百三十六夜 ルタ
「アユム卿ならこの窮地からの打開策を、思いつかれるのでハ……」
「――イヤイヤ私事にお手を煩わせてどうする、ご迷惑をおかけしてしまウ!」
「王国の今後に関わる事案、立場的には決して私事ではないのでハ……」
「――だからこそご相談すらできぬと、何度繰り返せばよいのカ!」
公事に私情を挟んでは、行政が揺らいでしまウ――小さな足音が、王宮の廊下を行ったり来たりしていた。
見慣れた風景なのか、使用人が微笑みと苦笑の視線を投げかける。
「だいたいラクシュも未練がましいんですヨ! 事態はすでにけっしているのに、いつまで滞在する気ですカ!」
ルタが主君に対し、あまりにも不敬な罵声を浴びせた。
今更ながら慌てて口を押え、廊下の影に潜んで深くため息をつく。
『こちらが――我が伴侶となるキールティ公です。これからも両国の繁栄を祈り、幾久しく共に発展していけたらと願います』
約2ヵ月前王宮へ招かれ、ヴィーラ殿下の決断を聴く。公表こそされてないが、関係者にはほぼ確定した事実。
急ぎパシュチマ王国へ帰国し、今後の体制を考えなければならない。
「プールヴァ帝国の皇位継承者が、王配となられるのダ……ヴィーラ殿下のこと、即座に屈しはしないでしょウ。けれど王太子が御生まれになれば、彼の国が横槍を入れてこぬ保証はなイ……っ」
ヴィーラ王国は永世中立国、だが此度の婚礼で状況が一変する。
プールヴァ帝国とは事実上の血縁となり、「戦争に中立的立場を維持する」協定が今後どれほど守られるか。
亡国となったこの地で、大国が覇を争う血の未来――影響力が表れる10年後、最悪の光景が現実となる予感。
だがラクシュは一向に腰を上げず、近頃はめっきりと寒くなってしまった。
冬に閉ざされる前に急ぎ出立しなければ、本国へなんの情勢も伝えられぬまま、ここで冬を越すことになってしまう。
「ヴィーラ殿下の戴冠式を見届けたい訳ではないでしょウ。あるいはラクシュも、アユム卿を待っておられるのだろうカ?」
図らずも持ってしまう期待とお詫びの気持ちが、小さな胸に去来する。
「んっコマを動かす音が止みましたネ。ほう猫を被っていても勝負は譲らないと、ラクシュも中々やりますねエ……おや次は、ダイスゲームかナ?」
プールヴァ帝国の公爵相手は、疲れるでしょうニ。皮肉っぽい方に見えたけど、案外と気が合ったのだろうカ――。
扉の前に立つ衛兵でも聞こえないだろう、客室内の微かな音と会話。
山羊の細長い耳はよく動き聴覚に優れている。ピンと張った耳はとても敏感で、聞き慣れぬ音や声に素早く反応した。
草食動物ゆえか危機に察し、感知する能力が高いのだ。
「おっとっト……っ」
つい覗き込んでしまい、衛兵にジロリと睨まれ引っ込む。
ヴィーラ殿下すら遠慮している、「王配の間」と呼ばれる客室。
従者の身であり主君を1人で放置できない。だが部屋の前で控えようとすれば、衛兵が目を光らせ威嚇するのだ。
王族が滞在中で当然とも言えるが、ルタが亜人だったのも要因の一つ。
以前に比べ対応は緩くなったが、亜人との確執が消えた訳ではない。サーガラやウダカでは変わらず奇異な目を向けられている。
立場的に騒ぎは起こせないと、離れた廊下で耳をそばだてるしかなかった。
「だけどヴィーラ殿下も、罪な御方でス‥‥‥すでに御心を決めておられたなら、ウダカで察する御言葉をかけてくれてもいいのニ」
主君への罵声に比べれば優しい愚痴。
王族の婚礼はそのほとんどが政略結婚である。本人の意思は関係なく、当日まで会ったことがないのも通例。
だが2人の若き王族は、今はカルブンクルスと呼ばれる地で出会っていた。
亜人に対してはもとより、日常の習慣すら異なる他国。遥か遠距離でありながら親書をやり取りする間柄まで、親睦を深められたのだ。
それは動乱の時代にあって、耳を疑うほどの相性ではなかったか。
「ヴィーラ殿下が決心を伝えるのに、悩まれたのは想像にかたくなイ……それでもラクシュが、不憫に思えてしまウ」
