百二十四夜 魔獣暴走ノ19
「――っインガハク、インガハクって? でもここがどこだか分からないのよ……ここをまっすぐ?」
誘導された若い女性が、500メートル進んで左へ90度曲がる。
「……行って、あっ!」
高い市壁と、守備を固める衛兵の集団が見えた。
「この扉は封鎖だ!」
「はい!」
「――っ因果伯……魔獣は南へ、暴走してるだけ?」
「扉を閉じて、もう向こうに誰もいないわ! ――っインガハク? そっそうね、ええ救助を優先するわ」
市民を守り指揮をしていた隊長と女性が、何かを聴いて急遽変更を告げる。
「――っプラーナ様? プラーナ様って、どこにいるの? ……あたしが走ったら走るのよ、いいわね?」
「うん!」
3人の子供と惑っていたおばさんが、路地に隠れて魔獣の集団を交わした。
「――っお? ……聴こえましたか?」
「あっああ、インガハクとかプラーナ様とか」
「ここにはもう魔獣はいないって」
「そう思うな」
「衛兵側は優勢らしいし……」
「勝つとなりゃ、ここを引き上げてもよかろう」
「じゃ!」
農具を構えていた若い男性2人が、息も荒く北門へ駆け出す。
「――っ神託が下った! 身を潜めろ、相対しなければ通り過ぎるぞ――!!」
「声」の届いた市民が叫んで報せ、街の惨劇が徐々に収まっていく。
「北の門は閉まってる! 後は街中を暴走する魔獣を、しらみつぶすだけだ!!」
「――っ待って、ええ分かりました! 全魔獣は南へ向かいすでに中央を通過! 北側より追いながら、市民を襲っている魔獣のみを相手取ってください!!」
「はっ了解しました!!」
餓狼とイーシャ卿から指示を受けた衛兵が散っていく。
「市民には事態が収束するまで、隠れているよう声をかけろ――!」
「ケガ人の救護は足りてるな? 動ける者は数名で組み、討伐を開始する!」
巨人――キュクロープスですら倒す因果伯の存在が、心に余裕を生む。
衛兵としての意識が回復し、士気は高かった。
「なんにしろ数がいやがるし、兵が足りねえ! 北門では市壁に取りつく魔獣を、攻撃してると言ってたな?」
「小型の魔獣は兵士でも対応できますわね。でしたら私たちは市壁を突破できる、大型の魔獣を率先して討ちましょう!」
餓狼、疲れているでしょうけど――最後まで言わせず、餓狼が肩を回し皮肉気に口の端を上げる。
「俺にとっちゃ巨人くらい朝飯前だっての! そういやあ腹も減ったし、さっさとケリつけてメシにしようや――ほれ行くぞ!」
「きゃあっ!?」
餓狼の膝は疲労で若干揺れていたが、イーシャ卿をお姫様抱っこし駆け出す。
イーシャ卿とて錫杖がなければ歩くのも辛く、殴る手を止め苦笑した。餓狼の、下手な気の使いよう――。
「荷物扱いされるよりはいいでしょう、乗せてくださいまし」
「しっかしさっきの……「風舌」っての? 本当に信用できんだろなぁ」
まだ脳に痺れが残るのか、餓狼が片目をつむって額を見上げる。
市壁上の回廊を北門へ向かい、花婿を抱えた盗賊が恐るべき速度で走っていた。
「……分かりません」
「おいおい、貴族のねーちゃんよぉ!」
「意志の力を以て啓ける者はそう多くいません……ならばこの場に居合わせたのも因果の巡り合わせ。今は伝えられた通りを、信じる他ありませんわ」
イーシャ卿が市壁の外へ目をやれば、空堀に落ちけして破れぬであろう石垣に、狂ったように突進を繰り返す小型の魔獣。
『魔獣は北からだけ暴走してくる――』
端的に伝えられた情報ではあったが、確かに振動は北側からしか響かないのだ。
一概には信じられない、魔獣暴走の事実。
「生物を光としてとらえる……同じO属性なのに、私には真偽が判断できないっ」
ヴィーラ殿下のお言葉だと、即座に認めれないなんて――。
悔しさから食いしばった歯が、軽い音を立てた。
