03 中央都市ユートリア
この大陸には四つの大国がある。
北国ゴーシェ。
西国アポロ二ア。
南国オロウス。
東国トゥラシナカ。
それぞれが強大な力をもつ国であるが、激化する魔物の発生に百数十年前、これらの国々は同盟を結んで互いを助け合うことにした。それは『四方國同盟』と呼ばれ、黒服隊設立の起源でもある。その同盟は今日まで守られ、彼らは活躍している。
その同盟を作る際、四方國は各々が公平な立場で話し合える場を設けた。その場所は全ての国の国境が交わる場所ユートリア。そこは平坦で肥沃な土地で、幾度となく奪い合いの続いた地だった。だが、彼らはそこに和平の証である同盟の証としてそこに都市を築いた。以降、四方國のうち一国から年五年ごとに交代で議長が選出され、議長とそれぞれの国から選出された議員たち、そしてユートリアに住む市民たちが話し合ってこの都市を治めている。
―――ここはどの国出身であっても分け隔てなく暮らすことのできる楽園と呼ばれる場所である。
その一角、西にある黒服隊の駐屯所から一つの黒い影が飛び出した。長い黒髪をたなびかせ、ぴょんぴょんと身軽に屋根の上を跳ねる。吉鳥であるカラスのように全身真っ黒な服を着たその少女は、この四方國同盟が誇る最強の戦士の一人、黒服隊副隊長のノエミである。
五日後というのは早いものであっという間にリュシアルに都市を案内する日になった。それまでの間、ノエミは毎日そわそわしながら過ごした。何をするにも時間を確かめ、一度あった任務の際にも今か今かとこの時を待ちわびた。二日前にはリュシアルから任務後だが予定はいかがという言伝があり、もちろん大丈夫だと医務室に窓から飛び込んで返事をした。その後改めて待ち合わせの時間を知らせる手紙が届き、午前の訓練を途中から自主的に休んでそれを飽きずに夜まで眺めていた。そこに書かれた文字は綺麗なもので、共通語の読み書きを習ったのがまだほんの数年前のノエミには真似出来ないものだった。子供のように崩れた字になってしまうのだ。報告書が読みにくいと何度部下たちに文句を言われたか多すぎて覚えていない。だから余計にリュシアルの文字が美しく見えた。一字一字がお手本のようで、その手紙の装飾のせいで最初は貴族宛じゃないかと思ったくらいだ。一生保存するために今は棚の奥にしまってある。
リュシアルとの待ち合わせ場所は南地区にある商業区画だ。商業区画は食料の輸出が多い南国オウロスの商品が少しでも傷まないようにと考慮して南にできたといわれる。商品として並ぶのは南国の食料だけでなく、北国ゴーシェの名産鉱物によって作られた装飾品、東国トゥラシナカの名産の織物、西国アポロニアの名産の書物、そして四方國外の小国の品々と多岐にわたる。商業区画はこの都市で一番賑わう場所だ。
南地区に近づくと、段々と人が増し、客引きの声が聞こえてきた。今は朝市で一番人の多い時間帯だ。
待ち合わせ場所はリュシアルが住む中央地区と南地区の境にある広場だ。噴水が飛沫を上げるそこには多くの人がいたが、リュシアルの姿はなかった。それもそのはず、まだ約束の時間まで鐘半刻ある。気合を入れて早く来すぎたようだ。
暇になってしまったので、周りを見渡しつつ、魔力探知を展開する。日課である早朝の訓練は参加したが、午前の訓練は現在進行形ですっぽかしているので、これくらいはしないと後々困る。この場所にいる人の人数を数え、一部の人をマーキングして一定距離まで追って探知する。簡単そうに思えるが、多くの人が集まるこの都市では複雑さが増し、実際の難関度はほかの都市に比べて随一だ。
道行く人は噴水の近くに腰掛けるノエミを見世物かのように見ていた。黒服隊史上最年少の副隊長で、英雄神の色である黒髪を纏っているのだ。注目の的にならないわけがない。もう慣れたもので、ノエミが気にする様子もなかった。
