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M属性 ~嗚呼、あなたに踏まれたい~  作者: 高谷正弘
第四章 霊山モルディブ
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百九夜 魔獣暴走ノ4

「短剣なんてなあ消耗品だ、折れたり刃が欠けりゃあ取っ変えた方が早いんだよ」

「ムカッシュヴァナーサナ卿、それは思い違いだ」

 短剣――武器は獣の牙や爪を持たぬ我らに、神が授けてくださった宝なのだ。

 そして時には、我が身を護る防具にもなり得る。

「感謝し尊ぶ心が「偸金(ちゅうきん)」をして、数度の返還を可能にする鉱石を――…」

「ああうっせえうっせえ、説教なんてまっぴらだ!」

 背を向けことさら耳を塞ぐ餓狼に、ブリハスパティ卿はあくまで優しく諭す。

「そうだな……ムカッシュヴァナーサナ卿、よく聞きなさい」

「その長ったらしい爵位号を連呼するな! ムカつくなぁてめえ!」

「おおすまぬ、ではムカッパラ卿」

「喧嘩売ってんのかっ!!」

 狼と静かな熊の、愚にもつかないやり取り。

「殿下が大変な時に、こいつらは……」

 少しばかり離れた場所で、イーシャ卿が盛大にため息をつく。




「ふむ……手に馴染む、卿の手腕は見事だな」

 優美な革の鞘から騎馬鞭を抜き放ち、ヴィーラ殿下が賞賛し微笑む。

 先端のフラップに埋め込まれた赤い鉱石が、主を得た喜びで瞬いている。

「下知を受けた鞭の他に、宝飾品として備えれるよう多様な種類もそろえました。どうぞ御納めください」

 ブリハスパティ卿が主君に拝し、持参した荷を恭しく献上した。

 魔獣討伐に際し滞在している、領主の館。

 椅子の横に配した小さなリビングテーブルに、カットされた鉱石が広がる。

 それは一見して大粒の宝石。そして収取家ならば目の色を変え跳びつく輝きと、言い知れぬ気配を発していた。

偸金(ちゅうきん)」によって製作された御業――『カルマ』を封じた鉱石である。

「急がせてしまったのではないか、すまぬなブリハスパティ卿」

「とんでもございません、お気遣い感謝いたします。殿下のためならばなによりも優先させるが所存」

「うむ、これでどうやら間に合った(・・・・・)

