巳室一族
文末に反社会性表現がちょびっとあるため念のためR15
その夜、奈生の夢の中に蛇神様が現れた。
『左希子が死んだ。ああ哀しや、ああ悔しや』
ポロポロと涙を流して大きな青い蛇は泣いていた。
朝、起きてすぐ部屋を出ると父が二階に上がってくるところだった。顔を見合わせお互い声をかける前に隣の部屋から弟が寝巻のまま飛び出してきた。
「ねえちゃん!蛇神様が夢に出てきた!」
…どうやら託宣は一族に下りた。愚かで理不尽な異世界召喚との戦いが再び始まったようだ。
・・・・・・・・・
巳室一族とは、奈生の家の納戸にあるボロボロな古文書によると室町時代より続く由緒ある家系らしい。
その昔、一族の青年が死にかけのアオダイショウを助けた。その蛇がいる場所は不思議と空気が湿りを帯びる。雑色が一切混ざらぬ紺碧の鱗に覆われた美しい蛇が水の気を呼び寄せたのであろうと──当時一族が住んでいた土地は渇水に苦しんでいたため、青年は祠を建てて蛇を祀った。棲みついていた蛇はいつの間に姿を見なくなったが祠の周囲は変わらず水気を帯び、そのことにより霊験があると信仰を集め祠は立派に立て直され、巳室一族が代々護る「青蛇神社」となった。
最初小雨程度あるかどうかの利益だったが、信仰と住民の治水の努力により、この土地も今や水に困らぬ穏やかな田園地帯となった。青蛇神社は静かにこの地に根付き、幾多の戦乱もその加護により無事に掻い潜ってきたのだ。ただ一つの災厄を除いて───
記録を遡ること500年前。当時巳室家当主には二人の娘がいた。上の娘は十六にして嫁ぎ、下の娘にもよい相手をと考えていたところ、ある日、
「衆目環視ノ元、忽然ト消エタリ」
…神隠しに遭った。
「齢、十三」
それまで事細かく日常の様々や、時にはへたくそな歌や絵が書かれていた当主の日記が、ある日その記述を残し以降は空白となる。当主の衝撃はいかほどのものだったか、親族たちの悲しみはどれほどのものだったか、紙が貴重な時代に空白のまま保存されてきた日記が物語る。
だが災厄はそれだけでは終わらない、いや、むしろ始まったと言ってもいいだろう。そこから20~40年ごと、短ければ10年も経たずに、巳室一族の娘は神隠しに遭い続けた。
『娘が見つからぬ…許しておくれ…我に今少し力があれば…!』
2人目の娘が消えた頃から、当主と近しい血族の夢枕に蛇神が立つようになった。蛇神は山に上がり水に潜り娘を探したが杳として行方を掴むことができなかった。天敵の烏天狗に頼み込むことさえ厭わなかったが、生贄を求める邪妖のたぐいは近辺にいないはずだと首をひねる始末。最古参の土地神はあるいは自分たちの力も及ばぬ異なる者の仕業ではないかと遠回しに娘を諦めるよう勧める。
自分の力が至らぬことを詫び続ける蛇神に当主たちも腹をくくる。土地神さえ正体を掴めぬ何者かが続けて二人目の娘を攫った。だとしたら「これ」はずっと、それこそ巳室一族が断絶するまで終わらぬかもしれぬ。
諦めて人身御供として娘たちを捧げ続ければいいのか……否!
