やり残したこと
いつも通りの朝になり小さなアパートの一室に住む篠宮悟は目を覚ました。
悟は先日までは普通に働いているサラリーマンであり年齢は二十五歳とまだまだ若く未来が有望であった。
「いや、いつも通りではないな」
目の先にリビングがありそこにいつも立っている人物の姿がなかった。
「沙織……」
沙織とは幼い頃からの仲であり遅いと思われるかもしれないが一年前から付き合い始めていた。
そして二人で住むとなると小さかったがすぐここに同棲を始めて二人で幸せに暮らしていた。
しかしそんな幸せな日々も長くは続かなかった。
つい先日に沙織は死んでしまったのだ。
沙織はいつも仕事帰りが遅く真夜中になってしまう。
そのときに通り魔にあって殺されてしまった。
犯人は未だ捕まっておらず警察の捜査に憤りを感じる。
沙織を失った喪失感から務めていた会社は辞めてしまいアルバイトが収入源になった。
今日も仕事に出掛けようと朝食を食べ身支度して出掛ける。
仕事が終わり帰宅すると買ってきた遅めの夕飯を食べ風呂に入りすぐに床につく。
これが最近の悟のサイクルである。
次の日の朝も同じように起きてから朝食を食べて出掛けようと部屋から出る。
「あ、あれ?」
向かっている最中に自分のポケットを擦り財布がないことに気が付いた悟は急いで自室に引き戻す。
ドアを開け財布を探そうと中に入るとそこで悟の足が止まった。
目の前にはすこし茶色に染めた長い髪をした女性の後ろ姿があった。
戸締まりはしたはずだがどこからかきた風でさらさらと髪が揺れ動いている。
悟には見間違えるはずがなくその人物が誰かすぐに分かった。
にわかに信じることが出来ない。
だって…だって沙織は死んだはずだ!
すると後ろを向いていた女性がくるっと振り返り顔を見せた。
「さ、沙織…なんで生きて?」
間違いない!確かに沙織だ。
「久しぶりだね。悟!」
何事もなかった様に最初は凍えたような目をしていたが急に笑顔になり沙織は元気にそう言った。
「けど…生きていると言えば間違いかな。ほら」
そう言って沙織が指を差したのは自分の足だった。
微かに色褪せているというか透けてしまっている。
「ということは幽…霊なのか?」
「あたり!私ね。ここでやり残したことがあったの。今日一日だけここに戻ってくることが出来たんだ」
「今日だけか…」
明日になってしまうと沙織がまたいなくなってしまうと思うと涙が出てきそうになってしまう。
いやそれよりも一日だけど沙織と会えたことに喜ぶべきだ。
「それでまず聞いておくけど私が死んだときのこと覚えている?」
「何言っているんだ。忘れるわけがないよ。病院で死んだ沙織を見たときはもう言葉にならない…」
悟はその光景を思い出し唇を強く噛む。
「そう…なんだ」
沙織はどこか悲しげにそう言った。
「それでやり残した事って何なんだ?」
しかしその返答は返ってくることがなくしばらく沈黙が続いた。
そして沙織の口が開く。
「ねぇ。せっかくなんだからデートしましょ。さぁさぁ」
突然、話を変えられたがたいして気にもならなかった。
確かに沙織とデートなんて久しぶりになる。
お互いに仕事で時間を合わせることが出来なかったからな。
というかデートしたことがあったのか?
