量子通信 時空彷徨譚
時よ止まるな。星よ瞬け。
自分の息遣い、鼓動。
ブーン、と蜂が飛ぶような耳障りな音は蝸牛の有毛細胞が振動する際に生じる耳鳴りだろう。
それ以外は何も聞こえない。
ここは静かだ。何もない、何も。音も温度も光も重さも。
ただ、遠くに星が瞬いているのが見える。光が何年もかけて届くそれは過去の光だ。現代人が数え切れないほどの技術革新を経て、幾度もの凍結睡眠を繰り返してその瞬きに辿り着いても、その時には無くなっているかもしれない冷たい光だ。
手早く船体を点検し故障箇所を見つける。複合バリアを突き抜けて船体に衝突したそれは長方形に加工された物を半分に砕いたような形をしていた。人工物のようにも見えるがそんなことはあり得ず、ただの流星物質にすぎない。ここはすでに母星から500年かけて8兆kmも離れた所だ。人類未踏の宇宙、もうここには人工物などない。僕の残りの一生でこの宇宙船以外に人工物を見ることもないだろう。この先には誰もいないのだ。そして誰もいないまま僕の人生は終わる。
だが、流星物質にしては妙だ。この程度の隕石なら複合バリアは超えられない。バリアシステムにも何か問題が生じているのかもしれない。
かじかむ程ではないが少し冷える指先を動かして血流を確かめる。それから船内から持ち出した資材を腰のフックから外し、内部の回路を正してから外装タイルで蓋をして溶接した。資材は宇宙船が自動的に回収して蓄えてくれるので底が尽きる心配はない。
補修を終え、繋いでいたロープを手繰ってエアロックに戻る。
船外活動服を簡単に除染し、気圧を元に戻してからそれを脱いだ。船外活動服は500年ものの骨董品だが、ナノマシンのお陰で完全に機能していた。仕様書には耐用年数の欄が空欄になっていた。すなわち、理論上は宇宙の終わりが来るまで機能し続けるらしい。もっとも実際の耐用年数は2000年ほどと宇宙船のAIが教えてくれた。それくらいならば僕も生きているかもしれない。
宇宙船の狭い通路を歩き居住区画に入る。
「エリーゼ、どれくらい寝てた?」
『8ヶ月です』
「短かいな。用事はこれで終わり?」
『ええ、故障箇所は一つだけです』
「……変だな。僕が起きる必要あったのか?」
『飛来物周辺に何らかの磁場が発生しており、ナノマシンの機能が阻害されました』
「……変だね。隕石の調査を頼む」
『はい、現在調査中です』
電子レンジのような機械、原子ビルダーのパネルを操作して食事を作る。本来は足りない器具を作製するために使うものだが、この宇宙船のAIであるエリーゼに頼み込むと、食事も作れるように制限を解除してくれた。食事を作るために使うエネルギーと僕が摂取できるエネルギーの割合が一対ゼロにかなり近付くが、宇宙船のエネルギーはほとんど無限なのでさしたる問題はない。
ただ、エリーゼの味付けはあまりよくない。500年ものの保存食料よりは随分とマシだけど。
原子ビルダーでオムライスもどきを調理し、続いてリンゴジュースもどきを取り出す。
オムライスは僕の好物だ。お酒はあまり好きじゃないのでリンゴジュース。オレンジジュースは酸っぱくて飲めない。けどラム酒は少しだけなら好き。
……何を作るにしても「もどき」でしかない。ここに本当の食材はない。水素、ヘリウムが大半。時々氷と大きめの宇宙塵が手に入るくらいだ。これらを材料に原子を高エネルギーで無理矢理かき混ぜてお望みの原子を作るのだ。
埃一つない快適なソファに座る。このソファの柔らかさといったら絶妙というほかない。それもそのはず、ナノマシンを惜しげもなく使ってエリーゼが硬さを調整してくれるのだ。もしかすると、これは僕たち特派員に対する政府からの最後の慈悲なのかもしれない。
片手を目の高さに挙げると動作を認識して指の先に半透明のシステムコンソールが現れる。
稼働中の探索船の数を検索してみると548隻と表示された。凍結睡眠に入る前から1隻減っている。
「これは?」
『自殺したようです』
「……そっか」
これで丁度40人目の退職者だった。その他は探索中の事故が6人、マシントラブルが2人、老衰が2人、残りの2人は不明。以上の通り、特派員の死因の70%を占めるのは自殺だった。
特派員は狭く暗いこの宇宙船の中で誰とも会わずに一生を過ごすのだ。事実上の流刑だった。
いや、流刑じゃなくて処刑なのかもしれない。僕たちは死刑囚であり宇宙船は棺桶なんだ。処刑はもう済んでいた。
「最寄りの探索船は?」
『XS-486 ディーン&ロゼッタ 368億706万kmの距離です』
「だよね。通信はできるかい?」
『はい、可能です』
「遅延は?」
『約30時間です』
「……そう。アイツも遠くなったもんだね」
『メッセージはいかがなさいますか?』
「ああ、別にいいんだ」
人と通信ができるということを確認したいだけだった。
人と喋りたい。
そう思うようになったのはいつからだろうか。母星で勤務していた頃はそんなことは欠片も思わなかった。仕事に集中することが重要で喋りかけてくる奴らは邪魔なだけだった。
「あれ?通信が入っているじゃないか」
『はい。XS-486からです』
「30年も前のものか。どうして言ってくれないんだよ」
『XS-486からの通信は通知しないように言われました』
「誰に?」
『あなたにです』
「……そうだっけ?」
確かにディーンは起きる度にメッセージを送ってくるので、鬱陶しくて通知を切ったような覚えがある。ともあれ、今回は久し振りの通信だったので開いてみた。中には動画ファイルが入っていた。
『wedding』と題されている。
嫌な予感がしたが動画ファイルを再生してみた。
途端に大音量でトランペットのファンファーレが響く。耳を塞いでも突き抜けてくるこの曲は結婚行進曲だ。それから居住区画の中央にとてつもなく整った女性のホログラムが映し出された。ウェディングドレスを着ている。
「よお~!元気してる?」
そして、やたらと陽気で馴れ馴れしい中年男がその後ろからひょこりと現れる。こちらはタキシードを着ていた。前見た時よりもずいぶん老けて見える気がする。
「これ、俺の彼女。んで、結婚するからお前見届け人な」
はあ?特派員である限り彼女などできるわけがない。誰とも会わないのだから。子供に関しては母星に精子が保存されているので法律が変われば、何かあり得るかもしれないが。
もしかして、任務を放棄して近くの探索船に会いに行ったのかも……いや、アイツの探索船との距離は同じ比率を保っているのでそれもあり得ない。