 少女の物言いに違和感を感じれど、熊は己の勤めに意識が向いていた。

「しかし本当に、騎馬鞭でよかったのだろうか……剣や聖職者を表す権杖の方が、殿下の権威をしめすには相応しいと思うのだが」


 ――「鞭」は古代ローマ時代から、すでに記録が残されている。

 元は畜産用の農具であり、家畜に命令する用途として製作された。棍棒や刃物で傷つけては病気やケガの元となり、動物の育成に適していない。

 鞭で地面を打ち、音と衝撃で操ったのだ。

 いつしかそれが人間に、罪人や奴隷に対しての刑罰へ使用されることになる。

 当然人に対しては、直接肌へ振るったのだが……。

 だがこれはある意味、家畜への配慮と同質の意味がふくまれていた。棍棒で打てば骨が砕け、刃物で斬れば血が流れ、命の危機へと直結してしまう。

 鞭の攻撃対象は「肌」であり、即座に死へ至る傷とはなりがたい。

 動物と同等の扱いを受けさせ、人としての尊厳を奪う。数度の鞭打ちで気絶するほどの激痛と悲鳴が上がり、肌に残る蛇の巻きついた痕。

 罪人や奴隷への刑罰は見せしめとして、領民に広く公開されたのだ。

なるべく(・・・・)なら生かす」――苦痛により、意識の改革をもたらす抑止力。


「暴力を持っての抑制……戦争を経験したことのない私に、それを肯定はし辛い。しかし道理をともなわない者へ、他にどんな対処が行えるのか」

 非才なる身には、想像すらつかない――。

 ブリハスパティ卿の瞳に、宝飾品をかざし年相応の物思いにふける殿下の姿が、愛らしくも悲しく映る。

 国をその身に背負う少女に、助言できる者がいようか。自ら矢面に立つ少女に、間違っていると諭せる者がいようか。

 因果伯として、身命を賭してお守りせねばならぬのだと固く心に誓う。

「この御方にこそ、鞭は相応しいのかもしれない」

 それでも血を流す剣を、佩かなかった少女にこそ――。

「殿下は体調が優れないとうかがいました、僭越ながら按手(あんしゅ)を行いましょうか?」

 ブリハスパティ卿の提案に、ヴィーラ殿下は珍しく言い淀む。

「いや……コレ(・・)は病気やケガではない。以前よりマナスル卿にしつこく講義され、一応の手当てはしていた――が我が身とならねば、理解できぬ事例というべきか」

 世にはまだ、数多くの理が蔓延している――。

 軽いため息は、身に起きた戸惑いか未知への不安か。

「はっ……であれば、いいのですが……」

 要領を得ず静かに押し黙る熊の姿に、少女は目を細め喉で笑う。

「卿は属性の技術以外、存外に不器用だな。妹御の時には察してやれよ、不作法者の誹りを受けようぞ」

「えっ……いえアレ(・・)は私などには計り知れません。自由奔放に動き回る雲や猫は、いずれも制御不能といいますか……」

「ほうそのような娘か、一度会ってみたいものだ」

「でっ殿下がお会いになるほどは……そうこのたび弟が騎士学校に入りまして! いずれは国王直属の騎士団に――~…」

 今更だが妹には、教育をほどこす大人が必要ではないのか……。

 ふいに出た妹の話題。ブリハスパティ卿はどうやって不敬なく断ろうか、焦りが巨漢の背に冷たい汗を流す。


「――クシュッ! てやんでい、べらぼうめっ!」

 その地より遥か南で、褐色の領主が盛大なクシャミを発していた。



「申し訳ございません、アカーシャ様をお見掛けいたしませんでしたか?」

 殿下の居室から退出したブリハスパティ卿の背に、乳母が声をかける。

「いや私は見ていないな、いかがされました?」