どちらがより辛い選択だったのか、当事者でなければ分からないだろう。
主君を想う気持ちと、それにも増して重い腰への苛立ち。ルタは不満が溢れるのを止められなかった。
「その気になればラクシュは、どんな貴族令嬢でも落とせる器量があるんでス! ええもう問答無用で国へ引っ立てて、婚礼させてしまいましょうウ!」
オイラが恨まれて済むなら、その方がいい――。
『損な性格してますねえ……』
ふと屈託なく笑うアユムの姿が思い浮かぶ。
あなたも大概損な性格をしてると思いますヨと、反論すると頬が緩んだ。
相談することすら迷惑をかけるのは分かっている。けれどあの方なら、アユム卿なら親身になってくれるのではないか。
ラクシュが無理矢理にでも臣下にしたがった気持ちが、痛いほど伝わっていた。
「職人ギルドで書簡を頼み、それとなくいつ頃来られるかお訊きして見ようカ……多分なにかしら返事を――あれっラクシュ?」
王配の間の扉が開いた音を、おぼろげな記憶が伝える。
慌てて通路を見渡せば遠ざかる主君の背。考えことをしてて気づかなかったと、追おうとして足が止まった。
王族2人しかいなかった客室に、話し声が聞こえたのだ。
『なぜ例のダイスを、お使いにならなかったのですか?』
『件のアユム卿の情報も惜しかったがな――…』
「1人はキールティ公、だけどもう1人は……一体どこから現れタ!?」
王配の間は従者の立ち入りを禁止してるはず。疑惑が警鐘を鳴らし、微かな音も見逃さぬと様子を探る。
だが現れた女性の嘲笑と揶揄に、小さな拳が震えた。
『少し心を開いた風を装えば、こちらが驚くほど傾向される。アレが王太子では、パシュチマ王国も長くはないでしょう』
「何者かは断定できないがキールティ公の側近でしょウ。あまりに無礼な物言い、咎めない公爵も同罪でス! 急ぎラクシュへ御報告ヲ……えっ?」
こみ上がった怒りは、畏怖に近い驚愕で塗りつぶされた。客室内で公爵の暴挙が荒れ狂い、女性の身体が悲鳴を上げていたのだ。
衛兵もさすがに気がつき、顔を見合わせ入室すべきかと戸惑う。
ざまあみろと思う反面、やりすぎではと哀れになる。非情に徹しきれないのは、主君譲りだったかもしれない。
『無償の愛を! もっと無償の愛を――~っ!!』
「これこそが、キールティ公の本性っ!?」
ルタは楽観視していた己を呪う。彼の公爵は覇権政策を採るプールヴァ帝国の、まぎれもない皇族だった。
『王太子たる者が他国で要人を暗殺し、不様にも捕縛される……パシュチマ王国の評価は地に堕ち、連合国の繋がりに亀裂すら生じる事態となろう――』
「――なっ!?」
主君の身の危険に動悸が跳ね、押さえていた気配が弾ける。
そして王配の間から壁越しに突きつけられた、こちらを射すくめる視線。
「っ!」
ルタは姿を晒すのも構わず、即座に廊下の影から飛び出した。衛兵は王配の間を警備するのが任務、不審者に見えても追いすがるはずはない。
一刻も早くラクシュと合流し、いっかな悪事を防ぐ必要がある。
「やはり長居し過ぎていたのダ! 心を許した演技に警戒を緩め、真意をもらしてなければいいガ!」
しかしルタは失念していた、女性は気配を絶って王配の間に忍んでいたのだ。
『――衛兵その亜人をとらえよ! 決して逃がすな!!』
「こっ……の「力」は、「綺人」!? しまっタ!!」
つまりその存在が、『カルマ』を啓いた因果伯である可能性を。
「はっ! はは――っ!」
意識を支配された衛兵が、虚ろな目で殺到してくる。
「ヨーギがいれば衛兵の1人や2人……っラクシュ――!!」
小さな我が身が恨めしい――必死に走っても、徐々に差が縮まっていく。
ラクシュはどちらへ向かったのか、慣れぬ城内では方向も定まらない。だが幸運にも階下にその姿を発見した。
無尽に跳ねた茶色の髪が、ライオンのたてがみを彷彿とさせている。
「ラ……っラクシュ!! ラクシュ――――~…っっ!!」
