百七夜 魔獣暴走ノ2
「餓狼っ! あなた、護衛の意味知ってます!?」
薄紫のコタルディを着た女性の詰問が、館の薄暗い廊下を叩く。
傷の男は面倒くさそうに背を向け、無視して歩を進めていた。
太い革ベルトの腰裏に差した2本の短剣が存在を主張していたが、女性は気にも留めずその高い背にさらなる追及の刃を突き刺す。
「ヴィーラ殿下を馬車に残し、主命を放棄しての単独行動っ! あまつさえ魔獣の討伐に集った騎士団と騒ぎを起こして、どうするつもりですか!!」
「うるっせえなあ、って――かそもそもあいつに、護衛なんか必要ねえだろ」
「あい……っ!? でっ殿下に対し奉り、何事ですか不敬なっっ!!」
女性は前に回り込み錫杖をかざし、男の歩みを無理矢理止める。
「そこまで忠誠を誓うのがお嫌なら、爵位を返上なさればいいでしょう! 私とて主命でなければ躾のできていない狼の面倒など、みたくもありませんっ!!」
「はあ……」
男は息を吐くと指二本でコタルディの胸元をつまみ、軽々と壁に押しつけた。
顔の高さを合わせ、女性の足が浮く。
「キャンキャンわめくな貴族のねーちゃん。俺はまだ負けたと思っちゃいねえ……あのクソガキに、雪辱戦をかまさねえでいられるかよ」
しかし女性も負けじと、輪になった錫杖の先端を男の顎に押しつけている。
「……代わりに、私がお相手して差し上げますわ。尻尾を後足の間に巻き込んで、負け犬に返還された姿は見ものでしょうね」
男の体の内から、淡い光がうっすらと立ち上っていた。
女性の口内から、淡い光がうっすらと瞬く。
2人はまばたきすらせず、その視線は言葉以上に雄弁な意思を語っている。
一触即発。
「ひ……っ!」
遠く柱の陰から恐々と見ていた使用人が、小さく悲鳴を上げ逃げ出す。
気配の光が地響きを呼び、臨界点へと高まり――。
石畳にメトロノームを思わせる、規則正しい靴音が響いた。
廊下の奥から3人の騎士が現れたのだ。
騒動の渦中にあった巨漢のヘートース卿に、ガッシリとした体格のミッタス卿。
そしてオレンジのプールポワン、バクター卿である。
「よう色男、さっきの続きをやるかい?」
傷の男は女性から手を離し、3人の騎士に向き直った。
女性は軽く咳き込むも座り込んだりせず、呪われよとばかりに男を睨みつける。
「僕はカティーナ騎士団総長、バクターと申します。ムカッシュヴァナーサナ卿にイーシャ卿、先ほどは知らぬとはいえ因果伯様に大変失礼をいたしました」
バクター卿が右手を左胸に、私欲のない見事な会釈をみせた。
「立場をわきまえぬ無礼、どうかお許しください」
「へっバカかてめえ、この俺が立場を掲げて喧嘩なんかするかよ!」
貴族家に生まれ武芸を磨き、騎士数名と百数十人の兵士を率いる正騎士となり、騎士団を結成した若き騎士団総長が、まだ十代の若造へ頭を下げ謝罪する潔さ。
それを餓狼は鼻で笑い、さらに揶揄を込め焚きつけたのだ。
「こいつは……本当にもう……っ」
イーシャ卿がひくつくこめかみを押さえ、叫ぶのを必死に自重する。
『そも騒ぎの発端を作ったのは、お主ではないかあっ!!』
『もう一度吠えてみろ、永遠にその口を閉ざしてやる!!』
控える2人も目を伏せてはいたが、溢れた感情がマグマの勢いで膨れ上がった。
ガントレットが軋みを上げ、食い込んだ手の平から血が滴たり、奥歯が軋む。
「はっ! 申し訳ありません!」
しかしバクター卿は、顔を伏せたまま再度謝罪する。
忠誠、博愛、品格、正義――全てを捧げるのが真実の騎士。
ヴィーラ王国の国政をつかさどり、要である因果伯。最大限の礼儀をもって接しなければならない方々だと固く心に誓っていた。
一切歪むことのない、騎士としての姿勢……。
「ふんっ!」
餓狼は頭を下げるバクター卿へと大股で歩み寄る。