「手習いの最中、ふとお姿を隠してしまわれて……此度はヴィーラ殿下が滞在され普段より訪れる方も多いですし、めったなことにはならないと思うのですが……」

 魔獣の存在が近いと、気に病んでしまいます――。

 探し回っていたのだろう、首筋に汗が浮かんではいる。しかし張りのある声には気品と誠実さがうかがえた。

「確か侯爵令嬢は4歳でしょう、連絡もせず外に飛び出す年齢とは思えないが……いや逆に、気掛かりともいえますね」

 その行動力に妹を思い出し、ブリハスパティ卿は深く頷く。

「心配ばかりかけるのは、どこの令嬢も同じ――あっいやこれは、失礼しました」

「そのために私どもがいるのですよ」

 思わず出た熊の愚痴に、乳母の矜持を持った微笑が返る。

「なるほど、確かにそうですね。乳母殿私も見て回ろう、因果伯(なかま)にも知らせます。なにか思い当たる件はありますか?」

「ありがとうございます、些事ではありますが……そういえばと」

 乳母は背筋をただしてから会釈し、頬に手を当て思い返す。

「アカーシャ様は不思議な言動はあれど、幼少よりとても物わかりのいい方です。それがここ数日、十分に眠れないのか夜泣きを繰り返しておいででして――…」


「乳母の手を、煩わせるものではないな」

 廊下の声が聞こえたのか、少女が銀のゴブレットを傾け独り言みたいに呟いた。

 返事をするように、ベッドの影からヒョコリと赤いくせっ毛が現れる。

 アカーシャ嬢が、巨大な毛織の掛け布団に隠れていたのだ。

 騎士を威圧するヴィーラ殿下に物おじもせず、トコトコと近寄ったかと思うと、対面の椅子によじ登って相対。

 それは子供ゆえの無知か、炎の瞳を超越した意思か。

 侯爵令嬢と王太女の視線が交差する。

「ふふっ……そうだな、乳母に声をかけなかった私も共犯だ」

 戦いがあった訳ではないが、少女の方が瞳を伏せた。

 銀のゴブレットを傾け、赤ワインをふくんで微笑む。鎮痛剤代わりの飲み慣れぬお酒に、頬が染まり軽く頭が揺れる。

「……いたい?」

「いや、不快ではあるがな。ずいぶんと(・・・・・)先輩な女性から今後の話も詳しく聞いた、不安が解消された分気は楽だ」

 興味があるのかないのか、幼女が無表情のままうなずく。

「赤ワインだ、眠りが浅いのなら飲んでみるか?」

「ん――~…コホンコホン」

 アカーシャ嬢が差し出されたゴブレットに鼻を近づける。

 匂いを嗅ぐが強烈な香りにむせたのか、軽く咳き込んで手を振った。

「うん……私にも今はまだ、ただのアルコールだ。常飲すれば、これが美味しいと感じるようになるのかもしれぬがな」

 私の乳母は――今は家庭教師だが、お酒が好きで酔っては上機嫌に踊っていた。

 ワインを単なるアルコールだと告げれば、眉をひそめ睨まれるやもしれん。

「そう不思議な顔をせずともよかろう? 私にだってお前と同じ歳はあったのだ。乳母に広い世界の話をしてくれと、よくせがんだものだ」

 黄金色に輝く髪が光のオーブを舞わせる。

 炎の瞳が虚空を見上げ、当時を思い出したのか微かに揺れた。

「……ひろいせかい」

 幼女は少しばかり混乱し、伝える言葉を見失う。

 子供は大人以上に、周囲の反応に敏感である。かけ離れた存在だと聞く少女が、自分と同じだと笑うのだ。

 意識がそらせず、唇が対面の笑顔をトレースしかけた。

「さて、そろそろ教えてくれるかな?」

「――っ!?」

 突如瞬きすらしない瞳に見据えられ、アカーシャ嬢は息を呑む。

 ガラスを光らせた陽光が、部屋に複数の陰影を浮かばせ踊らせる。その微笑は、まさしく女王(メデューサ)