日が少しばかり高くなったころに、近くで知った魔力反応があった。
「おはようございます。すみません、待たせてしまいましたか?」
小走りで駆け寄ってくるリュシアルは先日見た白衣ではなく、初めて会った時と同じくラフな格好だった。目が隠れるぼさっとした髪は相変わらずで、強く照る太陽に反射して先日よりも割増しで眩しい。にこりと笑う表情が心臓を騒ぎ立てた。
「い、今来たところだよ!」
直視できなくて、視線を逸らす。太陽のほうが目に優しかった。
自分の上ずった声が耳に残って酷く恥ずかしい。
「それはよかったです。――では、行きましょう」
スッと手を出して自然にエスコートしようとしてくれる姿に、改めて惚れ直した。頭の中はかっこよすぎるという語彙力を無くしたフィーバーでいっぱいだ。いや、そもそもノエミには語彙力がないのだからかっこいいとしか表現できないのではあるが。
しかし、放棄しようとしている思考に頑張って待ったをかけた。今日はリュシアルを案内するために約束したのだ。あちらのペースに飲まれるわけにはいかない。戦いの基本は主導権を握らせないことにある!
「さ、こっちだ」
差し出された手を取って、自分へと引く。エスコートなんてしたことがないものだから、女好きのロイクを参考にしてみた。
あちらのペースに巻き込まれずに済んだと満足げに笑っているが、そもそも戦い云々の思考になった時点で正常な判断力は失われている。だがもちろんそれを指摘してくれる人が周りにいるわけがない。ノエミは顔をキリリと引き締めて、リュシアルを見上げた。
「朝食は食べたのか?」
「え、ええ、多少」
「多少? それじゃあ足りなくはないか? なにか買って一緒に食べよう」
「そ、そうですね…」
戸惑うリュシアルをよそに、ノエミは続けた。身長差があるせいで、その様子は歳の離れた兄妹か、はたまた親子にしか見えない。手を繋いだ二人は朝市へと歩き出した。――その姿を追う目があるとも知らずに。
朝市広場に入ってすぐの場所にノエミの行きつけがあり、足を止めた。
「この辺は材料だけでなくそれを料理したものも売っている。特にあそこにある鶏のから揚げは絶品だ。一つ頼もう」
から揚げ屋さんの店主とは知り合いだ。いつも通り頼もうと思ったが、女の子を引っかけているときのロイクはきっとノエミのように『いつものくださぁい』なんてウキウキ顔で言わない。ならばどう注文しているか考えたが、ロイクのデートを覗き見する趣味もないのでわかるはずもない。どうすればいいか悩む。ここでエスコートを止めてしまったら、主導権を取られて負けてしまう!
「ぷっはーーーー!」
頭を抱えるノエミを後ろから大声で笑うものが一人。ノエミが振り返ると、その男は往来で腹を抱えてガハハハッと豪快に笑っていた。
「ばばばば、バジル!? いつからそこにいたの!?」
「いつもなにも、副隊長がそいつの手を引く前くらいからだな」
「ぬあぁぁぁ、最初からじゃん!」
ノエミは先ほどとは違う理由で頭を抱えた。バジルこそ先日ノエミに野生のナフルがいると騙した班長のうちの最後の一人だ。毎度毎度この男にはしてやられるのだ。これは当分のからかいのネタになるに違いない。
「そこの兄ちゃん、初めましてだな? 俺は黒服隊の第一班班長をしているバジルだ。ウチの副隊長が世話になったようで感謝する」
「初めまして、医務官のリュシアルと申します。こちらこそ任務でお忙しい中、副隊長さんにわざわざ案内していただいているので、逆にお世話になっているくらいです」
「副隊長がリードなんてできるか甚だ疑問だがな」
「うるさぁい!」