『うがああっ止めるなよミッタ――――ス!!』
『止めはせん、例え破門となれどこの男を斬るっ!!』
ヘートース卿とミッタス卿は、心の内で悪魔と契約を交わす。使い慣れた腰の剣を重さで認識し、抜刀に至る一連の動きを体がトレースした。
しかし槍の間合い、剣の間合い、そして拳の間合いでも男の足は止まらず――。
「――――……!」
「――っ!?」
バクター卿の耳元で何事かを囁くと、騎士を体現した姿が歪んだ。
頭を下げたまま、額にシワが寄り頬に汗が伝う。
「じゃあ、またな」
「あ……っいえムカッシュヴァナーサナ卿、軍議の準備が――…」
餓狼はバクター卿の肩を叩き、口の端を上げ廊下を進んでいく。返事もせずに、後ろを向いたまま手を振った。
ヘートース卿とミッタス卿は、バクター卿の戸惑う姿を初めて見たのだろう。
男への怒りも忘れ、長きつき合いとなる同期に目を奪われる。
「うが……バクターどうした?」
「あいつがまた、喧嘩を売って行ったのか!?」
「いや……いや、大丈夫だ」
その動揺は瞬時に回復せず、バクター卿は言葉を濁す。
「申し訳ありませんバクター卿。因果伯としてあの駄狼に変わり、謝罪します」
「まったくだ、どこの山から拾ってきたのか」
「おい止めろヘートース!」
イーシャ卿が申し訳なさそうに頭を下げ、薄紫のコタルディがはためく。
餓狼の態度に感情が燃え上がり、怒りに身を任せてしまう所だった。自己嫌悪に深いため息をつき、少し乱れた髪を整える。
「いえ、こちらこそ……軍議の準備が整いましたので、ご足労くださいますよう」
バクター卿がイーシャ卿をともない、石畳の廊下を歩く。
しかしメトロノームを思わせた靴音が、少しばかり狂って響いた……。
☆
「魔獣――ゴブリンは北東の村より、さらに北側の山中に集落を構えております」
館の豪華な一室に机が並べられ、中都市を中心とした絵画的な地図が広がる。
対面机には主要騎士が10数名と、領主のトゥランガリア侯爵が座り、地図上に状況と想像を浮かび上がらせていた。
上座にはヴィーラ殿下が座し、背後には因果伯2人が控えている。
互いに顔を背け、その距離は微妙に離れてはいたが……。
「モルディブの樹海から、その勢力を拡大する様相を呈しています。斥候の調査によるとその数――その数、約200!」
「おお――――~…」
騎士の1人が報告書を読み上げると、場にどよめきが起きた。
「これは……これは中隊規模の、大集団ですな」
「小型の魔獣はコミュニティを形成するが、今までとはまったく桁が違うようだ」
「時に多くて30……小隊規模でした、認識を改める必要がありそうですね」
「なに多いだけで野犬の群れと変わらん、大型の魔獣に比べれば与しやすかろう」
「まったくです、焼き討ちして追い払えばよろしい!」
騎士の威光を、奴らの足りぬ頭に叩き込んでやりましょうぞ――魔獣の数に口を開けていた侯爵だったが、集った騎士の頼もしさに息を吐く。
しかし衝いて出た「焼き討ち」の語感に仰天した。
「いっいや火はまずい! まずかろう、のうスヴァティシュターナ卿!」
「ホッホッホッ誰も魔獣ごときにたじろがない、実に頼もしき同朋ですなあ閣下」
甥はインペリアル髭を整えつつ、体面に座る叔父に笑いかける。
「小型の魔獣はそれゆえに狡猾な面を持ちます、火をもって当たるは常套手段」
「しっしかし――」
「しかしここは御料林、王の財産でありひいては領民の糧となる地! 炎によって奪うなど、国家の範たる騎士の行いではありますまい!」
瞳は叔父に、しかし全身で己の正しさを語る。
「ご安心ください閣下、騎士の戒律に「須らく弱き者を尊び、かの者たちの守護者たるべし」とございます。けっして不名誉などいたしませぬ!」
「うっ……うむ、うむ!」