「俺、気付いちゃったんだよね。幸せの青い鳥的な。やっぱ近くにいるんだなぁって。んで、近すぎて気付かないの。ほら、よくあるじゃん?おっぱい大きくなってきて初めて幼馴染みを意識しちゃうみたいな。……で、気付いたのよ俺。俺にもいるじゃん!いつも一緒にいる子」
なんということだ。
探索船の中で特派員以外に誰かいたら、それは幽霊か妄想かのどちらかだ。現代に至っても幽霊が発見されていない以上多分妄想だ。僕はディーンの精神状態を危惧した。
「それがこの子、ロゼッタだよ!」
「はあ?何言ってんだコイツ」
ロゼッタはAIだ。入力に対して計算された出力を繰り返すだけの存在だ。恋愛とかそれ以前の問題だろ。
誰もいないのにつっこんでしまった。
『どうやらロゼッタ用のボディのようです』
「なんて?」
独り言に律儀にエリーゼが反応してくれた。
「この子はな、ロゼッタ用のアンドロイドボディなんだ。原子ビルダーで部品を一つ一つ作ってそれから手作業で調整してほんと苦労したんだぜ。設計図も添付したからお前のエリーゼちゃんにも作ってあげるといい。きっと喜ぶぜ。けど、顔とスリーサイズは真似すんなよ。これは俺だけのロゼッタちゃんなんだからな」
AIが喜ぶわけないだろ。
ディーンとロゼッタはそれから音声アプリケーションが指示するままに健やかなる時も病める時も愛することを誓ってキスをし、指輪の交換をした。
そして、僕はいったい何を見せられているんだ、という徒労感を残して動画は再生を終えた。チェックしてみると確かに設計図が添付されている。一応開いてみると、精巧なアンドロイドボディの設計図が入っていた。
……一応お祝いのメッセージくらい送ってやるか。
『幸せそうでしたね』
エリーゼが珍しく声をかけてきた。
「ん?ああ、そうだね。ほんと、ディーンのやつ……」
エリーゼはこれまた珍しく返事を返さなかった。
オムライスを食べ終わり、エリーゼの作成した報告書を確認する。特に問題はなかったのでそのまま母星に送付した。
母星への連絡には量子通信と光速通信を併用して行った。
量子通信は特殊な過程を経てペアリングされた量子を利用して瞬時の情報伝達を可能とするものである。
これは特殊相対性理論により不可能とされた超光速通信を実現するものと期待されたが、特殊相対性理論と量子論は人類の知らないところで不思議な折り合いをつけていた。研究が進むにつれて、量子通信では意味のある情報を送ることができないと分かってきたのだ。
全ての粒子は誰も観測しない限り空間に分布し、観測されることにより波動関数が一点に収束する。観測がなぜ収束を来すのかは分からない。射影仮説と呼ばれるそれは観測結果の辻褄を合わせるために導入されたものにすぎず、論理的に説明するためのものではない。大昔の研究者が「神はサイコロを振らない」として、この原理を批判したが、今のところかかる原理に反する現象は見つかっていない。
そして、もし誰も観測していない状態で二つの粒子が干渉した場合、この二つの粒子は互いに波動関数の一部を共有することになる。この相互干渉の関係は観測されるまで保たれる。どれだけの距離、時間が二つの粒子を隔絶してもだ。そして、いざ一方の観測がなされると両者の波動関数は同時に収束する。光速の壁を超えて全く同時に。
ところが、特殊相対性理論は光速の壁を超えることを認めない。厳密にいうと時間の順序は全ての空間で同一とする因果律との関係において認められないのだ。
では、量子論は因果律と矛盾するのか。
これについては、裏技ともいうべき解釈が見つかった。すなわち、因果律によって制御されるべき現象は光速を超えることはないが、因果律に影響しない現象は光速を超えても構わない、というものである。
この結果、量子通信は超光速で情報を伝えてもそれは無意味な情報あるいは暗号化された情報としてのそれに過ぎず、光速通信による暗号化キーが届かなければ意味のある情報、複合化された情報として取り出すことができないのだ。
しかしもし、光速通信を用いない本当の超光速通信が可能となれば、過去に対する情報の送付が可能となってしまう。そうなると、因果律は崩壊するのだろうか。結果が原因を選択する。未来の自分が過去の自分に影響することがあるのだろうか。今の僕が、あの時の僕をたった一歩でも進ませることができるのだろうか。
自分の胸元を握り締めた。そこにはとても小さな瓶が首から下げられている。これは僕のお守りだった。
研究室にいた頃に彼女がくれたもので、中に入っているのは一粒の粒子。イーラセンという素粒子の片割れだった。
振り返ると彼女と僕の関係はどうということもない男女の関係だった。彼女を愛して、彼女に愛されて別れた。愛されていたと思う。少なくとも僕は愛していた。
彼女に会ったのは大学院に入って半年も経った頃だった。最初は美人な同輩がいると噂になっていたのを聞いて、見てみた。確かに美人だったが、その時はそこまで気にはならなかった。
二年目になり、新しく研究グループを組むことになった。彼女もそこにいた。彼女は比較的に優秀な研究者だった。僕と同じくらいに優秀でそこが気に入って彼女とよく話すようになった。
それから僕は彼女との共通点を探すようになった。
探してみれば共通点は無数にあった。性格も学力も趣味も同じだったんだ。親の仕事まで同じだったことにはとても驚いた。
彼女と話すのはとても楽しかった。彼女も楽しんでいたと思う。
大学院も残り一年を切った頃、彼女をバーに誘って告白をした。彼女はとろんとした瞳を僕に向けて、うん、とあっさり頷いた。
お守りを作ったのはそれから丁度半年後だった。僕たちは研究課題として大量の量子を簡易かつ安定的に保存、運搬、移転する結晶体を精製していた。研究は思った以上に上手くいき、僅か1立方cmの結晶に量子を閉じ込めることに成功した。その性能試験で僕たちは新発見の極めて安定的な素粒子、イーラセンを分解しそれを保管することが可能か試した。試験は完璧に成功した。僕たちはその分解された二つのイーラセンを小さな結晶に封じ込めてお互いにブレゼントしたのだ。
彼女と別れるのにかかった時間は彼女と付き合うのにかかった時間に比べるとちっともかからなかった。
彼女の誕生日を祝うのはその日が三度目になるはずだった。
この時僕は公務員になったばかりだった。本当は学者になりたかったんだけど、僕の能力では学者になるのは難しかった。僕も、そして彼女も比較的に優秀だっただけで、飛び抜けて優秀なわけではなかった。だから、僕は、もしかしたら彼女も、余裕を失っていたんだと思う。