「まじゅう……の意味を」


 それは賞賛すべき早業であった。

 幼女が脱兎の勢いで駆け出し、扉前に立つ巨漢の騎士が抑止を叫ぶ前に消える。

 安全を確かめるべく部屋に飛び込んだ騎士に、少女はなんでもないと手を振って椅子に深く腰をかけた。

「――くっ……あはははははははっっ!!」

 喉元で辛うじて止めていた震えは、扉が閉まると共に弾ける。爆笑と呼べる声は護衛の騎士にとり、衝撃を与えるに相応しかっただろう。

 少女が虚空に描いた、かつての情景。

「あの日、私も4歳だった……もう6年も、経ってしまったのだな」



 ☆



「ヴィーラ殿下にこの質素なもてなしは……不敬にお感じになりませぬか?」

「私は陛下の代理で、戦場へ赴くために参ったのだ。領主の館でゆるりと滞在している方が、首を傾げたくもなろう」

「はっはっはっ……殿下の玉体あればこその国、さような者はおりません」

 軍議を行った部屋と同等の広さに、晩餐の「果てしなく量が多い」料理が並ぶ。

 10数人が余裕をもって座れた部屋。件のヴィーラ殿下とトゥランガリア侯爵、因果伯3名には十分すぎるほどであった。

 餓狼がわざとらしく離れて座り、挨拶もそこそこに肉をつまみ食べ出したので、イーシャ卿の怒気が部屋に蔓延してはいたが……。

 本来であればホールに食卓テーブルを配し、殿下に目通り願いたいと詰め掛けた領内の諸侯を招いての、大々的な晩餐会の予定。

「殿下の体調が思わしくありません、今は静養を第一にお考えくださいませ」

 イーシャ卿の進言により、格段にレベルダウンせずにはいられなかったのだ。

 領主の館前に集った数十の騎馬と馬車が、どこか寂し気に帰路へつく……。

「ああ、その……殿下、御体の調子はいかがですかな?」

 トゥランガリア侯爵が空気を変えるためか、上座に座る少女に声をかけた。

 贅を凝らした料理と香辛料が溢れる山に、伸びない手が不安でもあったのだ。

「おや侯爵には気を使われてしまったな。幸い神のご加護があったのか、どうやら明後日には回復するそうだ」

 微笑んで掲げた銀のゴブレットが、蝋燭(ろうそく)の光を受け輝く。目に眩しかったのか、扉の横に控えた騎士の甲冑が微かに鳴る。

 イーシャ卿は騎士の動きに気がついたが、主君への目がそらせなかった。

「おおそうですか、明後日には。私ども領民の願いが天に届きましたなあ、どうぞごゆっくりとお寛ぎください」

 そうそうせっかくいらしたのだ、回復の暁には森で狩猟に興じたいものです。

 殿下の狩った鹿や猪が振る舞われると知れば、領内はおろか周辺領からも貴族が殺到いたすでしょう。

「本日集った諸侯もうらやむ、我が領地に刻まれる誉と相成りますなあ」

 幾度も頷く侯爵に反して、少女はどの部分に対してか苦笑を返答とした。


 ――欧州において、狩猟は王侯貴族の特権である。

 馬を駆って獲物を追い立てる娯楽であり、婦人をともない武勇を誇ってしめし、毛皮と新鮮な肉の実益も手に入れた。

 従者が連なり荷車が天幕や生活用品を運び、数日にも渡り行われる最大の遊戯。

 12世紀のイングランドでは、三分の一が国王直轄の森だったと記録に残る。

 領主が許可した狩人しか獲物を捌けないが、鹿肉の魅力に勝てず密猟が横行し、厳しい罰則も処されていた。

 森は猛獣が住まう危険な世界であり、恵みを与えてくれる尊き世界。

 そして貴族の、領主の財産だったのだ。

 13世紀から伝承に登場し、設定が形作られていったロビン・フッドの冒険。

 長弓の名手でシャーウッドの森を根城に、貴族や僧侶から金品を奪う義賊。

 これは上流階級が支配する森に、臆せず立ち向かう者……時代背景から生まれ、悪政に苦しむ庶民が求めた物語である。


「ブリハスパティ卿は所領を拝しておるそうですな。因果伯殿を領主に迎えられ、領民も安心して営めれるのではないですかな」

「未だ若輩の身です、どこまで目が行き届いているのかと心苦しくもあります」

「他国との交易が盛んだそうですな、内陸とはまた違う悩みもありましょう」

「特に移民となる亜人問題ですね。湾内の仕事には欠かせない存在ですが、常識や生活習慣の違いが確執を深めてしまうようで……」

