百六十九夜 マレビト
市井では2月25日の降誕祭に向け、気持ちが高揚する時期である。
すでに4週前の日曜日から、待降節が行なわれていた。祈りを捧げ断食をして、審判者の再臨に備えたのだ。
当日は教会で礼拝が行われ、1月5日までの12日間が祝祭となる。
広場では民衆劇が幕を開け、動物や女性に仮装して家を回り、踊りを披露したり民謡を歌ってプレゼントに期待した。
1月1日には教会で愚者の祭りが催される。
司教に代わり助祭がミサを行うなど、秩序の乱れと笑いを演出した。この期間は愚かな行為が許されたのだ。
これには習慣となった役割を逆転させ、社会の緊張を解きほぐした側面もある。
祝宴を開いてガチョウや猪の丸焼きやに舌鼓を鳴らし、貴族の晩餐会ともなれば白鳥や孔雀が食卓を彩った。
宗教行事だけではなく、準備に数週間を費やして楽しむ一大イベントである。
「バルチャスと申します、以後お見知りおきください」
都市部の浮かれた喧騒とは異なり、皇宮の居室には複雑な空気が流れていた。
紹介された男が右手を胸に会釈する。人の良さそうな笑みを浮かべてはいるが、精巧にできた仮面を予感させた。
「オーランドゥム卿、コルポレ卿! 軍議に遅れ、大変申し訳ございません!」
「……ェン!」
男を連れて来たフェスティーナが礼をとり、レンテも甲冑を鳴らして続く。
身長差がいちじるしい「仁王」の同調は、どこか滑稽さを誘う。
「なに細かな意見のすり合わせだ、気にしないでくれ。『四君子』と『三悪党』も召集したのだが見ての通り、因果伯とはかくあるべしさ」
「制御不能が通常と思われては不名誉です。ですが困ったことに彼らの不在で、より有意義な軍議になりました」
オーランドゥムは両手を広げて指し、コルポレが腕を組んで目線を下げる。
「双璧」が苦笑とため息とを演じて出迎えた。そこが舞台ならば役者の4名には、スポットライトが当たっていただろう。
皇太子直属の家臣たちは、異質な気配を放っていたのだから。
「それで彼が盗賊に襲われ、命拾いしたという遍歴商人か」
「ええ偶然ですが近くに居合わせ救助しました、ご紹介いたしますわ」
視線を移された商人が背をただす。プールポワンとコタルディの貴族服に対し、簡素な貫頭衣と帽子姿は少々浮いていた。
しかしさして気にする様子もなく、歯切れよく台本を読みあげる。
「名にし負う方々に助けていただき、感謝に堪えません。そればかりか皇宮に登城できるなど、望外の喜びに打ち震えております」
広げて見せた手の平が微かに震え、その手腕に場がほころぶ。
商人の能弁さに司令官が手を打って笑い、秘書すら口元を緩めた。しかし居室の片隅にたたずんだ少年だけ、微動だにせず影に呑まれている。
燕尾服を知らぬ時代の者からすれば、大道芸人にしか見えない。
最大に浮いた姿のオルロックは、呆然と商人を見ていた。焦点の定まらない瞳が何かを求めてさまよう。
「バルチャス? 彼になにを……いや、私の方か?」
「うむっ災難に見舞われたな、疲れているなら重荷を負うことはない。滞在費など気にせず傷が癒えるまで安らぎなさい」
オーランドゥムの保証ほど、安心を象徴する言葉はない。
バルチャスは胸をわしづかみ謝意を表す。頭を下げると赤茶色の巻き毛が乱れ、平民の苦労と苦しみが如実に表れる。
「これは……っこれはありがとうございます! 昔から逃げ足だけは得意でして、それでどうにかやってこれましたが……最後に良き方と巡り合えました」
「最後?」
「ハハッ……掻き集めた資金を元手に、帝都で一旗揚げようとしたんです。それがこうなってしまっては……もう一度初めから立て直す、気力がありません」
潮時でしょうね――。
あきらめきった笑みに合わせ、目には涙すら浮かんでいた。
上目遣いで値踏みする仕草に、貴族ならば誰もが思い当たる。「金の無心」――女性陣2人の目が遠慮なく細まった。
「――バカなことを言うな!!」
だが突如の怒号と共に疾風が襲う。
司令官が商人の右頬を打ったのだ。手の平が赤々と輝き、さして筋肉質でもない体が床に叩きつけられる。
「見ればまだ20代半ばだろう、人生をあきらめるのは早すぎる! 此度の損害を算出して提示せよ、そのくらい俺が支援してやる!」
「しっしかし……貴方様には、なんの関係も」
「帝都周辺での盗賊行為など許されざる謀反っ! 帝国の重臣として俺の隣人を、俺自身として助けるだけだ!」