脳内端末に神経に障る呼び出し音が響いたのは、彼女の家に向かう途中、丁度軌航列車に乗り込む寸前だった。呼び出しの内容はトラブルが発生したとのことだった。大したトラブルじゃなく、僕がいなくても何とかなる内容に思えた。
僕は少し迷って、「発車いたします。ドアにご注意下さい」というアナウンスが響き軌航列車がステーションから出ていくのを見届けた。今思えば、彼女と一週間に一度も会わないことも多くなってきていて、少しだけ気まずくもあったのかもしれない。仕事に集中していれば他のことは忘れられるから。
トラブルを処理して、夜遅く彼女の家に向かうと彼女は少し寂しげな笑顔で迎え入れてくれた。
次の日から彼女と連絡が取れなくなった。一週間後に電話があった。映像はoffにされていた。彼女は泣いてるようで鼻を啜りながらだったが、僕に別れを告げた。
それからの彼女のことは知らない。
いや、知らなくはない。僕は時折職場の秘匿回線を用いて時々彼女の生活を覗いた。数年に一度くらいだからそこまで悪質でもないと思う。
彼女は僕と別れた一年後には新しい彼氏を作っていた。3年後にその彼と結婚して子宝にも恵まれ、幸せな家庭を築いていた。彼女は幸せになっていたんだ。
だから、僕と彼女の関係はどうということもない男女の関係だったのだ。僕は彼女にとってただの元彼、せいぜい学生時代の思い出に残るだけの過去の人だ。そしてそれは、きっと、僕にとっても同じなのだ。僕はまだこのお守りを捨てる機会に巡りあっていないけれど。
『隕石の調査が終わりました』
「すぐ行く」
エリーゼからの報告を聞いて、探索船下部の研究区画に向かった。廊下に出て梯子を降りればすぐだ。
400年ほど前、体感的には15年ほど前だが、までは探索船内の重力装置をオフにしていた。理由は、それまでの私が宇宙で生活していかなかったために無重力が目新しかったのだ。だが、それも5年で慣れた。いや、正確には最初の一年で慣れたが、何も変わらない船内での生活を新鮮なものだと思い込みたいがために、慣れていない振りを4年間続けたんだと思う。
結局、そんな振りを続けるのがバカらしくなってやめた。船内は一人、孤独な身に虚勢は無意味だ。ここでは自分にすら嘘をつけなくなる。
研究区画への厳重な扉を開き中に入った。
「それで、何か分かった?」
『はい、幾つかの発見がありました』
「端的に」
『このオブジェクトにはコーゼン素粒子を放出し維持する結晶体が含まれていました。これが重力場を乱していた理由だと考えられます』
「……自然にあり得るものかな」
『ネガティブです。コーゼン素粒子は解明されている限り、自然に生成されることは考えられず、また生成されたそれを維持するのは不可能と考えられています』
「じゃあ、これが人為的なものだと?ここは人類の生存範囲から8兆kmも離れているんだよ?」
『はい、アーカイブを参照する限り、このオブジェクトがここに存在すること自体が矛盾であると考えられます』
不可解だった。本当に人工物なのだろうか。ジッと部屋の中央にあるガラスケースに手をついて、中に保管された割れたレンガのような物体を眺める。確かにその形状には幾らかの人為性を感じざるを得ない。だが、そこに人間らしい暖かみはない。
「……軌道計算はできるかな」
『何でしょう?』
「このレンガみたいな物がどこから来たか分かるかい?」
『はい、すぐに。……できました、表示します』
レンガが来た方向には観測できる範囲では何もなかった。だが、ダークマターの測定量が僅かに偏っている空間があった。
「これは?」
『偏在誤差の範囲内です』
「……気になるな。行ってみよう」
『系外宇宙探索特別派遣員職務規程第32条1項、後退に該当。服務規律に反する処罰対象行為です。認められません』
「くそ……。頼むよ、エリーゼ」
規律違反、AIが許すわけないか……。
するとエリーゼが想定外の答えを返してきた。
『分かりました。一分前からの記録を削除、ダミーデータを作成します。では、該当座標に向かいましょう』
「え、いいのかい?」
AIに過ぎないエリーゼがルールを破れるのだろうか。それとも、実は系外に出たところで指揮権限が変更されていたのだろうか。
『やめましょうか?』
「いや、やめなくていい。……ありがとう」
『……どういたしまして、マスター。できるだけ早く職務に戻りましょう』
エリーゼがAIでなかったら何てことを少し考えてしまった。
30時間後、探索船が座標のポイントにたどり着いたので半凍結睡眠から起きた。
「おはよう」
凍結カプセルが開く頃には、時間を引き伸ばすための高重力制御により圧迫されていた血流も元に戻り、前腕に微かな冷たさを残す程度だった。
『おはようございます。通信が入っております』
「通信?母星かな?」
『いえ、XS-486からです』
「なんだって。やけに早いな」
コールドスリープの安置室から出る。居住区域に向かいながらシステムコンソールを浮かべてメッセージを確認した。
「ありがとう、My friend!俺たちは今幸せの絶頂にいるから安心してくれ」
酷く違和感を覚えた。
「なあ、エリーゼ……?」
『……文章パターンを照合しました。ディーン様の文章と一致します』
「そっか……」
何故だろうか。……そうだ、「安心してくれ」という言葉を持ち出す理由がないのだ。それに……。
「うーん、それだけかい?」
エリーゼの反応がとても早かった。というか、指示する前に知りたかったことを教えてくれた。
確かに、エリーゼは僕の癖をパターン化して把握していて、「ねえ」と声を掛けるだけで欲しいものを察してくれたりするが、今回のは少し度が過ぎているように思える。
そんなはずはないと思うのだが、まるで何かを誤魔化されたような気がするのだ。
『いえ、はい、それだけです』
「……だよね」
エリーゼが僕に嘘を吐くわけがないので、ディーンのことはもう忘れることにした。奴め、ドリ系になってしまうとは情けない。
コックピットに座り、全天型モニターな座標を写し出した。丁度、ダークマターが偏在している可能性があるところだ。
「……何もないよね?」
『何も観測されません』
「はあ」
予想通りだが、残念で期待はずれな返事だった。
だが、宇宙で期待なんてするものじゃない。出発前のインプリント講義でも「宇宙は冷たいぞ。我々のことなんて一片たりとも考慮してくれない。信じれば信じるほどに裏切られるんだ」と言われた。