そそくさと部屋を出て行く沙織の肩を掴もうと手を伸ばす。
しかしその手は沙織の肩をすり抜けてしまった。
「そうだよな。沙織は死んでしまっているのだよな」
悟はぼそっと小声でそう言った。
「ん?なんか言った?」
振り返って沙織は首を傾げる。
「いや、なにも。それよりデートだろ。ほら行くぞ!」
今度はしっかりと財布を持って外に出る。
たとえ死んでいても関係ない。
いまここに沙織がいるんだ。
もう二度と後悔しないように言うことが出来なかったお別れを言うチャンスだ。
こんな奇跡もう二度と起こることはないだろう。
沙織との最後の思い出作りだ。
一生分遊び尽くそうじゃないか。
悟は後のことを考えず部屋の外を出た。
後ろを見ると楽しそうに付いてくる沙織がいる。
そのことに今まで感じていた喪失感が嘘のように全く感じられない。
さて、デートと言っても何をしたら良いか分からない。
沙織はあれこれ先に進んでしまっている。
壁をすり抜け人混みがあればそれさえもすり抜ける。
見失わないように付いて行っていくことがとても難しい。
これで分かったことはどうやら沙織の姿は俺にしか見えないらしい。
「ほら早く来てよ!!」
このまま沙織の言う通りに進んでいけば楽なのだろうがそれでは男としての面目が立たない。
仕方ないと沙織の前に出て手は掴むことが出来ないため手招きでこっちに誘う。
それに気が付いた沙織は驚いた顔を一瞬見せてそれから俯かせた。
そして到着した場所は映画館だ。
デートにはベタかもしれないが俺にはこれぐらいしか思いつかなかった。
「どれが見たい?」
「う、うん。そうだね。これかな」
悟が尋ねると沙織はなぜか元気をなくしており一つの映画に指を差した。
その映画は普通の恋愛映画のようだ。
「それじゃ。それにしようか」
券売機で席を選んでから券を買う。
その時に私の席は?と沙織が聞いてくる。
「誰にも見えないんだから別に買わなくてもいいだろ」
すると沙織は怒ったように顔を膨らませる。
「もし隣があいてなかったらどうするのよ!立ってみるのは嫌。まして隣の人に重なって見るなんてもっと嫌」
なるほど。それはごもっともだ。
悟は仕方がなく券を二枚買う。
売店でポップコーンとジュースを買えば準備完了だ。
買った券に書いてある席に座り沙織もその横に座る。
しばらくの間、これから上映予定の映画の予告が流れておりそれを目で流す。
またこうして二人で来られたらいいのにと思っていたがそれも高望みであろう。
もう死んでいる沙織とこうして来ることができたことに感謝しよう。
見る映画の題名は「真実と嘘の告白」と言って内容は恋人である男性に対して主人公の女性は真実である愛の告白をする。
しかしその後言ったずっと一緒と言う言葉は守られずに病気で亡くなってしまうという物語だった。
その内容は悟に衝撃を与える。
悟も幼い頃から沙織のことが好きでありようやく付き合い同棲するまでに至ることができた。
自分の給料が安定してゆくゆくは結婚のことまでも考えていた。
しかしそれなのに………。
そのことを思うと悲しみと同時に怒りを感じる。
どうしたら沙織をこんなことにあわせた犯人を許せるだろうか。
俺たちの幸せをぶち壊したやつを許せるだろうか。
必ず見つけ出して沙織と同じ目に遭わせてやる!!