座りこんだ商人に目線を合わせ、肩をつかむと身動きもできない膂力。
だが司令官の真摯な瞳は、手の平以上に赤き光を発していた。
「いいか、けっして腐るな! 投げ出すなっ! 最後の審判を受けるその日まで、救いを信じて命をまっとうするのだ!!」
「お……っおお! あり……ありがとうございますっ!」
商人が手を付き嗚咽を洩らすと、伏せた目から光が落ちる。司令官は震える背を優しく叩き何度も頷くのだ。
戦に傷つき断念した兵士に、騎士が激励する叙事詩がそこにあった。
「まあ下賤な輩です、資金援助を匂わせている間は裏切りませんわ」
「ッ……!? ……ィーナ!」
フェスティーナの物言いに、レンテが袖を引きおそらくはたしなめている。
「それでフェスティーナ嬢、何故この場に下……ん"ん"商人を参画したのです?」
皇宮はもとより因果伯が軍議を行う居室、扉の前には衛兵すら配していない。
平民が立ち入れる場ではなく、コルポレの疑問も当然だった。
「ええ助けた手前放ってもおけず、本日もケガの様子をうかがいに行ったのです。そこで聞くともなしに聞いた素性に驚き、遅れてしまったのですけど……」
少しばかり言い訳を含んだ令嬢が、巨漢を見上げて同意を得る。
ある意味土地に縛られている貴族には、意外すぎる商人の生い立ちだった。
「彼は以前大道芸人の一座を率い、各地を巡業して周っていたそうです」
「ああなるほど、座長の経験があるのですね。商人にしては表情を隠し過ぎだと、違和感を感じたのはそれですか」
戦場の情景を浮かべる男2人を冷ややかに眺め、秘書がふに落ちる。
ですが雰囲気だけで言えば盗賊ですね――さすがに批判が過ぎると思ったのか、視線を外して呑みこんだ。
「うさん臭そうな笑顔ですからね、私ならけっして信用いたしませんわ」
「……マッ、……ィーナ!」
「なんですレンテ、先ほどから。ですが此度の西征における、貴重な知見を得られそうだったのです。国をまたいで興行をしていたと……つまり」
巨漢が再び袖を引き、令嬢が不思議そうに問う。
小首をかしげたが秘書に向きなおり、手を組んで因果の神に拝礼した。
「彼は小国の都市と街道を――ヴィーラ王国の経路を、把握しているです!!」
「密偵が調べた絵図に、地理や地形も記されてはいます。ですが実際に旅した者の印象ほど明確なことはありません、情報を共有すべきと判断しました!」
「なんと!」
フェスティーナが持参した地図をテーブルに広げる。
やにわバルチャスが舞台の中央に配された。オーランドゥムがさらに力をこめ、肩を揺すって頭が前後にズレる。
「すばらしい! バルチャス、これは真実か!?」
「はっはい、旅の途中で疫病が流行りまして、それからは商人を。興行できたのは大都市だけですが……それでよければ、はっきりと覚えています」
商人の宣言に、因果伯たちの視線が交差した。
眉根を寄せていたコルポレですら、やや興奮して目を見開いている。
「騎士団を要する大都市の位置は重要です、騎行も覚悟していたのですが……」
「そうだ街道を外れれば戦いは回避できるが、斥候を放っての行軍は蝸牛の歩み。地の利がない我らにとって、挟撃の愚を犯さずにすむのは朗報だ!」
「双璧」が額に汗を浮かべて目を輝かせた。
現代と違い、傾斜と寸法を明記した精巧な俯瞰図など存在しない。未知の他国へ侵攻するのは、見通しが立たない迷宮を手繰るに等しい。
兵の不安と補給線の長さは、疑心暗鬼と疲労だけを積もらせる。
「これが事実ならばです! どうやら虚偽ではなさそうですが、私はどうにも……不審の念がぬぐえません」
秘書は期待とは裏腹に、商人との距離を置いていた。
何が引っかかるのか、本人にも分かっていなかったのかもしれない。
「コルポレ卿が感じる漠然とした疑問は、他にも理由があるからですわ」
令嬢が頷き、半眼となって軌跡を追う。
O属性の瞳には、ひときわ太く立ちのぼる光が視えていた。
「彼――バルチャスは、啓いているのです」
☆
「信じられん……王都を含めても2万人以上の大都市が、3ヵ所しかないのか」
「これは予想を下回る小国ですね。モルディブの樹海がなければ早々に侵略され、何処かの属国にされていたことでしょう」
「……ァン、……シダ」
「王国を守る霊山、魔獣が守護神とは皮肉な話だ――ってレンテが言ってますわ。エクス殿が永世中立国を貶めていましたっけ、遺憾ですが私もそう思います。この小国はなるべくして亡国となるのです」