だが、そんな宇宙がもし期待に応えてくれたら感動はひとしおだろう。
「……出てみることにする」
『承知致しました。念のためプリトウェンをご用意しましょうか?』
「いや、そこまでは……そうだね、優しくしてくれよ」
エアロックで船外活動服を装着する。それから中央のポジションに立つと、服の上からエリーゼが自動で装身宇宙船プリトウェンを組み立ててくれた。
装身宇宙船は、個人兵装としての宇宙船を念頭に宇宙船に搭載された機能を可能な限り小型化し、あるいは排除して身に纏うことができる形に構成したものである。
すなわち、高度な推進機構、生命維持装置、武装、解析機関を搭載したものである。
だが、その反面プリトウェンは装着者に体内への侵入を要求する。小型化にも限度があり、携帯できるジェネレーターとの兼ね合いでスペースを体内に求めることになったのだ。その結果、胃の上、肝臓の下の隙間にジェネレーターが大量のナノマシンと共に埋め込まれることになった。
『可能な限り善処します』
そう言ってエリーゼは僕の腹部にメスを突き立てて引き裂きそこにジェネレーターを押し込んだ。
「うっ……」
『処置完了です』
生命維持装置による体内からの修復はものの数分で完了して痛みも麻酔による麻痺もきれいになくなった。
エアロック内の気圧を下げてふわりと船外に漂い出る。今回は命綱は無しだった。
両前腕に設置されたエネルギー形成装置と脚部スラスターを微弱に噴射して姿勢を整え目標座標を正面に捉えてから、背部スラスターを広げた。重心を掴んだ背部スラスターにより、回転せずに体が前に動く。そして、探索船の複合バリアに触れた瞬間反重力による斥力で目標座標近くまで一気に弾き飛ばされた。
全身のスラスターを細かく調整しながら進んでいると、突如眼前に小惑星らしきものが現れたために、脚部スラスターを全開にして制動し減速する。
「こんなところに小惑星なんてあったかな?」
先程観測した時には見えなかった気がする。
周囲でパシッ、パシッと流星物質がプリトウェンのバリアに接触して小さな閃光を発する。その動きと一緒に小惑星が眼前を流れてその背後が明らかになっていく。
何もない。だが、奇妙な感覚を覚えてプリトウェンのヘルメットを外し、合成視覚を通さない状態で確認してみた。
そこ……なにもないはずのそこには、祭壇のような超巨大な建造物が浮遊していた。
「何だこれは……?」
全体的には四角錐のような形をしており、正面には遥か天辺まで続く長い階段が掘られている。階段の中央には入り口らしき四角い穴が口を開けており、深遠なる闇が漏れ出している。側面には等間隔で穴が空いており、内部にも空間があることが見てとれた。
「信じられないな……」
『依然、何も観測されません』
「何だって?あれが見えないのか」
『肯定です。プリトウェンのセンサーには何も描写されていません。なにか見えるのですか?』
「うーん、ピラミッドのような物が見えるんだけど」
『観測できません。マスターの網膜にもピラミッド状の物体は写っていないようですが』
「近付いてみよう」
ヘルメットを脇に抱えながら、先に進むと何処からともなく雲が身を包んだ。
スラスターを抑えて手探りでゆっくり進むとすぐに雲を抜けた。
『ピラミッド状の建造物を確認しました。発生原因は不明です』
今の不可思議な雲が超文明的な作用によってピラミッドをあらゆる観測から隠していたとでもいうのだろうか。
ヘルメットを被りなおしてみると、今度は問題なくピラミッドが合成視覚に描写された。ピラミッドの中心部に強い共振反応があるようだ。
『不明な共振反応です』
「でも、少なくとも何らかのエネルギー源があるわけだ。つまりこのピラミッドというか、施設は生きているのだろうか」
『おそらく、肯定です』
「……探索してみよう」
『これ以上は危険です』
「だけど、外宇宙知性体の発見かもしれない。僕たちの目的の一つだよ。そしたら……戻れるかもしれない」
プリトウェンの複合バリアが問題なく機能していることを確認してから、ピラミッドの端にゆっくりと近付く。そこで、背後からビーっと発信音が聞こえた。
『お待ち下さい。探索船からモーデュアを呼び出しました。持って行くべきです』
青いエネルギー噴射の軌跡を引きながらモーデュアは雲を切り裂いて現れ、僕の眼前で停止した。
モーデュアはワンマンアーミーをテーマに設計された全距離対応の汎用機動防衛火器である。
3mもある長大な全長、400kgの生身では扱えない重量、放たれるのは光速の15%にまで加速された高熱の粒子、射程距離は優に4000kmを超える。更に本体に推進機構が設置されているので、探索船と同程度までの加速が可能となっている。
もっとも、僕が母星を出発した時点ですでに一昔前の装備になっていたもので、言わば在庫処理である。
マニュアルによると敵性生命体に遭遇した場合に、応援軍が来るまでの時間稼ぎをするべく探索船に載せられた、ということであるが完全に誤魔化しだ。そもそも500年も果ての宇宙で何と戦わせるつもりなんだろう。応援が来るまで500年間戦い続けろとでも言うのだろうか。だが、プリトウェンとモーデュアは使用者の全ての細胞をナノマシンで置換することにより500年間の戦闘を可能にするシステムを搭載している。なんてこった。
今のところモーデュアはドリルが壊れた際の代用で使ったことしかないのでその機能のほどは分からないが、エリーゼが言うのならば持って行こう。
銃把とサイドグリップを握り接触回線でモーデュアの照準と合成視覚を接続する。次いで、推進装置を噴射してピラミッド内部への潜入を始めることにした。
「一応、探索記録を取っておこう」
『了解しました。不都合な部分は改竄しておきますね』
「おお、よろしく頼む」
階段正面の入り口は近付いてみると幅5m、高さは10m程もあった。
「ええっと、記録開始。ピラミッド状の建造物を系外宇宙で発見した。周囲は観測を拒絶する妙な雲に囲まれている。では、今から内部に侵入してみる。あ、何か意匠が彫ってあるよ」
ピラミッド内部の壁面、上部と下部に続け書きの文字らしき線が延々と彫られている。
『アーカイブを検索しました。同一のデザインは見つかりませんでした』
「やっぱ、そうだよね」
『古代象形文字及び大陸系の筆記体に約2%の類似性を発見しましたが、とても似ているとはいえない類似性です』
「ますます、異星人の真実味が増してきたなぁ。次は、壁材を採取してみよう」
