窓辺の鳥
秋の澄んだ透明な大気の中を、鳥たちが舞っている。木々は鮮やかな赤や橙に染まり、高い空はまた一段と濃い青だ。
硝子戸の内側から、椅子に腰かけた少女は微笑を浮かべて鳥の舞い踊るさまを見ていた。小鳥たちの描く緩やかな曲線を追って、薄茶色の瞳が動く。
しばらくして、廊下から足音が聞こえてきた。
「――お母さん?」
少女はゆっくりと振り返った。木製の扉が、軋んだ音を立てながら開いた。それと共に、香ばしい香りが部屋の中へ漂ってきた。
「今日はこっちで食べようと思ってね。そろそろお腹が減ったでしょう?」
ふっくらとした血色の良い丸顔の母が、盆に焼き立てのパンとスープを乗せて部屋に入って来た。無味乾燥とした室内が、それだけで明るくなった。
「調子はどう?」
「大丈夫。とっても気分がいいの」
にっこりと笑みを浮かべ、少女は自身の母を見上げた。
「そう。良かったわ」
そう言いながら、卓上に食事を並べた。出来立てのスープには美味しそうな湯気が立ち、向かいにいる母の前掛けが曇って見えた。
「それじゃあ、食べましょう」
食事に対して礼をし、感謝の言葉を呟く。ごめんなさい、と心の中で付け足した。
スプーンで野菜をそっとすくい、小さく息を吹きかけた。唇で少しだけ触れてみると、やはり熱い。
「相変わらず、猫舌だね」
呆れたように言われ、少女は肩をすくめた。もう少し冷ましてから、慎重に口に含む。良く火が通っていて、柔らかい。
「……美味しい」
母は何も言わなかったが、目元が和んだ気がした。
食事を終え、母は食器を片付けに階下に戻った。視線はまた、窓へと吸い寄せられる。
近所の木に巣をかけている小鳥たちが、せわしなく飛び交っていた。しばらく眺めていると飛び去ったので、部屋に視線を戻す。室内には本が何冊もあった。その多くが鳥に関するものである。棚にずらりと並べられたそれらは古いものらしく、装丁は色褪せ、紙は黄ばんでいたが、少女は気に入っていた。
くすみ、上部がほつれ始めている背表紙の群れを眺めながら、今朝の父親の言葉を思い出す。
『今日は、良いことがあるぞ』
詳しくは教えてくれなかったが、父は終始にこにことしていた。新しく本でもくれるのだろうか。そう思うと、笑みがこぼれた。
階下から物音が聞こえ、読んでいた本から顔を上げた。部屋から出て、日が落ちて暗い階段をゆっくりと降りる。
「お父さん、お帰りなさい」
足音を聞きつけていたのだろう。居間の戸を開けると、父と目が合った。
「ただいま」
父は大きな荷物を抱えていた。茶色い布がかぶせられている。
「それ、何?」
聞くと、父はにやりと笑った。
「驚くなよ。……ほら」
布が取られた瞬間、少女は目を見開いた。
——鳥。
茶色い羽毛の、手に収まるほどの小さな鳥。つぶらな黒い瞳が、鳥籠の中からこちらを見つめている。
「どうだ?」
父は自慢げに胸を逸らしていた。
「友人から一話譲ってもらった。
……いらなかったか?」
「ううん、そんなことない。嬉しいよ。ありがとう」
「それなら良かった。……何も言わないから、少し心配したよ」
父は穏やかに目を細め、苦笑した。
「……そっか。ごめん」
目を伏せ、小さく謝った。
窓辺に置かれた鳥籠の中で、茶色い小鳥が穀物をついばんでいる。朝日がその様子を柔らかに照らし出していた。少女はその様子を物憂げに眺めていた。
ふいに、乾いた咳が喉から飛び出て、細い体をゆすった。昨日よりも体が重い。ため息をついて、卓上の水差しから椀に水を注ぎ、飲み干した。部屋の隅の寝台に横になる。小鳥は首を傾げ、小さく鳴いた。
どれほどの間眠っていたのだろうか。目を開けると、差し込んでくる光は既に傾いていた。部屋の中は梔子色に染まっている。何故目を覚ましたのだろうと視線を動かすと、扉に手をかけている母と目が合った。
「具合が悪いの?」
ゆっくりと首を横に振る。
「心配するほどじゃないよ。ほら、昨日、この子をくれたでしょう。それが嬉しくて、眠れなかっただけ」
「そう」
「うん。……もう、大丈夫だから」
母は安堵のため息をついた。
「それならいいわ。そうだ、その子の名前はもう決めたの?」
「……ううん。つけなくても、いい」