背に迫った巨大な影が全身を包み、ルタは石畳へ叩きつけられた。
遠くに見えた主君の背が、影の中へ消えていく。
『閣下の御前である! 控えおろう――っ!』
「――っ!」
廊下の隅に追い詰められていた、子供ほどの亜人がピタリと止まる。
衛兵に隙なく取り囲まれながら、敵わぬまでも抵抗していたのだ。小さな手の平から銀の魚が落ち、金属の音を立て弾けた。
抜き身の短剣が光を輝かせ、石畳で数度弧を描く。
「この亜人……まさか……っ」
ルタは身体を震わせながらも、膝をつくことを拒んだ。
抵抗を可能にしたのは同じ属性としての矜持か、主君への忠誠心か。
「ほう亜人ながら肝が据わっている、リグ公と共に諸国を漫遊してただけはある」
「はっ! 御手を煩わせまして、申し訳ありません」
キールティ公爵が愉快そうに廊下を歩み、短剣を拾って検める。衛兵には微かな傷も見当たらないが、刃先に血が滲んでいた。
ルタの首筋に薄く線が引かれ、赤い血が伝って流れる。
敵に向けたのではなく己へ……操られ主君を危険に晒すくらいなら自死を選ぶ。
教義すら超えた忠義に、「女」は言葉を失っていた。
「実に見事な覚悟だ、それでこそ側近だ。なあズキンちゃんもそうは思わんか」
「はっ! 真実に……っ」
キールティ公爵が愉快そうにルタを褒め称える。
同意を求められた「女」は、自分もそうすべきと言われた気がして、容易に返答することができずにいた。
「しかし私が求める無償の愛ではないな、これは利己主義だ」
「はっ……自分勝手で、ありますか」
この亜人の行動は賞賛に値する、それは敵対する者にだって分かる。獣者として誠実な姿、ひいては国への限りない滅私の奉公ではないのか。
キールティ公爵の断定に首を捻りつつ、それ以上の疑問は口をつぐんだ。
「たぶんこの亜人はO属性でしょう。「綺人」による意識の支配は、主導権を奪い合う綱引……同じO属性は抵抗が強く、術の効きが悪いのです」
「王太子の獣者だ、啓いておっても不思議はなかろうが……ふむ」
即座に支配され今なお解けぬ衛兵と、正面から命令しても抗じる亜人。
両者を比べれば属性の差は歴然としていた。
ですがもう一つの可能性もあり――それを伝えなかったのは因果伯の不文律か、意図した当てつけか。
その細く白い首には手の平大の青痣が浮かび、鈍い痛みを発していた。
「それで動きを止めただけなのか、私はまたズキンちゃんの技量不足かと思ったが――許せ冗談だ、そう怖い顔をいたすな」
「……はっ」
「無粋にも盗み聴きしておった、これだから亜人は始末に負えん」
王宮の湖も冷たくなった、哀れな動物が溺れることもあろう――視線を合わせず短剣を渡し、公爵は背を向ける。
「ああ確かケンタウロスもいたな、両翼を失った翼獅子がどのように嘆くのか……見世物ではないか」
短剣を受け取った「女」が、告げられた凶行に戸惑う。
この亜人を放置はできない、城壁で不運な事故を起こすのは可能。だが王太子の側近を2人も害しては、今後問題となるのではないか。
「そも王族の身で亜人の獣者など無作法なのだ、殿下にも改めていただかなくては――いや蛮族の習いはもういい、件のアユム卿もO属性という話だったな」
「御意にござります、ウダカ城の戦闘訓練で確認しましたゆえ」
その情報を本国へと持ち帰りたいのですが――口元まで出た愚痴に近い訴えを、「女」は必至に呑み込んだ。
「それだ、彼の少年は噂通り有望なのか、興味が尽きぬ存在ではある。私の手駒となるのが楽しみだよ」
どうにかしろ――暗に伝えられた具体案のない指示は、皇族の特権か。
「女」は息も呑み込んで汗を落とし、この無茶振りに答えるべく思考する。O属性の亜人と、同じくO属性の少年――。
「……例えどなたからの命であろうと、このままでは難しかろうと存じます」
「ほう――~」
首の痛みを忘れず、キールティ公爵の背に拒否をしめす。
しかし満面の笑みが彼女に迫る前、サディズムな笑みで返した。