腰部に備え付けられたポッド型多機能精密検査器を受け皿にして、コツンと壁面を叩いてみる。
埃しか出てこなかったので、プリトウェンのグローブ・マニピュレーターの指先から風を吹き出して埃を払ってから再度石材のような壁を削ってみる。
「……削れないな」
壁面であっても重要な資料となりうるので破損は避けたかったが、埒があかないのでマニピュレーターの先から鋭い爪を出して壁面を引っ掻いてみた。しかし、やはり傷ひとつつかなかった。
「まるで石じゃないみたいだ」
『爪が欠けました。通常の石材とは異なると考えた方がいいでしょう』
「オーケー、最終手段だ。エネルギー弾で破壊を試みる」
手のひらのエネルギー形成装置から高温のエネルギーを発射すると、目の前が青い閃光に満たされる。光が消えた後にはやはり傷ひとつない壁面があった。
「ダメだな。壁面採取失敗」
壁、硬すぎ。X線による透視を試みても表面から先が写らなかった。
『既存の物質ではない可能性があります。光線の反射を分析する限り、探索船に漂着した物体と同一の素材と思われます』
「つまり、さっぱり分からないってことじゃないか。何もかも不明、その上相手は未知のテクノロジーまで有しているらしい。これ、役に立つのかなぁ」
モーデュアをポンポンと叩いてみる。
『無いよりはマシかと思われます』
「探索船から主砲撃ってみたらどうだろう?」
『推測になりますが、無意味かと』
「理由を端的に」
『共振反応から計算したこの建造物の出力は探索船を大きく上回っています』
「よく分からないけど、諦めるよ。探索を続行する」
ピラミッドの中を10分ほど前進したが、ただただ真っ直ぐで暗い道が続くだけだった。砂色の壁、続く文字は永遠と思える程に尽きることがない。
「どれくらい進んだかな。そもそもこれ時速何km出てるの」
『はい、時速72.3kmです。距離は3.6kmです』
「……ん、3.6kmってそれだけ?それじゃ数分くらいしか進んでないじゃないか」
『壁面採取実験より3分17秒が経過しました』
「へ?」
合成視覚上で壁面採取からの映像を高速で再生した。
「何だこれ……?」
3分なら数秒で終わるはずの映像が終わらない。ちょっと待て、再生速度を32倍に増やした。終わらない。
『心拍数が上昇しています。鎮静物質を合成します』
再生速度を256倍にした。映像は続いている。512倍、頭がおかしくなりそうだ。
「どうなってんだ、これ」
映像を1倍速に戻すと映像の中の自分はエリーゼと覚えのない会話を話していた。
背筋がブルッと震える。再生時間は32時間を示していた。
『記録にない映像ですね。ハッキングでしょうか』
「……このピラミッド、どれくらいの大きさだったっけ?」
『高さ520m、斜面は1130mほどに見えました』
「そっか、加速するからアシストよろしく」
『了解しました』
モーデュアのグリップを掴み直し、出力を上げてバーニアの噴出孔を細く閉める。
莫大な加速にプリトウェンが軋み、景色が糸のように引き伸ばされて背後に過ぎ去っていく。
『計算上、20秒で中央地点です』
「了解。カウントダウン開始」
『10秒前、9、8、7、6、5、4、3』
「停止する!」
バーニアからの噴射を0.2秒間停止して、その間に銃口を引き上げて180度回転させ、逆向きにすると同時に噴射を再開、全身に慣性力を感じつつ速度を急激に減衰させる。
『中央地点まで20mです。10m。到達しました』
そこは小さな四方形の部屋だった。
「ここ、何もないな」
今来た通路を含めて正確に90度ごとに四つの通路があるのみの小部屋だった。通路を見る限り、ピラミッドは各四辺に入り口を有しているのだろう。
「共振反応の中心はここらへん?」
『はい、囲まれています』
「じゃあ、一体ここで共振反応を示しているのは何なんだ」
『ここは共振反応の中心ではない可能性があります』
「えっと、矛盾してないかい?端的に言ってくれ」
『世界が異なります』
「端的にし過ぎて分からないぞ」
『多世界解釈に基づき、五次元的に異なる界に共振を示す物体が存在していると考えられます。推測ですが、先程の映像も異世界に由来していた可能性があります』
「ああ、うん」
多世界……先程の映像が脳裏をよぎった。
素粒子物理学はあまり得意じゃなかったし、習ったのもかなり昔の話だ。
「それで、その異なる界にはどうすれば行けるんだ?」
『不明です。異界への干渉は成功例がありません』
「ん?現にその異界から共振波が来てるんだろ?干渉されてるじゃん」
『はい、未知の現象です』
「ふーん。さっぱり分からないな。でも、これだけ未知の連発なら発見として十分だよな」
というか、もう帰りたかった。
1秒たりともこの暗闇にいたくなかった。ここの暗闇はただ何もない宇宙の闇とは違う。何かを内に孕んだ怖い闇だ。
『はい、ピラミッド内部の探索は十分かと思われます』
「オッケー、外に出よう……おや、これは絵かな」
壁画だ。小部屋の壁全体に絵が彫られている。
何かよく分からないおぞましいものが描かれている。黒い太陽、無数の脚を持つ不快な生物、それに頭を垂れる半人半獣の恐ろしき者共。反対側には四本腕の醜悪な怪人が槍を突き出している。
まるで、無数の脚を持つ不快な生物が黒い太陽を掴んでいるように見える。いや、作り出しているのか、あるいは包もうとしているのか。それを怪人が阻んでいる構図だろうか。
壁ごとに場面が変わっている。不快な生物が半人半獣を食らっていたり、怪人が不快な生物に噛みついていたりと細部に違いはあるが概ね不快な生物と怪人が黒い太陽を挟んで、それを奪い合うように争っているのは変わらないようだ。
「やっと意味のわかるものに出会えた気がするよ。この感じは神話の一場面を描いたものかな」
呟いたその言葉は通路の奥に溶けていった。そして、思わぬところからの返答があった。
「神話を歴史と考えた場合、いかにも壁画は神話を描いたものだ」
僕は反射的にモーデュアを声の方向に構えた。
「モーデュア、武器。エネルギー射出式、8等級程度か。そのようなものでは私に傷ひとつつけられない」
そこにいたのは、神秘的に発光する純白の衣に身を包んだ四つ腕で仮面の男だった。肌に至っては水晶じみた銀色だ。
「はあ、え?まさか、本当に宇宙人?」
僕の顔は今どんな風になっているだろう。とりあえず、頭の中は真っ白だった。恐怖やら驚愕やら……歓喜?まで色々混ざりあって結局何も分からない。真っ白というより真っ黒かもしれない。
え、モーデュアはぶっぱなしていいのか?