悪あがきをしているだけ――。
ヴィーラ王国の絵画的な地図に、大都市と街道が記されている。
新王都とウダカ、ターダ山を挟んでサーガラ。そしてプールヴァ帝国との国境に位置する、マナスルの経路が描き足されていた。
北東に鎮座するモルディブが、禁足地のごとく塗りつぶされている。
「……私は元々、パシュチマ連合王国の生まれでして」
「双璧」と「仁王」が食い入るように地図を見て意見を交わす。
テーブルの隅にいたバルチャスが、己で描いた道を視線でたどっていた。
「高貴な方々には申し訳ありませんが、商人にとって『国の壁』は無きに等しい。街道は絶えず繋がっているのです。三ヵ国のどこへ行っても交流はありましたし、交易が途切れることはありません」
税を収める方が変わるだけです――。
商人が少々の矜持と、若干の揶揄をこめて呟く。
上目づかいで地図から視線を外したコルポレが、髪をかき上げてイラだった。
「国を背負わぬ者の気楽さでしょうが、ここは酒屋ではなく我らも農民ではない。帝国の貴族を前にしたり顔で語られると、いささか血が冷えますね」
「あっ! もっ……申し訳、ありませんっ!」
商人が飛び上がって恐縮する。
あるいは秘書が腰に佩いている剣が、冷たく音を立てたのかもしれない。
「おいおいコルポレ卿、話くらいさせてやってくれ。商人が行くべき道を教える、助言を与える……含蓄のある比喩ではないか」
オーランドゥムが妙に突っかかる朋輩に苦笑を返す。
気にするなと商人に頷くと、地図の出来栄えに手を広げて喜びを表した。
「どうだバルチャス、商人の……お前の歴史が脚光をあびたのだ! これは貴族にはできない勤めだろう、どんな生き様であろうとけっして無駄なことなどない! 一旗揚げられたな、なあバルチャス――っ!!」
「は……っはい! おっお役に立てたなら、幸いです!」
司令官が覇気をこめて叫び、商人と笑い合う。
「商人なればこそ、ですか」
再び地図に目を落とした秘書が、自虐ぎみに苦笑した。
「さてオルロック、君はどう見る?」
指揮官が振り返って声をかける。
テーブルの輪には入らず、少し離れていた少年に注目が集まった。
「君もルーシー嬢の従者として国をまたいだ身。年齢に似合わず随分と博識だが、他国の現状も把握しているのなら教えてはくれないか」
寛容な笑みの奥に隠された危険な気配。
偽証を述べれば腰に佩いた剣が輝くのではないか。オーランドゥムは気前のいい領主ではなく、軍隊の司令官であるのを如実に表していた。
「私からは付け足しも修正もありません。やはり実際に旅をされた方の見識です、その正確さに思わず舌を巻いていました。ですが肝心の――」
ニコリと微笑んで謙遜したオルロックだが、ふと我に返る。
口元を押さえしばし考えると、地図の一部を指して口籠った。
「此度は前哨戦と銘打ち、兵の消耗を抑えての連戦。ですが肝心のマナスルから、新王都への経路が……なぜか不自然なほど、記憶にありません?」
自分でも理解できないのか、見開いた目が閉じれない。
他の経路は自分で旅したように思い起こせる。それなのにスッポリと抜け落ち、真っ白のまま描かれない一部。
欠けている環だと、誰かが耳元でささやく。
「記憶にない? それは聞き覚えがない、ということか?」
「……えっ? ああっそうです、そうです聞き覚えがないのでしょう。おそらくはこの辺りを知る方と、出会わなかったのでしょうね」
そうだ記憶は確かだし、忘れている訳ではない――。
内心の動揺をひた隠し笑顔を張りつける。普段から他人事のように話す少年が、より無機質な表情で納得していた。
あるいは納得するように、意識を制したのかもしれない。
「しかし行軍は隠れえぬ巨大な蛇です。経路が分かるからこそ陽動される危険は、常に想定しておくべきですね」
「陽動の危険? それは――…」
「あの、こちらの少年は? とても皆様と同じ貴族とは、思えないのですが……」
コルポレから叱責された手前、バルチャスが言い淀みながら問う。
「ああっ奇妙な姿だが大道芸人ではない、因果伯の従者をしている希有な少年だ。見かけの年齢とは不相応に深い教養は、敬意を表して余りある」
司令官の評価に、少年が会釈を返す。
「おお初めましてオルロック様、私はバルチャス。一応、商人をしております」