沙織の仇討ちと言えば聞こえは良いかもしれないがこれはただ俺の我が儘だ。
そうでもしなければこの気持ちを抑えることはできやしない。
沙織には全てを伝えたいからこのことを打ち明けよう。
悟はそう自分に枷を付けるように決心する。
ふと沙織を見てみると表情は分からないが涙を流して手で口と鼻を隠している。
落ちていく涙は地面を濡らしていくまえに透明になって消えていく。
「おい大丈夫か」
そう小声で沙織に話しかける。
他の人から見たら誰もいない空席に話しかける変わった人だと思われるかもしれない。しかし殆どの人は映画を見入っているためその奇行は誰にも気付かれない。
それでも気付かれたら変人のレッテルを甘んじて受け入れるつもりだ。
そんなことよりも沙織のことが一番だ。
「あ…う…うん。大丈夫」
言葉に詰まりながらもそう答える。
しかしその言葉にはなにか悲しみと同時におびえの感情も入っているように感じた。
映画を見終わると夕方になっていた。
それでもまだデートは終わらない。
終わらしてはいけない。
この最後のデートに一生分を使うと決めたのだ。
沙織のやり残したことを存分に叶わせることで満足して帰られるように。
「次は一緒に買い物でもしようか。沙織に俺に合う腕時計を選んで欲しいんだ」
沙織は快く了承してくれて行きましょと言って先に進んでいく。
「絶対これが似合っているわよ!これよ、これにしましょ!」
そう言って沙織が指をさしているのは約百万円はする腕時計だった。
ちょっとだけ選んでもらうは間違いだったと後悔したがせっかく選んでくれたのだ。
そもそも選んでくれと頼んだのは俺の方だ。
悟はなけなしの貯金を崩して買うことができた。
その時計に満足して付けてもらうとなんでもできるようになったと自分で錯覚してしまう。
これが物に取り付かれると言うことなのか。
店から出てそろそろ夕食だなと思って手頃な店はないかと探していると悟に話しかけてくる声があった。
沙織の声ではない。
女性の声だろうが年輩の声だ。
「ちょっと!そこのお兄さん。こっちこっち」
横を見るといかにも怪しそうなお婆さんがいた。
その前には机があり水晶玉が置いてある。
おそらくというか絶対占い師だろう。
今は占いなどしている時ではないとそれどころか俺は占いを信じないのでそっぽを向いて歩き続ける。
だがその老婆は諦めることなく追いかけてきた。
「お前さんの今状況は相当危ういぞ。今日の運勢は最悪じゃ。お主には今悪霊が憑いておる。今すぐにでも祓わなければずっと後悔するじゃろう」
その言葉に悟はカチンときた。
確かに俺の横には幽霊の沙織がいる。
しかしそれを悪霊呼ばわりするのは悟を怒らせるのに十分だった。
「ふざけるな!そんな出任せを言うな!」
思わず大声を出してしまった。
老婆は腰が抜けてその場に座ってしまう。
悟は横に沙織がいることを思い出して我を忘れていたことに気付く。
沙織を見ると怯えたように頭を抱えている。
「婆さん。すまない」
そう言って悟はその場から立ち去る。
「沙織。ごめん。取り乱した」
悟はそう言ったが沙織から返事が返ってこない。
「沙織?」
「あ……うん。大丈夫だよ!でもあまり怒ったら駄目だよ!」
「俺の悪口だったらいくら言われても構わないけどお前の悪口だから仕方がないよ」
そう言うとなぜか沙織は驚いたような顔になりそして赤らめる。
「ありがと」
そして見た目でこれだ!と思う店に入っていく。
人数を聞かれたとき思わず二人と答えそうになるが寸前ところで修正できた。
この店はイタリアンの専門店でありメニューを開いて迷わず即決でパスタとピザを頼む。
沙織は幽霊なので一緒に食事を楽しむことはできないことが残念だ。
だけど悟の横の椅子に座り楽しく話すことができた。
周りの目線なんて関係ない。
そんなことも気にはならずに会話が弾んだ。
「うまっ」
「えーずるい!私も食べたい!!」
「あげたいけど。無理だろ?」
沙織は悔しそうに頬を膨らませる。
しかし突然ハッと気付いたように顔を曇らせて目が窓に向いた。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
何か思っている沙織にこれ以上追求する気にはなれなかった。
食べ終わってからも談笑が続き窓を見ると外は真っ暗になっていた。
「そろそろ行くか」
「うん」
帰り道歩いている最中にまだデートの続きが名残惜しく感じる。