引き金にかけた指に力が入りそうになる。
『マスター、まだ引き金は』
「あ、ああ、そうだな」
エリーゼの声で正気に戻った。
「誰かそこにいるな。ほう」
『!?ハッキングを受けええてえええええええええええええええ』
「エリーゼ!?」
ハッキング!?エリーゼが不気味な声を挙げて機能を停止した。
「素晴らしい。実に完成度の高い生命だ。惜しむらくは肉体かないことか。ん?こうか?ははあ、こうだな」
「お前か!お前えええ!!!!」
モーデュアの引き金は軽かった。あっさりと引いてしまった。更に咄嗟のことで出力を全開にしてしまった。全て撃ってから気付いたことだが。
これだから僕は……怒るとつい暴力を振るってしまう。
モーデュアの銃口から放たれた極太の光線は刹那に怪人を光の濁流に飲み込んだ。そして、背後の天井で何も破壊することなく粒子となって消えた。
「無意味だと言った。肉体の無い者と比べると肉体のある者は実に完成度が低い生命だ」
光線の放射が終わると、何事もなかったかのように怪人が浮いていた。
「だが、肉体の無い者が肉体のある者にとって重要な存在であることは認識した。よって、私は肉体の無い者を肉体のある者に返す。そのようにしよう」
『……再起動――――申し訳ありません、不覚でした。不明の回線で未知の接触を受けました』
エリーゼの声が耳を打った。彼女の機能が戻ったのだ。
「エリーゼ!大丈夫なのかい!?」
『はい、機能に不具合はありません』
「よかったぁ……」
心の底から安堵の吐息が漏れた。だが、目の前の問題は消えてはいない。怪人はエリーゼを想像もできない方法で奪い、そして返した。意図が分からない。つまり、敵なのかどうかすら不明なのだ。
「ほう、電波通信だな。非効率的な通信方法だ。管理施設の外に船がある。電波で繋がっているのだな。ほう、この船は素晴らしい広がりを持っているな」
「あんた、何者なんだよ……?」
「肉体のある者よ、私は肉体のある者に興味がある。よって私は答える。そのようにしよう」
怪人は首をこちらに向けた。よく見ると仮面には四つの穴があり、プリズムのように七色に輝く四つの目が覗いていた。
「私は宇宙検閲官」
宇宙検閲官と名乗った怪人は四つの腕を大きく広げて舞うように回った。その手の延長線上に沿って黒く薄い大きな環が出現する。
衝撃や困惑やら理解の範疇をとうに超えていて、頭がまわらない。
『光の反射率がゼロです。環状ブラックホールでしょうか』
「ブラックホール……!?」
「ブラックリングだ。三次元生命体にも見えるように世界を組み換えた。三次元生命体にもブラックリングが見えるだろう。肉体のある者よ、肉体のある者は後悔があるか」
こいつは今僕に話し掛けたのか?はあ?……後悔と言ったのか?
「そこか。脳という。電気が走っているな。複雑な設計だが粗雑で原始的だ。まさか有機物を使っているとは思わなかった。素晴らしいと言えよう。実際、私が待っていたのは肉体のある者だった」
宇宙検閲官はゆっくりと地面に降り立ち、僕の前に立った。
構えていたモーデュアは宇宙検閲官が手を振ると超常的な力で飛んで行った。
僕は驚いて尻餅を突いた。宇宙検閲官を見上げるしかなかった。
「肉体のある者よ、後悔はあるか」
「後悔……?」
『どうやらまだ私たちを攻撃する意図は無いようですね』
確かに今のところ殺されたりする心配はないかもしれない。けど、バラバラにされたりして解剖されたりするのかもしれない。
だが、エリーゼの言葉で幾分かは思考が戻ってきた。
「後悔なんて言われても、すぐには思い付かない……」
「ほう、インデックス整理が未熟なのか。不完全なデザインを残しているからこそ多様性や発展性があるとでもいうのか。だが、想定内だ」
宇宙検閲官が軽く腕を振ると四方の通路に隔壁が降りて部屋が封鎖された。
「いくらでも迷うといい。示唆は無数にある」
言い残して宇宙検閲官は天井に消えていった。
「……ちょっと待ってくれよ」
……僕は真っ暗な部屋にただ一人残されてしまった。
泣いても叫んでも壁は壊れなかった。
暗闇はどうにでもなった。船外活動服のアイライトが照らしてくれるのでほとんど暗いとさえ感じないからだ。だが、それ故に部屋の狭さが気になった。四方8m程度の空間、探索船の船内と比べてもそこそこ広いくらいだが、窓がなく扉さえないこと、どこにも行けないという現実が現実よりもずっと空間を狭くしていた。どこというわけではなくとも、遠くに行くという目的自体が僕の正気の維持には必要だったのだ。
どうやっても部屋から出ることができないことに気付いた時、僕は部屋の中央で座り込んだ。
ここには僕しかいない。誰もいない。何もない。よく考えれば探索船に乗ってる時も同じだ。僕の人生の先には誰もいない。何もない。
何のために僕は生きているのだろう。僕は僕の存在を誰にも繋げることはできないのに。
自我が拡散していく。自我なんてものは不要とさえ思えた。僕を僕と認識する必要が生じるのは僕と他者を分離して動かすためなのだ。だとしたら、他者が存在しない僕に僕を認識する必要はない。僕は拡散した。
拡散した僕はタバコの煙のように舞い上がり、天井にぶつかって広がり、ゆっくりと僕自身で部屋を満たした。
だが、すぐに限界がきた。四方の壁と天井、僕の拡散はそこで終わった。いまや、僕の全てが部屋になったかのような不思議な気分だった。
漂う。
意味がないのでアイライトも切って、思考すら溶かして完全な闇に沈んだ。
トン、と足音がした。振り向くと母の顔があり、僕はブランケットに包まれて見上げていた。懐かしくて母に手を伸ばすと僕の手は赤子の柔らかくて丸くて小さい指をしていた。
体を起こすと壁がスクリーンになっていて、そこに運動場の外縁で応援する両親が描写され、僕は徒競走を走るところだった。確か僕はこの時2位になったのだ。1位になった男の子とは二度と喋らないようになった。
立ち止まると僕は林の中にいた。目の前には初恋の女の子がいて僕は彼女に付き合ってくれと説得していた。説得は効を奏さず彼女は僕に「そうゆうところが気持ち悪い」と言い放った。僕はどう答えればいいか分からずに走り出した。
走っているうちに僕は自転車を漕いでいた。世の中が便利になっていく中で取り残されるように続いていた自転車競技は僕の性に合っていたらしく、大会に出場することができたのだ。またもや僕は2位になった。僕は自転車を降りることにした。
膝を着きそうになったので机に手を置いて支えた。その揺れでノートに書いた字が歪んだらしく、机の反対側で君がムッと眉をしかめていた。そんな顔をしてはかわいい顔が台無しだ。いや、そんな顔でさえ君はかわいいのだった。
君と僕は白衣を着ていた。そして君は小さなカプセルを二つ持っていて、片方を僕に渡してくれるのだ。