「殿下の愛称まで出して――~もし嘘だったら、タダじゃおきませんわっ!」
「まあ落ちつけよねーちゃん」
「――あっインガハクが北門へ向かう……巨人の光はない、倒しちゃったんだ! 他の弱い光……多分兵士かな、魔獣の光を追って、街の……中へっ」
「ジャーラフ!」
初めて『カルマ』を啓き精神を消耗したのだろう、体が揺れて前屈みに倒れる。
ジャーレーがすかさず支え、汗を拭ってやり微笑んだ。
「プラーナ様も同じように、不可思議な「力」を発してらした。そんな方に認めていただけたのよ……ジャーラフは頼りになる、大物になるって」
よかった、本当によかった――。
「お姉ちゃん……」
「うむっ見届けたぞ、素晴らしい「力」であった!」
上っていた煙も薄く、倒れた巨人の姿すら見直せない距離。走って状況を報せに向かっていたら、どれほど後手となっただろう。
ブリハスパティ卿が、2人を腕の中に囲い褒め称えた……『カルマ』を啓く場に居合わせた幸運を、天に向かい感謝する。
魔獣の脅威に騒然とする街で、そこにだけ別種の空気が流れていた。
「よしっ衛兵殿! 南の門を開けるよう、伝令を頼みたい!」
ブリハスパティ卿が立ち上がり、意味が分からず立ち竦んでいた衛兵に告げる。
「門を……まっ魔獣の襲撃中に、門を開けるのですか!?」
「魔獣は街を襲撃しているのではない、無暗に暴走しているのだ! ならば街中に閉じ込めるより、通過させた方が被害は抑えられよう!」
門に遮られ出口を失った魔獣が、都市部の南で暴れ出すやもしれない。
それは想像もしたくない、惨劇の拡大。
「私は魔獣の討伐に周る! 市民には隠れて姿を現さないよう、呼びかけ――…」
「っいや待ってください! 北門を開けたせいでこの事態だと伝令に聞きました、南門を開けるなど……さらなる混乱を、招くのではないですか!?」
「そっそうです! いくら因果伯様とはいえ、こればかりは……」
衛兵の主張は、けっして的外れではない。
『カルマ』は、彼らには未知の理。現状を判断するだけの情報が得られなければ、門を開けるなど正気の沙汰とは思えなかった。
「私は森の中で魔獣が一方から、北からしか襲ってこないことを確認している! 市壁下を見てください、西門を見向き押せず通過していく魔獣の群れを!」
どうか信じていただきたい――。
ブリハスパティ卿が背をただして頭を下げたが、衛兵は顔をしかめたまま。
横にいる者と目を合わせ、振り返って疑問を投げかける。
「い……いや、かといって門を開けるのは……」
「なあ一方からだけの襲撃など、本当に有り得るのか……?」
北門を開けたのはこの熊ではないかと、揶揄まで重ねられていく。
大多数の反対意見に後押しされ、自分たちが正しいと語尾が強くなっていた。
「思えば因果伯との証拠もない……こいつの話を、信じていいのか?」
「熊のおっちゃんは正しいよ、魔獣の意識は一点に集中してる! 攻撃とか刺激をしなければ、ただ通り過ぎてくだけだ!」
「――っ亜人ごときが、只人の会話に入ってくるな!」
ジャーラフの助言に、衛兵が苛立ち剣を鳴らす。
その気配に、姉は即座に妹の前へ回り込んだ。
魔獣の襲撃にストレスもあるのだろう……排除してきた亜人の反抗する態度に、衛兵の顔つきが変わる。
「抵抗するか! この亜――…っ!?」
石垣を組んだのこぎり狭間が吹き飛ぶ。ブリハスパティ卿が熊の甲冑も着ずに、素手のまま粉砕してのけたのだ。
淡い光が立ち上る、攻城兵器に匹敵するその膂力。
「なっなな何を……何を……」
「いっ因果伯……様?」
「只人だ亜人だと問答しておる場合か! 街を護ることが衛兵の責務であろうが、成すことを成せぬなら――この俺が魔獣の中へ、叩き落とす!!」
常に覇気を撒き散らす餓狼より、静かな熊の怒気こそ怖いことはない。