 そうでしょうなあ、生活習慣といえば――トゥランガリア侯爵が、静かな熊ことブリハスパティ卿と所領経営の談義を行う。

 親子ほど歳の離れた間であり、他に共通項がなかったともいえた。

 餓狼は他を完全に無視して食い漁り、はなっから対象とされてはいなかったが。

「殿下このような場で不躾ながら、申し上げたき件がございます」

 イーシャ卿が、ヴィーラ殿下にだけ届く声で言上する。

「御体の変質は……後数日は続くと思われます。それに数年の間は不定期となり、不安をお感じになられる場合もありましょう」

 殿下が明後日には回復すると期待されており、危惧にならぬかと配慮したのだ。

「案ずるなイーシャ卿、卿の助言を忘れてはいない」

 ゴブレットを軽く回し、アルコールの香りを確かめる。

「侮られぬための方便だ、なんと体の弱き王族よと思われては国の名折れだろう」

 後日になれば分かれど、悪あがきだな――いたずらっ娘が目を細め、イーシャ卿と視線を交わす。

 現陛下がご病気なのは周知の事実、ことは殿下だけに留まらない。

 ましてや次世代を望まれる王太女の一件なのだ。軽々に言葉にするのも報せるのすらためらわれる事案に、イーシャ卿の意識は柔軟さを欠いていた。

「そっそれは考えに至りませんでした、申し訳ございませんっ!」

 その言葉だけ若干高く、焦って口を塞ぐも遅かった。護衛の騎士が聞きとがめて視線を向けている。

 主君が喉で笑っており、イーシャ卿は頬を染めて居住まいをただす。


「今年は特に小麦のできもよく、豊作でして――」

「ちっ……黙って聞いてりゃあ小麦のでき? てめえが育てた訳でもあるまいに、なにをでかいツラしてんだ」

 餓狼が嫌味を放り出す勢いで、口に残った骨を吐き捨てる。

 口の端を上げた揶揄は、トゥランガリア侯爵に向けられていた。

「ムカッシュヴァナーサナ卿っ! 言葉を慎みなさいっ!!」

 さすがにこれは看過できず、ブリハスパティ卿が声を荒げる。侯爵は王位継承権を持たぬとはいえ、その権威は騎士団を有する大貴族。

 王族を除けば、国家の最高位にあたる存在。

 因果伯は得がたき「力」――『カルマ』を啓く者として一定の敬畏は持たれど、立場的には宮中伯と同様の伯爵位。

 敬意をもって接しなければならない地位の差。

「はっ爵位がどうしたってんだ! そんなに貴族様が偉いってんなら、役に立っている所を見せてみろ!」

 宣戦布告に匹敵する餓狼の言動に、イーシャ卿も口を拭い睨みつけた。

 空気すら重圧を与える空間をものともせず、止まらぬ狼の咆哮が轟く。

「例え凶作でも貴族は税金を搾取するだろうが! それで飢えたガキや絶えた家がどれだけあるか知ってんのか、てめえらは盗賊となにが違うってんだっ!」


「貴族は農民を喰いもんにする盗賊だ! 喰われる側の怒りを、一度でも味わったことがあるってのかっ!!」


「とっ……とっとととぉ――~賊ですとをっ!?」

 貴族を盗賊だと揶揄する最大限の暴言に、トゥランガリア侯爵が鶏と化す。

 それは庶民の声ではあったろう、しかし集う者は皆生まれながらの貴族である。

 貴族の庶子ではあるが出自が農村の餓狼を、理解できようはずもない。

 権威に唾を吐きかける、反社会的思想――危険思想家。彼が因果伯でなければ、すぐさま衛兵が呼ばれ捕縛投獄も十分あり得た。

 思考がともなわず即座に行動にも表せず、貴族たちは静止した世界で息を呑む。

 だがイーシャ卿だけは蒼白となり、歯を食いしばり唇が震えている。その理由を知るのは、おそらく彼女の主君だけだろう。

「ふむ……なるほど、爵位の廃止案か」

 意外なほど冷静な言葉が、件の上座から発せられた。

「でっ殿下!?」

「なにを驚く、国の変革を思索するは王族の義務。むしろ危機感の欠如を放置し、対処が後手となっては緩やかな自殺に他ならない」

「いっいやこれは殿下……深い考えでござりましょうが、そのようなことを……」

 めったに口にすべきでは――勢いを失った言葉が、音になる前に掻き消える。

 トゥランガリア侯爵にとって、爵位は絶対の理であった。朝に日が昇るほどに、水が高きから流れるほどに。

 しかし最高位である王族の、次期国王から崩壊の鐘が鳴り響く――。

「ムカッシュヴァナーサナ卿、なれば己で国を興すか、奪うしかないな」