そうだ、今僕の胸元にあるこの小瓶だ。今だって僕は肌身離さず持っている。また、僕は君もこのカプセルを大切に持っていることを知っている。僕と違ってずっと身に付けているわけではないけれど、机の上の小物箱入れ、君が宝箱と呼んでいたそこにカプセルを仕舞っていることを知っている。君はカプセルを決して捨てなかった。
後悔というならば、これだと思った。「彼女との三度目の誕生日」。あの日、何故僕は真っ直ぐ彼女の家に帰らなかったのか。仕事なんて放って帰れば良かったのに。
「一緒にいれたかもしれないのに」
それは言葉にした瞬間現実になった。壁をスクリーンにして、その向こうで僕と彼女が微笑みあっていた。二人はくすりと笑って、小さなベッドを覗き込む。その中には薄紅色の頬をした赤子がいて、二人に笑いかけて短い腕を伸ばしているのだ。
こんな未来があったのだろうか。
この後悔に比べれば、大臣を殴り飛ばして探索員になったことなんて後悔の内にも入らなかった。
「それが肉体のある者の後悔だな」
部屋の中央に小さな灯りが出現し、その側に宇宙検閲官が立っていた。
「……今のは何だったんだ?死ぬ前の走馬灯みたいなものか?」
「異なるものだ。肉体のある者が見たのは近似世界や過去、未來だ。施設内部では四次元世界の住民でも多世界を垣間見ることができる。我々、五次元世界の住民ほど自由自在というわけではない」
宇宙検閲官が小さな灯りに手を差し込んだ。すると、天井付近で微動だにしなかった環状ブラックホールがおののくようにその身を摂動に震わせる。
「聞こう。過去を変えたいか?」
「はあ?」
「ブラックリングは特異点を露出させる。因果律は崩壊し波動関数は再収束する」
「……端的にいうと?」
宇宙検閲官は間を置かず何でもないことのように続けた。
「過去を変えることができる」
ブラックホールは時空間を歪める。一般相対性理論の示したこの恐ろしい仮説は更なる推論に繋がった。過去の破壊である。
科学者たちが未だ宇宙船を持たずただ夜空を見上げるしかなかった頃、時間と距離を時計と巻き尺で測れる絶対的な指標であるとする古典的物理学はとある問題にぶつかった。如何なる慣性系から観測しても光速は秒速約30万kmであるという観測結果が出たのだ。
どこから観測しても光速が不変であるということは、光を追い掛けても光の速度が変わらないということである。速度は時間と距離の割り算で決まるものであるから、これは観測する者ごとに時間と距離が相対化しているということを示唆していた。感覚に反する観測結果に科学者たちは頭を悩ませて、時間と距離の絶対性を守ろうとした。
しかし、ある偉大な研究者はそこで発想を転換した。光速が不変であることを認め、そこから時間と距離についての思索を再出発したのだ。そして、特殊相対性理論と呼ばれるその思索は、遂に時間と距離の秘密を解き明かしてしまった。光速が不変なのは、光速に近付けば近付くほどに時間が遅くなるからだ。故に、如何なる物も光速を超えることはない。
だが、ブラックホールは光を捕らえて離さなかった。何物も光速を超えられないならば、ブラックホールの存在は特殊相対性理論に矛盾しないだろうか。
これに対する理由付けは次の一般相対性理論によりなされた。一般相対性理論は重力が引き寄せているのは物ではなく、時空間そのものであると述べたのだ。しかし、重力による時空間の歪みは同時に相対性理論そのものを崩壊させる危険を孕んでいた。重力が無限大となるブラックホールの中心、特異点の存在を予言してしまったのだ。特異点において時空間は無限のエネルギーに潰されてゼロとなり、相対性理論を含む知られている物理法則は灰塵に帰する。因果律も然り、それが時間の順序を指すものである以上、止まった時間の中で因果律が機能しなくなるのも当然だった。
もっとも、因果律の崩壊は現実には問題とならなかった。何故なら特異点は、事象の地平面と呼ばれる光速ですら逃れることのできない情報伝達の境界に覆われているからである。何もないからこそ何かがあるという、背理的な方法でしか存在を認識できないその漆黒の膜は未来永劫に外部と因果関係を持たない故に、宇宙の因果律が破られることはないのだ。
「過去を変える……?」
宇宙検閲官は答える代わりに灯りに差し込んだ手をゆっくりと揺らした。
その動きに沿ってブラックリングの摂動が増していく。
過去を変えることができるのならば、僕は……。
脳裏で先ほどまざまざと見せられた幸せな光景が甦る。
『警告です。政府の管理外での過去改変は許されておりません
エリーゼが冷たい声で警告をした。普段の柔らかさは消えて、最初に出会った頃のような機械的な言葉遣いだった。
何故だか、僕は彼女が敵になったような気がして荒く反論した。
「はあ?なに言ってるんだエリーゼ。そんな規則どこにもないだろ」
『ネガティブです。非公開規則に規定されています。宇宙開発の初期に私設の研究法人が検証不可能な過去改変を行い未曾有の災害を引き起こしたとの記録があります』
「そんなこと言われても……」
僕の先には未来がない。過去しかないのだ。いつもは分かってくれるのに何で分かってくれないんだ。
「過去を変えるとどうなるんだ?」
「三次元生命体の記憶は時間に紐付けられている。過去を改変すれば通常は改変に沿って記憶が書き換わる」
「じゃあ改変には誰も気付かない……」
「誤りだ。肉体のある者には四次元の回路が発生しかけている。同族には記憶に違和感を持つ者もいるだろう。肉体のある者を四次元に格納して、記憶の保持も認める」
「僕の記憶は残るのか?じゃあ僕はその故郷に帰れるのか?」
「前者については肯定する。後者については否定する。波動関数は改変時点での四次元座標に収束する。反転した因果律の問題となり結果のために原因が選択される。つまり、肉体は必ずここに残ることになる」
「そうか、帰れるわけじゃないのか」
帰れないのならなおさらだった。
「わかった。それでいい、過去を変えさせてくれ」
『マスター、やめてください。政府への反逆と判断せざるをえません』
「エリーゼ、分かるだろ。どうせこの先何もないんだったら、過去くらい変えたいじゃないか」
そうだ。ほとんどの人が覚えていられず、証拠だって残らない。変わるのだってほんの少しだけ、僕の人生に彩りが増えるだけだ。
『過去を変えても今が変わるわけではありません』
エリーゼの冷たい声が頭蓋骨で反響した。
それで僕は急に頭が沸騰して舌が動くままに500年の孤独を叫んだ。エリーゼは視界のどこにも見えないけれど、上を向いてブラックリングの中心に向かって叫んだ。
「君は機械だから分からないかもしれないけど、僕には過去があればいいんだ。人間はね、過去が宝物になるんだ。他人の気持ちや事実なんてどうだっていい!それは僕の世界のことじゃない。時間も距離もみんな違うんなら、それは別の世界の話だ。同じ世界にいられるのは触れ合った時だけなんだよ。僕はもう無理だ。誰とも触れ合うことなんてないから。僕には未来なんてないし、要らない。故郷になんて帰りたくもないからこの船に乗ったんだ。僕の世界は僕の時間、僕の距離で作られた光速で広がる僕の世界の中心だけだ。僕一人だけの世界さ!他人の気持ち?未知の事実?観測していないことなんて、空虚だ!信じられるのは僕だけ、僕の観測結果だ。僕の世界に存在していいのは、僕が信じることだけだ。過去が変わるなら、僕はやっと愛を信じられる気がする!分からないだろ、君は!」