蛇とはそもそも執念深い生き物。その蛇神に仕える巳室一族も情の深さでは蛇に引けを取らない。一族の娘を、我が子を、愛する者を攫われ続ける無念と怒りを歯ぎしりと共に噛み砕き腹の底に飲み込み、一族は手がかりが一切ない暗闇を手探りでもがきながら果てのない戦いに挑むことになった。
度重なる神隠しで、消える娘の傾向が分かってきた。年齢が十から二十の乙女、そして当主に近い血筋。該当する娘がいない場合は遠縁でも既婚者であろうとも神隠しに遭う。その代わり次の神隠しへの間隔が短くなる。
「どうやら巫女の力を求められているようだ」
一族と蛇神は同じ結論に至った。そうなれば次に消えそうな娘の見当もつく。ではと候補の娘を結界の中に閉じ込めるように育てても、気づくと姿を消してしまい、ただただ窮屈な思いをさせたと悔やむばかり。
『それでは逆に力がつくように修行をさせよう、我が憑坐を勤められるほどに』
蛇神の提案により娘たちに修行を受けさせることにした。依り代になる人間は感覚を磨くだけでなく、体力気力共に大きく消耗するため、神降ろしに耐えられるように厳しい修行が必要であったが、どの娘たちも健気に修行に打ち込んでくれた。なにせ攫う者の正体も攫われた先の情報もまだなにもつかめていない。少しでも娘たちに力をつけさせるしか今は方法がないのだ。
6人目の娘が攫われた時に初めて事態が動いた。当主の姪であった「キヌ」という娘は一族の中でも群を抜いて巫女の素質を持っていた。そしてその娘が神隠しに遭ったとき、咄嗟に蛇神は娘に乗り移ることができたのである。
神隠しに娘が消えた一瞬のち、娘のいた場所には煌びやかな服に包まれた金の髪の異人の子供と、息も絶え絶えの青蛇が現れた。初めての事態に屋敷内は騒然としたが、なんとか当主が周りを落ち着かせ、消耗した蛇を祠に戻し、全く聞いたことない言葉で何やらわめく子供を黙らせて屋敷の奥に押し込めた。
七日経ち、蛇神は再び夢枕に立つ。どうやら娘に憑依して共に攫われたがあっという間にはじかれてしまい元の場所に戻されたそうだ。
『キヌと一緒に戻ろうとしたが叶わぬ。我より遥かに強い何かがあの娘をかの地に縛り付けていたようだ。咄嗟に目に入った偉そうな童を掴むので精一杯…』
ふしゅる、と閉ざされた口から息を漏らし悔しさを滲ませる蛇神に当主たちは恐縮する。一族に生まれた者すべてを我が子のように慈しむ蛇神様。娘たちが攫われ始めてからどれほど心を砕いてくれたか分かっているだけに、感謝こそすれ責めるいわれはないのである。ともかくにも蛇神のおかげで初めての手がかりが掴めた。あの異人の子から取れるだけの情報を取らなければなるまい。
事情を把握した当主は早速動き出した。まず一族の中でも当たりの柔らかい者を異人の子の世話につかせた。最初は高飛車な態度の子供も薄暗い座敷牢と威圧的に脅してくる当主たちの態度、そして夜ごと現れる恐ろしげな大蛇の悪夢に消耗していき、世話役の者に懐柔されていった。
そこから少しずつ言葉を教え込む。それと同時に子からも異邦の言葉を教わり、できうる限り書物に対訳を記し、それをもって神隠しに遭う可能性がある娘たちに異邦の言葉を少しでも覚えてもらう。消極的対策だが少しでも攫われた娘たちの苦労を減らそうという涙ぐましい努力であった。
言葉が理解されるにつれ事態も明らかになる。異人の子は「えうろーぱ」という国の王の子だそうだ。その国は長らく水害に苦しみ、彼らが信奉する唯一の神に祈ったところ、水を鎮めることができる巫女を召喚する儀を伝えられたそうだ。