「それゆえこの亜人の始末を、しばし延期してもよろしいでしょうか? リグ公に最後の仕上げを頼む、撒き餌になろうかと」
「ふむ……なにやら面白そうだな、ズキンちゃん」
「女」の反論が意外だったのか、笑みを浮かべたまま公爵が視線を流す。
「確かにO属性は操りにくい、ですが手段は複数ございます。一つに福音ならば、この亜人であろうと自死は可能」
「女」の口元に見慣れない文様が浮かび、淡く発光する。「力」に抗し立ち尽くすルタに歩み寄り、耳元に近づけた唇が囁いた。
歌うように紡がれる、呪詛と見紛う福音の調べ。
『主君のリグ公は、魔獣が巣食うモルディブに御懸念の様子。ならば獣者として、どうすべきが相応しかろうな』
そして今一つは盗賊に御しやすい獲物の情報を伝えるなど、件に事実をふくませ自ら選択したのだと意志を誘導させる方法。
ルタの精神に霧がかかっていく。
それには抗えない毒がふくまれ、意志とは関係なく膝を折り伏している。
「……、……ォ」
「他愛のない、掛かったゾ……ん?」
何やらぶつぶつと呟く小さな亜人に、「女」は笑みを浮かべ耳を近づけた。
「お断りします、ズキンの姉御ォ」
地の底でフードの女性が歯ぎしりをし、公爵が高笑う。
ルタの意識は、闇に落ちる……。
『閣下……リグ公爵閣下、申し訳ございませン――…ラクシュ……』
☆
「ルタ、どこに行ってたんだ――!」
「ラクシュ、ここにいたんですネ――!」
互いを探していた2人が、向かい合って安堵のため息をもらす。
王族が宿泊する豪華な調度品をあつらえた客室……とまではいえないが、ルタに与えられた従者用の個室。
ラクシュが小さいベッドに腰かけ、頬杖をついてルタを見つめる。
「はぁヨーギみたいにうろつくなよ――! いや別に、捜してた訳じゃないが……そういやあ今日は廊下にいなかったな?」
「あっオイラの方は御報告が! ――あった気が、なんだったかな? ああそうだキールティ公と勝負をされたのでしょう、エールでも貰ってきますネ」
「ワインがいいな」
一瞬呆れかけたが一礼し、給仕を努めようとする小さな背に声がかかった。
「ああルタ……お前が言いたいことは分かってる、未練がましいってんだろ」
「おや、やっとひっくり返りましたカ。ラクシュは昔から用心深く……というより臆病ですけど、奥底に勇気を持ってるのは知っていますヨ」
王太子の御立場が、そうさせてしまうのでしょうネ――目を合わせ頷くだけで、互いの心が通じ合う。
長年連れ添った相棒が、気持ちを俯瞰視点で見せてくれた。
「ちぇっ……意地悪いうなよ」
突っ込みに口を尖らし笑えるのは、己の心を理解したゆえか。
「俺は心のどこかで、アユムを待っていたんだ。あいつならどうにかできるかと、それでも王配が望めぬのなら……国へ連れ帰ろうってな」
「やはり、そうだろうと思いましタ。ですけどヴィーラ殿下が決断されたんです、いくらアユム卿といえどそうは覆せないでしょウ」
それも分かるから、ウジウジしてたんだがな――。
そうだ殿下の気性は分かってる、だけどどこかで引っかかるんだらしくない――ただ魂がそう予感させていた。
「だが気がついたんだ……ヴィーラ殿下のそばに在るからこそ、アユムはアユムでいられるんだろうってな。そして殿下も――…」
最初は魔獣が束になってもかなわない素性に興味を持った。だがどうも本気で、惚れちまってたようだ。
「そうだいっそ、殿下を連れ帰って無理矢理花嫁にしちまうか!? そうすりゃ、アユムも自動的にくっついてくるぞ!」
「ラっラクシュ――――~っっ!!?」
爆笑が部屋に響き、ルタは飛び上がって窓とドアが閉まっているのを確認する。
独白に照れたのは分かるが、冗談では済まない暴言に汗が落ちた。
「くっくっくっ……あの殿下が大人しく拉致られるもんか、寓話にもならんさ! 酸っぱいブドウだと、負け惜しみくらいは吐かせてくれ」
手に入らなかった物の価値を下げ正当化する見苦しさと、執着心を手放し気持ちを切り替える二面性を表した教訓。