ブリハスパティ卿の物腰に甘く見てたのだろう。優しい瞳と穏やかさから一転、巨大な黒い熊に両腕を上げられ気がつく。
怒らせてはいけないのは、誰なのかを……。
「もっ……申し訳も、ごっございません! おっお許しください!」
「たったたただいますぐ、すぐに伝令を――~っ!!」
衛兵は半ば腰を抜かし、その場から走り去る。
わっ儂は最初から因果伯様だと――だっ誰だ疑ったバカは――。
自分は反抗も批判もしていないと、取り巻いていた者も慌てて追従した。
「はぁ暴力を持っての抑制を否定しておきながら、これでは餓狼を咎めれぬな……情けない、私もまだまだ未熟」
父上ならばもっと巧みに言葉を操り、説き伏せれたろうに……。
残された熊は首を振り、長く悲愴なため息をつく。
「熊のおっちゃんは……ブリンパティ様は、ボクの言葉を信じてくれるの?」
ジャーラフが衛兵の態度で思い出す。只人との、貴族との大きな隔たり。
「当然であろう、殿下が友とおっしゃったのだ。例え『カルマ』が啓かなくとも、其方らは得がたき方であるのに変わりはない」
彼の少女に、歳相応の笑顔を授けてくれた――。
「よくぞ出会っていただけた、家臣として礼を述べたい」
当たり前のように笑い、膝を折って感謝を告げる。
静かな熊の姿勢は、ジャーラフの意識に少しだけ変化をもたらした。
「あ……ありが、とう……」
只人の中には、こんな方もいるのか……。
妹の照れた表情に、姉は抱きしめてその気持ちを表す。
「――っお姉ちゃん、来るよ」
「うん、来る」
「なにが……どう、いたしたのだ?」
肌がざわつき逆立つ……異常極まる事態に、身震いがする。
焦点の合わない瞳で一方を睨む姉妹に、ブリハスパティ卿は困惑した。
「ヒィアアアアア――――ッッ!!」
突如発せられた雄叫びに、状況を理解できたのは姉妹だけだったろう。
市壁上に立つブリハスパティ卿であっても、あおぎ見なければならない高さ。
中都市にほど近い森が爆発し、樹木が周囲に降り注ぐ。
巨人を思わせる女性の上半身に、うねる蛇の下半身を持つ魔獣が躍り出た。
「ヴイーヴル……ヴィーラ、殿下っ!」
☆
「ブゴォゴオオオオ――ッ!!」
のこぎり狭間に鋭い爪が立ち、巨大な牛の頭が覗き込む異様な光景。
ミノタウルスが、市壁を這い上がろうとしていたのだ。
「増援をっ! もはや阻止の術なし!」
「誰か矢をよこせ! 早くっ!!」
衛兵がクロスボウで対応しているが、どれほど効果が見込めるのか。
それでも太い弦の爪弾きが、止まることはなかった。
「ねーちゃん今度は当たったな、あの牛野郎がまだいやがったぞ」
「……嬉しくはありませんわね」
餓狼とイーシャ卿が、北門の近くで叫び声が重なる場に遭遇する。
市壁外には多数の魔獣が矢を受け倒れており、衛兵の必死な抵抗が見て取れた。
討たれて喘ぐ魔獣を踏み台に、市壁の半ばまで這い上がり進もうとする魔獣。
鋭い爪を石垣に食いこませ、唸り声を震わせる牙。
これ以上魔獣が増えれば、この中都市といえども無事には済むまい。視野の広い隊長を信じ、恐怖を抑え込み矢面に立って奮闘していたのだ。
「剣を抜け、覚悟を決めろっ! 前線に立った騎士団が数を減らしてくれたはず、彼らに報わずしてなんとするか!!」
「我らが引けば、帰る場所はないと思え! この場を死守するっ!!」
「「うおおおおお――――っっ!!!」」
震えながらも街の盾となる……背を叩き、賞賛に値する姿であったろう。
「餓狼、ミノタウルスを叩き落とすわよ! …――餓狼?」
腕から飛び降りたイーシャ卿が、錫杖を握り直し意識を整える。
しかし餓狼はその場に立ち止まったまま、なにかを見据えて動かなかった。
「てめえ……それで、どんだけ殺しやがった……」
ミノタウルスが握る巨大な両刃の斧に、斧刃といわず柄といわず……赤黒く残る血塗られたシミ。