そのことを聞いた者は皆その神の行いに憤った。加護する民を守るのは大いに結構、しかしそれが異邦から人柱のように娘を攫うやり口となるとまるで邪神ではないか。かの国もかの国だ、巳室一族の住まう土地は同じく水で苦しんでいたが確かに今は蛇神の加護で豊かに暮らせるようになった。しかしそれは信仰だけではなく、住民たちが余裕のない中、少しずつ人手を捻出し治水に励んだことも合わさった結果であり、決してかの国にように安直に巫女を攫ってきて全て丸投げしているわけではないのだ。
さて、理由が分かったところで神隠しを止める手立ては依然としてない。忸怩たる思いの中で月日は流れ、キヌがいなくなって35年後に7人目の娘が神隠しに遭い、今度は異邦の神官が入れ替わりに連れてこられた。王の子から聞き出し、少しずつ綴られた異邦語の対話表が役に立ち、案外すんなりと意思疎通ができ、王の子では分からぬ娘たちの待遇がこれで分かった。
曰く、召喚された巫女は神殿の奥で終生荒れ狂う水を鎮めるために祈り続け、巫女が死したのちは1年かけ儀式の準備を行い次の巫女を呼び出す。そして──
「「おおぉ…」」
夢現に響くは蛇神と巳室の血族の嘆きの声か、無念の内に亡くなった娘たちの泣き声か。
召喚された巫女の中で力が足りない娘もいた。そのような娘は数年様子を見たのち、次の巫女を呼ぶために切り捨てる。神隠しの間隔が短い時があったその理由はあまりにも救いがなかった。
怒りのあまり異邦の者どもを打ち捨てようという声も上がったが当主はそれを抑える。「えうろーぱ」の対話表はもはや辞書の様相を呈しているがまだまだ完成には至らない。彼らには生きている限り異邦の情報を残してもらう必要がある。
時代は戦国を過ぎ江戸に入る。鎖国令はすでにくまなく日ノ本に敷かれ、「南蛮」「紅毛」を彷彿とさせる彼らの姿は決して外の目に触れさせるわけにはいかない。
その後、異邦の王の子も神官も、生きている限り巳室の座敷牢から出ることはなかった。
そして8人目。ヨヱという娘の番となった。その頃、一族の知恵者が一計を案じた。神隠しの条件にあてはまる娘たちの背中に蛇神の鱗を一枚埋め込み、憑坐としての力を更に増強することを蛇神に願うというものだ。神の一部を体に取り込んだ娘たちは人の道を外れることになるため蛇神は躊躇ったが、娘たちに否はなく、ヨヱを含めた5人の娘たちに仕掛けは施された。
結果ヨヱ一人異邦へと攫われ、入れ替わりに蛇神は再び異邦の神官を連れてきた。一見計画は失敗したようだが、蛇神曰くさすがに異邦の神といえども体内に埋め込まれた鱗をはじくことができなかったようで、ヨヱと蛇神の間をかろうじて細い線でつなぐように、お互いの状況がおぼろげに分かる状態になっているとのことだった。たったこれだけでも異邦に独りいるヨヱの気は少しは休まるだろうと、一族の者たちの心もわずかに慰められた。蛇神の鱗を埋め込まれた残り4人の娘たちは姿かたちが変わったり、望まぬ神通力を手に入れたりすることになったが、一族に大切に守られ無事天寿をまっとうすることができた。
ヨヱが攫われて41年。蛇神は娘とつながっていた糸が途切れたのを感じた。
『逝ったか…ヨヱ…』
悲しみに暮れる暇はない。ヨヱが死んだということは1年後に次の巫女が攫われるということだ。
「ウタちゃん、山向こうの油屋の若旦那はなかなかいい人だと思うのだけど、今度会ってみないかしら?」
「おスミねえさん…やめてください。それは姉さまのところに来た縁談でしょう?」
ヨヱが亡くなった頃の当代当主の孫娘である「ウタ」は少々風変りの娘であった。巫女としての素質はまずまずであるがとにかく学に対して貪欲で、幼いころより「えうろーぱ」の対話表を熟読し、ヨヱと入れ替わりにつれてきた神官とも支障なく異邦語で会話ができた。