息を切らして叫び終わって、ゆっくりと間を置いてエリーゼが答えた。
『機械だから、ですか。……はい、私には分からないことです。マスターはどうしてもやめてくださらないのですね。それならば……望むところではないですが、実力行使に移らせていただきます』
「……僕に逆らうのか」
船外活動服には生命維持装置の一環として心臓マッサージのための電撃発生器が組み込まれている。
『申し訳ありません。探索船に戻っていただきます』
「肉体のない者よ。三次元生命体としての完成度は有機物に勝るが、精神性における高次元への自己進化は絶望的か。相応しくない。邪魔を認めない」
『――――……』
僕は宇宙検閲官に振り返り、何をしたのか問うた。
「干渉を一時的に排除したのみだ。肉体のない者には改変が終わるまで黙っていてもらう」
「そうか。僕はどうすればいい?」
「見ているだけでいい。そのカプセルを渡すといい」
宇宙検閲官は仮面に開いた四つの穴から射抜くような視線をイーラセンの入ったお守りに向けた。
「これを?」
船外活動服の下にあるカプセルを押さえる。
「……ちっ。持っていけ」
胸部のプリトウェンを分解して、カプセルを取り出す。名残惜しくちらりと眺めてから宇宙検閲官に投げ渡した。
「使おう」
宇宙検閲官はブラックリングの摂動を更に増した。ブラックリングは回転を速め大きく波打ち始める。山と谷が何重にも生まれては合わさり、太くなり細くなり、遂にはプツリと切れてしまった。
そして、その奥にひっそりと、かつ、その歴史的意味を省みると大胆にも特異点が姿を顕した。
「うっ……」
僕は頭の中で幾千もの蚯蚓が這いずり回るような、味わったことのない気持ち悪さと一厘の快感を覚え嘔吐した。
それは形容しがたい世界から隔離されるべき何かだった。点であり線でもあり物体でないのは勿論のこと、空間と表現することもできない。光を放っているわけではないが何故か知覚することはできる。
僕は初めて世界の美しさを知ったような気がした。あらゆる学問が成立し理路整然としてそれらが世界を構築している。何故なら秩序があるからだ。秩序が世界に生命や文明や技術や……愛をもたらしているのだ。
だが、目の前にあるのは秩序とは根本的に異なるものだ。人類が発見してきたあらゆる理論を理不尽にも廃絶せしめる宇宙の混沌そのものだ。
ただ、それが何かが分からない。この世の理からあまりにも外れた光景に脳が理解を放棄している。あえて例えるならかろうじて窓のような概念に見えた。
そこで僕の意識は耐えきれなくなった。意識はあった。視界も見えていた。だが、理解することを拒んだ。僕の世界は一時的に意味をなすことを諦めたのだ。
宇宙検閲官が四本の腕ごとカプセルをゆっくりと灯りに挿入していった。
カプセルが消える。特異点に吸い込まれたのだ。カプセル内に含まれた量子情報も分解されて消え、対となった彼女のカプセルも8兆kmの距離と300日の時を超えて波動関数を収束させたことだろう。
宇宙検閲官は特異点を通して波動関数の発散を幾度も繰り返して、500年の時を光速よりも速く超えていく。結果から原因に至る逆転した因果関係を辿り、あの夜のステーションに向かう。
雪が降りしきる夜に列車へと背を向けようとする僕が特異点の向こう側に見えていた。
「辿った。伝えたい言葉を述べよ」
耳から入ってきたその言葉をなけなしの理性で咀嚼し、やっとの思いで渇いた舌を動かして一言だけ答えた。
「帰れ」と。
宇宙検閲官がどのようにして過去の僕に言葉を伝えたのかは分からないし、過去の僕がその言葉に従ったのかも定かではない。何故なら僕にはその記憶が無かったからだ。
ただ、確かに過去は変わっていた。僕の一種の囚人としての立場は探索研究員という名の職種にそっくりそのまま入れ替わっていた。
この度、僕は任務として系外宇宙にて観測されたピラミッド状の建造物を調査するために派遣されたらしい。らしいというのは、探索船に残っていた情報をかき集めて弾き出した合理的な答えにすぎないからだ。因果律が「僕が母星から8兆km離れた場所にいる」という「結果」から逆算して辻褄が合うように作り出した「原因」が探索任務だったのだろう。
記録によると掛かった時間は3年だけ。その上、凍結睡眠で辿り着いたので、母星で寝て起きたら到着していたようだ。僕の500年間の旅路はわずか0.6%にまで圧縮されてしまっていた。とても笑える話だった。これですぐに母星に帰れるわけで、宇宙検閲官様は官僚共と違いサービスで帰りの道まで用意してくれていたのだ。
僕は彼女が待っている星に帰った。
探索船は僕の時代のものより遥かに高性能になっており、ゆっくりと外を見ている暇もなく、気付くと発着場のレーンの上に載っていた。レーンは完璧にオートマチックな管理がされており、何の操作も要らずにターミナルに降りることができた。
ターミナルには僕が二度と見ることはないと思っていた数多の人間が生きていて、機械のように静かで精密な歩みをして各々の目的地に向かっていた。その中で三人が動かずに僕の帰りを待っている。
男が二人と女が一人。女は今や僕の妻となった、彼女だった。出会った時と何一つ変わりなく美しい。
僕は安堵の息を漏らし、その隣を見て凍りついた。
愕然とした。
隣にいた一人は僕の職務上の上司。
そして、逆の隣にいた一人は僕と同じ制服を着ているので同僚だと分かった。
――――そして、それは改変する前の世界で僕の彼女と結婚したあの男だった。
見間違うなんてことはあり得ない、幾度幾度も呪った顔だったから。
その時、僕は「彼女はきっといつか浮気をする」と思った。
僕はターミナルの冷たい床に膝を着いた。泣き出して叫びそうだった。心の中は怒りと悲しみでいっぱいだった。大切に大切に凍りつかせていた純白の宝物がドロドロと解けだして土足の靴で踏み荒らされたようだった。
僕は気付いてしまったのだ。
過去は触れられないからこそ尊い。僕は彼女と会ってはいけなかった。宝物だった過去は現在に打ち砕かれ、僕はもう君を殺すより他に選択肢がない。
本当にごめん。ごめんなさい。僕は君の夫と子供を光の彼方に散らした。そして、君の命を此方で散らすのだから、僕はなんて罪深いんだろう。可哀想な君、可哀想な僕。
僕はプリトウェンの手甲にある発射機構を手動で作動させた。エリーゼがどこにもいないので手動でやるしかないのだ。
残された望みはというと君を過去という宝箱に入れてもう一度、今度こそ、何度も何度も君を思い出すのだ。
ちょっとSFと恋の話を書きたくなりまして。