自分を無視して話を始めるバジルにノエミは黙れとばかりに腹に一発拳を落とした。細い腕にしては鈍い音がしたが、バジルはふらつくこともなくにやにやと笑っていた。声を出さずに黒服隊だけが使える秘匿通信魔法で『顔が赤いぞ』と頭の中で響く。口を動かす必要がないというのに、わざとわかりやすいように口パクするところが質が悪い。もう一発、次は倒れるくらいのパンチをお見舞いしてやると思っていると、バジルが近づいてきて耳元で囁いた。
「ロイクの真似事をしてもいいことなんて一つもないぜ。普段通りの副隊長でいることが一番なんだ」
「し、知ってるもん!」
先ほどの行動の意味を見抜かれていて恥ずかしくて顔をますます赤くする。この話題を続けたら先一週間は隊内で肩身の狭い生活になるに違いない。話を変えるためにバジルの顔を手のひらで押した。
「リュシアル、ごめんね。バジルって変なことしか言わないから」
「ふふっ、大丈夫ですよ」
二人のじゃれ合いをリュシアルは温かい目で見ていた。本来は上下関係があるはずなのにこんな風に気軽に話せるのは仲がいい証拠だ。今も小声で聞こえないが、何か言い合っている。少し眺めていると、話が終わったようで、ノエミがベッと舌を出した。
「バジルのばぁか!」
当のバジルはそれを聞いてガハハと楽しそうに笑って去っていった。
「行ってしまいましたけど、よろしかったのでしょうか?」
「気にしないで大丈夫! バジルも用事があるみたいだから」
早く忘れようと、唐揚げをいつもの、と頼んだ。
「仲がよろしいのですね」
「そんなことないよ! バジルは私で遊んでるだけだって」
「ふふっ、そうかもしれません」
「へい、お待ち」と店主の元気な声に礼を言って唐揚げを受け取ると、リュシアルはノエミに一袋渡しながら付け加えるように「けれど、」と続けた。
「ノエミさんの緊張をほぐしてくださったでしょう?」
「……あ」
確かにリュシアルと待ち合わせした時の動悸が収まって、いつの間にか会話も普通にできるようになっている。―――バジルは気を遣ってくれたのだろうか?
だが、なぜか素直に感謝できない。先ほども登場から馬鹿にしたように笑ってきたり、「デートだろ?」とか「そんな服でどうすんだ? この間の詫びとして渡したワンピースはどうした?」とか小声でからかってきたたりした。そもそも今回はリュシアルを案内するだけでデートじゃないし? いつ緊急の任務が入るかわからないのだから隊服を着てるのもおかしくないし? あのワンピースは可愛かったけど、あんなひらひらした服じゃ防御力に心もとなさすぎる! それにあの去り際の顔、絶対隊内で言いふらす気だ。人数の少ない黒服隊の噂は一瞬で広がる。もう止めようがない。
ノエミはガクリと肩を落とした。バジルのことを思い出すのはもうやめよう。そういうことは駐屯所に戻って考えればいいのだ。
「この唐揚げ、どう?」
「ええ、とてもおいしいです」
「そうでしょ? おじさんが作る揚げ物はなんでも美味しいんだ!」
「ノエミ様、嬉しいこと言ってくれるねぇ!」
店主はニカっと笑い、揚げ台の前で汗を拭いながらノエミに追加の揚げ物を渡した。紙袋には唐揚げ以外の野菜の揚げ物も入っていて、ノエミは嬉しそうに声を上げた。
「わぁっ! フーリュの新芽の素揚げだ!」
「ああ、北国が温かくなる時期だからな。早速入荷したんだよ」
「ん~! サクサクで美味しい! リュシアルも食べてみて?」
串に刺して差し出すと、リュシアルは一瞬戸惑いがらも顔を近づけてぱくりとそれを食べた。
「ん、確かに美味しいです。フーリュは煮物で食べたことがありましたが、揚げ物だと素材そのものの香りが広がって余韻まで楽しめますね」
「貴族みたいな感想を言う兄ちゃんだな。そんなによかったなら、少し持って帰ってくれ」