兵士に傷を負った者はいない。ならば北東の村か、帰ってこない騎士団か――。
「こんの牛野郎ぉ――っっ!!」
「ブゥギャッ!」
石畳を粉砕し弾けた餓狼が、牛の顔面を殴り飛ばす。巨大な爪が回廊を抉ったが勢いは止まらず、もんどりうって叩き落とされた。
落下の地響きと、空堀の中で背をしたたかに打ったミノタウルスの喘ぎ声。
「おい神の宝とやら、俺に牙を貸せ――『邪土』っ!!」
握りつぶす苛烈さで白い宝石に「力」をこめる。衛兵が驚き止める間もあらば、勢いのまま無造作に飛び降りた。
餓狼の左右に2つ。30センチほどの見慣れない文様が浮かび、淡く発光する。
空中で両腕を通し、妙な光沢を放つ鉄の装甲が張りついてゆく。
「おお――――らぁっっ!!!」
雄叫びと共に全体重をかけ、ミノタウルス目掛けて腕から落下。
衝撃は体を突き抜け地面まで達し、破裂音が市壁をも揺らす。
「――っクソが! くたばりやがれ!!」
「あのバカ、突っ込んでいくなんて……っ!」
市壁を這い上がろうとしていたミノタウルスは、身震いした後に事切れる。
小型とはいえ魔獣の群に半包囲され、さらにその背後から2体のミノタウルスが敵意を向けてきた。
「ゴブッ……ブゴァアアア――ッ!!」
同類を倒された恨みか、即座に餓狼を敵と判断したのか。
地響きを立て巨大な両刃の斧を振り回し、小型の魔獣を吹き散らして迫り狂う。
「大型の魔獣は見える限りその2体だけ、ケリをつけるわよ! 『綺――…』」
「ねーちゃんは手を出すな!」
「じぇじぇ――っ!?」
再び錫杖に文様を浮かばせるべく、集中していたイーシャ卿が息を呑む。
制止の理由が分からず、ミノタウルスの前に立ちはだかる餓狼を見下ろす。
「あっあの巨人を、殴り飛ばす!? あの男は一体何者だ!!」
「しかし魔獣に囲まれ、なお2体同時では……援護した方がいいのではないか?」
「待ってください、彼には何か考えがある様子。そう簡単にくたばりませんから、衛兵の皆さんは今の内に守備を整えてください!」
「は……はっ! しかし……いえ、はっ!」
クロスボウを構えていた衛兵たちが、後ろ髪を引かれつつも駆け出す。
「そっそういえば城壁をまたぐ巨人もいた、アレはどうなったのだ!?」
「街が滅んでいない所を見ると、どうやってか……っいや我らは、我らの成すべきことだけを考えよう!」
「よし、矢を補充し他の魔獣を討伐する! 他の部署にも通達を行え!」
矢を弾く巨人を一撃で倒す男、慣れた口調で確信を持つ女性。
共に尋常ではない覇気を感じるのは、戦場を経験したがゆえか。信頼すら芽生え希望が衛兵の本分に立ち返る。
「ゴオオオオ――ッ!!」
小型の魔獣を巻き添えにし、餓狼に巨大な盾を思わせる斧が迫った。
だがステップだけで交わし、潜り込んだ先で脚を砕きそのまま通り抜ける。
背後に迫る2体目が、何事もなく現れた餓狼に驚いた。仲間の体に隠れて動きが読めなかったのだ。
斧を掲げる間もなく、横凪に払うため引いた腕に餓狼が飛び乗る。
眼前に迫る巨大な牛の顔。恐れもなくガントレットが唸りを挙げ、ミノタウルスの顎が天を見上げた。
「ブゲェッ!」
「まだまだ――っ!!」
魔獣の襲撃がこれで終わりとは限らねえ、盗賊なら確実にコスい手を残してる。
なによりあのガ……殿下の、状勢が不明。
ねーちゃんの「力」は最恐を冠するだけあって、万一に備える奥の手だ。ここで消耗させる訳にはいかねえ――分かってくれや。
「そうかっ分かりましたわ!」
イーシャ卿が錫杖を握りしめ、納得したように目を見開く。
「1人で戦果を上げて殿下に認めて貰おうって魂胆ですわね! なんて情けない、餓狼の名が泣きますわよ!!」
「……てめえが勝手に呼んでるんだろ」
確信を持って言い切られ、餓狼は日頃の行いかと苦虫を噛み潰した。