ウタは柔らかな物腰と相まって人の懐に入るのがうまく、彼女が次の巫女になるかもしれないと分かるやいなや、同じ巫女の条件に当てはまる従姉妹が自分の縁談を彼女に譲ろうとするほどに、屋敷内外問わず様々な人に好かれていた。
「ありがとう姉さま、でもわたし『えうろーぱ』に行くと、小さいころから決めていたの」
決意を秘めた瞳を逸らすことなく、周りの説得も縁談もはねのけ、ウタは一心に勉学と修業を続けながら次の神隠しを待った。そしてウタが21の時召喚が行われ、蛇神は再び異邦の神官を連れて戻り、異邦に残されたウタは蛇の鱗を介して蛇神と微かにつながっている状態となった。
異変はウタが攫われて40年後、蛇神とつながっていた糸が途切れた後に起こる。ウタが死んだと思われるのに、いつまでも経っても次の神隠しが起きなかったのだ。最初儀式の準備に手間取っているのかと推測してみるも、1年、2年、5年…10年…20年過ぎた頃、これはウタが何かしたのかと皆の者は言い合って、あの風変りの娘ならさもありなんと苦笑した。そして50年60年も過ぎた頃、当主は警戒を緩めることにした。一族の年頃の娘にはかつての記録を読ませ、簡単な異邦語や心構えを教えるのみにとどめた。ウタが亡くなって100年も過ぎた頃には、事態は完全に収束したと一族も蛇神もほっと胸を撫で下ろし、先祖代々記録してきた神隠しに関する膨大な資料は蔵の奥に静かに眠ることとなった。
時代は明治、大正と過ぎて昭和に入り、大戦の混乱もなんとか凌いだ巳室一族に衝撃が走ったのはウタが亡くなってから200年近く経った頃だ。
神隠しが、再び始まった。
当時日本は高度成長期に沸き、若者は洋楽文化に熱狂した。一族の娘も例外ではなく、当主の娘である幸子はラジオやレコードプレーヤーにかじりついて海の向こうのポップな音楽に夢中になっているいまどきの若者だった。そんな幸子はある晩、憧れのバンドが来日することを知り上京したいと宣言して父親と真っ向からぶつかった。
「だめだだめだ!娘一人で東京に行くなんて騙されるに決まってる!お父さんも一緒に行くぞ!」
「やめてよ!ジョン様に会った後は銀ブラして新宿の風月堂だって行ってみたいのにお父さんと一緒なんて恥ずかしいよ!」
「じょ…じょん?け、毛唐に誑かされるな幸子!それに新宿だとぉ!?そんな卑猥な場所は許さんぞ!絶対許さん!」
「ひわいってなによ!お父さんいやらしい!ばか!あほ!」
「と、とにかく許さん!東京に行くなんてお父さん許さんからな!!」
…ある意味どこにでもあるような親子喧嘩の一幕で、幸子は忽然と父と家族の目の前で消えたのだ。
その頃には神隠しの記録を眉唾とする者もいるくらいには、災厄の記憶も警戒も薄れていた。あまりにも予想がつかなかったことに、当主どころか蛇神すらも動くことができなく、我に返った当主は母屋の側にある蔵に駆け込み、先祖が残していった記録を読んで神隠しと確信し項垂れた。
どうして?なぜ今頃になって?天に問いかけても答えは返ってくるはずもなく。理不尽な思いを抱えた一族はただ粛々と次の戦いに備えるしかできなかった。
・・・
「左希子おばさんがいなくなったのって私が生まれる何年も前だよね」
アルバムをそっと撫でながら奈生はつぶやいた。やや色あせた写真に写っているのは本家の玄関先で佇んでいる初々しい女学生の姿。写真が日本に広まったのは明治に入ってからで、その頃には神隠しは既に収束していた。だが魂が抜かれると恐れられた技術を巳室一族は躊躇なく受け入れ、家族の写真、特に娘たちの姿を残すことに執心した。まるで何かを恐れるように、少しでも引き留めようとするかのように、銀板や紙に彼女たちの様々姿を焼き付けた。