「よかったね、リュシアル!」
グイっと押し付けられた袋にリュシアルは驚いてしまった。まるでタダで持って帰ってくれと言わんばかりだったからだ。しかし、その予想は当たっていたようで、「金なんかいらねぇ」と店主は無理矢理袋を持たせて揚げ台で作業に戻ってしまった。先ほどよりもいそいそとしている。
「これは……」
気づけば屋台の周りには人が集まっていた。リュシアルは店の横で食べていたが、新しい客の邪魔になるだろうと、店主に一言断ってその場を離れた。
「ほら、人がいっぱいでしょ? ここ、いつも混むんだ」
揚げ物をぺろりと平らげたノエミは自分のことのように鼻高々と言った。
あの揚げ物屋は確かに美味しいが、あんなに人が集まるのはノエミの宣伝効果に他ならない。四方國では黒服隊は英雄であり、一種のアイドルのような存在だ。そんな憧れの人が絶賛していたら食べたくなるのは必然だ。店主がただで揚げ物をくれたのは宣伝ありがとうという意味だったのだ。その効果にあやかりたいのは先ほどの店主だけではなかったようで、ノエミは数歩歩けば方々から呼び止められていた。もちろんノエミが自分が客寄せパンダになったことに気づくはずもなく、嬉しそうに他の屋台でもらった食べ物でお腹を満たすのだった。
「ノエミ様、次はうちのを食べて行っておくれ! いい果物が入荷したんだよ」
「いいや、ウチのほうがいいの仕入れている。ノエミ様、味見してくれないか?」
ほとんどの店から声をかけられていたように見えたが、ノエミもさすがに全てはまわれないので数か所を立ち寄りつつリュシアルにどんな店なのか紹介してくれた。気づけば日は高く登り、朝市ももうじき閉店する時間帯になっていた。
「ご、ごめん。案内するって言ってたのに、全然できなかった」
「いえ、―――ノエミさんは街の方々に好かれているのですね」
「うん、みんな大好きだよ」
「ふふっ、そういうところにみな魅かれるんでしょうね」
穏やかに笑うリュシアルにノエミはなにかおかしかっただろうかと首を傾げた。しかし、それを見てリュシアルは一層優しそうに笑った。
店は閉店の準備をしていたが、朝市のどのエリアにどの商品が売っているかを手短に案内した。次は朝市ではない商業地区の一般店舗へと足を向ける。
朝市は食材が殆どだが、一般店舗はそれ以外の日用品や雑貨、娯楽品、宝石、書物などが売られている。
時刻は昼前だったが、二人の腹は度重なる味見のお陰で満たされており、昼食は取らないことにして店を回ることにした。
「リュシアルは都市議会塔の中に住んでるんだっけ?」
「いえ、中央地区にある今は師匠の家の余った部屋を間借りしています。部屋で調合などもするので、臭いのせいで医務官が寮に住むこと自体歓迎されないそうです」
「医務室にも調合室があるのに家に帰っても調合するの!?」
「ええ、仕事と趣味は別物です。仕事中に作る薬は実用性のあるものばかりですからね。研究者の性というのでしょうか。試してみたいことが尽きないのです」
眼鏡の奥で目を細めて小さく笑うリュシアルはとても楽しそうで、胸があったかくなった。その表情が続けばいいなと横顔を眺めていると、いいことを思いついた。
「―――じゃあ、私のおすすめの場所に連れて行ってあげる!」
絶対にリュシアルが喜んでくれる。根拠はなかったが自信だけは有り余るほどあった。もっと早く思いつけばよかった。
日用品については通いのハウスメイドが補充してくれるそうなので、場所だけ案内し、ノエミは急かすようにリュシアルの手を引いた。
「こっち!」
