雪染蒼葉《わたし》の初恋
小学四年生のとき、わたしは彼と出会った。
小鳥の雛を木の上に返そうとして落ちた彼を、なんとか受け止めて微笑んだあの日。仲良くなるためのきっかけになった出来事。
それはわたしにとっては些細な正義感で、助けるのは人として当たり前のこと。けれど彼にとっては特別だったみたいで、とてもびっくりした出来事。
でもでも、わたしだって、わたしだって同じように思ったことがあるんだから。わたしにとっては特別で、きっと彼にとっては特別でもなんでもない。
雪春は覚えていないかもしれないけれど、わたしね、雪春と出会ってから救われたんだよ。
それだけは、紛れもない真実。嘘だらけの君がわたしにくれた、素直な嘘のない言葉だったから。
真剣な顔で、まっすぐと、芯の通った言葉で、自分よりも背の高い人達に向かって、けれどいつものようによく回る口で言い返した。
あのときの……。
――泣きたくなるくらい、優しい声色を覚えている。
あのときから、ずっと。ずっとよ。
多分ね、わたしは君が好きなんだ。
◇
「お前なんかいらねーんだよ、学校くんな!」
「そうだそうだ、みんな嫌だって言ってるぞ!」
「いつもいつもセンコーみたいに説教しやがって! きもちわりぃーんだよ!」
ある日の公園。
雪春が小鳥を助けようとした場所と同じところ。
わたしは、学校の素行の悪い子達三人に囲まれてしまっていた。
「わたしは正しいことしか言ってないもの! 君達がカンニングなんてしてるからじゃない!」
「バレなきゃいーに決まってんだろ! このっ、石頭!」
「石頭じゃないわ! それにそれは違う意味よ! それを言うのなら頭でっかちね! 朝読書の時間にろくにご本も読まないから知らないのね! 可哀想に、間違った知識だわ!」
「うるせぇ!」
小さい頃のわたしは全然加減というものを知らなかった。そして、空気というものもまるで読めなかった。わざわざ煽るようなことを言って怒らせて、一歩踏み出して来ようとする男の子に足払いをかけて転ばせて……自分の正義感だけで動いていたの。
ぎゃんぎゃん喚いて、本当はすごく傷ついて泣きそうだったけれど、泣いたら負けな気がして唇を噛んでいた。
そんなときだったわ、雪春が現れたのは。
「なにやってんの?」
今日の給食当番誰だっけ? みたいに、日常生活と同じような声色で尋ねてくる、目が半分寝ているようにも、うつろなようにも見える男の子。
つい先日、お隣に越してきて挨拶してきた無愛想な子。
木の上に登って小鳥を助けようとしていた子。
おおよそ、仲良くなったとは言いがたい雪春の姿がそこにあった。
「俺達が仲良くしてんのを、横からぎゃーぎゃー言うから叱ってやってんだよ!」
「叱る……? さっきの話聞いてたけど、そっちのほうが悪いだろ。それに、そうやって関わる必要も、怒鳴り合う必要もなくないか?」
ああ、聞いていたんだ。
聞いていたうえで、そう言ってくれるんだ。
それがちょっと嬉しくて、わたしが「そうよ!」と肯定をしようと口を開けば、こちらまで歩み寄ってきた彼に口を塞がれた。
「むー!」
「今から僕の質問に答えてね」
「……? うん」
パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、涼しい顔の雪春が言う。
こう言うってことは、多分なにか打開策があるんだろう。
カチリと聞こえた音に、なんだろうと首を傾げてわたしは彼の言うことを、ちゃんと聞いてみることにした。
「あいつらのなにに怒って叱ったの?」
「カンニングしてたからよ!」
「仲良くしてただけだよ、現にお前がチクらなければバレなかったんだから!」
「なんで雪染さんを寄ってたかって責めてるわけ?」
「そいつのせいでみんなメーワクしてるんだ! 俺らのガッコーから出てけよ! そいつみたいなやつ、いらない!」
「いらないならなんで学校の外で絡んでるの? 意味分からない」
「それは……み、みんなにとってはいらねーやつだけど、可哀想だからいじめてやってるんだよ! 俺らがいじるのに必要なの!」
「あほくさ」
「はあ!?」