どこかで聞いた言い回しで、商人が苦笑する。
そして握手をしようと手を差し出す。けれど少年は不思議そうに見ると、虚空に何かを思い出そうとしていた。
司令官も手を出してどうするのかと、商人の行動が分からず2人を見比べる。
「意識の混濁……『綺人』……か」
チャンドラは何事もなかったように手を引っ込め、笑顔の下で眉をひそめた。
「殿下がよくおっしゃっていました、戦争は外交の一手段だと。ならば商人をして密偵に見立てても、国益にかなうなら認められるでしょう」
ましてや啓いている者ならなおのこと――。
「平民を侮っていたわけではありませんが、視野が狭まっていたかもしれません。疎放な姿勢は改めましょう、ですが彼に因果伯の爵位を叙勲されるのは……」
コルポレが苦悶の表情で腕を組んだ。そこまでバルチャスとは合わないのかと、フェスティーナの目が瞬く。
肩に置かれたレンテの巨大な篭手に手を添え、おもむろに胸を張る。
「バルチャスに限らず帝都ほどの規模なら、いつの間にか啓いてる職人がいます。意志の力で啓けるかは因果次第、けれど例外はありますわ――」
「――絶対的な危機におちいったり、強い衝撃を受けた場合ですね」
令嬢の言葉を受け、秘書が頷いて答えた。
「そうです戦獣部隊に次いで帝国独自の、商人による『斥候部隊』を組織する! 臣民を戦場で鍛え、門を啓く可能性を高めれば――」
「――他国を圧倒する数の因果伯を、帝国は抱えこむことができる!!」
令嬢の言葉を受け、オーランドゥムが手を打ち鳴らして呼応する。
「……ィモ、……ナイ!」
「そうよレンテ! プールヴァ帝国が世界を制する日も、そう遠くありません!」
巨漢の相槌を受け、令嬢によって因果伯のリレーが〆られた。
すでに勝利を確信し、小国の空に帝国の軍旗がはためいていたのかもしれない。
「オルロックの軽蔑すると、バルチャスの先導者もだ! 短期決戦に挑む我らに、頼もしき仲間が増えたな!」
司令官が手の平を指して2人を輪にくわえる。
驚愕した「部外者」たちは一瞬息を呑み、我先にと叫ぶ。
「まっ待ってくださいオーランドゥム卿! 私は従者としての立場が――」
「わっ私も従軍するのですか? 剣を持ったこともないのに遠征など――」
「はあ!? 冗談ではないぞジジイ、なんで私が従軍しなければならんのだ!」
「ほれ予想外の結果になってしまったじゃろう。ノドゥス様をこのまま来春まで、放置するわけにもいくまい?」
古城にふさわしい色あせた石畳の上を、古参の因果伯が肩を並べて歩く。
両者共に気配が薄い。交わされる重要な内容も、すれ違う兵士にはどこか遠くの私語にしか感じられない。
「近習として救助に尽力すれば、彼の方とて恩を感じて対応が変わるやもしれん」
「そんなに気になるならジジイがお迎えに参じればいい! 私はヴィーラ王国に、何一つ良い記憶がないんだゾ!」
「そうじゃなあ儂も魔獣に追っかけられたりと、災難つづきじゃよ。近頃は腰やら手も痛くて、今だ痺れておるよ……イタタタタ」
ルーシーは潜伏したウダカ城で、盗賊に追い詰められ窮地に陥った。
まだマシとばかりに三階の窓から飛び降りる決意をする。だがそれすらかなわず炎の巣に突っこみ、霞む意識の中で影が現れた。
コンコルディアが炎の糸を無理矢理広げ、救助してくれたのだ。
「くっこの……恩着せがましい」
広げて見せた手の平が微かに震え、その手腕に娘がイラだつ。
おもむろに視線をそらすと、早足で老人から離れていく。
「あの盗賊め! 次に会ったらギャフンと言わせてやるゾ!」
だいたい――。
「だいたいあの方なら……『何故もっと早く来なかった』と、叱責するだろうよ」
久しく鼻背に残った傷がうずいた。
老人は不敬な呟きを聞かなかったことにしたのか。遠くなっていく小さな背を、腰を曲げて見送る。
衛兵も配さない扉が、腹立ちまぎれに開く音が響いた。
「おいオルロック! 呪詛は終わったか――っ!」
――ある司令官と秘書の会話――
「バルチャスが叙勲すれば13人目の因果伯だな。ならば『外郭十二門』から門を引き継ぎ、『十三門跡』か『十三門派』が総称に相応しいか」
「私は反対です……っ」
「そういえばやけに反発していたな、今度は何を考えていたんだ?」
「13ですよ!? 13番目の席、13日の金曜日、13番目の天使! どうにか因果伯は13名にならないよう、手配してきたのに――~っ!」
「……」