「俺が……俺の、国を?」

 想像もしていなかった発想に、餓狼の意識は一瞬空白となる。

 ためらいは疑問となり……そして誑かしているのではと、怒りが体から淡い光をうっすらと立ち上らせた。

 ついた手が震え、テーブルが盛大に悲鳴を上げる。

「おい、てめえ――…っ!!」

「そして国を成すため盗賊に喰われる以上の血が流れるだろう。あおぎ見た親の、背に負った子の、手を取った友の……剣を突きつけた敵の」

 大地を赤く染める、想像もできないほどの血が――。

 餓狼は言われるままに、そして望むままに盗賊を殴り蹴散らしてきた。因果伯となってからは魔獣も加わったが、変わらずその身体に刻み込んでいる。

 己の血塗られた腕と、目に焼きつく血だまりを。

「国興しか国盗りか……成せるなら、吟遊詩人が伝説として謳い上げよう英雄譚。果てるなら、バカな狼がいたものだと「狐物語」の一編に編入するだけ」

「ヴィーラ……殿下?」

 未知なる経験に戸惑っていた少女ではなく、悠久の年月を感じる賢者の物言い。

 王太女であり、王族であり、主君であり、年若い少女であり――。

「御そばにいればいるほどに混乱する……この方は一体、何者なのだろう」

 部屋に集った者たちはいちように理解不能な恐怖を感じ、背筋に汗が伝った。


 格式のある場などで着ている、腰から奇妙に膨らみ裾がたなびく白い衣服。

 足元から赤き影が這い上がり、足首から膝へ、膝から腰へ、さらには胸元へ……黄金色の髪すら赤く染め上げていく。

 唯一炎の瞳だけが、怪しくも美しい世界で瞬いていた。

 覚悟あるならば成してみよ――。

「王は血の海から生まれ、味方の屍を積み王宮を建て、敵の骸を砕き領土とする」



「イーシャ卿に、謝罪しておくがよかろう」

「……なに?」

 イーシャ卿は主君の身を整えるのに奔走し、ブリハスパティ卿は因果伯の失言をトゥランガリア侯爵に詫び、アカーシャ嬢の安否を窺いに連れ立つ。

 仕方なしに主君の部屋までついてきた餓狼に、意外な言葉が投げかけられた。

「イーシャ卿は、辺境の貴族だった」

 蝋燭(ろうそく)が部屋のガラスを反射し、黄金色の髪に複数のオーブを生む。

 泡と弾けた光が、見知らぬ情景を浮かばせる。

「祖父の代では格式ある旧家だったそうだが、経済的な要因で没落。庇護下に納めていた貴族を頼り、所領の継承を許可される」

 与えられたのは貧困に喘ぐ農村であり、十分な税収は見込めない。貴族にとって商業に手を染めたり、税収以外で資産を得るのは卑しい行為。

 領主となった父も幼きイーシャ卿も、鍬を取って自給自足を余儀なくされた。

 農耕によりひび割れた手の平や落とす汗は、農民となに一つ変わらない。

 父は自分の身を削っても、娘には貴族としての嗜みを教え込む。おそらく教育をほどこすことで、貴族として最後の矜持を繋ぎ止めていたのだろう。

 日ごと美しく育ち、聴く者全てを魅了する歌声の娘だけが、父の自慢だった。

 その姿を誰が領主だと、貴族だと分かろう。身を寄せ合って暮らしていたのだ。

「そんな農村に、盗賊が目をつけた」

「――っ!」

 餓狼の両目が見開かれる。

 仲間が血に伏すそばで、剣を掲げて笑う悪意。自分がもっと早く駆けつければ、守れたのではないのか――。

 かつての自分を思い出し、左頬の傷が疼き眉をひそめた。

「イーシャ卿の父は農民と変わらぬ生活をしていながら、領主として盗賊に交渉を求め立ち塞がったそうだ」

 何年も振るわず、しかし捨てることのできなかった剣を手に。

「奴らに交渉なんか、通じる訳ねえだろ! 手あたり次第奪われるのがオチだ!」

「そうだ村民が逃げるまでの、時間稼ぎをしたのだ」

「っ!?」

 貧困地では奪える物などたかが知れている。健康な男を奴隷商に売るか、欲望の捌け口として女を攫うのは目に見えていた。

 意外にも正式な剣技を目の当たりにし、盗賊は交渉に応じざるを得ない。

 気がつけば人の気配が消え、慌てて村へ雪崩れ込んだが空き家だけを目にする。

 獲物に逃げられた盗賊は、怒り狂ったのだろう……数日後に近隣から駆けつけた自警団が、農村に残された惨劇を目撃した。

 黙秘を貫き数え切れぬ刀傷受け、惨殺された領主の姿を――。