「ブゴォ……オ……」
散々殴られたミノタウルスが、血の泡を吹き倒れる。
巨体から飛び降りた餓狼に、ミルメコレオら数頭の魔獣が襲い掛かった。
「ゴア――――ッアアアア!!」
「ギャガ……ッ!」
だがその牙が爪が届く前に、横合いから降り注いだ矢が蜂の巣にする。
市壁上ののこぎり狭間から、クロスボウを構えた衛兵が奮い立つ。
「準備が整い次第撃て! 傷の男に他の魔獣を近づけさせるな!」」
「傷の男っどうか! どうか牛の巨人を、ミノタウルスを倒してくれ!!」
「あいよ――~うぉっとっ!?」
「ブゴォ――ッ!!」
もう一体が挫かれた脚を引きずり、両刃の斧を横凪に一閃。さらに飛来していた矢すら叩き落とす激しさ。
餓狼は伏して交わしたが、飛び込む隙も与えず返しの一閃が決まった。
ガントレットを盾に受け止めたが、体ごと吹き飛ばされ火花と破片が飛び散る。
「ゴォ……ゴオオオオ――ッ!!」
ミノタウルスは潜り込まれるのを嫌い、両刃の斧を縦横無尽に振り回す。
斧の竜巻が止まることなく荒れ狂った。鉄と鉄が相撃つ喧騒が市壁に乱反射し、重く耳障りな打楽器を奏でる。
「ちっ! 舐めたマネしてくれるぜ!!」
巨大な斧を自由に振るえない場所を探すが、空堀内は開けた空間。
しかもミノタウルスは餓狼を市壁に押しつけ、空堀から駆け上る隙を与えない。
肉体強化していても生身で受ければ致命傷は必然。さすがの餓狼も防御を固め、回避に専念するしかない。
「ギャフッ!」
「ガア……ッ」
小型の魔獣が横合いから餓狼を襲い、数頭が巻き込まれた。微塵となって血煙の渦が周囲に巻い散る。
巨大な両刃の斧に、赤黒く残る血塗られたシミが重ねられていった――。
「調子に……のんじゃ、ねえぞコラ――っ!!」
白い宝石が呼応し、淡く発光する見慣れない文様が両腕を駆けのぼる。
ひん曲がり欠け砕けた鉄の装甲が、より厚く強靭に再生していった。
「ッオオァ!?」
力任せにはじき返された斧を見れば、斧刃を虫食い葉に変えられている。
その時ミノタウルスは、己より巨大な狼が闇をまとって現れたのを感じていた。
「ブゴッアッアアアアア――――ッッ!!」
それは大型の魔獣が放った、恐怖の咆哮。
振り払うべく打ち落ろして地を割り、地響きと土埃が一瞬視界を途切れさせる。
斧の動きを読んでいた餓狼がバックステップで避け、交わした先に――倒れた、ミノタウルスの体があった。
「餓狼――っ!!」
「傷の男――っ!!」
「オオオオ――ッ!!」
逃げ道を失った餓狼目掛け、ミノタウルスが突き込む。
血に濡れて光沢をなくした、斧の刺先。巨人の体重と斧がもたらす質量兵器を、人の身で受けることはできない。
「っらあ!!」
餓狼は背を預けたまま、目の前に迫った斧頭を蹴り上げる。
倒れたミノタウルスの巨体がズレ引くほどの威力。
両刃の斧が弧を描いて後方へ吹っ飛び、市壁に突進する小型の魔獣を巻き込んで死と破壊を撒き散らした。
「ブゥ……オォ」
衝撃で砕けた指を唖然と見つめるミノタウルスに、餓狼が雄叫びを穿つ。
「俺はウールド――ウールドヴァ様だ! よっく覚えとけっ!!」
人間大の狼が影を引き、ミノタウルスの首が異音を響かせ180度転じる。
空気が放射状に割れ、衝撃と血しぶきが派手に舞った。
「へっ神の宝とやらもしけてんな、もう天に召されっちまったか」
握り込んでいた白い宝石は、使用限界がきて掻き消えている。
餓狼が手の平を見つめ、少しばかり残念そうに天を見上げた。
後にこの悪態を聞いたブリハスパティ卿が熊の影をまとう。以降餓狼に対して、優しい瞳が向けられたことはない。
「さって後は小型の魔獣か……ってもこの数を、一網打尽にできりゃいいんだが」
ひとっ所に集めるアイデアはねえもんか――。
