彼がメガネをかけるようになった理由 4
彼女と付き合ってしばらくして試験があった。事前に同じ週に試験があることはお互い話していたから、俺はつい、彼女も自分と同じ試験期間だと思い込んでしまった。
水曜日に試験が終わって、帰り道に俺は彼女に声をかけた。
「やっと試験終わったし、今日はどっかでなんか食べて帰らない?」
彼女は一瞬動きが止まった。視線が上下して、少しの間の後に俺に顔を向けて笑った。
「いいの?」
「たまにはゆっくりしない?」
無理ならいいよ、というと、彼女は即座に首を横にふった。
「大丈夫、行きたい」
そして彼女は俯いて噛み締めるように笑った。
「嬉しい」
その日は途中下車して、なんでもないごく普通のファストフードの店でハンバーガーを食べながら話して過ごした。だけど、その時の彼女はずっと楽しそうに笑っていた。
帰りに彼女は駅で俺と別れる時に、彼女はまた嬉しそうに笑った。
「今日、楽しかった。ありがとう」
「大袈裟じゃない?」
そんなにすごいことか?と思わず笑うと、彼女は首を横に振ってもう一度笑った。
「え、でも。外でお茶飲んだりとか、初めてだから」
そうして、頷きながら笑う。
「すごい、楽しかった」
駅で別れて手を振る彼女を見て、こんなに喜んでくれるなら、次はもっといいお店で、もっと長い時間を一緒に過ごそうとぼんやりと考えた。
あんな風に嬉しそうに笑う彼女を、また見たいと思った。
次の日の木曜日は俺の通う予備校の講義の日だった。だから、朝しか菜緒と一緒にはいられない。
朝、いつものように電車に乗っていると、会話の途中で菜緒は大きな欠伸をした。
「眠いの?」
「あ、ごめんなさい」
口に手を当てて、菜緒は恥ずかしそうに笑う。
「寝不足?」
俺の何気ない問いに、菜緒は視線を上下させてから頷いた。
「あ、うん、そんな感じ」
「今日は俺、予備校だから、帰りはそのまま予備校行く。疲れてるなら早めに帰れば?」
試験明けで疲れてるのかな、そう思って言ったら、菜緒はちょっと寂しそうな顔をした後に素直にわかった、と返事をした。
放課後に俺は一人で予備校へ向かう。授業よりも早くついたから、教室で勉強していると、後ろの席で女子生徒が話している声がした。
「明日でようやく終わるよー、今回きつかったよね」
「でも今日の英語と数学と化学って組み合わせがひどいよね」
本当に何の気なしに、俺は振り返った。だけど俺は振り返って見て、驚いた。
そこにいたのは、菜緒と同じ学校の制服を着ていた女子生徒だった。
菜緒の話だと、今日は試験ではないはずなのに、俺は混乱する。
俺は音を立てて椅子から立ち上がって、そのまま彼女たちの方へと早足で歩いていく。
「ごめん、あのさ」
突然話しかけた俺に、彼女たちは驚いて会話をやめた。
「何年生、ですか?」
もしかしたら、学年が違えば試験期間も違うかもしれない。そんなありもしない想像にすがってみる。
「2年生です」
だけど、その返事で俺の希望が叶えられなかったことがわかる。
俺は少しの間の後に、もう一度彼女たちに向き直る。
「試験、いつまでですか?」
矢継ぎ早に質問する俺に、彼女たちはちょっと困ったように顔を見合わせてから、俺に向き直った。
「試験は火曜日から金曜日です。明日で終わりですけど」
「でも、明日は楽勝科目なんです。その代わり今日が一番きつかったですけど」
ね、と一人の子が言って、もう一人の子がそれに大きく頷く。今日が終われば、もう試験は終わったようなものです、と付け加えた。
俺は思わず顔をしかめた。だけど我に帰って、彼女たちに礼を言って、席に戻る。
朝、電車の中で欠伸をしていた菜緒を思い出す。昨日遅くまで俺が振り回したせいで、きっと夜遅くまで勉強したんだろうと容易に想像できた。
「何やってんだよ、ばか」
彼女じゃない、俺は自分に向かって言った。
彼女の試験期間をちゃんと確認しなかった自分に対して腹が立った。
それだけじゃない。彼女のことをちゃんと見ていなかったことにも。
彼女の様子を思い浮かべて、何だかおかしかったと気がつく。俺が帰りに店に寄ろうと言った時、彼女は視線を彷徨わせていた。多分、返事を考えていたのだろう。
彼女は誤魔化す時、視線が泳ぐのか。
そう気がついて、今度からは気をつけようと決心する。
彼女がそうしてくれたのは、自分に会う為だというのはわかっていて、それはとてもうれしかったけれど、無理はして欲しくない。
それに、同じ大学に行くには、二人ともしっかり勉強しないといけない。
そう思って、その考えにハッとする。
俺はいつの間にか、彼女と同じ大学に行くことを想像していた。
彼女がずっと自分と同じ時間を過ごすことを当然のように思っていた。
「何やってんだよ」
俺はため息をついた。
こんなことなら、昨日は図書館でも行けばよかったと後悔する。勉強を手伝うくらい、出来たかもしれない。そう思うと何だか悔しかった。
それからしばらくして、二人で勉強をしに図書館に行った。
並んで勉強してみても、菜緒は緊張しているせいか、全く集中していない。一生懸命解説して教えているのに、俺の字が綺麗だ、なんて、どうでもいいことをいうから、何だかおかしくなってしまった。
休憩しようと二人で飲み物を買って、外のベンチに座る。
俺は冷たいコーヒーで、菜緒はミルクティーを飲んでいた。
この間菜緒が俺の飲んでいたコーヒーを飲んで、とても苦い顔をしたのを思いだした。少しからかいたくなって、俺は菜緒に「また、一口飲む?」と聞いた。思い出したのか、菜緒は苦い顔をして今日はいい、と言った。その顔が子供みたいで可愛らしかった。
「試験、どうだった?」
何気なく聞いてみたら、菜緒はまあまあ、と小さく笑った。
あたりはまだ明るくて、夕日が俺たちの座るベンチにも当たっていた。菜緒が眩しそうに目を細めるから、俺は彼女と座る場所を変わった。
「ありがとう」
菜緒がそう言って笑うと、俺はどんな顔をしていいかわからなくて、顔を背けた。
彼女の髪に夕陽が当たって、元々明るい茶色の彼女の髪は、余計明るくなって、飲んでいるミルクティーの色と似ていた。
甘いミルクティーと同じ髪の色。
そういえば、彼女はいつも、ミルクティーを飲んでいるな。
そんなことを思い出す。
彼女は俯いたまま、ミルクティーを飲んだ。それを見たら、さっき会話の流れでなんとなく重ねた彼女の手を思い出す。それはとても小さかった。ふと、もう一度彼女の手に触れてみたいと思って、なんとか思いとどまる。
そんなことしたら、彼女はもう勉強に集中できない気がした。
そして、多分、俺も。
どうせ時間はまだたくさんあるし。
この先いくらでも、手を繋げるんだし。
またにしよう、俺はそう思った。