奈生の大伯母にあたる幸子の写真もアルバムに大切に貼られている。少し恥ずかしげにポーズをとる一人の写真もあれば、家族たちと幸せそうに並ぶ写真もある。神隠しに遭った娘たち一人一人、それこそ写真に写ってない先祖たちを遡っても、皆家族との大切な絆があって、それを理不尽に絶たれたのだ。
「奈生ー、甲斐おじさんと涼子おばさんがいらっしゃったわよー!下りてきなさいー」
階段の下から顔を覗かせた奈生の母の顔は、短い間にずいぶんとやつれてしまった。
我が子を、愛する娘を攫われるという悲劇を恐れ、巳室一族は嫁取りや婿取りにあまり積極的ではない。だが本家の血筋を絶えさせると神隠しの被害が薄い血筋に広がるかも知れないと、今までやるせない思いで血脈をつないできた。また一族の傾向として細やかな情を持つ彼ら彼女らは皮肉なことに嫁入りや嫁取りの相手として人気が高い。
実際奈生の父も若いころはかなりもてたらしく、本人は自分の家がいわくつきだと結婚をあきらめているせいでどこか影を持っていたのが余計女心をくすぐるとかなんとか…奈生からみたら今の父はただのくたびれた親父なのだが…。
そんな父に今も惚れ込んでいる母は、断られてもどうしても諦められず何度も告白し、最後には父にすべての事情を説明されたそうだ。父の妹である左希子の件はちょっとした騒ぎにもなったし、若い娘が消える家だと地元では有名で、母の両親にも結婚を反対された。そしてそれらの噂が事実で自分たちの子供も同じ目にあうかも知れないと父に知らされ、母は悩みに悩んだ末に嫁ぐことを決めたのだ。
「ほっておくとあの人、本当に一生結婚しなさそうだから」と照れながら説明する母だが、いまだに母の実家とは半絶縁状態で奈生たちともほとんど交流はない。いくら惚れたもん負けとはいえよく覚悟を決められたと奈生は思う。
とはいえいくら覚悟を決めても、いざ事態が動き出すとやはり動揺は隠せないものだ。この1年近く、深夜に奈生はトイレに起きたりすると声を抑えて泣く両親の姿を何度も目撃した。自分の力及ばないところで親不孝をしてしまうのは実に歯がゆい状況だが、奈生もまた一族の一人、物心ついたころより覚悟は決めていた。
「甲斐おじちゃん涼子さんお久しブリーフ!」
階下に降り、すでに死語となりつつある挨拶をして、奈生はさっそうと親族が集まった居間に入った。
「奈生ちゃんおひさー、相変わらずねー」
へらへらと挨拶を返す女性は奈生の従姉妹叔母である涼子。
数百年ぶりに神隠しにあった幸子の次の神隠し対象として警戒されていたのは当代当主の娘の左希子と彼女の従姉妹の涼子の二人であった。片方を急ぎ嫁に出して対象を絞る案も出たが、左希子と涼子の二人とも修行を受け蛇神の鱗を体内に入れることを選んだ。そして攫われたのは左希子。残された涼子は鱗により遠見の力を得て、ときおり上京しては金持ちからお布施をむしり取って(本人談)生計を立てている。蛇神の力の影響か、垢抜けた装いのせいなのか、すでに中年に突入しているはずなのに若々しい外見のままである。
今回の神隠し、直系である奈生が攫われる第一の候補だが、蛇神の鱗の影響を長年受け、比較的安定して力を扱うことができる涼子も念のため第二候補として修行や異世界対策に参加している。
「奈生ちゃん久しぶりだね」
一方苦笑して奈生を見返す壮年の男は甲斐。栗色の髪と若草色の瞳、そして彫りの深い顔。どうみても日本人に見えないこの男は、左希子が攫われた時に入れ替わりにつれてこられた異世界人である。
居間に同席するのはこの二人と奈生の両親、弟、そして父方の祖父母。祖父はむすっとした顔で腕を組みどっかりと居間のソファに腰を下ろし、祖母も険しい表情で横に並んでいる。