古代ギリシャの寓話詩集が原典とされ、古代ローマでラテン語に翻訳。
以後はイソップ童話に編集され、数千年に渡って紡がれた人の変わらぬ心情。
「頼みますから、物騒な物言いをしないでくださイ……っ」
「アユムならやったかもな、あいつは自分が正しいと思った道を切り開いていく」
俺にもあれほどの、才気があれば――蒼白となった従者に、主君は片目をつむり苦笑を滲ませた。
軽口を叩けるほどに立ち直れたのだと、どちらともなく息を吐く。
「俺はガキの頃から、人一倍ケガをしてる」
「ええオイラが、その度に治療をしてきましたかラ」
「お蔭で人一倍治ることも分かってる! ルタ、一緒にパシュチマ王国へ帰ろう。アラヤシキに渡れないなら、この手で創ってしまえ!」
己が無力だと理解している、ならば足りない分を掻き集めるだけだ!!
「ええオイラが、ずっとお供いたしまス」
「――それでバジリスク騒動を引き起こした指揮官に、会わせて貰うことにした」
「魔獣の街の噂は、モルディブに近い領地で何度か聞きましタ……件の指揮官が、関わっていそうなのですカ?」
「ああ多分あの「男」は、発見してる」
ラクシュは時にこのような断定をし、そして現実となるのをルタは知っていた。
ゆえに事実だろうと、事情聴取で城に訪れていた「男」を思い出す。
「ラクシュの予感は、当たりますからねエ」
「奴さんが保釈されプールヴァ帝国へ帰国する前に、できる限りの情報を牽き出しアユムに伝える……それがこの地に残された、俺の最後の役割さ」
ヨーギもまだ幼いのに、連れ回しちまったなあ――。
「……間違っても御一緒に旅をするなんて、言い出さないでくださいヨ」
「うっ」
まだ未練があるのを見破られ、ラクシュが喉を詰まらせた。
ルタが恨みがましく睨みつけるので、わざとらしく視線をそらす。
「ラクシュ――~!?」
「いっ言わねえよ! それでなくともモルディブは魔獣の巣だ、俺がついてきゃあ足手まといになるだけだろ!」
「ふぅ……確かに噂が事実なら、国家を揺るがす事態となりますネ。アユム卿なら対処せねばと、モルディブへ駆け出すでしょウ」
『いけなイ……っ』
ルタの心がざわつき、なにかを訴えようとする。
「……しかし街の規模なら、他所から移住したとは思えませン。モルディブには、アレがあるのでハ?」
「そうヴィーラ王国にもあったんだ。ならば誇張や大言壮語として世に流布された「アラヤシキの少年」は、おそらく半分だけ事実をふくんでる!」
アユムはルタの遠いお祖父さんやお祖母さんと同じ、召喚された異邦人――。
内なる心が叫び、2人の意識が同意を得た。
「アユム卿はオイラと同じ、亜人かもしれないんですネ……っ」
記録は残っておらず、遠い親族や血縁者が居た世界を知る術はない。
だけど同郷かもしれない想いが、アユムへの感情をより重く複雑にさせていく。
「アレの件もお伝えしないと、不用意に踏み込んでは危険でス」
「そこんとこもなあ……上手いこと説明できりゃあいいんだが。それでもアユムとカレシーなら、難なく切り抜けそうだがな」
魔獣を想わせる理解不能な少年と、国家存亡危機と称される蛇の王の仔。
仲間であっても緊張してしまう存在に、切り開けぬ道があるのだろうか。
「はぁ――~…場合によっては10年後、そんな方と敵対するんですヨ?」
「そんときゃあ正面から雌雄を決するさ、お前の主君を舐めんな!」
「俺も同じM属性だ。生涯を賭け戦う敵となろうと、不満は言わさんさ!」
『ラクシュ、いけなイ……っ!』
どこからか聞き覚えのある声がして、ルタが虚空を見上げ首を傾げる。
「どうした?」
「いえ、さっきからどこかで……声がしてるようナ……」
「へっ役立たず属性と陰口叩いてた諸侯や家臣が、ため息ついてんじゃねえか? 厄介払いできたのに、帰ってくるのか――って」
――貴族内では実子がM属性だと判明すると、『カルマ』を啓くに関わらず放逐したり、密かに隠蔽する風習があった。