終わったとばかりに両腕を回して独り言ちる。魔獣の只中に降り立ったはずが、その場所で動くのは餓狼だけ。
背後では赤い血と肉片が、雨音を立て降り注いでいた。
しばし立ったまま揺れていたミノタウルスだったが、砕けた脚では支えきれずにガクリと傾き倒れ伏す。
「……ォ……ゴォ」
「「おお……うおおおおおおお――――~っっ!!」」
地響きと土埃でやっと勝利を確信し、固唾を飲んでいた衛兵に勝鬨が上がる。
仲間と背を叩き合い、のこぎり狭間に倒れ、クロスボウを抱いて命を確かめた。
初めて魔獣と相対し、幾度死を覚悟しただろう。
餓狼は市壁上の喝采をことさら無視し、頭をかいて周囲を見渡す。
「熊の旦那が牛の斧を振り回してたっけな、だがどうもあの手のエモノは好かん」
魔獣を蹴散らして地面に突き立った両刃の斧が、巨大なオブジェとなっている。
街の名物になんじゃねえのか――とは、さすがに声にはしなかったが。
「キュクロープスに続いて、ミノタウルスを3体倒す……呆れてしまいますわね」
小型の魔獣をふくめれば、一体どれほどの戦果を上げたのか。居心地の悪さにうろつく餓狼を見下ろしながら、イーシャ卿は苦笑していた。
どうしようもないバカだけど、その呆れるほどの強さだけは認めてあげる。
『王は血の海から生まれ、味方の屍を積み王宮を建て、敵の骸を砕き領土とする』
私はヴィーラ殿下から、あのようなお話をうかがったことはない。
悔しいけど……本当に悔しいけど、それほどにあなたは認められているのよ。
「ヒィアアアアア――――ッッ!!」
中都市にほど近い森が爆発し、樹木が周囲に降り注ぐ。
巨人を思わせる女性の上半身に、うねる蛇の下半身を持つ魔獣が躍り出た。
「ヴ、ヴイーヴル……!? まさか、まさかそんなっ!」
「おい……おいおいおいぃかんべん、してくれ……っ」
イーシャ卿が市壁上から身を乗り出し、餓狼も大口を開けて数歩後ずさる。
さらに数体のキュクロープスが追って現れ、地の魔獣を踏みつぶす。巨大な女王を護衛する、巨人の集団。
巨人一体ですら兵士には太刀打ちできず、市壁を易々と破壊されたのだ。
街へ迫る大型の魔獣に抵抗の意思は四散し、絶望が身体を支配する。
「っなんだこいつら? こんなになっても……いや、他の魔獣もか!?」
餓狼が殴り倒したミノタウルスの異変に気がつく。
意識が残っていたのか伏していたミノタウルスが、それでも女王の下へ行こうと体を震わせていたのだ。
暴走していた魔獣も方向を変え、砂糖にたかる蟻のごとく殺到していた。
「先ほどの雄叫びに呼応してる? ヴイーヴルはその真紅の瞳で欲望を増幅させ、精神を操ると文献にありますわ!」
「なんだねーちゃんの同類か」
「聴こえてますわよっ!」
「風舌」で伝えられた魔獣暴走……細かな状況までは難しかったのだろう、或いは市民の避難を最優先したのか。
だけどおそらく、全ての魔獣を操っていたのはあのヴイーヴル。
散発的な襲撃だからこそ、膂力の増さる魔獣相手でもなんとか対応できている。
なのに統率されてしまったら、どれほどの犠牲が……犠牲で済むのだろうか。
「思案は生き残った後でいい、どの道倒さなくては国が滅びます! 餓狼――…」
「おい……なんだアレ、只人……か?」
「いっいやまさか……だってあれは、巨人だぞ!?」
その時呆然と見上げるしかできない兵士にあって、何人かが気づいた。女王の首から胸元に揺れる、ペンダントを思わせる赤い糸。
炎の鞭を振るい抗する、黄金色の髪の少女の姿を――。
「――っ!?」
イーシャ卿から、溢れ出るほどの『カルマ』が放たれる。
『なにもなかった土地に、黄金色の麦が踊る』
錫杖の先端、輪になった部分に見慣れない文様が浮かび、淡く発光する。
一小節ごと波動が膨らみ、声の届かない距離まで覇気を巡らせた。