トゥランガリア侯爵は汗を流しながらも、興奮し強く頷く。
それは配下の騎士らも同じであり、総長の講演に感銘を受けため息を落とした。
「おお……なんと、なんと深きお考えか!」
「スヴァティシュターナ卿の騎士道精神、我らの導となっております!」
「騎士として常に国家を憂う……感服いたしましたぞ!」
誰もが座したまま礼を執り、上流貴族を表す鮮やかなプールポワンが煌めく。
スポットライトがスヴァティシュターナ卿に反射し、舞台の主役を照らすのだ。
「――ちっ!!」
ヨイショに耐えれなくなったのか、そも耐える気がなかったのか……観客席から分かりやすいほど大きな舌打ちがし、誰もが聞き咎めて注視する。
しかし殿下の後ろに控える因果伯からだと分かり、注意もできず目をそらした。
一方は額を押さえ、一方は口を歪めて睨みつけており……どちらが発したかは、一目瞭然であったが。
だが餓狼の視線はむしろ、手を組みなにも言わない主君に向けられている。
イーシャ卿も思わず確認し、その姿に違和感を感じた。
「殿……下?」
「ゴホン……だが火計が使えず山中にこもられては、騎兵が活かせません」
「ゴブリンどもの集落まで獣道とて期待はできん、まずは道を切り開くしか……」
「手をこまねいてはそれだけ後手となります、いかがいたしましょう?」
話し合いではなく相談でもない、答えであり決定権――神託を待つ信者の姿で、インペリアル髭が再び踊るのを固唾を飲んで待つ。
狼がまぎれてはいるが、すでに「軍議」とは呼べず独演会の様相を見せていた。
「オッホ――ン!」
スヴァティシュターナ卿が満を持して立ち上がり、人差し指を優雅に指し示す。
そこは3つの山が交わる盆地であり、騎馬突撃も期待できる平地。
「会戦はゴブリンどもが巣くう山中よりさらに北方、開かれた平地にいたす!!」
主戦場の中央に騎兵隊を配し、両翼に弓兵隊を敷く陣形を描く。
「分派した歩兵隊に、南より追い立てさせるのじゃ! 200の魔獣であろうと、数倍する歩兵には太刀打ちできん」
山中より逃げ惑う魔獣が姿を現せば、まずは弓兵により矢の雨を降らせる。
騎士の戦いに弓など卑怯の誹りもあろうが、魔獣相手にはむしろ相応しかろう。
牽制をともなう矢を存分に食らわせ、中央に釘づけにし――。
「我ら騎士による、騎馬突撃で雌雄を決すっ!!」
「お……っおおおお――――~っ!!」
地図上に浮かんだ戦場に、セルルス騎士団の軍旗が舞う。
スヴァティシュターナ卿の瞳には、完全勝利の絵図がありありと浮かんでいた。
「なるほど軍隊の優位性を最大に生かすのじゃな! 見事な陣頭指揮、誇らしいぞスヴァティシュターナ卿!」
トゥランガリア侯爵は甥に感心し、大きな拍手と共に幾度も頷く。
配下の騎士たちは山一つを隔てる陣容に感動し、憧れの眼差しを向ける。
「なっなんと! なんと壮大な戦陣でありましょうかっ!!」
「部隊を二つに編成するなど、およそ聞いたこともない見事な用兵術……っ!」
「想像もしておりませんでした、歩兵いかんにっては包囲殲滅もかないますな!」
「すでに勝利は我らが手中! まさしく名将と呼ぶに相応しい采配です!!」
――古代ローマ時代にはすでにあった、「戦術論」といった概念。
ところが14世紀の欧州に至って、そのほとんどが衰退してしまう。
訓練した常備軍など非生産階級をそろえる余裕はない、農民を雇用した戦争では兵科の有用性をしめすのは難しかったのだ。
練度が低く陣形がままならず、兵の士気も高まらなかった。
まずは前哨戦として弓兵が矢を放ち、歩兵が突出。従士を引き連れた騎士による騎馬突撃が開戦の合図となり、一騎討ち等が行われての決着が基本となる。
