった。いつも嬉しそうに笑って俺を見ていた彼女は、まるで俺の前に壁があるかのように、俺の方を見もしなかった。
彼女と話す前に、いきなり菜緒の友人に告白されるというアクシデントも重なった。
昼間に喧嘩して、ただでさえ苛立っていたのに、それでさらにイライラしてしまったのもある。
誤解を解こうとしているのに、俺の態度は怒っているようになってしまった。
だけど、後悔しても遅い。
それが終わりだった。