王族には特に顕著で、継承順位が上位であろうとM属性の「噂」が立つだけで、嘲笑のネタにされるほどである。
帰らなければならないと分かってはいるが、またあの視線に晒されるのか。
気の合った仲間と旅をする気楽さに、つい忘れてしまう己の世界。
「そっそんなことありません、アユム卿を御覧なさい偉大な属性でス。魔獣の街が事実なら、「魔獣部隊」の結成だって考慮しなければなりませン! 貴重な情報を得たのだと、胸を張って凱旋いたしましょウ!」
そうだ重要だと知っている、アユム卿にだけお任せしていいのか?
「貯金箱の女神――には、あまり相応しくない功績だな」
「幸運の女神――でス、待ち望まれた嫡男だったんですヨ!」
「運はすでに見放しているっての! って~かやっぱ女神なのかよ、偽名で通せる旅の間が懐かしい――~!」
「もうっ! いいですかラクシュ――…」
「ラクシュミー様っ! ルタ様――っ!」
リグ公爵がため息と爆笑を同時にこなしていた部屋に、白猫が飛び込んでくる。
王族を訪ねるには、少々不敬な入室だったかもしれない。
「こっここに居られたのか、ですがよかったご無事ですね! どこか不審な気配を感じませんでしたか!?」
ジャーレーが2人の姿を発見し、手を胸に心底安堵した。
「ようジャーレー、そういやあ遠――~くから俺への愚痴が、聴こえたそうだ」
「はっ……愚痴、ですか?」
「先ほど聴こえてた声は、ジャーレーが「力」で伝えてくれたんですネ。こちらは大丈夫です、何かあったのですカ?」
ジャーレーは「綺人」を使ったのだが、声が遠く2人に届いた気配はなかった。
では中途半端に聴こえてしまったのかと、背をただし軽く頷く。
「先ほど短い間ですが、王宮に敵意の気配が漂いました。おそらくは密偵が発した『カルマ』によると思われます……っ」
「敵意!?」
「っヴィーラ殿下はご無事か!!」
ラクシュが即座に立ち上がり、握り込んだ拳の手応えが軽い。
旅の間は外すことのなかったナックルダスターだが、王宮生活には不釣り合いで仕舞い込んでいたのだ。
それに気がつく前に、ルタが荷物に跳びつき探し当てている。
2人の絶妙な呼吸に、ジャーレーの頬が緩む。
「ご安心ください」
短く言い切り片膝を立て跪く、申し合わせたかのように声が重なった。
「っリグ公はご無事か!!」
リグ公爵が手袋に仕込んだナックルダスターを打ち合わせる。
駆け出す気配が全身を満たす前に、開けた扉の前に白バラが舞った。
「ご無事です、どうやら「力」は届かなかったようですが……」
「いやリグ公に大事がなければよい、ああルタ殿にもお会いできたのですね」
白猫が膝を折ったままこうべを下げると、少女が深く息を吐く。
リグ公爵が従者を探してると報告を受けており、控える小さな亜人に微笑んだ。
「これは殿下気を使っていただき恐縮です。ええどうやら王配の間より、すれ違いになっていたようです」
「思慮していただき、まことに申し訳ありませン」
「慣れぬ城内ですから、案件があれば遠慮なく伝えてください。なにしろよかったリグ公とルタ殿になにかあっては、パシュチマ王国に謝意を表さねばならない」
それは少女の本心であったろう、そして殿下としての立場が言わせた言葉。
不器用でちょっとずれた優しさ……けれどもリグ公爵にとっては、心に刺さったトゲに等しい気配りだった。
「ですが懸念が払拭された訳ではありません。しばらく城内の監視を強化します、不便をおかけするかもしれぬが……」
「如何ほども気にしません。何より殿下に危機があっては、私の方こそ心苦しい」
「ありがとうございます、ジャーレー!」
「はっ!」
ジャーレーの前方に30センチほどの見慣れない文様が浮かび、淡く発光する。
新王都に滞在中の因果伯に、以後の指示が即座に伝えられた。
王族2人はウダカで、伝書バトの意外な資質に驚きを隠せないでいる。だがこの「力」はやはり得がたいのだ。