「イーシャ卿は、声が枯れ喉を潰しても、歌い続けたそうだ」

 父の好きだった歌が天へ届くように、村民は無事だと安心して貰えるように。

 完全世襲の条件で叙勲されておらず、爵位は返還される。

 所領は没収され遺産の相続も願えない。頼るべき者も帰るべき場所も全て失い、あてなく幾日もさすらう。

 絶望に膝を折り、父に逢える歓喜の喘ぎ声に――『カルマ』が啓く。

「バンシー……」


 ――バンシーは死を予見し泣く、女の妖精である。

 出産で命を落とした女性の霊とされるが、少女や老婆姿でも伝えられた。

 死を間近にした家のそばに出現し、死人の想いを受け泣く。

 格式ある家や徳の高い家に現れるとされ、名家で葬儀が執り行われた場合などはバンシーが泣いていたと囁かれる。

 泣きはらした瞳は、赤く染まっているという。


「貴族にも色々あるのだよ、肝に銘じておけ。なあムカッシュヴァナーサナ卿?」

「……っふん!」

 少女に見つめられ、餓狼は頭をかいて視線をそらす。

 かける言葉も文句も思いつかず、ただソワソワとした気持ちだけが沸き上がる。

「無暗に咬んで抵抗していたのに、優しくされ戸惑う獣だな……」

 少女の瞳に、威嚇して歯をむき出しにする馬の顔が思い浮かぶ。

 子供の頃、弟が子馬を貰い乗馬を習っていた。羨ましくてコッソリと背に乗ってみたら、暴れて見事に振り落とされる。

 悔しくて殴りつけ、子馬と大喧嘩になった思い出。

『ぼくが見てるから、友達だと思ってそっと撫でてみて』

 重ねられた記憶が、陽炎に反射し薄く揺れた。

「詫びが嫌なら、イーシャ卿の護衛をしてみぬか?」

「はあっ!?」

「イーシャ卿――O属性は確かに得がたき資質だ、しかし身体的には常人と何一つ変わらんのは知っておろう」

綺人(きじん)」は、最恐を冠する「力」である。

 最強の盾にも矛にもなるが、判断を間違えれば一兵卒の短剣にも劣る。

「私に雪辱戦を(リベンジ)したいのであろう? お主は背に守るべき者がいた方が、その資質を開眼できる気がするのだがな」

「気がするって……はっ! S属性の「予感」なぞ、当たりゃしねえだろ!」

 どうにか絞り出した悪態だったが、見透かされた瞳で見つめられ言葉に詰まる。

「っ今んとこはてめえが主だ! どうしてもってんなら、命令すりゃあ――…」

「――失礼いたします、ワインをいただいてまいりました」

 イーシャ卿がノックの後、陶器の水差しを携え入室してきた。

 相対している2人を見とがめ頬を引きつらせるが、殿下の手前言葉は伏せる。

「ささっ殿下、御体が冷えてしまいます。ベッドでお休みくださいませ」

 あえて餓狼は無視し、少なくとも表面上は恭しく少女を誘う。

「気が利かない」と、嫌味のこもった気配を誰かに突き刺していたが。

「ああ、うん……後は任せた。俺は周辺の警備でもしてくら、じゃあな」

「え……ええ、お願いしますわ」

 餓狼の物言いは変わらないが、どこかに違和感を感じてイーシャ卿が振り返る。

 合うとは思わなかった視線が交差し、口を開きかけた餓狼が退出していく。

 廊下で舌打ちと、なにかを蹴り上げる音が木霊した。

「殿下なにか、あの狼を諭されたのですか?」

「立ち位置が異なれば気がつきにくいが、案外同じ景色を見てるのかもしれん――程度の話だ。貴族は盗賊と同じ、中々に興味深い比喩ではないか」

「御戯れを……」

 スルリとベッドに滑り込んだ少女が、面白そうに感想を述べる。

 餓狼の話題は広げたくないと、イーシャ卿が頬を膨らませベッドを整えた。

「そろそろ自立してもらわねば、困るのだがな」

「まったくですわね!」

 ため息と共にこぼれた呟きに、憤った声が返る。

 それはどちらに対してだったのか――掛け布団に隠れた口元が、笑っていた。



「ご注進! ご注進――っ!!」

 ――早朝領主の館に、伝令が駆け込んでくる。

 一刻も早く報告せねばと、執事の対応もそこそこにホールで大声を張りあげた。

「ゴ……ゴブリンばかりではございません! 大型の魔獣が、現れましたっ!!」

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