向かった先は南地区と西地区の間に位置する小さな通りだ。人は一人も通っておらず、太陽が天高くで照っているはずなのになぜかその路地だけは薄暗く見える。入ったらガラ悪い人がいて『よう、嬢ちゃん、ツラ貸しな』とか言われて、法外な金銭でも要求されそうだ。もしそうなったとしても、ノエミに敵うはずはなく彼らはすぐに自警隊に引き渡されてしまうだろうが。
この辺は増設に増設を重ねたため、道が入り組んでいる。しかし、ノエミは慣れた様子で迷路のような道を歩いた。何度か角を曲がった先は行き止まりだった。高い建物に囲まれ、何のために作られたのかわからない壁がただあるだけである。
道に迷ったように思えたが、ノエミの嬉しそうな表情がその考えをすぐに打ち消した。
『現れよ!』
ノエミが短く言葉を発すると、ポンと陽気なはじける音を立てて壁の下部に小さな扉が現れた。それは人がかがんで入るようなサイズで、数度ノックすると勝手に軋む音を立てて開いた。体を低くして入り、ノエミは「ここだよ」とリュシアルを手招きした。ひょろりと細いが身長の高いリュシアルは窮屈そうにしながらも扉をくぐった。
「おじゃましまぁす!」
中に入ると急に苦みのある香りが鼻の奥を通り抜け、薬が嫌いなノエミは顔を一瞬顰める。しかし、リュシアルは慣れているのか表情一つ変えなかった。いや、臭いでは変わらなかったが、目の前に広がる光景に目を奪われて驚いていた。
ノエミたちは頭をぶつけないようにと入ったというのに中は広い空間だった。高い本棚が並び、すべてに薬草や丸薬、魔物の肝などが所狭しと並べられている。足元には麻の袋に詰められた材料がおかれ、歩くのも一苦労だ。本で見たことはあっても実際に目にするのは初めての素材まであり、リュシアルは目を輝かせた。ここまで品ぞろえがいい店は初めてだ。さすが世界中の品々が集まる中央都市ユートリアだと感動してしまう。
ゆっくりして、というノエミの言葉を気持ち半分に応えると、店の奥まで足を進める。
ノエミはそんなリュシアルを見送ると、慣れた様子でカウンター横の椅子に腰を掛けた。すると、後ろから声がかかる。振り向くと、奥の部屋に続く扉の隙間から綺麗な顔がこちらを覗いていた。
「アンタぁ、また来たの?」
ノエミと目が合うと、気だるげに息を吐き、こちらへと来た。手には煙管を持ち、ほぅと大きな煙を吐き出した。
「今日はシルヴァンと一緒じゃないけどね」
「そうなのね。なら、もう帰りなさいな」
「なんでよぉ!」
女性の口調だが、この店の店主である彼はれっきとした男だ。客なんてほとんど来ないというのに整った顔立ちが際立つメイクを今日も欠かさずにしている。
「隊長さまを連れ来てからにしてちょうだい。……って、アンタが客を連れてくるなんて珍しいじゃない?」
「た、確かにシルヴァンみたいに紹介できないけど……」
「あら、イイ男。あんたも少しはワタシの好みをわかってきたようね」
彼の言う通りリュシアルは本当にいい男だと思う。今日一日過ごしてみたが、それがよく分かった。ノエミの話を真剣に聞いてくれたり、人がいっぱい集まったときは待ってくれたり、お土産にもらった大荷物を持ってくれたりした。
バジルのお陰で緊張は解けたと言っても、ふとした瞬間、横を見るとリュシアルがいて、笑いかけてくれる。そのたびに心臓が落ち着かなかった。今だって、真剣な表情で瓶の中身を見る姿に胸が詰まる。リュシアルが近くにいるだけで、一緒にいられるだけで、幸せすぎて息が苦しくなる。これが恋、なのだろうか。
そういえば、さっき手をつないでしまった。手を軽く握るとまだあの感触が残っている。大きな、優しい手だった。普段見る隊員たちの手は剣をもつせいでごつごつと硬いが、リュシアルはペンだこの部分だけだった。もっと握っていたかった。触っていたかった。
「ああ、そういうことね」