母は不思議そうな顔をして口を開きかけたが、何も言わなかった。
朝、雨の音で目を覚ました。水滴が、葉を、屋根を、窓を、叩いている。
少し、体が熱い。熱を出したのだろうか。身を起こして寝台から降りると、ふらりと体がかしいだ気がした。心もとない足取りで部屋を出、壁に手をつきながら階段を降りる。
居間へ入ると、台所で母が食器を洗っているのが見えた。
「おはよう。……今日は、遅かったわね」
「おはよう。なんか、体調悪いかも」
「……なら、食べたら寝ておきなさい」
食事はもう並べられていた。作られてから時間がたち、ぬるくなったシチューはむしろ飲みやすい。乾燥したパンをちぎりながら、交互に口の中に入れていく。いつもよりも遅かったが、全て食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
食器を台所に持っていく。置くと、かたりと硬い音がした。
「顔が赤いわね。熱?」
濡れた手を前掛けで拭き、少女の額に触れる。ひんやりと冷たい手が心地よい。母は自分の額の温度も確かめた。
「熱いわね。温かくして寝なさい」
「はい」
「あの鳥用の麦は、子袋に入れてそこに置いておいたから、ついでに持って行っておきなさい」
少女は頷いた。机の上の子袋を持ち上げ、居間を出る。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ゆっくりと階段を上り、自室に戻る。鳥籠の前に立ち、餌入れに麦を流し込むと、鳥は小さく跳ねて寄ってきて、ついばみ始めた。
窓の外を見ても、鳥は見えなかった。湿った赤い葉がうなだれて、一枚、また一枚、と重たげに落ちていた。
少女は夢を見ていた。
少女は鳥だった。美しい空の中を、軽やかに飛んでいた。力強く羽ばたき、風に乗って舞い上がる。その体は自在に動かせた。
眼下には広大な地平が広がっていた。地上の全てがとても小さい。
少女はどこまでも自由だった。
目が覚めると、また雨の音が聞こえてきた。外はまだ明るい。昼を過ぎたぐらいだろうか。
深く息を吸って目を瞑り、先程の夢の余韻を嚙み締めた。現実には叶わない、自由の歓喜。どこまでも飛んで行けそうな軽い体。
ゆっくりと目を開け、脇にある鳥籠を見た。
「……あなたも飛びたいだろうに」
小鳥はただ瞬きをするだけだった。
いつの間にか、また寝ていたようだった。目を開けると、空は完全に暗くなっていた。しかし、あまり眠れた気がしない。
ともかく食事を摂ろうと起き上がる。その途端に目眩が襲って、また寝台に倒れ込みそうになった。ゆっくりと立ち上がったが、足元がおぼつかない。壁に沿ってゆっくりと歩き、やっとのことで居間にたどり着く。
「……お母さん、お腹空いた。何かある?」
はっと、母が振り向いた。編み物をしていたようだった。
「起きてたの? まだ、熱は下がっていないようね……。汁物を温めるから、座って待ってて」
ほどなくして、湯気の立つ食事が目の前に並んだ。感謝の言葉をいつも通りに呟く。
——ごめんなさい。私はもう、長くないのに。
日差しが部屋に差し込んで、少女は目を覚ました。体のだるさ、頭の痛さ、その他諸々の不調を吹き飛ばしてくれそうなほど、空は青く澄んでいた。
小さなさえずりが聞こえて、少女はゆっくりと体を起こした。節々には痛みがあり、筋肉は強張っていた。慎重に立ち上がり、鳥籠に近づいた。
小鳥は窓の外の空を見ていた。足音に気づいたのか、こちらを向いて再度鳴いた。
「……そう」
少女は留め具に手を変えた。鉄籠の中の安住も、与えられる穀物も、鳥には無用の長物だろう。
——あなたにはきっと、こちらの方が幸せだろうね。
籠の口を開け放し、窓を開ける。吹き込んできた早朝の清涼な風に、少女は身震いをした。大気は冷ややかに張っていた。
「お行き」
小さく、ささやく。
小鳥は二、三度、羽ばたくような仕草をした。籠の口に飛び移り、羽を膨らませ、小さな風を残して部屋から飛び去った。そのまま、高く高く昇っていく。
「……良かった」
――動けるうちに、出来て。
少女は窓を閉め、小鳥の飛び去った空をじっと見上げていた。