メロディ
眠気が押し寄せて来る午後三時、六時限目。
今にも瞼を落としてしまいそうになる中、私は首を大きく振って睡魔からの誘惑を必死で振り払う。体育やら現国やらで精神力がピークに達しているこの時間帯に微分方程式とは、田中のヤツ、睡魔と裏で手を組んでるんじゃないか?
田中と睡魔の術中に嵌り、授業開始三十分目にして私の瞼の重みは最高潮に達した。症状の度合が放物線(Y^2=aX)で表せて、徐々に眠気が晴れてゆくのなら我慢の仕様も在る。でも、残り二十分間をこのままの状態で過ごさなければならないのだから、性質が悪い。
「どうせ起きてても分らないんだし。寝ちゃえー」
私の脳細胞達が満場一致でその法案を取り入れた時、私の耳に微かなメロディが流れ込んで来た。
窓際の席に座る私は、そのメロディが教室の外、窓の向こう側から流れて来ている事に気が付いた。
田中が不服そうに黒板から右手を放し、窓際へと歩みを進める。
「全く。また北里のヤツか?」
そう呟きながら、すっかり物寂しくなってしまった頭頂部をポリポリと掻いている田中(この田中の癖を見る度に焦ってしまうのは私だけだろうか?)の横顔は迷惑そうに音源を睨みながらも、どこか喜んでいる様な表情だった。
私は数学から解放されて喜んでいるクラスメート達を横目で見ながら、窓の外にある筈の音源を探した。
眠気が押し寄せて来る午後三時、六時限目。
この一週間、彼はずっとこの時間帯になると屋上から学校中、若しくは町全体を見下しながらトランペットを演奏する。
吹奏楽部部長、生徒会長、様々な肩書きを担う彼、北里の新たな一面である。
例に倣って、北里は屋上の隅(長方形の頂点である其処に立つ彼を始めて見た時、自殺志願者かと心臓が飛び出そうになった)に直立し、金色に光るトランペットを天高々に翳して、それに生命の息吹を吹き込んでいた。
彼が息を吹き込む度に、その繊細な指先を踊らせる度にトランペットはまるで生きているかの様にその美しい歌声を惜しむ事無く青空に響き渡らせ、その朗らかな音が窓ガラスを越えて、私の鼓膜を優しく撫でてゆく。
雑談が溢れ乱れていた教室内は、気付けば彼の音色が確かに支配する空間になっていた。誰もが音色を望んでいて、少しの雑音さえも許そうとしない雰囲気。この一週間で何度も目にした光景で、とても心地の良い想いに満たされる。先程まで感じていた眠気など嘘の様に、私は瞼を閉じて、鼓膜の振動に全てを委ねていた。
「これ、何っていう曲かな?」
誰かが言った。でも、誰も答えようとはしない。曲名だとか、これが一体何の楽器の音色なのかさえ分らない人も居るだろう。でも、皆感じている。
喜びや幸せとは少し違う、安心感。
私の指が机の縁をトントンと叩く。「伴奏しても良い?」
彼の美しいメロディを汚さぬ様に私の脳細胞達は私の愛用ピアノ『ぺぺろん二号』の歌声を忠実に再現し、私の指は彼らに感謝を述べながら静かに机の上を踊り始めた。
――― トントン、トン、トントントン、トン、トン。
トランペットは空高く、ぺぺろん二号は私の頭の中で。
――― トン、トントン、トン、トントントントン。
私と北里の、二人だけの小さな演奏会。
――― トントントントン、トントントントン。
「………大好き」
私の小さな感情は溢れ出すトランペットの音色の中へと吸込まれて、そして静かに消えていった。
やがて曲も終盤に達し、トランペットとぺぺろん二号はほぼ同時にその演奏を終えた。そして沸き起こる拍手喝采。彼は学校の、若しくは町中の聴衆達に向かって大きく頭を下げた。
演奏が終わって数学の時間が終わっても北里が教室に戻って来る事はなかった。
今頃、校長や田中にコッテリと絞られている事だろう。この一週間、何度注意されたにも関わらず演奏を続けた北里。停学処分にならないのは恐らく、校長先生達も心の何処かで彼に感謝しているからかな? と私は考えている。
そして放課後、私は夕日の紅い光が差し込んで来る教室でひとり窓の外を眺めていた。
別に誰かを待ってる訳じゃないけど、今日はもう少しこの教室に残っていたい気分なのだ。もう少し、余韻に浸りたいのだ。決して、誰かを待ってる訳じゃない。
耳が痛くなりそうな程の静寂が支配する教室。
『誰か』の足音が聞こえた時、私の胸は急に張り裂けそうな気持ちになった。
終わり方、ちょっとまずかったかな?