雪春は呆れたようにため息を吐いて首を振る。
「厄介なのに好かれちゃったね」
「え? え? あの子、わたしのこと嫌いよ?」
「んー、まあ、うん」
歯切れの悪い言い方に首を傾げる。好かれてる? そんなはずないのに。
「つまり、誰からも必要とされてないからいじめてあげてると」
「そ、そーだ!」
「そうだそうだ!」
「ネチネチと、なんだよお前!」
三人ともが騒ぐ。
雪春はうるさそうに片耳を塞いで、「あっそ」と声に出して言った。
「でも、カンニングは事実なんだろ? じゃあ悪いのはあっち。でも雪染さん、いちいち相手にせず逃げて良かったんだよ。行こう?」
「え、ええ? そうなのかしら……逃げたら負けじゃない?」
「負けじゃないよ。最初から勝負なんてしてないだろ? 吠えてかかってきた道端の野良犬のことなんてどうでもいいじゃん」
目から鱗だった。でも……。
「言い方がよくないわ!」
「うん、それはごめんね。僕もちょっと怒ってるから」
「え……? 君が? どうして? 君はなにもされてないのに」
「そーだ! お前部外者じゃん!」
雪春が怒る意味が分からなかった。それだけは、いじめっ子と同意見だったけれど。
「いらないんだろ? じゃあさ、今から僕には雪染さんが必要になった。それならいじめる必要なんてないよね」
「はあ?」
「あ、う……わたしが、必要?」
キャパオーバーってやつだった。
なにを言われたのか、一瞬分からなくて、でも胸の奥からこみ上げてくる気持ちが、そう言ってくれて嬉しいと、全力で訴えかけてきている。
「いらないならさ、放っておけばいいのに。わざわざ傷つけることをするなんて、女の子には嫌われるぜ?」
「お、お前には関係ねーだろ!」
「そうだそうだ、頑張れしょーちゃん!」
「う、うう……なんだかきゅってする……」
「だ、大丈夫か? え、どうしたの? 痛い? ごめん、僕の言ったこと、嫌だった?」
わたしの言葉に慌てて雪春がこっちを向く。
心配げに眉を下げて、顔を覗き込んできた彼の瞳と目が合うと、ぴゃっと飛び上がって顔を覆う。見られたくなかった。
「ち、違うの違うの。嬉しいの。でもちょっと恥ずかしくて? うんと、嬉しいけど照れちゃって? そう、照れてるの。あんまり見ないで」
「ごめん、でもそれならよかった」
なにを考えているのかよく分からない、眠たい目をしているのに……すごく、すごく優しい目だと思った。きっとそれがトドメ。
前からね、褒めてもらうことはたくさんあった。
よくできたね。すごいね。正義感が強いのねって。
でも、「わたしが必要」だなんて言ってくれた人は初めてで、我慢していた涙が自然とぽろりとこぼれ落ちていた。
「ちょうど引っ越したばかりで友達なんて一人もいないし、君がなってくれるんだろ? 友達」
「うん……そうね、友達、になりたいなって、思ってた」
「なら、今日から友達だ。僕にとって必要なんだから、お前らがいじめていい理由はなくなったな。ほら、行こう?」
「う、はい」
澄ました顔で手を差し伸べられる。
その手にそっと自分の手を重ねて、少しだけ自分よりも高い体温にびっくりする。なぜだか、この手を離したくなくて、嬉しくて、片手じゃなくて両手で彼の手を覆うように包み込んだ。
カンニングをした悪い子達……いじめっ子達は、追いかけてこなかった。
「ありが、とう」
「どういたしまして。これで借りはなくなったよ」
「え?」
「こないだ、助けてもらったから。そのお礼」
「……そっかあ」
本心でああ言ってくれたわけじゃなかった。
そう思って、少し胸が苦しくなった。自然と声が小さくなっていく。
「それと、はいこれ」
「なに?」
「ボイスレコーダー」
「え!?いつのまに!」
あ、そういえば途中でカチッて音がしてた、か。
「それ持って教師に突撃しとけばいいよ」
「そんなことまで……ありがとう」
ボイスレコーダーなんて発想はなかった。便利そうだし、覚えておこう。
「……ねえ、雪染さん。このあと、街の案内してもらってもいいかな?」
「え?」
「友達になったことだし、ダメかな?」
友達! さっきの言葉は、嘘とか建前じゃなかったの?