考えてみたら一連の騒動でもっとも心を痛めているのは祖父母であろう。特に祖父は姉である幸子、娘の左希子、そして今度は孫娘の奈生を喪うかもしれないのだ。過去の神隠しの間隔は長ければ4、50年のため、世代を飛び越したりすることが多いが、今回は間隔は短く、三世代連続で起きている。その理由は、ここに座っている甲斐により判明している。
遡ること20数年前。左希子が異世界に召喚された時、祖父母と父の前に現れたのは神官風の白いローブを身に纏った少年だった。事情を聞き出そうと身柄を確保した父たちはすぐに異変に気付いた。ゆったりとした衣服の下に隠れた少年の体はガリガリに痩せこけ、傷だらけだったのだ。
監視付きで看護し、少年の体調が落ち着いたころ、父は先祖伝来のエウローパ語辞書を片手に意志疎通をはかり異世界の事情を聞き出した。そして判明したのはエウローパという国は50年ほど前にリシャイアという帝国に併呑され滅びたこと。神殿は存在の盤石のため、帝国は権威づけのため、エウローパで廃止された巫女召喚を再開したこと。召喚には生贄(!)が必要と文献に残っていたため奴隷を準備したこと、つまり連れてこられた異世界の少年、自身をカイと名乗ったのだが、彼は神官でもなんでもない買われた奴隷であること。さすがに奴隷であるカイから詳細は聞き取れなかったが、彼が感じた神官や召喚に立ち会っていた人々の態度から召喚や巫女を軽んじている様子が見て取れた。どうやら巫女は祈りだけではなく政争の駒としてもいいように扱われ、結果30年足らずで儚くなったのはないかと推測される。
これらのことを聞き出した一族と蛇神は揃って思った
異世界、ぶっつぶす。と──
「とりあえず婆さんと一緒にこれだけ作ったぞ」
祖父がどさっと机に放りだしたのは大量の御神符。それを見て奈生たちは頬をひくつかせる。
「おじいちゃん、多すぎるよこれ。もってけないよ」
「服の裏にでも縫い付ければええ」
「そんな怪しいのすぐ剥がされちゃうよ!」
しかも御神符は性質上あまり身に纏いたくないものだ。
祖父の姉である幸子が攫われた後、なりふり構わぬ祖父はツテとコネを駆使しある神社に潜り込んで修業を重ねた。その神社の娘(祖母)をついでにゲットという巳室一族の人たらし能力を遺憾なく発揮しながら、祖父は御祭神に認められ見事呪力を授けられる。
御祭神の名は崇徳天皇。
じいちゃん、完全にや(殺)る気だ。
「燃やして灰を呑めばええ」
「いやだ、絶対やだ!こっちが呪われる!」
むっとした祖父はそれでも机の御神符を山分けして奈生と涼子にぎゅうぎゅう押し付ける。
「ちょおおっ!?」
「とにかくもっとけ、どうせ敵の手に渡っても使いこなせるもんじゃなし、なんなら攫われた直後に全部使えばええ」
しぶしぶとお札を受け取る二人だが、すかさず奈生の父が小汚い壺を机にドンと置き追撃する。
「さぁここにありまするは古今東西の毒虫を集めて精製した蠱毒」
「やめて」
「父ちゃん古いなあ。やっぱここは神をも殺す銀の弾丸をこめた44マグナム…」
「大介(弟)!それ銃刀法違反!」
「安心しろ、モデルガンだ」
フッとニヒル(のつもり)な笑いを浮かべる弟に奈生は頭を抱える。この弟は小さいころは素直に一族の教えを聞いてたのに、長じてネットにはまり、ある日「異世界召喚ktkr!」と興奮してどこかの小説サイトを印刷して両親にはしゃいで見せてこってり絞られたのだがどうにも懲りてないようだ。なにやら厨二病という病にも同時にかかったようで、手の打ちようがないと家族一同生暖かく見守ることにした。