味方の矢を受け、味方の騎馬に追突され、勝手気ままに行われる戦闘……戦場は「乱戦」と呼ぶに相応しい有様にまで退化した。
スヴァティシュターナ卿が提唱する、兵科を個別に配する有機的な連動戦術は、この時代において画期的な用兵といえる。
しかしこの「妙手」を新米騎士が唱えても、一笑に付されるだけだろう。
誰が訴えたか……どの時代であっても、これは重要な意味を持つ。
「後世に語り継がれる戦となりましょう! 参戦できるだけでも我が家の誉れ!」
我先に賞賛する側近に、スヴァティシュターナ卿は落ちつきなさいと手を振る。
当然の評価に胸を張るが、地図を睨み動かない末席に座る騎士に怪しんだ。
「ホッホッホッ……おやバクター卿、なにかご意見でも?」
「小型の魔獣を相手取る場合、まずは逃がさない布陣が必須だと文献にあります。特に手負いの魔獣は人に対し、復讐心にかられる可能性が高いと」
本当に意見されると思っておらず、インペリアル髭がピクリと疼く。
想像上の勝利を貶され、配下の騎士も眉を寄せ若い騎士を注視した。
「山中で完全な包囲は難しいのではないでしょうか、南に配した歩兵が抜かれれば村が襲われる危険性があります。山中から出さないのが肝心では――」
「――では卿は我らに下馬して、山賊のごとく戦えとおっしゃるのか!?」
机を叩く間もあらば、激憤となって言葉の槍を突きつける。
バクター卿は焦ることもなく、その通りですと頷き続けた。
「此度は騎兵を活かせる戦場ではないと思います。あるいは立てこもる敵が平地へ出て来ざる得ない状況を作り上げる、次善の策を講じるべきかと」
理路整然とした物言いが、部屋の温度を急激に変える……。
「スヴァティシュターナ卿が記された、歴史に名を残す用兵を愚弄するかっ!」
「バクター卿は誤解されておる、傭兵を相手取るのとは違うのだ。魔獣に警戒するほどの知恵などありますまいよ」
「卿はまだお若い、魔獣討伐の経験もないそうですしな」
「これも良き経験となりましょう、戦場から逃げ出さなければ……ですが」
「これ騎士団総長殿に失礼ではないか」
いやこれは失礼――失笑と苦笑が、若き騎士に向けられる。
「騎士道のなんたるかも分からぬ獣を相手に、卿は臆病の誹りを受けましょう!」
地位も経歴も格上の騎士に迫られ、通常なら肩身を狭くし隠れてしまう所。
しかしバクター卿は一切臆することなく、質疑の舞台へと乗り込んだ。
「その通りです、魔獣に騎士の心得など――」
「山中では輜重兵の移動が困難だな、交換用の武具や矢の補充はいかがいたす」
突如としてヴィーラ殿下が、雰囲気など取り合わず質問した。
地図の上でも北方の盆地までは距離があり、行軍は容易ではないだろう。すでに決定案となっていた方針に新たな風が吹き、意識が軍議に引き戻される。
あざけりに熱中していた配下の騎士たちが、咳払いでごまかし姿勢をただした。
「おお……殿下は御若いながら、行軍の重要性をご存じでいらっしゃる。左様です北方の盆地までは村落道しかなく、実はすでに工兵に道の整備をさせております」
私にぬかりはございませぬ――。
優秀な生徒を諭す口調で、インペリアル髭を整える。
「次善の策よりまず、即座に農民の不安を取り除くがこそ肝要ですので」
揶揄を込めた言い回しに、配下の騎士が喉で笑う。
「では魔獣に、兵士の存在を匂わせてしまったのだな」
「――は? いえ殿下、今なんと?」
「狡猾な面を持つ魔獣が、嗅ぎ慣れぬ鉄の匂いに気がつかぬと思うてか?」
炎の瞳が部屋を支配し熱風が襲い、居並ぶ者たちの腰が浮かびかけた。
大型の魔獣を目の前にし、その雄叫びだけで空気が爆ぜ肌が命の危機を報せる。
悲鳴をあげる余裕すらもなく、告げられた死の告知。代わりに椅子は軋んだが、逃げ出さなかったのは騎士の矜持であろうか。