どっちだろう、と混乱しながらも頷く。
「うん、喜んで! その、君がいいなら」
「君……雪春でいいよ。雪染さん」
「な、ならわたしのことも蒼葉でいいわ! せっかく友達になったんだもの!」
「そう、なら蒼葉。よろしく」
「うん!」
手を繋いで歩きながら、そんなやりとり。
どこかワクワクしていて、いつもよりもずっとずっと気持ちが軽かった。
「ねえ、蒼葉っていつもあんな風に言われてるの?」
「うっ、そ、そうね。そうなることが多いわ。みんな、ズルばっかりしようとするんだもの」
「そう」
どこか納得したように頷いて、それから雪春はこちらを向いて微笑んだ。
「それなら、今度から僕が君を守るよ」
そう、それがきっとトドメ。
だからわたしは、君が好きなんだ。
◇
あのとき抱いた気持ちがきっと、きっかけなんだと思う。
それが小さな小さな恋心だって気がついたのは、もう少しあと。
軽い気持ちで言葉のやり取りをしながらも、どうかこの気持ちが伝わりますようにと願ってしまう。けれど、伝わりませんようにとも思ってしまう。
だからいつもいつも試すような口ぶりばかり。
恥ずかしさと照れを最大限まで抑え込んで、家に帰ってからベッドのお布団の上でごろんごろんと転がりながら発散する。
好いていることを何度もほのめかせても、君はいつも澄ました顔してわたしの言葉を流してしまう。
明らかに照れてくれているのに、当たり前のように受け流して「はいはい」って苦笑する。
君になら触れられてもいいのに、頑なに君はなにもしてはくれない。
こちらから触れることを願っても、軽く手を繋ぐだけ。指を絡めてみるだけ。
小学生の頃からの進展なんて、ごくわずか。
君が食べるもの、飲むもの、なにもかもを子供の我が儘を言うようにねだってみても、普通に分け与えられるだけ。そこに特別な気持ちなんてひとつもなくて、ほとんど表情を動かさないで雪春は行動する。
幼馴染で、お隣さんで、いつも一緒で、近くにいるのが当たり前すぎて、以心伝心すぎて……一番近くにいるはずなのに、なのにすごくすごく遠くて。
それでも別にいいかなって思っていた。
だって、一歩踏み出すのが怖いもの。
甘えるのも怖いもの。
果たしてこれが、あのとき感じたように恋と呼んでいいのかどうかさえも分からなくて……怖い。
だからずっとずっと、一緒にいられるならなんでもいい。
そうしたら、少なくとも幸せが壊れることはないはずだから。
このまま『現状維持』をすれば、彼の嘘の中に紛れた本心がどんなものなのか知らなくて済む。
知らなければ、夢を見ていられる。
知ったら、知る前には戻れなくなってしまう。
だから、だから、わたしは、このままでいいの。
たとえ、これが身勝手な片想いだとしても。
ねえ雪春、君に好きな人はいるかしら?
それがわたしならいいなって、何度も思ったけれど……どうしても、告げられなかった。
一緒に絵を描くようになっても、それは変わらない。
近くて遠い君に、わたしはずっと、恋してる。