今も弟は大真面目に銃を勧めているのだろう。もちろん父も大真面目だ。祖父の薫陶で呪詛に通じるようになった父は、いまや呪詛界で押しも押されぬ第一人者となった、らしい。繰り返し言うが奈生から見たら父はただのくたびれたおやじである。
時代に逆行するかのように代を重ねて霊力が強くなっていく巳室一族。それも全ては攫われていく娘のため。今までは只管に召喚される娘の守りに心を砕いていたが、今はじめて一族は攻勢に転じようとしている。
・・・
「奈生ちゃんそろそろ休もう」
薄暗い道場で涼子が布団を敷いて奈生に休むよう促した。召喚の瞬間に蛇神をその身に降ろすために不浄を断ち切り、霊力を研ぎ澄ます修行が必要なのだが、召喚の日にちは1、2日前後することもあって、奈生たちは予定の7日前から斎戒に入った。食事や娯楽など厳しく制限され、禊をくりかえし受けた奈生は既に疲労困憊ですぐにでも布団に倒れこみそうだったがそこはぐっとこらえる。召喚予定日まですでに3日を切った。奈生はその前に涼子に伝えたいことがあるのだ。
「涼子さん、ちょっといいかな」
手を握りしめ涼子に向かって端座する。涼子もそれに気づき奈生と向かい合って座った。ちなみに涼子のことを「涼子おばさん」などと呼ぼうとなると呪符が飛んでくるため奈生は涼子のことを「涼子さん」と呼んでいる。
「奈生ちゃん、なんざんしょ?」
「あの、私、多分今回呼ばれるのは私だと思うんだけど…」
「…ああ…」
確かに涼子の霊力は強いが、おそらく本家に近い血筋が呼ばれることが今回一族と蛇神の予想である。なので涼子が奈生と二人で斎戒に入ったのは万一のための控えというのもあるにはあるが、奈生が召喚された時の見届け人の意味合いの方が強い。それを分かっている涼子も困ったように眉を寄せて奈生を見やる。
「私、絶対こんなふざけた儀式やめさせようと思うんだ。このままだと大介は結婚しないかも知れないし…」
父は運よく母に押し掛けられた。だが弟は?
奈生の弟である大介は以前から神隠しに関してふざけたような態度を取っているが、ふとした瞬間に不安定な心が表にでることがある。特に叔母である左希子の死を蛇神より知らされてからは、奈生の姿をしばらく見ないと家の中を探して回るなど不安がることが多い。もしこのまま奈生が異世界に連れ去られたまま何も手を打つことができなければ、弟が本家の血筋をつなぐことをためらう可能性だって十分にあるのだ。
「これで終わりにするから。だから」
神隠しがもたらす影響は攫われた本人だけではなく、周りの人たちの人生にも暗い影を落とす。
「だから、結果がどうなろうと涼子さんと甲斐おじさんはもう気にしないで、一緒に、幸せになっていいと思う」
神隠しを逃れた涼子と異世界から連れてこられた甲斐。甲斐に対して本家の感情も複雑だろうと、分家である涼子の家が甲斐を引き取って育てた。二人とも小さいころから遊びに来る奈生を可愛がってくれていたが、よく表情や態度から申し訳なさがにじみ出ていて奈生には不思議に感じた。
涼子は蛇神の鱗により人の道を半ば外し、甲斐にいたっては戸籍を持たず、田舎では目立つ外見から外に出歩くことも滅多にない。二人とも何も悪いことをしていないのに、息を潜めていたり、軽佻浮薄であったり、どこかちぐはぐな生き方をしている。なにより幼い奈生ですら分かるほど互いに労わり息の合う夫婦みたいな二人は、肝心なところでは揃って目を逸らし、いつまでたっても向かい合うことがなかった。
大きくなり奈生にもいろいろなしがらみが分かってきた。それでも。
遠慮しているのは本人たちだけで、奈生だけでなく彼女たちを見守る一族は、もういいだろうと思っている。