「日時を通達し、節度も持って会戦に望む魔獣などいない! 背後から頭上から、寝込みを襲い牙を突き立てると知れっ!!」
少女はただそこに在るだけで、名工の手による美しき大理石像。しかし一度意識を燃え上がらせたなら、地獄の業火となり世を飲み込む。
集った者たちは我先に頭を伏せ、背筋を流れる汗に理解する。
「はっ……はは――――っっ!!」
王族に生まれただけの、小娘ではないのだと――。
「……殿下、御気分がすぐれないのでは?」
微動だにせず石化する騎士の間にあって、イーシャ卿だけは主君の首筋に浮かぶ脂汗を見逃さなかった。
「大事ない、軍議を続ける!」
表面的には変わらず、しかし微かに震える体にイーシャ卿は首を振る。
「トゥランガリア卿、殿下は長旅で大変お疲れです! 本日の軍議は一旦中止し、すぐに寝所の準備を!」
「イーシャ卿っ!?」
因果伯の進言に、集った者誰もが感謝したことだろう。
安堵のため息を、必死で飲み込んではいたが……。
「おっ……おおこれは失礼いたしました、これ殿下をお部屋へご案内いいたせ!」
侍女が静々と入室し、頭を下げ案内を乞うて出た。
全ての騎士が立ち上がり、礼を取り王太女の退出を見送る。
「まずはお体を暖めて体調を整えましょう……私は女性として、ずいぶんと先輩でございます。どうかご安心して、お任せくださいませ」
イーシャ卿が少女にだけ伝わる声で微笑む。
「ずいぶんと」にアクセントを置いた軽口に、思わずも笑みが伝播した。
「ふう……分かった、頼む」
想像もできない重荷を背負った10歳の少女に、歳相応の表情が表れる。
己の影を凝視していたスヴァティシュターナ卿が、意を決して謳いあげた。
「――でっ殿下におかれましては、お手数をおかけし恐縮の極みでございます! 魔獣討伐の先駆である因果伯殿とは少々行き違いもありましたが、此度の戦は我らだけで十分対応できると、ぐっ愚考いたしまする!!」
汗を落とし、腹からの声がインペリアル髭を鼓舞する。
「最高指揮官であられるヴィーラ殿下には、後方でゆるりとお寛ぎいただき、戦勝報告をお待ちいただければ幸いでござります!!」
「国王直属の騎士団に勝るとも劣らない我がセルルス騎士団が、見事に王国の敵を屠って御覧に入れましょうぞ――~っっ!!!」
「デ~ンカァなんだってあのナマズを、焼き魚にしてしまわねえんですかい?」
「――っ餓狼!!」
狼が呆れ顔で問い、イーシャ卿が横目で睨みつける。
格子状の柵にガラスの光沢が浮かび、夜空に暗い森を浮かび上がらせる部屋。
キャンドルが揺れ薄闇に抗ってはいるが、豪華な一室は半ばぼやけて映った。
「ふむ……ムカッシュヴァナーサナ卿、お主は晩餐会で道化師がおどけていたなら「もっと真面目にやれ!」と怒鳴るのか?」
アレは騎士の甲冑をまとった道化よ――。
思わぬほどきつい冷笑が瞬き、餓狼が頭で組んだ手をとき口を開ける。
「殿下、御人が悪うございます……」
イーシャ卿がベッドの横に腰かけ、軽く首を振り息を吐く。
4人分はあろう毛織の掛け布団に包まれ、少女は喉で笑った。
初めてとなる苦痛と不安に汗が滲む。炎の瞳で騎士を威圧したとは思えぬほど、その姿は小さかった。
「あ――~…俺は、周囲の警備でもしてくらあ」
なんとなく居辛くなった餓狼が、頭をかきながら部屋を出ていく。
「おっと悪い」
「いっ……いえ、失礼いたしました」
扉を開けると、入れ替わりにワインを携えた侍女が入室してくる。
躾のなっていない狼の自由な振る舞いに、イーシャ卿は眉をしかめたが黙す。
廊下で感情が爆発した反省、なにより主君の前で争うなど許されざる不敬。
心の内では、想像を絶する罵詈雑言が響いてはいたが……。
「ふふっ……餓狼と呼んでいるそうだな、なるほど彼奴に首輪は似合わん」