頼もしく見つめられた白猫は、しかし瞳を伏せ控えるに留まった。
「私には本来、因果伯と名乗れるほどの「力」はない。妹が……ジャーラフが心に残す光の残滓を、感じ取れるだけ」
だけど理由は分からないが、この頃特に声が遠い。
ジャーラフに問い質しても要領を得ないし、妙に頑なだ。なにか心が乱される、特別な事情でもあったのではないか。
しばらく前にも、例の少年にしか声を届けれぬ時期がなかったか。
「そうだ……思えば彼の少年を召喚した頃から、情勢が急激に変貌しているのだ」
王宮に漂った拭い去れぬ敵意もだが、プラーナ様の御心も……。
『っリグ公をお守りせよ!!」
プラーナ様は王配と望んだキールティ公ではなく、リグ公の安否を気遣われた。
護衛を連れ自身は王配の間へ、私を居室へ走らせる。確かに他国の王族であり、今後を思えば最大の気配りをせねばならぬ方だが……。
『我のことはいい! ジャーレーどうか、リグ公を頼む!』
息すら乱し狼狽えた姿は、近衛兵をして戸惑う事態だった。
私とてリグ公は、見ず知らずの身を救っていただいた大恩人。いずれ王配として王宮へ招かれるだろう、お世話ができるのではと期待していたのだ。
「ならばなぜリグ公を、王配と望まれなかったのか……?」
炎を瞬かせる瞳と覇気を轟かせるライオンが、互いを想い笑みを交わしている。
それはヴィーラ王国の、新たな門出に思え――…。
「イカンイカンっ!」
幾度も想い廻った疑問がまたしても脳裏をかすめ、首を振って追い出す。それは殿下を疑う背信ではないか。
あまりの傾倒に、白猫は少女の心情を理解できていない……。
「だがさすがにこの方でも、今件は意外に思っているのではないか」
白猫は扉の前で置物のように動かぬ巨漢の近衛隊長、ステューパ卿を盗み見た。
具申を求められぬ以上は殿下の主張が全てである。同調を貫く姿勢に、わずかの狂いも生じてはいなかったが。
安堵の雰囲気が包む部屋の端で、小さな亜人が決心を滲ませ控えていた。
その時誰か気がついただろうか、首筋についた真新しい傷跡を。
ルタが護身用に佩いていた短剣が、左後片足立ちの翼獅子……リグ公爵家の紋章が掘られた短剣が、鞘だけになっていたのを。
「やはりダメだ、あの方をこれ以上巻き込んではいけないと聴いタ。だけど彼の街を放っておけないのも事実……」
だから獣者のオイラが魔獣の街を、調査しなけれバ!――。
☆
「ルタ――――っ!!」
指揮官との会見を終えたリグ公爵が、王配の間を後にする。
真っ先に相談したかった従者の姿がない。またすれ違いになるかもしれないと、居室で待ったが一向に姿を現さない。
部屋を歩き回り、廊下を幾度も確かめ……ついに日が陰り始めた。
「……っ一体どこへ行ったんだ! この頃妙に塞いでたし、何か悩みことか?」
ならば俺のことだろう、帰国の話はしたはずだが――。
我慢できなくなって部屋を飛び出し、方々で見かけなかったと問いかける。
幼い頃王宮で出会い、あげく2人で国を飛び出す。何年も危険な旅をし、昼夜をともにした掛け替えのない存在。
独りでいる心細さと、不測の事態に不安がよぎった。
「おおリグ公、どうやら獣者の行方が分かりましたぞ!」
「キールティ公! それで、それでルタはどこに!?」
キールティ公爵が手を振り、にこやかに安否を告げる。
その後ろを追従してきた衛兵が、礼を取った後報告を行った。
「亜人の従者……殿なら、王配の間の前で待っておられました。ですが何かを察し表情が一変したかと思うと、ふいに駆けて行かれたのです」
やはり魔獣の街へ行かねば――と、意味は分かり兼ねます。
「魔獣の街へ行く!? ルタがそう言ったのか!?」
衛兵が無表情のまま頷くと、リグ公爵は愕然とした面持ちになり床が揺れた。
「アユムだけに託せないのは分かる、しかしあくまでもヴィーラ王国での事情だ。助言や力添えを望むなら、いくらでも手助けしようが……っ」
どうしてそうなる、なぜルタが独りで魔獣の街へ!?