だけどいつかこの終わりの時間は来る。
「ねぇ最後に行きたい場所があるんだけど」
そう言って連れてこられたのは大きな公園だった。
その中にある湖の周りを二人で並んで歩いていると沙織が口を開いた。
「ねぇ。ここ覚えている?」
「んーなんだっけ?」
本当は覚えていたが恥ずかしさのあまり忘れたふりをする。
「ここで悟に付き合ってって告白されたんだよ!あのときは驚いたなぁ〜」
「即答でうんって言ったくせに」
すると沙織は顔を真っ赤にして嬉しそうにこう答える。
「だって嬉しかったんだもん」
その表情を見て悟の心に衝撃が走る。
「なんで泣いているの?」
沙織の言葉で悟は自分の頬を伝う涙の存在に気が付いた。
「はは。なんでだろうな。俺ってやっぱり沙織のことが好きだってことだろうな。お前のことを忘れられないよ」
悟の涙の流れが速まる。
「うん。ありがとう」
しばらくの間二人の会話はなくなり沈黙が続きながら歩いていた。
そのとき既に時間はもうすぐで今日が終わってしまおうとしていた。
二人は正面に湖が全貌できるベンチに座る。
夜空には雲が全くなくいつもよりも星が多く見える。
普段は目にも留めなかったがこうしてみると息を呑むほど綺麗に見えた。
「なぁあのとき一体何があったんだ」
あのときとは沙織が殺害されたときで沙織もそのことだと気が付いたようだ。
しかし何も答えずに無言を貫いていた。
「一体、誰が犯人なんだ。知っている顔なのか?」
「悟はそれを知ってどうするの?」
そんなこと決まっている。
さっきそうすると決意したではないか。
沙織になんて言われようとこの気持ちだけは収まらない。
だから嘘ではなく本当のことを伝えよう。
「お前と同じ目に遭わせるために」
「ダメ!!絶対にそれだけはダメ!!」
沙織は悟の言葉の後すぐに声を荒げ悟の肩を両手で強く握り必死に止めてくる。
「沙織…なんで触れることができているんだ?」
しかし沙織も驚いたように自分の手を見ている。
そして返事を返さずにこうポツリと呟いた。
「もう…こんな時間か……」
悟には何の意味かわからなかったが考えてみるとそろそろ沙織がいなくなってしまう時間になってしまったんだろう。
「沙織…」
沙織はベンチからよいしょっと立ち上がり悟の目に前に立つ。
湖と夜景を背景にした沙織はこの世で一番美しくそして儚く見えた。
「実は悟に嘘をついていたの。私のやり残したことはデートではないんだ」
やり残したことがデートじゃない?
それを聞いた悟はもの凄い勢いで立ち上がる。
「なんで今になって言うんだ!早く!それをしに行くぞ!」
悟はそう言ったが沙織はふるふると首を振る。
「もういいの。どうせ私にはできないから…」
「そんなことない!やってみなければ分からない!」
そう言うが依然として沙織の表情には諦めが浮かんでいる。
「だって悟のことが大好きだから!!」
悟にはその返答の意味が分からなかった。
好きという言葉は分かるのだがさっきの俺の言葉に対してのこの返答の意味が全く分からない。
「そろそろ時間ね」
沙織の身体が淡く光り始めたと思ったら足から順に光となって消え始めた。
「悟。絶対さっき言ったことは止めてよ。私はもう犯人を恨んではいないの。世の中には知らない方がいい事ってあるじゃない?このことはあなたは知らない方がいいの。知らぬが仏っていうじゃない」
そう言った沙織は悲しげで不安そうにしていた。
「それでも俺は…」
「お願い!うんって言って!」
沙織は悟の言葉を遮ってそう言った。
その沙織の必死さを見た悟はうんと言った。
それが例え沙織に嘘をつく形になってしまうとしてもそう答えることしかができなかった。
それを聞くと沙織は満面の笑みを浮かべて頬を涙で濡らした。
沙織の身体は上半身だけになってそれより下は既に光となって消えてしまっている。
悟は沙織が死ぬ前にも言っていなかった言葉を別れの言葉にするつもりだった。
「沙織、愛している」
「私も大好き!…………」
そう言って沙織は光の粒となって霧散した。
地面に向かってこぼれ落ちた涙も地面に触れる前に光となって上に昇っていった。
最後の愛していると言った後なんと言ったのか聞き取れなかったが悟には愛していると言っているように聞こえた。
悟はその光が散っていくのを惜しむように手で追いかけるがその途中で消えてしまう。
俯いて涙を拭きゆっくりとその場を後にする。
そのときの悟の目はまるで人が変わったかのように鋭く尖っており殺意に満ちていた。