せめて思い合う二人が余計な因習に煩わされないように、戸惑わないように。情に生きてきた巳室一族の切実な願いは本当にささやかなものだから…二人が揃って申し訳ないと思っている奈生が、背中を押す。
目を見開いた涼子はしばらくして、ほんのり悲しそうに、困ったように微笑んだ。
その表情が見惚れるほど綺麗だと、奈生は思った。
・・・
ジェットコースターのあの内臓が引っ張られる感覚だな、と奈生は召喚されてまずそう思った。中身というか体全体が上に引きずられそうになるのはおそらく憑依した蛇神を引きはがそうとしているのだろうが、しばらく耐えるとその感覚も止んだ。
それまで閉じていた目を開くと、そこは石造りの広くて寒い空間が広がっており、白いゆったりとしたローブを纏った人や剣を帯びた人たちが何人もいた。
「巫女が来られたぞ!」
「召喚が無事なされた!」
口々にそういう風に叫ばれた言葉は甲斐から教わったリシャイアの言葉──エウローパの言葉はさすがに200年の時を経て古語になっていたのだ。
目の前で白い神官服らしきものをまとってぷるぷると震えている小さな少女はおそらく神殿が準備した生贄のつもりなのだろう。奈生はその子に向けて優しく笑いかけた。今はとても気分がいい。
『…左希子!シズ!ウメ!ヨヱ!ミチ!おまえたち…!皆ずっとここで待っていたのか!待たせてすまなかった!…ああ!ウタも…幸子も…すまない…待たせてすまない…必ず皆を連れて帰るから…!』
虚空に響く蛇神の悲鳴に近い歓声はこの場の人間には聞こえないが奈生には聞こえる。奈生は笑いながらぽろぽろと涙を落としていった。
「…巫女様、こちらへ…」
おずおずと近づいてきた娘、多分神殿かどこかに仕える者だろう。奈生はうなずいて素直にその娘について召喚陣らしき壇上から降りる。だがふと振り返り、この場で一番年を取っていて偉そうな男に声をかけた。
「私のために準備した生贄ですから、私がもらっても?」
ぴくりと肩を跳ねさせたご老体は完全に気圧されて戸惑い気味にうなずく。
奈生は言葉に霊力を少しだけのせて少女に呼びかける。
「来なさい」
異世界に来て初めての手駒。時間をかけるつもりはない、早急にこの子を取り込んで情報を集める必要がある。
少女と共に案内された場所はどうやら湯殿のようだ。数人の侍女らしき女性が近付いて奈生の服に手をかけようとするのを払う。
「自分でできるわ」
「いけません」
なにやら高圧的な態度の侍女を先頭に無理やり服を剥がされたので諦めてされがままにする。
「ひぃっ…!?」
顔色悪く後ずさる侍女たちを呆れた目で見る。奈生の背中には今にも動きそうなほど精緻な大蛇が身をくねらせて這っていた。ツテを辿って紹介してもらった彫師の入魂の一作である。嫁入り前の娘が…っと両親は嘆き悲しんだし、蛇神もいい顔をしなかったが奈生は全く後悔していなかった。実際、より強固に憑依した蛇神は元の世界にはじかれることなく奈生に憑いて異世界に居る。いちかばちかの賭けだったが実験は成功したのだ。
遠巻きにする侍女をしり目にさっさと湯に浸かりほくそ笑む。仕掛けはこれだけではない、おそらくは処分されるであろう奈生の着てきた白装束には祖父の呪符を縫込んである。そして父の式神──蠱毒ではないと信じよう、がその装束を「器」に侍女の手から抜けだし、奈生の手足として動き回るはずだ。
蛇神が異世界に渡ってきた以上もう後には引けない。乾坤一擲の大勝負だが、負ける気はしない。いざとなれば他の祭神を勧請する算段も付いている。異世界召喚はこの世界だけの十八番ではないのだ。
覚悟しろよ、異世界の神。
──奈生が左希子の忘れ形見を連れて異世界から戻るまで、あと5年。