突如心を読まれ、イーシャ卿が体を震わせた。
「イーシャ卿に、彼の狼はどのように視える?」
別段気を利かせた訳ではないだろうが、少女はガーネットの瞳を見つめ問う。
赤ワインを口にふくみ、少しばかり安堵した表情が浮かんでいた。
「っ……具申をお許し願えるのなら、アレは誰にでも咬みつく狂犬です! いっそ「綺人」で隷属させてしまおうかと、幾度思ったかしれません!」
何故あの者を因果伯に――さすがにそれは言えず、喉の奥でせき止める。
「そうか……私には宝物を取り上げられ、返せと泣き叫ぶ幼子に見えるがな」
それは軽口であったのか。
そうとは思えぬほどイーシャ卿の心に触れ、思わず主君を凝視してしまう。
「蹴る馬も乗り手次第、少しばかり離れて観察してみてくれ。イーシャ卿ならば、奴の心の影が視えよう……」
「……はっ」
少女が毛織に包まれ瞳は閉じると、軽い呼吸だけが部屋に流れた。
☆
「バクター卿、確認しておきたい件がござるがいいかな」
「――はっ!」
中庭に面する廊下で、スヴァティシュターナ卿が配下の騎士を従え声をかける。
バクター卿が振り向き、右手を左胸に礼を取り答えた。
「此度の遠征、我がセルルス騎士団が主軸となり指揮権を持つ、相違ないな?」
「はい、了承しております」
複数の騎士団が参集した場合、指揮権をめぐって対立が起きる。
ほとんどの場合爵位や兵力、資金の有無によって決着をつけられた。だが不満や不服従が起こり、貴族間に確執が生まれる元凶にもなるのだ。
「オホンならばいいのだが……どうもバクター卿は、私に言いふくむ件がある風に見受けられたのでな」
「そのように思われたなら、失礼いたしました」
「実に困った噂が流布しておるのだよ。バクター卿が私の失脚を願って、門前での騒動を起こしたのではないかと」
「――っ!? そっそのようなことは決してありません! 僕の不徳によりご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません!」
若い騎士が深く頭を下げ、汗を落とす。
スヴァティシュターナ卿はその姿をしばし堪能し、口に手を当て高らかに笑う。
「そう改まらくても誤解であればいい。私はな、卿を高く買っておるのだ」
バクター卿の肩を抱き、耳元で囁くのは甘言か苦言か。
「たかだか子爵家の出身ながら騎士団を率い、宮廷においても卿の名が噂に上がるそうだぞ。これ以上ないほどの誉れじゃのう?」
だが理解して貰えるとありがたいな。侯爵である我が叔父上も、派閥争いに備え従える貴族の多さを誇示せねばならぬのだ。
参集できる騎士であれば、誰でもよかったとのおおせじゃ――。
「卿が身のほどを理解し、振舞ってくれて大いに助かっておる」
「……はっ! 立場は、わきまえております」
「騎士の戒律には「嘘偽りを述べるなかれ、汝の誓言に忠実たるべし」とあろう。その言葉が偽りではないことを切に願っておるよ」
「田舎をうろつく辺境の騎士に、戒律など通じましょうや?」
「これ誰に対しても公正な、スヴァティシュターナ卿の配慮を心得んか!」
「ホ――――~ッホッホッホッ!」
中庭に甲高い笑い声が木霊する。
独り取り残されたバクター卿は、深く深呼吸して肌寒く夜空を見上げた。
我知らず生まれた心の影に、己の姿が歪むのを感じていたのだ。
「うがっ!? おおバクターここにいたか、軍議は終わったのか?」
「あの傷の男とは会わないようにしないとな、神経が持たんぞクソ!」
ヘートース卿とミッタス卿が、甲冑を揺るがし駆けてくる。
ふいに小姓時代の、従騎士時代の姿が重なり……変わらぬ2人に喉が詰まった。
「――ミッタス卿、もう少し言葉を選びたまえ!」
苦笑にも似た笑みが溢れ、温かい光が3人を包み込む。