確かに彼の街放ってはおけないが……モルディブの樹海など軍隊を派遣するか、因果伯を同行しなければならない危険地帯。
まして他国の王族に使える側近が、貴国が「魔獣部隊」を結成するかもしれないから独自に調査する――なんて認められる訳がない。
それが分からないルタではないはず、なにがあったんだ。
「すぐに引き留めなければ……っ! キールティ公失礼します、ルタを――従者を連れ戻さねばなりません!」
「それはご心配でしょう、ですがもう城門が閉まるのではないでしょうか?」
見れば空が赤く染まり風の冷たさを感じる。いつ閉門を告げる教会の鐘が鳴り、街と外部を隔てても不思議ではない。
城門が閉じれば、先行する者と1日の差が生じる事態。
徒歩では到底間に合わない、殿下に事情を御話しして馬を借りて……いや無用な混乱を招くだけではないのか、その時間もない。
ヨーギがいれば――無い物ねだりに、リグ公爵が奥歯を噛みしめる。
「リグ公私の馬を御使いください、今ならまだ閉門に間に合うかもしれない!」
衛兵に案内するよう指示し、真摯な眼差しでリグ公爵に理解を求めた。
「僭越ですが殿下に伝えても、リグ公1人の騎馬を認めるはずありません。本心はどうあれ王太子の身を思えば、御止めしないといけない立場ですから」
それは私も同じだが、私の馬は厩を抜け出すのが得意でしてね――。
「キールティ公……っ」
「おっと私は何も存じていません。ですが獣者が無事に戻ると、いいですね」
「あっありがとうございます! この御恩は決して……っ!」
「いえいえ、忘れてくださって結構ですよ」
駆け出したリグ公爵の影が見えなくなると、キールティ公爵は満足そうに頷く。
石畳の廊下を跳ねて歩き、軽やかなステップ音が木霊する。
「ふふっそういえば他国の王族に、M属性が生まれたと聞いた。存外世界は狭い、まさか恋のライバルと評される方だったとは」
まさしく国の恥、これは思いがけずもいい情報を得れた。
モルディブへ向えば魔獣の巣窟、道中捕縛されれば要人暗殺の被疑者――公爵に友人とまで言わしめる彼の少年が、これを放っておくはずがない。
さてアユム卿の手腕を計るのに、これほど相応しい舞台もなかろう。
「樹海で果てるなら期待外れ、容疑を晴らす才気があるなら私の手駒に相応しい。少々凝りすぎの嫌いもあるが、こうも易々と釣り上がるとはな……ズキンちゃんもなかなかに企むではないか」
「おおこれはキールティ公、リグ公をお見掛けしませんでしたか!?」
ステューパ卿が衛兵を引き連れ駆けてくる。
キールティ公爵を見つけると、礼を取った姿で汗を落とす。
「いいえ私は何も存じていません。卿が慌てるほどの凶行が、あったのですか?」
「っ不手際を謝罪いたします! たった今指揮官の方が――…」