店主はノエミの顔をみると、なぜか呆れたようにそう言い、買うときにまた呼んでちょうだいと奥に入ってしまった。そういうこととはどういうことだろうか。
リュシアルを目で追っていると、一つの麻袋の前でずっとしゃがんでいた。悩んでいるようだったので、後ろから声をかけた。
「あ、それって生き血の…、じゃなくてニコスの実?」
ノエミが後ろにいたことにやっと気づいたようで、リュシアルは少し驚いた顔をしながら振り向いた。
「ご存じなんですか?」
「うん、私の村でよく採れたんだ。ニコスの実っていうのはシルヴァンが教えてくれて、村では生き血の実って呼んでた」
「生き血の実とは言い得て妙ですね。確かにこの実の成るニコスという植物は動物から芽が生え、果汁は血のように真っ赤ですから、生き血を吸ってその色になったと言われてもおかしくないでしょう。……それにしても、黒服隊の隊長さんは物知りですね。こんな知名度の低い植物を知っていらっしゃるとは……」
感心しつつ、リュシアルは袋に入った小指の先ほどの大きさの実を一つ摘まんだ。本来は鮮血のように真紅で艶があるのだが、今は乾燥されてしわしわの赤黒く変色している。
「市場に出回ることがほとんどないので僕も初めて見ますが、確か魔力回復の効果がありますが、酸味が強すぎて飲めないためにあまり使われないとか。一説では魔力回路に対して効果があるのではないかと言われていますが、実験例はほとんどないですね」
折角だから自分で検証しようか、いやしかし、他の素材も捨てがたい、とリュシアルは小さな実をまじまじと見つめた。本当に薬が好きなのだろう。その表情を見てるだけで胸がいっぱいだった。
しかし―――
「今日はもう帰らなきゃ」
閉門を知らせる鐘の音が僅かに店の外から響いてきた。もう夜だ。ほとんどの商店は閉まり、飲食店やロイクが大好きな夜のお店が活気づく時間になってしまった。
リュシアルもそれに気づいたのか少し残念そうに眉尻を下げた。
「そう、ですね」
少し悩んだ末、数点選ぶと精算を済ませた。その中にはニコスの実もあった。
二人が小さすぎる入り口をくぐり、外へ出るともう日はだいぶ落ちて辺りは暗くなってきていた。明るい星が空にちらほらと散って見える。リュシアルはそこで初めて自分が思っているよりも長い時間過ごしてしまったのだと気付いた。
「すみません、夢中になってしまって」
「今日はリュシアルの為の日だったから大丈夫! それよりもニコスの実、買ったんだ」
「ええ、資料がないので一から自分で調べてみようと思います」
肩にかけたカバンを大切そうに撫でる。買ったものがその中に入っているのだ。きっと楽しみで仕方がないのだろう。
中央地区につくと、リュシアルは有意義な時間が過ごせたと礼を言った。
「本当にありがとうございました」
「私も楽しかった!」
目を細めて笑うと、リュシアルの手がノエミの頭まで伸び、優しく撫でた。
ああ、そういえば初めて会った日もこうして撫でてもらった。背が低いためよく人から頭を撫でてもらうが、なぜ、リュシアルのだけこんなにも顔が熱くなるんだろう。
「じゃ、じゃあ、またね!」
夜だから色までは判別つかないだろうに、リュシアルの手のひらから火照った頭の熱が伝わりそうで、それがどうしようもなく恥ずかしくて逃げるように一歩下がって手を振った。
あ、とリュシアルの声が聞こえるのと同時に地面を蹴り、屋根に飛び乗る。何を言いかけたのだろう。今まで任務でどんな魔物にも立ち向かえていたのに、それを聞くために真っ赤な顔でリュシアルに向き合う勇気はなかった。
夜の涼しい風が頬の熱を撫でた。
「やっぱりリュシアルが好きなんだなぁ」
屋根を跳ねまわるノエミの声は自分にだけは届いて、改めて気づくその事実に表情を崩した。