市壁上の衛兵、街中で戦う兵士、隠れて震える市民。誰もがなぜか無視できず、声の発信源に注視する。
それはヴイーヴルに集う、魔獣の意識も同じ。
『遠く見上げた先に、かつての風景が浮かぶ』
深淵を望むガーネットの瞳、薄紫のコタルディを着た女性が、市壁の上に立つ。
『今日もまた夜がくる、ベッドを探さなきゃ』
「……っ歌声? こんな時に、誰が」
「これは……O属性の、福音!? イーシャ卿か!」
ジャーレーの獣耳が聴こえるはずのない歌をとらえ、ブリハスパティ卿が気づいて即座に補足する。
「インガハクの、御1人ですか?」
熊が笑いながら頷き、姉は一応の安心を見る。
でもなぜだろう、どこか泣いているみたいな旋律――。
『絶望があきらめを包んでる』
『あと少し、もう少し』
「インガハクの、赤い瞳!? ブリン……熊のおっちゃん、ダメっ! なんとか、どうにか止めさせてっ!!」
だがジャーラフは北門への一点を見つめ、蒼白になりながら絶叫する。
彼女にだけ見える、生物の淡い光。
『なにもかも足りなくて、ひとつだけを望んだ』
『誰かが叫んで、誰かが喘いでた』
「大丈夫落ちつきなさい。これは福音といって、意識の操作深度を深める――…」
『やっと今、ほうら今』
「違う違う、これじゃあショウフから聞いたバンシーだ! 歌えば歌うほど意識が薄くにゃって……光りが、ひび割れてく……っ!!」
『なにもなかった土地に、黄金色の麦が踊る』
『なにもなかった土地に、黄金色の麦が踊る――』
「「力」が暴走してるんだ! 限界に達して、ぶっ壊れちゃう!!」
『道理に反する者よ! 門前にて塞ぐ道反、常世を隔て生気を止めよっ!!』
「血尿が出た」前編
平たく言うと、血の混じった小便が出た。
目を疑い便器をよくよく見たけど、やはり赤い血が混ざってゐる。
心臓が跳ねあがるとはこの事か。
嘘であってくれと何度も見て、拭いて目に近づけ確かめる。
赤い……正確にはピンクっぽい。
そういえば下腹部が痺れてるような……かすかに圧迫されてるような……。
たまたまだろうと自分を誤魔化す。
学生時代柔道をしていたけど、大して真面目でもなくスパルタでもなく。
生まれて初めての血尿である。
まんじりともせず、ただ時間だけが過ぎてゆく。
意識を集中して別の事を考えようとするけど、気が付けば血尿……。
気が付けば、血尿。
こんな時に限って尿意が近い。
トイレに行って、覚悟をしてパンツを下げる。
覚悟をしてパンツを下げるなど、生れて初めてではなかろうか。
かくしてまたもや、血が混ざっていた。
これはもうアカンと、病院へ行く事を決意する。
調べたら泌尿器科がある病院の診療受付は午前中のみ。
今昼過ぎ……。
決断の遅さに我ながら悶える。
尿意よ来ないでくれと祈りつつ、翌朝病院へ飛び込んだ。
「問題はないと思うけどねえ」
尿を取り血液検査など、一通り調べた結果である。
医者が言うのだからそうなのだろう。
なにしろ尿道カテーテルまでしたのだ。
どんなのか体験してみたい、ちょっとした好奇心はあったと思う。
産婦人科にあるような――実物は見た事がないけど、診察台に座る。
下半身丸出しで脚を広げ、お腹の辺りをカーテンで仕切られた。
ゴム管みたいのを先から――むっちゃ痛い。
「はい、ちょっとガマンして~」
閉じている部分をこじ開けるのか、地獄の痛みに歯を食いしばる。
「これが最後だからガマンして~」
最後って、2度ほど言いませんでした?
もう一度やれと言われたら、息を呑んで蒼白となるだろうな。
検査では水を流して洗うそうで、ずっと小便が出そうな感じがした。
内部の写真を見せて貰う。
自分の中はこうなっていたのか……。
ピンク色の肉……何だろうこの感覚……何と言って良いのか悩む。
色々相談した結果、心の平穏のためMRI検査をする事になった。
これもまた、人生初である。